ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市御庄と柱野は旧山陽道筋の小さな町

2020年06月09日 | 山口県岩国市

                             
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1の地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         御庄(みしょう)は錦川の右岸に位置し、御庄川が東寄りを北流する。域内に山陽新幹線の
        新岩国駅があり開発が進んでいる。
         柱野は御庄川中流の沖積平野を中心に開けた地にあるが、御庄とは対照的な地である。
        (歩行約8.3㎞)

          
         1960(昭和35)年に国鉄岩日線の御庄駅として開業するが、1987(昭和62)年第三
        セクターの錦川鉄道㈱に移管された。駅名を含めて現行のままとなったが、2013(平成
          25)
年3月のダイヤ改正で「清流新岩国駅」と改称される。

          
         1975(昭和50)年に当時の岩日線を横切る形で山陽新幹線が開業したが、御庄駅と新
        岩国駅は別駅として扱われる。ただし、相互利用ができるよう駅連絡通路が設けられた。

          
         沿岸部に工業地帯を有することから、ルート上に新幹線駅を設けることは考えられてい
        た。場所選定にあたって岩国駅か西岩国駅に併設する案もあったが、工事費用や構造上の
        問題から田畑の広がるこの地が選ばれた。

          
         旧山陽道は現在の御庄大橋付近に御庄の渡し場があった。渡し守は常時一人詰で、1ヶ
        月のうち多田村が10日、残りを御庄村が受け持っていた。

          
         ここから新市の町並みに入る。

          
         1666(寛文6)年の洪水によって、錦川およびその支流の河床が高くなり水害が常習化
        する。1676(延宝4)年旧山陽道は北方の山ぎわを迂回するように付け替えられ、それに
        ともなって町も道筋に移転する。新市は街道の片方だけに屋敷地が割り当てられた片側町
        となる。

          
         市の端にある蓮乗寺(浄土真宗)は、1653(承応2)年に創建されて「善行寺」と称して
        いたが、1693(元禄6)年現寺号となる。
         
          
         市には本陣と馬立所1ヶ所を備えたが脇本陣はなかった。庄屋の重村家が本陣亭主を兼
        ね、間口27間の屋敷を持っていたが、馬立所の建物はなかったという。

          
         御庄市は本宿ではなかったが、川止めなどで止宿の必要が生ずることもあり、「間の宿
        」的性格の宿場であった。

          
         往古に烈しき流行病が発生したため、庄屋などが生命(いのち)の神を祀る
滋賀県犬山郡多
        賀村にある多賀神社より勧請したと伝わるが、創建年などは不明とのこと。

          
         錦川鉄道の架道橋を潜る。

          
         明治以降の御庄は主要な交通路から外れたため、街道の景観を残していたようだが、山
        陽新幹線の新駅ができたことで大きく様変わりした。錦川鉄道の南側は街区整理もなく旧
        態を維持している。

          
         岩国市役所御庄出張所傍に役場の形態を残す建物がある。1916(大正5)年6月藤河村
        から御庄村が分村するが、御庄村役場だったかどうかはを得ていない。

          
         県道岩国大竹線に合わすと御庄川に沿う。

          
         御庄川左岸を南下すると、右岸の井出集落に木造校舎と穀物の神を祀る大歳社がある。

          
          
         素敵な木造校舎は、1947(昭和22)年御庄村立の中学校として創立されたが、201        
        4(平成26)年に休校となる。

          
         錦川鉄道下を潜ると岩国城下へ通じる岩国道が分岐する。1703(元禄16)年御庄川に
        西氏橋が架けられたというが、洪水により流失もあって幾度か架け替えられた。
         西氏橋は別名を「思案橋」といい、この橋を渡って錦帯橋を見学して行くかどうか思案
        したことから、この名が付けられたとか。

         
         さらに川上へ向かうと、JR柱野駅へ通じる西氏橋がある。岩国への橋が思案橋となっ
        たことで橋名が変更されたようだ。

          
         この先の左岸は狭隘で歩車分離の道でないため、橋を渡って右岸道を進む。

          
         柱野の地名由来は不詳とされるが、柱となる材木を出すためとも伝えられる。江戸期は
        柱野村で岩国藩領であった。

          
         岩徳線の鉄橋付近を樫木淵と呼び、昔は青々として底の深い所だったが、現在の淵は土
        砂で埋まり、樫の木は切られ通学路となっている。

          
         沈下橋だったような橋桁が残されている。

          
         コロナ感染や車とは無縁な場所である。

          
         下市橋から見る柱野の町並み。

          
         柱野市は入口で直角に折れる屈折構造となっている。

          
         市は古宿にあったが、たびたび火災があったので下流の「野とろ原」へ移ったが、移転
        時期は不明とのこと。

          
         下市集会所がある場所に本陣があったとされ、九州の大名が利用したとか。

          
         民家は道路より一段高い位置に設けてある。

          
         柱野市も大火後に町並みが再建されたが、再建時に道幅が拡張されたようだ。

          
         通りに古民家は少ない。

          
         右手にある教法寺(浄土真宗)は、1647(正保4)年に西氏が庵を創設する。1681(
        天和元)年柱野市に移転して今日に至る。

          
         蔵の先で道は三差路となるが、旧山陽道は右の道を辿る。

          
         上市橋を渡り古宿に入ると、1947(昭和22)年に師木野村立師木野中学校として建
        てられた校舎があったが、老朽化のため今年の春に解体されたとのこと。
         マンサード屋根と正面にはドーマーを載せたモダンな木造校舎であった。(2018年9
        月撮影)

          
          
         1949(昭和24)年に村立柱野中学校と改称したが、1999(平成11)年に休校、20
        14(平成26)年に廃校となった。

          
         道路の右側に千体仏を祀るお堂がある。仏像群は小さな木彫りの仏で、1715(正徳5)
        年この地にあった黄檗宗の桂雲寺に静間彦右衛門が奉納したと云われている。
         1937(昭和12)年桂雲寺は廃寺となり、その跡に小さなお堂を建てて安置されたが、
        度重なる水害で流失し現在は795体である。

          
         信者が寺に詣でて法要仏事を営む際に、お堂の中にある千体仏から亡き人の顏に似た仏
        像を選び、本堂で位牌と共に読経を乞い、元に位置に収めて退出したとされる。(管理され
        ている方にお会いして堂内を拝見する)

          
         御庄川右岸を引き返す。

          
         古宿入口に柱野バス停があるが、9時と12時台の2本のみである。JR柱野駅まで戻
        って長い待ち時間後に徳山駅行き(16:07)列車を利用する。


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