ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市西岐波は床波から御駕籠道と南方八幡宮

2020年06月17日 | 山口県宇部市

          
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         西岐波の大部分は低位・高位の段丘で、北端付近より沢波川、江頭川、白土川などが南
        東方向の周防灘に流れ出る。
         床波地区が中心地で人口が集中し、旧国道付近に商店街が形成されている。JR宇部線
        は床波を通って海寄りを走り、国道191号沿いに店舗などが多く地
内の商業圏が移行し
        つつある。(歩行約6.8㎞)


          
         JR床波駅は、1923(大正12)年8月宇部鉄道が宇部新川駅から延伸した際に終着駅
        として開業する。相対式ホーム2面2線で跨線橋が設けてある。


          
         駅通りから旧国道を横断して、次の交差点を右折する角に、寛文8(1668)年創業の三井
        酒舗がある。もとは「濤乃花」という銘柄の造り酒屋であったが、現在
は周南の蔵で製造    
        してもらっているとか。


          
         床波漁港は第二種漁港で地元だけの漁港でもないが、下関漁港のように全国的な漁港で
        もない。


          
         床波漁港から西方向(山口宇部空港方面)を望むと、墓標のように旧長生炭鉱の2つのピ
        ーヤ(排気・排水筒)が海面から突き出ている。


          
         1942(昭和17)年2月3日の朝、海底坑道のおよそ1㎞沖合で水没事故が発生し、1
        83名の坑夫たちが犠牲になる。そのうち136名が朝鮮人労働者で、
今も暗く冷たい海
        に眠ったままとなっている。床波海岸の一角に追悼碑が建立さ
れて犠牲者追悼集会が行わ
        れている。


          
         海岸道路から一歩奥の道を東進する。(右は床波公園)

          
         沢波川に架かる沢波橋。

          
         床波の由来となる逸話が残る荒人神社は、奈良期の751(天平勝宝3)年漁師や村人が
        吉大明神を祀ったのが始まりと伝える。

         769(神護景雲3)年に和気清麻呂が、宇佐八幡宮に神のお告げを聞きに行く時に海が荒
        れ、
船上からこの社に祈ると海が静まったとか。このとき船が「床」の上を滑るかのよう
        に「波」が無くなったことが、「床波」の地名の由来ともいわれている。
        1715(正徳5)年に疫病が流行した時、京都の八坂神社より勧請して住吉神社に合祀し
        て、荒人神社と呼ぶようになったという。


          
         西光寺(真宗)は常盤湖辺りにあったが、元禄年間(1695-1698)常盤湖築造の際に現在の地
        へ移転した。


          
         この道は床波往還道で、宇部周辺を給領地としていた萩藩家老の福原氏が、駕籠で通っ
        ていたことから「御駕籠道」とも呼ばれた。


          
          
         三井酒造は、1667(寛文7)年長崎奉行中島九郎右衛門が江戸への途中、床波沖で難破
        した時に三井家に救われ、その報恩のために酒造免許が与えられたと伝
える。 
         左手が醸造場で右隣には三井酢造があり、1877(明治10)年頃から大正期にかけては
        朝鮮や満州にも販路を拡大という。            

             
          
         現在の西岐波は、1879(明治12)年に岐波村が分村して西岐波村となり、町村制施行
        時はそのまま村立する。村の中心が江戸期にあった旧床波村で、駅、
郵便局、漁港などは
        床波を表している。


           
         左右に折れ曲がって進むと、右手に大番神社への路地がある。

          
         坂道を下ると大番様と呼ばれる神社前に出るが、由緒書きがないため祭神等は不明のま
        まとなる。


          
         大番様から海岸道路に出る。

          
         白土海岸。

          
         和智元郷の墓が案内されているが、和智家は広島県吉舎町の城主であった。毛利家が防
        長二州に移封された際、毛利氏に従い西岐波旧山村を給領地とし、真河内の溜池を灌漑用       
        に改修するなど地
域の発展に尽力したとされる。

          
         宇部市の花「サルビア」と常磐公園の花菖蒲がデザインされたマンホール。

          
         浜田川に沿って海岸線から丘陵地へ向かう。

          
         JR宇部線の架道橋を潜り、国道190号を横断すると柳ヶ瀬地蔵尊。

          
         西岐波の山村地区に鎮座する南方八幡宮の社伝によると、奈良期の751(天平勝宝3)
        厚
東武綱が宇佐八幡宮より勧請して、古尾の地(現在の東岐波区古尾)に社を建立して賀保
        の
庄の鎮守とする。鎌倉期の1233(天福元)年大内弘貞の時に白松庄を2つに分け、八幡
        宮を南と北
に分社した。

          
         南は吉沢の地(現在の西岐波上ノ原)に建立されたが、鎌倉期の1255(建長7)年現在地
        に遷座する。
室町期の1408(応永15)年火災に遭い、大内盛見により再建された。

       
         大内時代の特徴を示す楼門造りとなっている。

          
           南方八幡宮を背にして進むと、県道西岐波吉見線に出会う。

          
         同地区内には種類の違うマンホールが存在する。常磐公園で放し飼いにされていたモモ
        イロペリカン「カッタくん」と子供、周囲に市の花サルビアがデザイン
されている。

          
         旧石器時代の遺跡とされる長桝遺跡。発掘調査を終えて埋め戻しがされて畑になってい
        る。


          
         県道を直進して国道190号とJR宇部線を横断する。

          
         1872(明治5)年に学制が公布され、1874(明治7)年に寺小屋などを統合して床波小
        路に床波小学が開校する。1884(明治17)年に校名を「錦波(ぎんぱ)尋常小学校」と改名
        したが、後に西岐波小学校と改める。学校跡地は市民センターとなっているが、校門など
        が名残りをとどめる。


          
         市民センターから往還道に入ると右手に道標があり、風化が進んでいるが「右うべしん
        かわ、左床波」と読める。

         道標の向かい側付近に西岐波村役場が置かれていたが、今は住家となって痕跡は残され
        ていない。


          
         駅方向へ向かうと沢波川傍に権代南向地蔵が祀られている。昔はこの辺りは沼地で、渡
        し舟で渡らなければならず事故も多かった。出羽国出身のお坊さんが地
蔵尊を祀ったとこ
        ろ、事故が無くなったとか。
         また、水質が悪く疫病が流行した時、
旅僧が祈ってくれたので病気が退散したという説
        もある。今も庶民の願いをかな
えてくれる地蔵尊として信仰を集めている。(JR床波駅
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