さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

美しい桜咲き誇るお城ですけども今

2016-04-19 | 日記
 


 落城の悲劇いくつもいくつもあって涙うかびます。

 
会津藩筆頭家老西郷頼母(1.700石)邸宅跡には次のような解説の掲示板がありました。



「西郷」隆盛一代記」にはこのこといついてつぎのようなやりとりが書かれています。

 会津戊辰の役のおり、薩摩藩士の川島信行は西郷頼母邸の玄関より入り、書院とおぼしき所を通り奥の部屋に進むと、白装束の男女環座して自刃し果てていたという。
 その中で16-7歳頃と思われる美しい娘[後に西郷頼母の長女細子(たいこ)と分かる]が急所を刺し違えたためかわずかに息があり「その所に参られるは敵か見方か」と尋ね、敵ならば戦おうとするしぐさをしたが、川島が「味方だ、味方だ」と叫ぶとその場に倒れた。娘は懐剣を出し咽喉を刺そうとしたが出来ず不憫に思った川島が介錯したと言う。

 
川島は自刃した人たちの辞世の句を記した短冊を持ち帰りました。

「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」
これは西郷頼母の妻千重子(ちえこ34歳)の辞世の句である。


 長女細布子(妙子16歳)と次女瀑子(たきこ13歳)の辞世の句は
「手をとりて共に行きなば迷はじよ いざたどらまし死出の山道」
上の句が妹の瀑子、下の句が姉の細布子です

 
私はこの幼い二人の姉妹の心を思いうっすらと涙が浮かぶのです




また、お城の天守閣の見える甲賀町通りには会津戊辰戦争終結の地と書かれた掲示場がありました。



 会津鶴ヶ城会館ブログから、八重の言葉

慶応四年九月二十二日この日の朝八時前、籠城婦人たちが涙しながら縫った降参と大書された白旗が鶴ヶ城に掲げられました。。。

この日の鶴ヶ城は火が消えたようにひっそりとしていました誰も声を発する者などいない悲しすぎる程静かな鶴ヶ城です‥

同日正午会津藩九代藩主松平容保公は萱野権兵衛、梶原平馬、秋月悌次郎らを従え麻裃(あさかみしも)に刀も帯びず降伏の場に赴きました

甲賀町通 この道路で降伏式が行われました。当日のことを思い出すと私は残念で悔しくてなりません。私が一番悲しかったことは容保公が降参に出られる時大小の刀を差さず丸腰で、お供も少ししかつけずに出られたことでした。武士が丸腰で出るなどということは無かった時代です容保公が丸腰で出られたことは断腸の思いだったと思います。
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 容保公は供の者に サヤを抜いた短刀を密かに持たせていました。もし 恥辱を受けた場合はその場で自害するおつもりだったのです‥』
 降伏の場で容保公は西軍の軍監中村半次郎の前の荒筵(むしろ)に座り謝罪文を提出しましたそしてこの時、西軍軍監の席には大きな緋色の絨毯(緋毛氈:ひもうせん)が敷かれていました。会津藩士らはこの日の屈辱を生涯忘れまいとこの絨毯の一部を切り取り分け合ったといいますこれを会津藩士らは『泣血氈(きゅうけつせん)』と呼んでいます。

 その後容保公は城内で藩士たちにねぎらいの言葉をかけ戦死した藩士たちが埋葬された場所で深く手をあわせた後その日の夕刻滝沢村の妙国寺に入り。。謹慎の身となりました。


 私は1週間前の4月13日まだインフルエンザがが完全には回復っしてはいなかったんですけど、お城の桜を見ておこうと、駐車場の混雑することを考えて午前8時に家をでました。お城のすぐ近くの県立博物館の駐車場には8時40部頃つきました。でも開門は9時でした。



 幸い晴天に恵まれて県博の駐車場からお城への道の桜は満開でした



二の丸跡のお城入り口から場内に向かいました。



廊下橋から望む天主閣です




廊下橋はたくさんの観光客で賑わっていました


 



本丸入り口から美しい天守閣が望めました



 本丸跡は観光客で賑わっていました。私は少し血糖値が高いので何年もソフトクリームなど食べるのを控えていたんですけどこの日は皆さんと一緒にソフトクリームを食べながら天守閣を眺めました。おいしかったしいろんな思いも湧いてきました。



 
野面積み石垣の天守閣入り口です



 
天主閣最上階からの展望です







 天守閣の各階には会津戊辰戦争の勇戦や悲劇の数々など心打つたくさんの資料が展示してありました。天主閣から降りられた皆さんはどんな思い出本丸跡から天主閣を眺めていらっしゃるんで小ね。



 3時間ほどのしばらくぶりの充実した時を過ごすことが出来て生きている喜びをかみしめました。ちょっと疲れましたけどもいい一日でした。



しみじみと俺生きてるよ輝いて

2016-04-15 | 日記
 
インフルエンザの病後初めてゆっくりと1時間緑地公園を散歩しました。



 早春の空を映した流れのほとり若草の緑が美しかったんです。3週間あまりの長いインフルエンザから立ち直って「ほんと今度は俺の旅たつ番かもしれない」なぞと悩んだのが嘘のような気がします。

 早春の美しい流れが輝いています。ようやっと、俺生きていると思う気力が爽やかに湧いてくるんです。残された命大事に大事に生きてみようと今思っているんです。



はて・・これはもしかして俺の番かいな?

2016-04-14 | 日記
38度3分の高熱に激しい咳が3日ほど続いて1週間後には37度台からやがて36度6分の平熱近くになったのに深い淵の底に沈み込むような重苦しくけだるい気分が続き咳も止まらなかったのです。。

 ああ、これは俺の歳も十分の老齢だし、そして僅かここ3年ほどの間に本当に心を許し話し合える大事な次弟に続いて1年後には3弟までも亡くしてしまいましたし、親しかった友も3人までも次々に旅だって行ってしまった。「はて・・これはもしかして俺の番かいな?」と思ってしまったのです。

 「あんたたちそっちはどうですか?。どうやら俺の番が来たみたいな気がするんよ」そんな話しかけも秘やかにしていたんです。それに俺だって89年もわがままいっぱいに生きて、思い返せば泥まみれの人生を充分に生きてきたんだし、もうあくせくすることもなく大きな自然、大きな宇宙の流れの中に身を任せて永眠することも悪いことじゃない。そんなことも思ったりして病に耐えてもいたんです。

 そしてふと思うとばばちゃん(家内)にも息子達や嫁にも温かく心の籠もった看病をしてもらっているし、それにないよりもネットでこんなにたくさんの方から心配やら励ましのお言葉など頂いている。くだらん俺だけれども俺って本当に幸せ者なんだとしみじみ思ったりもしていたんです。

 でも偏屈な私です、家内も息子達もうるさいほど病院に行かなければばというのに腹を立てて「風邪なぞ安静にして寝ておればそのうち治るんだ!」と頑として病院に行こうとしなかったのです。

 でも36度6分の平熱が1週間も続いているのに重苦しい不快な気分が抜けないのに頑固爺いの気持ちも折れて息子に付き添われて病院にいきました。風邪ですから内科に訪れましたけど看護師さんと内科の先生は今3ヶ月ごとに継続的に治療をして頂いている循環器の先生に診察していただいたほうがよかろうと循環器の主治医の先生の回されました。

 血液検査・胸部のレントゲン検査・心電図検査の結果を見て主治医の先生は厳しく「なぜ38度台の高熱が出た時に来院しなかったんだ。これはインフルエンザです。今はインフルエンザのいい薬があって3日もすれば快方にむかうんです。」といいました。それを聞いて息子は「頑固爺意でほんとに困っているんです」と謝っていました。

 「市販の風邪薬を飲んだでしょう」とおっしゃるので「葛根湯を飲みました」というと「そのせいかもしれない、肝機能が大変なことになっているよ」とおっしゃるんです。
 結果を見せていただくと3月はじめの検査ではGOPが23で正常値なのに15倍の349にもなっておりその他の項目のすべて異常なほどに高くなっていたんです。

 先生は1週間ほど安静にして来院しなさい。もし肝機能が改善されなかったらすぐに入院治療しなければなりません。それにインフルエンザは再発することもあります。もし発熱するようなことがあったらすぐに来院するようにとおっしゃいました。

 私は平熱が一週間近くも続いているのに暗い陰鬱な苦しみが続いているのはこの肝機能の悪化が原因だと分かりました。この肝機能のすさまじい悪化を突きつけれて私は突然死の恐怖におののきました。「大きな宇宙の流れのなかに身を任せて安らかに眠るのが死である」なぞという悟ったような思いは吹き飛んでしまってすぐそこに来ている死の恐怖におののいていたんです。

 でもあほらしいほど偏屈な私です。表面は平然としてばばちゃんに「なに安静にしていればそのうち治るよ。もし治らなくても弟たちや親しい友人のところに行くんだ。89年も生きてもう充分だ」なぞとうそぶいてあきれさせていました。

 でも自分の寝室で独りになると死への恐怖で狂うような哀れな気持ちになるのでした。末期ガンを宣告された人の気持ちがよく分かりました。狂った頭でであと2年生きたかった、いや1年でも、いや6ヶ月でもいいいつものまほろば街道をもう一度散策してみたかった。死がすぐそこに近づいている恐怖(錯覚ですけど)で泣きわめきたいよう思いでした。

 私はたまらず深夜1時に起き上がってパソコンの前に座って「インフルエンザと肝機能」を検索してみました。でも私を納得させる情報はありませんでした。つまりインフルエンザと肝機能は関係がないみたいなんです。

 でもいくつかの情報を追っているうちに「肝臓は肝炎ウィルスだけでなくインフルエンザウィルスにも激しく攻撃されることがある」という情報を見つけました。私は飛び上がるほど嬉しくなりました。この重苦しい肝機能の悪化はインフルエンザウィルスに肝臓が攻撃さているからなんだ。平熱になっているといってもまだ咳は止まっていないし痰もまだ切れてはいない。このインフルエンザが完治すれば必ず肝機能も改善ざれると思ったんです。

 考えてみれば薄紙をはぐようではあったけれども確実にインフルエンザの症状は改善されている。だから肝機能も確実に改善されると思ったのです。そして久方振りにゆったりと眠ることができました。

 そして翌朝私は気持ちよく食事を取ることができました。私はばばちゃんに「たいへんな苦労をかけてお世話になったけどもう大丈夫みたいだと告げました」私の声が小さくてよく聞き取れなかったのかばばちゃんは「なに・・?」と聞き返しました。私は「元気になれそうなみたいなんだ」と言いました。

 「大変な苦労を掛けて世話になった!」その大事な感謝の言葉は1927年生まれの偏屈頑固な古老の私には照れくさくて再度言う気になれなかったのです。困ってしまうアホな爺いなんです。あるいはばばちゃんも聞こえない振りしていたけど聞こえていたのかも知れません。お互い古老の爺とばばです、感謝の言葉を夫婦の間で交し合うなんてお互い照れくさかったのかも知れません。

 次の日、久方ぶりにばばちゃんを町営温泉糸桜里の湯に送っての帰り道車を「まほろば街道」に回してみました。まほろば街道は明るく静かに私を迎えてくれました。嬉しかったです。



 一週間後主治医の先生の診察を受けました。先生は笑顔で「よかったね肝機能が完全ではないけど改善している。もう心配する必要はありません」とおっしゃいました。「先生私は死ぬのかも知れないと思ったんですよ」というと先生は笑いながら私もこれは大変なことかも知れないと思ったからあんな厳しいことをいったんです。そうでなくて本当に良かったねと喜んでくださいました。

 家に帰っての午後、私は静かにゆっくりゆっくりといつもの散歩道を30分ほど散策しました。3月20日の発病する前はまだ固い蕾だったポンプ小屋跡の桜が見事に咲き誇っていました。



 私はしみじみと美しい桜の姿を見ながらばばちゃんや息子達や嫁の温かい介護のことを思い幸せな自分をかみしめました。

 そしてなによりもなによりも、こんな老齢の惚け爺のつまらない私のことを心配して励ましてくださった皆様に感謝しないではいられませんでした。本当に有り難うございました。

 まだ体調は完全ではありませんけど一日一日快方に向かっている私です。本当に有り難うございました。私は今本当に幸せなんです。