さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

花をお持ちのお地蔵さんが嬉しくて

2017-02-28 | 日記
中央病院前のこくぶ薬局の入口には私をいつも励まし慰めて下さるお地蔵さんがお立ちになっていらしゃいます。



今日も中央病院で心筋梗塞の定期診察を終わってこくぶ薬局に向かう私を花を持ったお地蔵さんが迎えてくださいました。「今日も私元気です」といつものように深々と頭を下げてお祈りいたしました。


 平成23年(2011)10月13日(木)、10数年来の胆管炎とのつきあいの中央病院で三ヶ月おきの定期診察を終えての帰り道、段差のある歩道で激しく転倒して体を強打しました。84歳の老いの体に応えました。でも特別な痛みもなく帰宅できました。

 14日(金)朝、左胸部に痛みがありましたが、昨日の転倒のせいだろうとかまわず5㎞ほどの散歩などを含めた日常の生活を過ごし、夕方には痛みも消え気分よく食事をして床の入りました。

 15日(土)、朝より胸が痛み町の厚生病院の診察を受けようと思いましたが休診日で我慢しました。夜になると痛みが強くなり、体温は37度3分と少し高くなりました。

 夜10時頃、胆管炎治療に頂いた痛みと炎症を抑えるロキソニン錠を飲みました。16日朝の起床時には痛みは消えていましたが微熱37度3分ありました。

 16日 (日) 病院は休診。胸部の痛みは消えましたが弱い頭痛で、食欲なく1日寝ていました。夜12時頃体温38度1分、毛布をはいで体を冷やすと37度6分になりました。

 17日(月)異常に重い胸の痛みに町の厚生病院内科の診察を受けました。胸部レントゲン、血液検査等の診察の結果、胸部に異常はないが、微熱と血液検査に問題があるので定期診察を受けている中央病院の消化器科の診察をすぐに受けるようようにと紹介状を頂きました。

 すぐに、その日の午後、中央病院を訪れると午後の外来は休診だけれども、消化器科主治医の野村先生が特別に診察してくださって検査入院をすることになりました。

 18日(火)消化器科で血液検査、胸部レントゲン、肝臓と胸部のCT検査、肝臓のエコー検査などして頂きました。

 19日(水)朝、主治医の朝野村先生が回診され消化器系に異常は認められないが、胸部の痛みがあるので循環器科で診察頂くよう手配した。もし循環器系に異常がなければ退院出来るとつげられ嬉しくなりました。

 しかし当日は、循環器科では外来診察が多く、私の診察は午後5時過ぎになりました。その間弱っている体を鍛えようと私は病院内をエレベーターをつかわず階段をつかって歩行して運動していました。今考えるとすごい危険な命に関わる行動でした。

 もちろん、循環器科への診察にも元気で徒歩で行きました。
 循環器科ではすぐに、心電図検査と心臓のエコー検査をうけました。ところが思いもかけず主治医の先生は真剣な顔で、「これは心筋梗塞です。心筋梗塞の治療は8時間が勝負です。あなたの場合は発症後5日もたっておりきわめて危険です。すぐにHCU(集中治療室に入院し治療をしなければなりません。」そう告げられるとあれよあれよというまに酸素吸入やたくさんの電極が体につけられベット近くのモニターが怪しく点滅して輝いていました。そして10日間絶対安静にしてないと心臓が破裂する可能性があるとつげられました。大きなボトルの点滴が2つもつけられあっという間に重病人になってしまいました。

 そしてそれから2ヶ月、辛い苦しい闘病生活が始まったのです。一日一日が苦しみに耐える積み重ねでした。夜中に失神して倒れ、気づくとベットごと頭部のMRI検査に運ばれるている途中でした。幸い最も恐れられていた心筋梗塞に付随する脳梗塞ではありませんでしたが原因は分かりませんでした。そのため主治医の先生が心配なさり入院治療が普通の人の倍になりました。また激しいじんましんの症状がでて全身がかゆく眠れぬ夜昼に苦しみました。治療が進んでの毎日ベットと病院の廊下を歩行するリハビリだけの単調な長い治療期間で拘禁症状と言うんでしょうか悲しくて寂しくて涙が出たりする異常心理にもなり苦し見ました。

 そのような苦しみに耐えて、死への道から生き返らせて頂くことが出来たのは、もちろん優れた中央病院の先生方の医療の知識と技術と、最新のCTやMRIその他多くの医療設備とその技術者の方、そしていつも笑顔で苦しみやつらさに耐える患者を優しく介護してくださった看護師さんの方のおかげです。

 深夜突然に意識を失った私の診療のために駆けつけくださった主治医の先生、じんましんのかゆみに耐えられず安定剤を頂いて眠り夜思わず失禁してしまい落ち込んだ私を笑顔で慰めながら、下着からベッドのシーツとマットまで替えてくださった若い看護師の方、私のわがままな闘病生活の不満を暖かな心で聞いて主治医の先生にそれを伝えてくださった年配の看護師の方、私の苦しい2ヶ月の闘病生活は感謝仕切れないほどの親切に囲まれていました。

そして2ヶ月ようやく退院の許可が出て、頂いた処方箋の薬を頂くために訪れたこくぶ薬局の前にこのお地蔵さんがお立ちになっていて「さんたろう、よくがんばったね。よかった」と私を迎えて下さいました。とても嬉しかったんです。



ようやく帰宅した私は入院中なにかとお世話頂いたお隣の家にお礼に行きました。ところがわずか30mほどのその道が退院したばかりの私にとっては息切れがして苦しい遠い遠い道でした。

その後3ヶ月ごとの定期診察治療をうけながら自宅リハビリを続けました。定期診察治療を受け薬局に回るたびこのお地蔵さんは私を励ましたり喜んだりして下さいました。

初夏の鮮やかな緑のときも




深く濃い真夏の緑のときも




冷たい雪の真冬のときも
いつも私を慰め励まし私と一緒に喜んでっも下さいました。





退院して一年、お地蔵さんの励ましと、私のリハビリの努力の甲斐があって毎日1kmほどのリハビリ散歩も出来るようになり、お祭りや初市などの写真もとることが出来るようになりました。私が生き返ったのです。

そして約6年近くたった私の今は毎日7000歩前後の散歩を息切れもせず楽しむことが出来るようになっています。3ヶ月ごとの定期診察は受けてはいますけど心筋梗塞の自覚症状はありません。

きょうもお地蔵さんに「私今元気です」と報告してお祈りすると「よかったね」と応えてくださるのです。私にとってほんとうに有り難く嬉しいお地蔵様なんです。

今日はすばらしいいい天気でした。明日もまた快晴、朝は放射冷却でマイナス6度の予報です。3月春です。嬉しいです。残りの命しっかりと生きようと思っている私です。

あるく歩くあるく 歩きます

2017-02-24 | 日記
私にはそれしかないから歩きます。

今日は朝のうち寒くって少し吹雪くなか、町通りの国道49号線(越後街道)を西に行き、南幹線道路に回って駅に向かって歩きました。 [9121歩✕0.6=約5.9km]

1時間20分ほどあるって駅が近くなった頃吹雪がすっかり晴れて南幹線道路が輝いて見えました。「あっ、春だ、春になった景色だ」嬉しくなってシャッターを切りました。



つまらない写真でした。でもあのとき「これは春だ、春なんだ」と思ったんだからいいんです。人に見せるための写真じゃない。私の心の記録です。だからつまらない写真でいいんです。

明日は朝から晴れる予報です。愛機ミラーレスCanonM3をもって歩きます。私には歩くしか楽しみはありめせんから・・ それにお金ありませんから高価なカメラやレンズは買えませんから・・・ M3持って歩きます。

まほろば街道の道しるべ雪に埋もれて

2017-02-23 | 日記
いましたけど山沿いの道はどこか春めいていました




まほろば街道は古くは塔寺から南に「はったん道」と呼ばれていた会津盆地西部山沿いの重要な裏街道と塔寺から北へ「湯殿道」と呼ばれる会津西部と柳津方面の奥会津の人たちの湯殿山参りの信仰の道が平成になって統合され片側一車線の立派な舗装道路になりまほろば街道と呼ばれるようになったと聞いております。

まほろば街道には南から法用寺・中田観音弘安寺・立木観音恵隆寺・心清水八幡宮・上宇内瑠璃光寺などの国の重要文化財の社寺が並んでいて、車の往来も少ない山沿いの静かな道ですので私の好きな散策の道のひとつなんです。そうそう有名な春日八郎の記念館もあるんです。

会津も少しばかり春めいて来ましたので思い立って町立温泉の糸桜里の湯の入口の見明から南へのかつて「湯殿道」と呼ばれていた道を散策してみました。

道路脇の雑木林も雪原の中でみるとちょっと趣きがあるように思えて楽しくまります。



山沿いの深い雪は和らいで春めいていました。



この道脇の雪原に二筋のけものの足跡が山際の林の中に続いているのを見つけました。どうやらカモシカの母と子の足跡のようでした。

足跡のひとつは力強く飛び跳ねて林の中に消えていました。私は母カモシカの足跡だと思いました。



その脇に少し離れて小さく細い足跡が林の中に続いていました。



なんだろうと近寄って見ると割れたひづめの跡らしいものがありました。私は母カモしかを追う子どものカモシカの足跡だ思いました。



それは昨年の秋、糸桜里の湯の裏の炭焼き小屋前の広場で親子のカモシカを見ていたからです。カモシカは前に1度別な山で会っていますけど、そのときはしばらく不思議そうにこちらを見つめてゆっくりと山に消えて行きました。糸桜里の湯の裏で見たカモシカは子連れだったからなんでしょうね私の姿を見る急いで林のなかに姿を消しました。

私にとっては姿は見えませんでしたけど足跡で3度目のカモシカとの出会いでした。嬉しかったんです。

80年ほど昔私は小立岩といわれる山深い小さな聚落に暮らしていました。集落には「またぎ」と呼ばれる銃猟の仲間集団があってツキノワグマやノウサギやムササビを銃猟していました。当時はそれらの動物の毛皮や熊の胆嚢を乾燥させた「熊の胆」(くまのい・ゆうたん)が非常な高価で売られていたんです。「熊の胆」は重さで金と等価と子どもの頃聞いていました。もちろん肉もたべました。年に1頭か2頭獲れて肉は集落の家々に配られました。私も子どもの頃食べたことがありますけどすばらしくおいしかった思い出があります。

その頃私は、カモシカは特別天然記念物で深山に住み登山家とかまたぎの人たちだけがたまに出会うことの出来る非常に珍しい動物である。もちろん銃猟などは厳しく禁じられている。でも「クラシシ」(険しい岩場に住む動物の意味です)はカモシカではないから見つけたら銃猟してよいと子どもの頃の私は聞いていました。

しかし少し大きくなってクラシシはカモシカの別名であってまたぎ仲間の間の秘密の言い伝えであることを知りました。でもカモシカは深山の岩場に住む非常に個体の少ない動物で銃猟することなど全く出来なかったと聞いていました。

そんな貴重な特別天然記念物のカモシカが今はこんな町のすぐ近くの里山に見ることができる嬉しいと思うんです。でも待てよとも思うんです。子どもの頃身近にいっぱいいたノウサギとイタチは激減しました。ノウサギは野兎病が流行して数を減らしイタチは水田の大がかりな基盤整備で住み家と餌場を失い激減しました。

逆にかつては個体数が少なく里の近くではほとんど目にすることの出来なかった動物のタヌキ・ツキノワグマ・カモシカ・ニホんサルが個体を増やし近くの里山やもっと近くの町中にまで姿を現すようになりました。ツキノワグマは人を襲い傷つけます、ニホンサルは我が物顔で農作物を荒らします。これは戦後深山のブナの林が乱伐されて熊や猿の餌場がなくなったからという方もいます。でも私はそればかりではなくて熊やカモシカや猿を銃猟する人が減っったことも原因じゃないのかなとも思います。熊やカモシカや猿が個体を増やしそして人間を恐れなくなったのも原因じゃなかろうかとも思うんです。喜んでばかりはいられませんね。町に現れた熊を麻酔銃で眠らせて檻にいれて山に運び放す、放した場所が問題になって隣接の町の間で争いになるような今の体制ではこの解決にはならない気がします。

熊や猿やカモシカにどう対処するか根本的に考えなければならない時期にきているような気がします。猿除けに張った高電圧の裸電線に間違って人間が触れて怪我をしたり亡くなったり、猿追いに花火を打ち鳴らすような対策ではどもならない気がします。

でもそんなこといってもまほろば街道でカモシカを見たのは嬉しくてたまらない私でなんです。おかしいですね。