さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

秋雨前線の雨しとしと降って

2019-08-31 | 日記

静かに濡れてるパソコン室の窓からの眺めです。

 

毎日の雨なかなか止みませんね。でも気象は移り変わっていきます、そのうちに移動性高気圧に覆われた爽やかな秋晴れがやってきます。いちばん親しみ合わなければならない今の二国間の関係だって必ず明るく晴れますよね いちばんそれを望んでいるのは穏やかな平和と友好を望んでいる両国の庶民たちですから。


遠い日の尾根道の緑楽しんで

2019-08-30 | 日記

2015年8月に撮った写真です

僅か4年前なのにもう遠い日の思い出になってしまいました   

         

 山道を歩む私です、生き生きと嬉しい姿してましたし          

      

 

 栗の毬(イガ)もこんなに大きくなって綺麗てした   

   

          

クズの花も綺麗でしたし     

   

 

キキョウの花も

  

 

ヤマユリの花の香りも私を明るく迎えてくれました

 

思い出の山の尾根道は輝いていました。けど今の窓の外は一週間前の酷暑が嘘みたいに冷たい雨が降りしきっています。秋雨前線に南からの熱い湿風が吹き込んで北九州や西日本の豪雨がに大きな被害をもたらしたとをテレビで報じています。

これはもう異常気象ではなくって恒常の気象状況になったのかもしれませんね。わずか4年前の夏の尾根道は爽やかでしたのに・・・

 


消え残るこの文字見つけ心がふるえました

2019-08-27 | 日記

ある場所の献灯の脇に彫られていました。「国威宣揚」とあります。明るく権威ありそうな文字で書かれた勇ましい言辞ですよね

 

 

この文字が彫られた時代にはこの文字に高揚感を持ち張り切って活動なさっている方も身近に何人もいらっしゃいました。

でもこの時代私のように貧しくて小さな幸せなど追って精一杯生きていた下層の者にとってはこの時代はとても怖い時代でした。特別高等警察(特高)や憲兵などが見張っていて少しでも国策に反するような言動があれば見つかり次第逮捕留置されて厳しい尋問を受ける時代でした。噂さでは特高に捕まれば木銃で殴られて尋問されるなどと言われ怖がられていました。なにしろその頃は投函した「はがき」まで検閲されすこしでもおかしな文言があれば墨で消されて配達されていた時代です。

私が横浜の軍需工場から北海道の十勝の援農へと学徒動員先が変更され、10日ほどの休暇があって帰省することが出来ました。家族に帰省の列車の窓から見た横浜や東京が爆撃され広々とした焼け野原になっている様子を話したとき、父はだまって聞いていいましたけどひと言も感想は言いませんでした。でも父と二人で山の仕事にいく道すがら父は声を潜めて言いました。「さんたろう、この戦争は必ず負ける。でもさんたろう死んではいけないぞ、生き抜け」と・・私は18歳でした。言外に特攻などに志願はするなということだったと思います。昭和20年(1945)の四月のことでした

こんなことばれたら大変なことになります。父は逮捕留置され私は退学させられたと思います。ですからこんなことは家族のいるところでさえも話すことは出来なかったのです

昭和20年(1945)2月頃から8月初旬までの6ヶ月の間に日本の都市の多くがB29の無差別焼夷弾爆撃や原爆投下で破壊焼滅させられ数十万人の人が焼き殺されました。幼い小学校の児童で学童疎開されていた者のうち都市爆撃で親や家族を失った子供達が終戦で親のいるであろうと思っていた都市に帰るとその場で放りだされ、みんなに蛇蝎のように嫌われた浮浪児にされ駅の地下道などで暮らしていました。餓死や病死した浮浪児も多かったと言われています。一般の人は自分たちが生き残るためにが精一杯で援助の手をさしのべる余裕がなかったのが現実でした。国は浮浪児狩りをして施設に収容しましたけど施設は鉄格子のある牢獄みたいのところで扱いが冷たく厳しかったので逃げ出す浮浪児が多かったと聞いています。

また、輸送船が飛行機や潜水艦に撃沈され物資の輸送が途絶え、敗残兵としてうち捨てられていたガダルカナルやニューギニアや南の島々やフィリピンのルソン島など、そして無謀な作戦のインパールなどでの敗残兵(上等兵・一等兵・二等兵など)の兵卒たちが作戦ごとに何万人も現地で餓死や病死したと聞いています。その数は戦いで戦死した兵卒の数をはるかに上回っているとも聞いています。、それなのに戦いを指導し命令をした作戦指導部の将校たちの餓死や病死はきわめて少なかったとも聞いています。現地の軍中枢が崩壊する前に飛行機や船で早々と脱出したんでしょうね。上等兵一等兵などの兵卒は人間扱いではなくて作戦上必要な物でしかなかたったんですね。猛将と言われるような人は平然と兵卒を殺すことの出来る人のことをいうんでしょうかね。

またニューギニアでの敗残兵の間では三八式歩兵銃(当時の陸軍兵卒が持っていた銃)でニューギニア豚を撃って 食べたなどと言う秘話も聞いています。でもニューギニアには野生の豚などいなかったんですね。大岡昇平の小説を映画化した「野火」にはルソン島の敗残兵の間に同じようなことをするシーンがありましたね。戦争は人間をけだものや鬼に変えてしまいます。

思い起こせば「国威宣揚」という晴れがましくまた権威のある文言に導かれた悲惨な狂気の戦争の末、軍国日本は崩壊したんですよね。お互いになんのうらみごとなどない人間同志が上官の命令で平然と殺しあう戦争など絶対してはいけないとこの「国威宣揚」という文言からわたしは強く思うのです。人間が人間らしくいきるために必要なものは平和なんだとしみじみ思う私なんですよ