ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市の本山は小野田支線の終着駅と旧炭鉱跡 

2020年06月07日 | 山口県山陽小野田市

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         本山(もとやま)は竜王山の東から南の本山半島に延びる台地状に立地し、宇部市と境を接
        する。本山炭鉱を中心に栄えてきたが、廃坑後の現在は、石油精製所・大学の進出などで
        住宅街に変わりつつある。(歩行約7㎞)


         
         採掘した石炭および石灰石ををいかに搬出・搬入するかが課題となり、1915(大正4)
        小野田駅と小野田港駅は小野田軽便鉄道により、1929(昭和4)年雀田駅ー居能間が宇部
        電気鉄道が開業する。
         1937(昭和12)年宇部電気鉄道により雀田ー長門本山間が開業したが、1943(昭和
          18)
重要物資資源の輸送路線として国有化される。小野田港ー雀田間がつながったのは、1
        947(昭和22)年のことである。


          
         雀田駅ー長門本山駅間の約2.5㎞の支線には、1933(昭和8)年製造のクモハ42系
        電車が使用されて駅に常駐していた。約70年間走り続けてきたが、2
03(平成15)
        3月
14日に姿を消してしまう。(1994年撮影)

          
         Yの字形に線路が分かれ、その開いた線路と線路との間に三角形ホームが置かれている。
        クモハ42形とYの字型配線駅は、鉄道ファンには
知られた駅だった。

          
         JR雀田駅前から左折して踏切を越えると、2016(平成28年)公立大学に移行した山
        陽小野田市立山口東京理科大学。

          
         交差点を右折してJR本山支線に沿う。 

          
         県道妻崎開作小野田線が開通するまでは、本山への主要な通りだったようだ。

          
         県道小野田港線を横断する。

          
         1932(昭和7)年に開業した日本赤十字臨海療養院は、1928(昭和3)年に赤十字社支
        部が御大典記念事業として創設を決めたもので、当時の小野田町が誘致に乗り出して町内
        に建設が決まる。
         松原の海岸約6,300坪の広大な敷地に病棟などが建設され、当初は結核患者の治療
        にあたったが、現在は地域の高度慢性期病院としての役割を担っている。

          
         JR浜河内駅前

          
         JR浜河内駅は支線のほぼ中間点に位置する。

          
         駅前交差点から南下して行くと、標高136mの竜王山が裾野を広げる。山頂からは3
        60度の展望で、自動車道や登山道が整備されているとのこと。

         
         大通りに合わし海岸方向へ向かう。

          
         1943(昭和18)年に設立された正法院は、3年後に本堂が建立された比較的新しい寺
        院である。

          
         支線の終着駅である長門本山駅は、車止めの先に単式ホーム1面1線で来た列車が、そ
        のまま折り返す構造である。列車は朝夕の3本のみで、廃線されない不思議な支線でもあ
        る。

          
         JR長門本山駅先の海岸から見る本山の町並み。

          
         本山公民館手前の海側に炭鉱遺構と思われるものが残されているが、ネットが張り巡ら
        されて確認できず。

          
         大須恵の住宅街に児童公園があり、その一角に本山炭鉱斜坑口跡がある。(左手の林)

          
          
         この坑口は、1917(大正6)年に大日本炭鉱が運搬坑道として設け、1941(昭和16)
        年に宇部鉱業が完成させて、1963(昭和38)年3月の閉山まで使用された。
         坑道は沖合3㎞、最深部は200m、形状は鉄筋コンクリート造で側面は石組みとなっ
        ているが、津布田断層と異常出水に悩まされ続けた炭鉱でもあった。

          
          
         本山岬への周辺部には炭鉱社宅が並び、1940(昭和15)年には約1,873人の抗夫
        と家族が居住したとされる。社宅は6畳と4.5畳、台所があり、石炭・水道は無料であっ
        たようだ。

          
         第二次世界大戦中には本山炭鉱に捕虜収容所があり、連合軍捕虜が炭鉱で働かされた。

          
         本山岬の高台にあった炭鉱鉱員寮を改築し、木造平家の長屋数棟が収容所となる。現在
        は荒地で足を踏み入れることができないが、コンクリート製の水槽と門柱と思われるもの
        が名残りをとどめている。

          
         旧小野田市の最南端、竜王山の峰が南に延びて台地状となり、周防灘に突き出た所が本
        山岬である。(バス停があり1時間毎の便数)

          
         道標に従うと本山岬公園には、駐車場と旧式トイレ、案内板などがある。

          
         公園入口に金毘羅大権現社が祀られているが、1893(明治26)年小野田セメントに原
                料の粘土を運搬していた船問屋の柴田寿之助が、海の神様である讃岐の金毘羅社から勧請
        して建立したとされる。
         隣には観音菩薩と蛇神を祀った石祠2体がある。蛇神は蛇の神様で、この周辺には毒蛇
        が多かったことに所以するという。

          
         海岸への階段を下ると目の前は西部石油山口製油所。

          
          
         地質が砂岩層や礫岩層のため、風波などの浸食によって奇岩が生まれた。残念ながら満
        潮だったため「くぐり岩」は海に沈んで近寄ることができなかった。

          
         長門本山駅バス停から約600m先の海岸線に「きららビーチ焼野」がある。海水浴や
        マリンスポーツができるそうだが、海を眺めながら遊歩道を歩くのも最適な場所である。

          
         本山駅バス停からバスルートが2つに分かれるようで、こちら側は本数が少ない。きら
        ら交流館前バス停(13:32)よりJR小野田駅に戻る。


この記事についてブログを書く
« 下関市豊北町に肥中街道終始... | トップ | 山陽小野田市の木戸・刈屋に... »