この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
特牛(こっとい)は離島の角島に相対し、響灘の北域に位置して天然の良港がある。海岸線
を国道191号が南北に走る。
肥中(ひじゅう)は八ツ手の葉のように湾が幾つも入り込む天然の良港であったが、のちに
土砂が埋積してその地位を特牛港に譲る。(歩行約4.3㎞)
1928年(昭和3)年開業のJR特牛駅は、特牛港から距離にして3㎞も離れた内陸部に
ある。駅からバス路線はあるものの便数は少ない。近隣にタクシー会社があるようで、駅
舎内に料金表が貼り出されている。
懐かしい木製改札ラッチが現存する。
JR特牛駅(11:03)からブルーライン交通で8分、特牛港バス停で下車する。ゲートのよ
うなものは,特牛漁港の製氷コンベアとアイスクラッシャー。
地名の由来については、かつてこの地は牧畜が盛んであったことから、雄牛の意味を示
す方言の「コトイ」から取ったという説と、日本海に面した小さな入り江を示す「琴江」
から取ったという説など諸説があるが、超難読な地名として知られている。
特牛港は西長門海岸の典型的な溺れ谷に立地する天然の良港である。江戸時代から明治
期にかけて急激に発展した港町で、風待ち港として船の出入りが多く、旅館のほか遊郭も
形成されるほどの賑わいを見せたが、今では静かな漁村集落である。
港から安田薬局前の路地に入り、四差路を右折すると国道435号に出るが、その間が
赤間関街道北浦筋(阿川ルート)のようである。
旧特牛製網所(特牛製氷所)の建築年代は昭和初期とのことだが、鉱滓煉瓦で作られた工
場施設である。
四差路に戻って旧主要道だった道を山手に進む。
肥中街道に合わし街道を折り返す。
そう古くはないがN邸。
街道筋は空地・空家が目立つ。
肥中街道は赤間関街道に合流して阿川方面へ向かうが、その角には遊里らしき面影を残
す建物が残っている。(M邸)
右手の総2階は河野呉服店。
街道は国道191号線に合わす。
肥中港の南側に突出した半島が、湾を囲むように特牛の町並みは展開する。
湾の北側出入口にある蛭子神社は、1822(文政5)年に蛭子大明神と厳島大明神を祀る
社殿を建立したとされる。
海岸線より一歩奥の生活道を進む。
集落内唯一の寺・専教寺(浄土真宗)
小路は左へカーブすると旧郵便局が見えてくる。
モルタル・人造石仕上げの旧特牛郵便局(現在I邸)は、1931(昭和6)年に建築された
が、1階と2階の間にある意匠が目を引く。
この先で再び国道191号線に合わすが、左手の蔵も鉱滓煉瓦造である。
肥中街道と赤間関街道北浦筋が国道と重なる。下り坂が左カーブする辺りから街道は、
国道から離れて誓念寺の裏を廻って肥中に通じていたとされる。
古来は真言宗で善福寺と称していたが、1615(元和元)年に浄土宗・誓念寺と号す。
(国道傍)
1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の神田下村が単独で自治体を形成し、
この地に村役場を置いた。後に改称して神田村となるが、1955(昭和30)年6ヶ村と他
村の一部が合併して豊北町になる。
肥中浦は山口を結ぶ肥中街道の終起点であった。大内氏の時代には筑前博多への出帆が
多く、明や朝鮮との貿易港として重要な港であった。
湾の奥に主要な通りがある。
右手に浄土宗の恩徳寺。
無住で本堂の痛みがひどく立入禁止となっているが、室町期の1551(天文20)年8月、
大内義隆の夫人・お花の方の開創と伝えられ、持仏が保管されているとか。境内には国指
定天然記念物の結びイブキがある。巨樹ではないが、枝張り5.5mのところで数本に分れ、
その枝が竜蛇のように屈曲交錯している。
船の出入りや安全を管理・監督する所と思われる船究番所跡が境内にある。
番所跡から見る肥中港。
ほとんどが新しい民家に入れ替わり、トタン屋根の民家が妙に際立つ。
特牛港に魚市場のあるためか、ひっそりとした漁港である。
古民家が国道沿いにあるが、草木に覆われて崩壊の途にある。
路地を抜けると国道。
村役場だった所が肥中バス停(15:34)でJR特牛駅(15:44)に戻る。