ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市の木戸・刈屋に古い町並み

2020年06月08日 | 山口県山陽小野田市

          
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         木戸・刈屋集落は市街地の南東に位置し、竜王山の北西斜面に形成された集落である。
        目の前に火力発電所があって小野田港沿岸にはセメント工場などが立地する。

         漁村らしく緩斜面に民家が密集しているが、平らな宅地を造るため石垣が積まれるなど
        瀬戸内らしい構成となっている。(歩行約2.5㎞)


         
         JR小野田港駅から少し離れているため、JR小野田駅から理科大前行きバス20分、
        水神町バス停で下車する。 


          
         小野田港の入江奥へ進む。

          
         入江に祠が祀られているが祭神は不明。

          
         Barberおはら前で山裾の路地に入る。(木戸新町) 

          
         道は直線的ではないが地形に沿って平坦である。

          
         重要文化財の「徳利窯」とツツジがデザインされた雨水用マンホール蓋。

          
         左手に火除明神が祀られているが、消防設備のない頃、火事は地震、雷の次に恐れられ
        ていた。
この木戸でも江戸中期頃に大火があって、19軒が焼失したと伝えられ、集落
        守社として祀った後は大火がないという。


          
         この付近は比較的大きな家が連なる。

          
         通りの電柱に共同井戸と案内されており、路地を上がって行くと「本川の井戸」と呼ば
        れる井戸がある。今でも清水を湛えているが、いつ頃掘られたのかは不
明とのこと。19
        34(昭和9)年に上水道が設けられるまで共同井戸として、
150戸余りの生活用水を供給
        してきたが、今では鯉が泳ぐ井戸となってい
る。

          
         船木宿から刈屋の港を結ぶ道が「木戸刈屋道」で、船木から有帆中村、小野田旦、野来
        見、赤崎大明神を通る3里23町(約14.3㎞)の距離であった。


          
         細い路地は斜面方向に縦道、等高線に沿って横道が網目状に絡んで各家にアクセスして
        いる。一旦入り込むとどこにいるのかわからなくなってしまう。


          
         縦道を上がると工場群が見えてくる。

          
         横道に戻って木戸中ノ町に入ると、木戸公会堂との三差路にM家がある。家の広さから
        手広く商売をされていたようだ。 


          
         三叉路の角に庚申塔。

          
         所々に空家が目立つ。(O家)

          
         刈屋道はH家の先で左折する。

          
         江汐公園のつり橋とツツジがデザインされたマンホール蓋。

          
         木戸と刈屋の道は竜王山が出っ張っているため、海沿いに道を造ることができず、木戸
        から竜王山の山裾に道がつけられた。この道は中道(なかみち)と呼
ばれ、刈屋への主要道路
        であった。


          
         1921(大正10)年頃に大井亀蔵らの尽力で海岸沿いの道が造られる(木戸大鼻集落)

          
         反りをもって積まれた石垣もある。

          
         眼下に海を見下ろす山の斜面に、石垣を高く築いて家が建てられ、その間を迷路のよう
        に細い道が走る。

          
         木戸・刈屋の境界に当たる大鼻の海岸通りに、亀趺に乗った「大井両翁頌徳碑」がある。
         大井善右衛門(酒造業)と亀蔵(醤油醸造業)の兄弟は、郷土の発展に尽くした人物で、魚
        市場の運営、漁港の改修、道路整備など両集落の公益を図る目的として、木戸・刈屋共有
        議会を創設した。弟の亀蔵は刈屋集落の海岸道路の新設に尽力する。

          
         恵比須神社参道に木戸刈屋盆唄由縁の地とある。1830(天保元)年代より続く歌い舞
        う盆唄だそうだ。 

          
         漁労の神として刈屋浦には刈屋の西端、木戸には中央の中ノ町波止場に祀られていたが、
        明治の神社整理を受けてこの地に合祀される。 

          
         恵比須神社の隣には正圓寺があり、その先も中道が続く。(刈屋上条集落)

          
          
         徐行と時速制限の道路標識をみると明圓寺前。

          
         1632(寛永9)年に創建された明圓寺(浄土真宗)は、刈屋集落の最も高い所にあって車
        が入る道はなく、新築や修理を要する資材などはケーブルによって運搬されたという。

          
         開基は俗名・高橋蔵人とい尼崎藩の浪人であった。のちに縁あって当所に来て無住の念
        仏道場に住したことに由来するという。
         当寺は刈屋の波止場に近いこともあって、難風などに遭って避難上陸した幕府の役人や
        九州諸大名の休憩所に使用されたとか。

          
         境内から見る火力発電所。

          
         1847(弘化4)年の正月に火災が発生し、200余戸が全焼するという大火に見舞われ
        ている。

          
         正面のT邸前で鉤の手になっている。

          
         水路にパイプ管が設置されているが、雨水は別にしても汚水処理方法、膨大な石垣など
        の運搬についてお尋ねしようと思ったが、誰にも会うことなく残念する。

          
         傾斜地を切り開いて道や宅地を設けた先人たちの苦労が偲ばれる。

          
         中道も突き当り海岸線へ下る。風土注進案は神功皇后伝説を紹介して「この地に数戸の
        御仮屋を造立し滞陣したるよし‥」と記し、仮屋が誤用されたのが地名の
起りとする。

          
         県道妻崎開作小野田線(1968年開通)に出て刈屋港へ向かう。

          
         漁港の波止場先に高さ3.58mの立派な常夜燈が残されている。1818(文政元)年に
        吉敷毛利氏の手によって建てられ、明治の終わり頃まで毎晩灯されて、位置を沖の船に伝
        えるとともに入船・出船を見守ってきた。この地は江戸期には吉敷毛利氏の給領地であっ
        た。

          
         海岸線から見ると観覧席のように家が建ち並んでいる。

          
         刈屋バス停(魚市場前)から船鉄バスJR小野田駅行きに乗車する。この地の難点といえ
        ばトイレがないことである。
  


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