新潟県須原町を訪ねました
六十里越え峠、それは奥会津只見町と越後大白川を結ぶ峠道です。現在は国道252号線とJR只見線で只見町と越後魚沼市は結ばれておりJR只見線で行けば只見町と越後大白川の間の所用時間は僅か54分です。
しかし、国道やJR只見線が開通する以前は険しい鬼面山(1260m)を通り只見から大白川に至る険阻な峠道でした。しかしこの峠は奥会津只見と越後を結ぶ重要な峠道でした。
この険しい峠道を通って越後からは置き薬の富山の薬屋さんや、ごぜんぼさん(盲目の女の方がグループで三味線を弾き歌を歌って門づけする)や、祭文語り(祭文と呼ばれる歌謡を歌って門付けをする)や越後大工や、講談師・浪曲師などがやってきていろんなニュースや文化や仕事や大事な品物などを持ってきてくれました。
私が僅か6歳か7歳の頃だったと思うんですけども富山の薬屋さんが来ると嬉しくてほかの地方のいろんな出来ごとなどの話を耳をそばだてて聞いて楽しんでおりました。
あるときなど富山の薬屋さんがガス燈を光源にして手回しでフイルムを送って映写する活動写真を持ってきて夜村人を集めて映写会をしてくれました。私が初めて見た活動写真です。今思うとチャップリンの黄金狂時代などでした。私が7歳の頃ですから内容は理解出来ませんでしたけどおかしなそして不思議な映像のことが今でもありありと目に浮かんできます。
ごぜんぼさんや、祭文語り、時には浪花節や講談師などがやって来ると私はその美しいメロディーや、おもしろいもの語りにうっとりと聞き惚れたものでした。だから私は幼い頃から六拾里越えの向こうの越後へあこがれというか夢の思いががありました。
こんな物語を聞いたことがありました。
「六拾里越の先の須原村には目黒家と呼ばれる豪農の家があって広い土地を支配し多くの人に目黒様とあがめられている。」
「江戸時代の末の頃。六拾里越の険阻な峠道を越えて乳飲み子を背負った若い女の人が一人でやってきて峠麓の田子倉の旅籠(はたご)に逗留しやがて旅籠の仕事を手伝うようになった。とても利口で人柄もよく、麻やカラムシを紡いで広幅の織物の五郎丸や紬を織ることも上手でみなに気に入られ、やがて宿のおかみさんが病気で亡くなると旅籠の後妻になおり旅籠のおかみの仕事にせいをを出して旅籠をりっぱにし村人に慕われるようになった。しかし田子倉に来る前の越後のことは決して口にしなかった。けれども臨終のとき親しい友に実は私は 須原目黒家の出ですといってみまかり、人々はさもありなんと心打たれた。」
そんな話を聞いておりましたので、私は幼い頃から越後須原の目黒家ってどんな家なんだろうとあこがれみたいな思いを持っていました。私はJR只見線の只見までの各駅はそれぞれ訪れて楽しんでおります。でも只見より先の須原などは六拾里越の先で遠いと思い込み 訪れていませんでた。でも88歳あと一か月で89歳になる私は近頃ボケの進行が甚だしくそれに足腰も弱っている、今行かなければ行かないでしまうかも知れないと思って駅に行って列車時刻表で調べて見ると朝一番の列車に乗ると須原で3時間近く楽しんで坂下駅に午後5時には帰り着くことが出来ると分かりました。幼い頃からのあこがれの夢の 須原目黒家を訪れることが出来る私は心躍らせてJR只見線に乗りました
6時30分頃の坂下駅は綺麗な朝焼けでした
6時30分頃の坂下駅です
川口駅に着きました。電車はここまでです。坂下からは1時間20分程でした。ここから只見までは代行バス運行になります。珍しく列車を降りる人が大勢でした。
代行バスの運転手さんは美人の女の方でした
美人の運転種さんは道々人気がおありなんですね。行き交う車に、そして道路の工事の人などに笑顔で手を振って挨拶されておりました。すると皆さん笑顔で手を振って応えるんです。ローカルの代行バスって楽しいですね。
只見駅到着です。川口から50分程でした
只見発小出行きの列車です
只見発小出行きの列車は6.4kmの長いトンネルを通ります。トンネルの切れ目でちらっと田子倉湖の最奥の場所が見えました。
峠のトンネルをぬけて越後大白川側の谿谷が見えました
須原駅に到着しました。10時22分でした、坂下を出発して3時間40分です。山あいの田舎の小さな駅でした
瀟洒な駅舎ですけど無人の静かな駅でした
トップに掲載しましたけど駅前からの眺めです。案内板を見ると正面の大通りを100mほどいった左側に 須原邸があることが分かりました。
須原邸正面の門です
まず驚いたのは野面積み(のづらずみ)と呼ばれる石積みの塀と、冠木門(かぶきもん)と呼ばれる屋根のない柱とぬきだけの門構えです。石積みのの塀は城正面の石垣を思わせますし冠木門には厳しい権威をかんじさせます。中世の武士の屋敷の作りとも言われています。
目黒家は戦国時代、会津葦名氏に仕えた武将でしたが、葦名氏が伊達氏との戦いに敗れ滅びた天正18年(1590)この地に帰農し、江戸時代には越後魚沼の大庄屋職の割元庄屋を代々勤め、扶持をもらい名字帯刀も許されて明治に至ったと解説板にありました。
目黒邸全景です
寛政9年(1797)の創建、宅地面積6,253㎡、建物面積主屋578㎡と解説にありました
土間に続く炉地と呼ばれる場所です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/97/9367961418b8058fbb3d6d0d2498e8a1.jpg)
土間を隔てて左側には馬屋と下男部屋があり正面が女中部屋のようです。案内説明文には目黒邸の使用人は30数名とありました。この場所は使用人のいる場所なのかも知れません。
広間・槍の間・中の間・小座敷と続く場所です。左側には仏間・奥の座敷・奥の小座敷があります
奥の小座敷からは庭園が見えます。庭には稲荷社がちょっと離れた場所には石勤社が祀られてるのが見えます。
茶の間です。目黒家の人々が生活する場所なんでしょうか。右側奥が仏間、左側奥が上の寝間です
左側の廊下を通って二つの寝間と二階の二つの寝間に通じます
玄関脇の小さな部屋には駕篭と人を乗せる幌つきの橇があります。藩から出向して来た役人の見回り用とありました。
当然と言えば当然なんですけど、邸内を見回って割元庄屋(それぞれの地にある庄屋を束ねる大庄屋)の豪勢な生活ぶりに圧倒され、野面積みの石垣や冠木門(かぶきもん)豪壮な茅葺き屋根、正面の千鳥破風などに魚沼地方を支配する権力者割元庄屋の圧倒的な権威を感じました。それは私の心の中にあった豪農のイメージとはちょっと違っていました。
「江戸時代魚沼地方は度々凶作飢饉に見舞われ、そのたびに目黒家は土地家屋を質入れまでしてその救済に奔走した」と解説板にありました。目黒家は庶民の生活にも温かく心を配る割元庄屋でもあったんですね。今の時代にもなって地区民に親しまれ尊敬されている由縁だとも思いました。
目黒家は明治大正時代になっても、銀行を作り酒蔵を作るなど地元産業を盛んにし、当主の方は二代み渡って帝国議会衆議院議員を務めて中央政界で活躍し、地区の発展のためには時代に先駆けた水力発電所作りや、六十里越峠道路の開通や、スキー場作りなどにも力を尽くしたとありました。 須原の人たち親しまれ、須原の人たちは尊敬の心で目黒邸を大事に守っているんだなとしみじみ思いました。
目黒邸の敷地内には当地方の民族資料館がありました。そこには昭和初期頃までの庶民の生活用具や生産用具や素朴な機械や写真などがたくさん展示されていました。
これは籾摺り臼とありますが私の幼い頃の見覚えがかすかにあります、「土するす」と呼ばれて土で作られた籾摺りの臼で、籾のからを向き玄米にする道具です。
こんなにして作業をします。厳しい仕事ですけど籾の殻をとって玄米が出来る嬉しい作業でもありました。
これは集落のお祝いごとでもあって若衆が集まって餅をついているんですね、大きな臼に重そうな杵です。餅をつく若者たちの喜びが溢れています。
これは囲炉裏を囲む農家の皆さんのひとときです。子どもが多いですね。貧しいけれども温かい心が溢れています。私はしんみりと幼かった昔を思い出しました。
このような昭和初期までの写真がいっぱいありました。とても貴重な写真ですのですべてをカメラに納めました。
感動と驚きの目黒邸の見学、そして貴重な資料いっぱいの民族資料館見学、今日は本当に意義深く楽しい一日を過ごすことが出来ました。
こんなつまらない自分だけのひとりよがりの体験記など誰も最後まで読んでくださる方などあろうはずもないと重々承知の上で、自分の大事な思い出のためにもと原稿を清書して投稿することにしました。
でももしも最後まで読んでくださった方がいらっしゃったらとしたら心から御礼申しあげます。有り難うございました。