ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市の阿知須浦は廻船業で栄えた町

2020年06月24日 | 山口県山口市

        
            この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         阿知須(あじす)は西部から東部にかけて山地・丘陵地が連なり、その間を流れる井関川と
        土路石川に沿って低地が開け、東側沿岸部に旧阿知須干拓が広がる。
         国道190号が海岸部を南北に走り、JR宇部線も国道に沿っており、市街地は阿知須
        駅を中心に飛石、砂郷、阿知須地区に形成されている。(歩行約3㎞)

        
         JR阿知須駅は、1924(大正13)年に宇部鉄道が床波駅から延伸した際の終着駅とし
        て開業する。開業当時は本阿知須駅だったが、のちに宇部線・阿知須駅となり今日に至る。

        
         阿知須駅前通り。

        
         駅前交差点南側の郵便局付近に井関村役場があった。

        
         阿知須駅前交差点から右前方の路地に入り、次の四差路は南に延びる通りを進む。

        
         この道は旧山陽道の嘉川村中野から深溝、岩倉、阿知須浦を経て、馬刀引(まてびき)峠を
        越えて宇部に至る白松道である。途中の阿知須浦で分岐して丸尾崎に向かう道もあった。

        
         1880(明治13)年もしくは1884(明治17)年築される竹田家住宅。

        
         旧街道筋に手前から第百十銀行、松重菓子店、華浦銀行の支店が並んでいた。右手の建
        物には“百十”をイメージした第百十国立銀行の社章が残る。1900(明治33)年に小郡
        銀行が開設され、日清戦争後の好況、山陽鉄道の開通などもあり、1902(明治35)年1
        月に阿知須に支店を開設する。1912(大正元)年に小郡銀行は経営不振となり、1918
          (大正7)年に下関の第百十銀行と合併し、支店はそのまま引き継がれる。 


        
         恵比寿神社は、1871(明治4)年現社号に改称し、その後、浜の二宮社と寺河内の現人
          (あらひと)社を合併して現在に至っている。蛭子命(ひいるのみこと・海の神様)と三女神(富貴をも
          たらす神様)
が祀られ、阿知須浦の守護神とされる。


        
         神社正面の道を進む。

        
         井関川の近くで廻船業を営んでいた竹代家は、明治中期に廻船業の村田家から建物を取
        得し、女性の副業としてたばこ屋を営業する。後に文具店を経営したが現在は店を閉じら
        れている。建物は1896(明治29)年以前築とのこと。平入・切妻造りの中2階建て、側
        面の小さな屋根を「床の間屋根」というそうだが詳細は知り得なかった。


        
         竹代文具店前のM家。
        
         
         1877(明治10)年の花屋火事後に建築されたと伝える旧松本酒場の建物である。廻船
        業であった西中家が取得して呉服屋を営み現在に至る。平入・入母屋造りの中2階建て、
              両側に袖庇葺き降ろしの居蔵造である。

        
         西中呉服店からお茶の坂へ向かうと、居蔵造りの中村毛糸店がある。元廻船業であった
        とされ、平入・切妻造りの中2階建ての建物は、1892(明治25)年築と伝える。

        
        この一帯は、かって茶畑が広がっていたため「お茶の坂」と呼ばれた。

        
         白松(宇部)道を南進すると右手奥に本龍寺がある。1716(享保元)年頃には阿知須浦に
        寺は無く、地下(じげ)の者は先祖の命日などに難儀していたという。岐波村にあった本寺は
        門徒の多くが阿知須浦に居住していたこともあって、岐波村の地下人と引寺について相談
        した結果、1722(享保7)年往古に光明寺と称した地に移建されたという。

        

         弘中家は「おくの屋」という屋号で廻船業を営む。主屋は築後120年以上とされ、平
        入・切妻造りの中2階建てで、間口が7間(12.72m)の大規模な居蔵造の建物である。            
         現在は玄関や縁側などの建具はアルミサッシに変わり、右手前方に増築部がある。

               
         本龍寺から海岸方向へ向かうと居蔵通りになる。

        
         中尾家の離れは明治末年頃に建てられたもので、阿知須浦で最初の本格的な2階建ての
        家屋と伝える。側面を通りに向けるので海鼠壁が長く続き、寄棟造の2階には海鼠壁・白
        壁・銅板の戸袋が施されている。

        
         中尾家は向い側にある中川家の分かれであり、中川家と同様に野村屋の屋号であったと
        いう。大阪に米を運ぶことを生業とし、廻船業は第二次大戦が始まる行っていたとされる。
         主屋の建築年代は明治以前とされるが、その後に増築や玄関などに手が加えられている。

        
         居蔵造の内部を拝見できる旧中川家だが、水・木曜日は休館日となっている。

        
         幕末から明治にかけて内海産の塩を筑後川の大川で筑後米と交換し、大阪に回送して販
        売していた。1877(明治10)年頃大阪商人がこの商法に着目し、汽船で赤穂塩を持ち込
        むと阿知須の和船は太刀打ちできなくなる。
         その後、産米を買い付け阪神方面で売りさばいていたが、電報の出現もあって米の値段
        が伝わるようになると、利潤が低下して廃業に追い込まれる。(2016年撮影)

        
         江戸時代に廻船業が発達し栄えたといわれる阿知須浦。千石船で、米・塩・綿を九州か
        ら大阪や江戸に運送し大きな利益を得る。その1軒が中川家である。

        
         中川家には井戸が4つあるとされるが、その中に防火用水を供給するためと思われる直
        径4mを超える大井戸がある。時に海水を入れて生けすにも利用し、江戸から帰った乗組
        員に酒等を振舞ったとか。

        
         旧中川家の隣にある河野家は、1951(昭和26)年頃まで廻船業を営み、明治・大正期
        には阿知須廻船業の中心的役割を果たす。石炭・米を大阪に運び、帰りに糸・綿を仕入れ
        て販売も行ったとされる。
         主屋は平入・入母屋造り、中2階建ての居蔵蔵であるが、2階部分は本2階に近い形で
        あり、明治後期の建物とされる。

        
         中川家の東門への路地。

        
         この先の路地が「ひちりん通り」とされ、夕方になると各家は七輪を持ち出し、石炭を
        燃やし煙が出なくなると家に持ち込み、暖房や夕食の準備に使用されたという。

        
         香川家は宇部から大阪に石炭を運ぶ廻船業を営んでいた。1912(明治45)年築とされ、
        家や仏壇の意匠は京都を真似たため、棟上げから完成まで1年を要したと伝える。

        
         中野家は中川家からの分家で、平入・切妻造りの中2階建ての建物は、天保年間(1830-
                1844)頃の築とされる、阿知須浦では古い建物の1つとされ、後に手が加えられたようだ。

        
         縄田地区内をきらら通りが横断する。

        
         格子柄と旧阿知須町の町木であったキンモクセイがデザインされたマンホール蓋。

        
         上野家も廻船業を生業とし、宇部の石炭を大阪、新潟、北海道などに輸送していた。1
        897(明治30)年築とされる主屋は、平入・入母屋造りの中2階建てで、白漆喰と海鼠壁
        がよく残り、防火用の戸は鉄板で作られている。

        
         関川防潮水門とドーム。

        
         井関川の左岸にある磯金醸造工場は、醤油・だしつゆ・味噌などを製造販売されている。

        
        
         中川家住宅の裏手には土蔵1棟と、並ぶように真重酒造場の蔵も残る。

        
         1866(慶応2)年に西条区と砂郷区を結ぶ慶応橋が完成したが、別に葬礼橋とも呼ばれ
        た。砂郷の地には阿知須浦の墓地があり、民家は建っていなかったという。火葬時代にな
        っても火葬場があり、葬式の行列は必ずこの橋を渡ったという。    
         この沖見灯籠は、慶応橋の工事金に余剰があったので、そのお金で造ったとされる。こ
        のためか灯籠には文字が刻まれていない。当時は時化の日に、点火された灯が上陸の目標
        になったといわれる。

        
         井関川右岸から恵比寿神社への通り。

        
         慶応橋の下流に「馬」の字が刻まれた馬石、河童の伝説が残るエンコ石や嫁らく地蔵、
        いぼ地蔵が祀られている。

        
         砂郷区の通りに入ると右手に居蔵造の住宅があるが、建築年など詳細不明のままとなる。

        
         廻船業であった松浦家は、1897(明治30)年築の平入・切妻造りで、低い中2階には
        小さな窓が設けられている。

        
         浜崎家も廻船業で、向かい合って建つ松浦家と同形式の建物で、1897(明治30)年頃
        に建てられたとされる。
         ここで列車の乗車時間が迫り駅に引き返す。