さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

新しい世界の小立岩

2021-05-23 | 日記

6歳になって伊北村只見小学校に入学した私の家族は5月になって業者のポンコツのダットサントラック(90年も昔当然荷物運搬は馬車でした。ポンコツのトラックといってもとても珍しいことでした)に家財をのせて父の新任地の大川村小立岩の小学校に移住しました。途中エンジンが止まったりして朝出発して午後に着きました。今の車なら3時間程度のコースなんです。(昨日の書き出しと同じ)

トラックで午後に小立岩の小学校前につくと「自動車だ~」と叫んで集落の子供達5~6人もがもの珍しらしそうに集まってきました。そして集落の大人の人もいらっしゃって荷物の運搬など手伝ってくださいました

小立岩と言うのは奥深い山あいの、安越又沢(あごしまたさわ)と檜枝岐川(ひのえまたかわ)が合流する場所の狭い居平に寺を含めて10軒ほどの民家が寄り添っている小さな集落でした。そこに茅葺き屋根の2教室に教員住宅のついた民家同然の小さな小学校校舎がありました。その小学校に教員として父が着任し私たち家族が住むことになったのです。

職員は小立岩の本校に2人、内川集落にある分校に1人、の3人で、父は30歳代の若い校長として着任したのです。児童数は全校児童数60人、ちなみに1年生は私をふくめて6人でした。大原集落・小立岩集落・大桃集落の3集落が学区でした。

驚いたのは電気がきてなくてランプの生活で台所は水屋と称する用水路のうえに屋根のついた小さな出小屋があってそこで食事の調理がすることになっていました。(当時はどの家も同じような水屋でした)

集落の子供達の本拠は集落の中心にある「地蔵堂」でした。

写真はあたらしいい地蔵堂です。当時の地蔵堂は茅葺屋根に格子戸の窓のついた建物で堂の周りに縁がまわついていました。地蔵堂の縁日には集落の若い男女が集まってその縁に腰をおろして愉しみあったのです。愛の交流の場所でもあったのです。

小立岩についた次の日の朝集落の少し年上の子供が私を迎えにきて、私の父と母に「なかよくしてね!」といわれ、私を連れて地蔵堂にいる集落の仲間のところにゆき、特別の新入りの紹介などなくすぐに狭い地蔵堂の中での「めくら鬼」という遊びの仲間に入れてくれました。

集落の子供仲間の小学校1年生は「とくお君」と私の二人でした。「とくお君」は私を友達としてではなくて先生の息子の新入りの世話を親切にしてやるという態度でした。だから私に大きな影響を与えてくれました。そのことはあとで書きたいと思っています。

電気の来ていない小立岩の夜はみんな石油ランプでした。小立岩では夕方になると空いっぱいにアカトンボなどの昆虫が飛び交い、それを追ってコウモリの群れが舞って昆虫を捕らえてたべました。そして薄暗くなるとよたかの「きょきょきょ」となく声が聞こえます。暗い夜になると「ゴゴッホウ ゴロッケ ゴゥホウ」となくフクロウの声が聞こえて来るんです。

小立岩夜はほんとに暗いんですよ。街灯なぞありませんしそれぞれの家の明かりはランプの弱いひかりです。外は真っ暗な闇なんですよ。お墓には燐がほろほろと燃え幽霊やキツネやタヌキの化けものが出るなんどと言われればほんとにそうだろうなと思ってしまう夜なんです。

夜の道を歩くにはろうそくの火をいれた提灯をて持って歩くんです。でも提灯の明かりは足もとをを少し明るくするだけで夜の闇はほんとに真っ暗なんですよ。

でも夏の夜には愉しみがあります。ホタル狩りです提灯をつけて箒と葱を持って群れ飛ぶホタルを 追うんです。捕らえたホタルは葱の葉にいれて持ち帰り蚊やのなかに放して愉しむんです。

ある夏の日の夜、提灯をつけてみんなでホタル狩りをしました。みんな家に帰って私一人になったとき、暗い山根近くの川辺の森から音もなく赤い火の玉が飛び出したゆっくりと寺のほうに移動して寺の上で消えたのです。1年生になったばかりの暗い夜のことでした。でもそのことは誰にも言ったことはありません。

いまでもそのことを思い出すと、理性的にはそんなバカなことなどあり得るはずはないと思うンですけど、でもあるいは子供の頃のうつつの夢だったのかもしれないなどと思ったりもするんですよ。当時の小立岩の夜はそんな幼い夢を思わせる夜でもありました。

明日は「トクオ君」とのことを書いて見ようかと思っているんです。


遠い日の古里の思い蘇らせて

2021-05-22 | 日記

    
 6歳になって伊北村只見小学校に入学した私の家族は5月になって業者のポンコツのダットサントラック(90年も昔当然荷物運搬は馬車でした。ですからポンコツのトラックといってもトラックはとても珍しい乗り物運搬車でした)に家財をのせて父の新任地の大川村小立岩の小学校に移住しました。途中エンジンが止まったりしてのろのろ走ってその日の朝出発して午後遅くの居に着きました。今の車なら3時間程度のコースなんですけど。

写真は現在の小立岩(現南会津町小立岩)です。昔の面影は全くありません。福島県側からの尾瀬沼登山口の檜枝岐村までの道が国道になり立派な舗装道路になっています。それにすぐ近くにパウダースノーの素晴らしいスキー場(高畑スキー場)が開設され、かつての茅屋根の民家はすべて新しくて綺麗な民宿や旅館に変わってしまいまそこでこのさい昭和2年した。

私が小学校1年生の時は1933年(昭和8年)ですから88年ほど昔のことになります。その当時の小立岩の集落の道路は馬車がやっと通れる細い砂利道で、民家や蔵はみんな茅葺きでした。当時の面影がそのまま残っているのは集落前面の雪崩跡の残る険しい鬼丸山の岩場と裏山の岩場にある鎮守様だけです。

 

当時は電気もない狭い居平の5年間の生活です。でも幼い小学校の子供であった私にはその居平の世界が私の世界のすべてでした。いろんな思いいっぱいの私の大事な大事な古里、いろんな思いいっぱいの私の古里でした。明日からその思いを書いてみようかと思っているんです。


 5歳の頃の伊北村(いほうむら)只見の思い出の記(2)

2021-05-21 | 日記

 5歳のとき伊北村只見に移り住んで一年が過ぎました。その年の4月父は檜枝岐村の隣の大川村小立岩の小学校に転勤になりました。奥会津の4月はまだどっしりと雪が積もっていて道路があきません。除雪車などない昭和の初期の昔です。父は3月末に先に小立岩に赴任し、家族は雪が消えてトラックが通る5月に小立岩に移住することになったのです。

当時の小学校の入学式は4月4日前後だったと記憶しています。父の転勤によって只見に残った私は一ヶ月ほど只見小学校に入学し5月になって大川小学校に転校することになりました。

当時は幼稚園などありません、6歳になった子供たちは初めて小学校という集団教育の場に入学するのです。子供たちはもちろん保護者も先生方も大変なことでした。

初めて入学する子供たちは国語と修身(道徳)の教科書一冊と石盤(薄い石のスレートで出来たA4サイズくらいの小さな黒板)と 石筆(石盤に文字をかく白墨を固くしたようなもの)を風呂敷に包んで学校に通いました。ノートなどは学校に少しなれた2学期から使うのでした。

履き物といえば下駄・草履・ゴム製の短靴などでした。冬は藁でつくられた長靴です。

はっきりした記憶はないのですが30人くらいのクラスで女の優しいけどもベテランの女の先生が担任でした。こども達は男女とも木綿の着物にゆっこぎ(雪こぎ)というもんぺ姿でした。

でもそこにたった一人洋服にすカートの綺麗な女の子が入ってきたんですよ。たぶん県事務所の出張署などのお偉いさんのお嬢様なんでしょうね。女の子達ってすごいです、その女の子は時をおかずクラスの女の子達に同化してしまって仲良しになってしまったのです。

でも洟垂れ小僧の男の子たちは違います。珍しさ・あこがれ・ときめきの心で遠くから見つめていたのです。決して意地悪をすることなどではなくて、あこがれ・ときめきの心で遠くから見つめていたんでんす。もちろん私もその一人なんです。

先生はみんなの心が溶け合うのを願って講堂にみんなを連れてゆき「つなぎ鬼」というゲームをさせました。じゃんけんで一人の鬼を決め、鬼になったものは他の者を追ってタッチします。タッチされた者はすぐに鬼になってもとの鬼と手をつなぎ他の者を追うんです。そのようにして手をつないだ鬼の帯は長くなってやがて全員が鬼になってしまってゲームは終わります。ある日のつなぎ鬼の遊びでほんとに偶然にその女の子に鬼になたった私はタッチしてしまいました。女の子は私のことなどになんの意識もなく私の手をしっかり握って他の者を追いました。私はゲームが終わるまでその女の子の手を離すことはありませんでした。その間だ私は幸せいっぱい夢見心地でした。それは6歳になったばの私の初めての嬉しい経験でした。

そんなことがあって3日後の5月ポンコツのダットサントラックに荷物を積んで父の任地の小立岩に家族で出発したのでした。只見村1年の大事な出来事でした。いまでも懐かしい思い出なんですよ。

 


5歳の頃の伊北村(いほうむら)只見の思い出の記(1)

2021-05-21 | 日記

昭和7年(1932)5歳になった私は親しんでいた隣の幼な友だちの女の子とも別れて父の勤務先の伊北村只見(いほうむらただみ)に移り住みました。住居は新築したばかりの空き屋を借りていました。庭には屋根のついた井戸がありました。初めて見る井戸です。麻縄につけられた桶のつるべを滑車で曳いて井戸の水を汲み上げていたのです。深い井戸の底を見ると水面がかすかに光って見えてなぜか神秘的でした。幼い私はいつも井戸の底を見るのが好きでした。

お隣の家は鍛冶屋さんでした、ふいごで炎を上げる炭火で真っ赤に焼いた鉄を叩いて鉈や鎌などの刃物や鍬などを作ったり修理したりしていました。初めて見る鍛冶の仕事です。珍しくて興味しんしん暇ががあればいつも眺めていました。

娘さんが3人ほどいたんですけどちよっと清潔感に欠けて見え性格も少し粗々しくて友達にはなれませんでした。その代わり「てつお」という同い歳の男の友達が出来ました。彼は5月生まれ私は翌年の1月生まれ、幼い5歳の頃は同い歳といっても生まれ月が8ヶ月も違うと熟年成長の差は大きいんです。当然リーダーは「てつお」でした。

サワガニのことや、山の美味しいアケビや野葡萄のことなどみな「てつお」が教えてくれました。

こんなことがありました。私の家の裏の森の道を行くと滔々と流れる只見川がありました。そして川の向こうは豊かな林の茂る山地でした。村の人達は川のこちら側と向こうの山地側には鉄索(てっさく)というものを作ってそれを利用して人々は川向かいの山地と往来していました。

鉄索というのは川のこちら側と向こうの山地側に櫓(やぐら)を組みそこに鉄のワイヤーを取り付けて、ワイヤーに滑車をつけた大きな籠(かご)状のものを取り付けワイヤーをたぐって人や荷物を載せた籠を移動させて川を越えて移動していたのです。移動に使うロープもついていたと思います。でも危険ですので子供は触れないことが不文律になっていました。

あるとき「てつお」は私を連れて二人でこちら側の櫓につながれていた大きな籠(かご)に乗って遊んでいました。すると籠の止めがはづれたんでしょうね二人をのせた籠がするすると向こう岸に向かって移動し鉄索のちょうど真ん中へんで止まってしまったのです。

真下は激しく流れる只見川の流れです怖いですい。私は怖くて激しく泣きました。しかし(てつお)は泣きません。すっくと立ち上がってロープを引いて籠を移動させようとするのです。でも5歳の子供です、ロープにうまく手がとどかないのです。でも(てつお)は雄々しく揺れる籠の上に立ってロープをつかもうと努力するのです。その姿に感動して私も泣くのを止めました。

しばらくすると大人の声で「動くな座っていろ」と怒鳴る声が聞こえてきました。なんと(てつお)の父親の声でした。そしてロープをたぐって籠を櫓に引き寄せてくれました。つくと同時に(てつお)は激しく父に頭を打たれました。でも(てつお)は涙もみせず声も上げませんでした。父親は私にむかって優しく「ごめんな、無事でよっかたね」と言いました。私は雄々しい(てつお君)に感動してしまいました。

やがって50歳近くになって古里只見をおとづれて(てつお君)にあいました。(てつお君)は村の将来を託される有志の村会議員になっていました。

「栴檀は双葉より芳しい」といいますよね。
大器はやっぱり幼いころから立派なんですよね!、私は今でも(てつおさん)への深い尊敬の念を持ち続けているんですよ。

伊北村只見の懐かしい思い出がもうひとつあるんです。それは明日書くことに致します。


私の誕生の遠い日に

2021-05-20 | 日記

私は昭和2年(1927)1月3日、当時の南会津郡朝日村熊倉と言われる集落にあった小学校の文教場の教員住宅で生まれました。父がその学校の教員をし母はその校舎の二階で集落の女の子達を集めて裁縫を教えていました

早春の裏山にシュンランの花の咲く静かな集落でした。

成人になってその集落を訪れるとおばさん達が「あーらさんたろうがこんなに大きくなって可愛い赤ちゃんだったのに」とおばさん達に言われました。そう言われればかすかに母が裁縫を教えていた女の人たちに可愛がられた記憶が蘇るんです。

生まれた最初の思い出と言えば父の肩車に乗って川から亀が獲れたと言うので見にいった時のことです。ほんわか温かい思い出でなんですよ!。でもどうしたことか亀の記憶は全くないのですが父の背で見た夕暮れの空の大きな月が思い浮かぶんです。

たぶん3歳の頃までその教員住宅で暮らしたんだと思います。あまりはっきりした記憶はないんですけども、なんか熊倉というと懐かしい気持ちでいっぱいになるんです。

 

そして4歳の頃には父の実家に移って暮らしていました。祖母や祖父に可愛がられた記憶ははっきりしているんですけどもどういうわけかその頃の父や母の記憶は全くないんです。夜は祖父母の部屋で枕を並べて眠りました。祖父は昔物語りの上手な人で「岩見重太郎のしし退治」の勇壮な話などの感動は今でも心にはっきり残っているんです。

そして幼友達ちと言えば隣の私の家の本家に同い年の女の子がいました。当時は幼稚園などありませんから昼間はほとんどその女の子と遊んでいました。すごく懐かし思い出でなんですよ。

でも父の仕事のことで5歳になる頃は別な場所に住むことになって別れ、それ以後ずっと逢ってはいないんす。

その女の幼な友達はやがて家内の友達でもあったのが分かり、ふとしたことからお互い爺と婆ちゃんになった頃に電話したことがありました。

「あのころはあんたもかわいいお姫さまっだったもんな」といえば「ほんとあれは幼い初恋だったのかしらね」などと二人で笑いあったこともありました。

幼友達っていつまでも懐かしいんですよね。

そして5歳になる頃には父の仕事で伊北村只見に住むようになったのです。只見の生活はたった1年でしたけどはっきりとした自我の目覚めがありました。それなりの深いものがありました。次の日に記したいと思います。