ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊北町の角島は灯台、大橋と戦争遺構

2020年06月02日 | 山口県下関市

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         角島(つのしま)は油谷湾入口の南西海上にある島で、海土ヶ瀬戸(あまがせと)を挟んで島戸
        浦に対する。島は中央部がくびれた形状をなし、元山の東部、尾山の西部に二分される。
         地名の由来は、島の形が牛の角に似ているためとする。(歩行約8.4㎞、うちレンタ
        サイクル5.3㎞)

          
         JR下関駅(8:58)から山陰本線を乗り継ぎ、JR特牛駅(10:32)でブルーライン交通角島
        行きに乗り換えて約16分、西長門リゾート前バス停で下車する。

          
         バス停から風波クロスロードを角島大橋方向へ進むと、右手に坂道が見えてくる。ここ
        を上がれば角島大橋を一望できるビューポイントがある。時間のロスになるが角島に来た
        
という実感を味わえる最高の場所である。

          
         当地特有のエメラルドグリーンからコバルトブルーへと変化を見せる海士ヶ瀬戸は、南
        国の海と錯覚してしまいそうな光景が広がる。

          
         2000(平成12)年に完成した角島大橋の長さは1,780mで、完成時には離島に無
        料で渡れる橋としては日本最長であった。その後、伊良部大橋、古宇利大橋が建設されて
        座を譲る。

          
         もう1ヶ所立ち寄りたい場所があったので学校横バス停で下車する。左手に角島サイク
        ルポート(レンタサイクル)があるので借用する。

          
         バス停から県道を1㎞ほど進むと、右手につのしま自然館と角島大浜海水浴場がある。
        その敷地内に映画「四日間の奇跡」で使用された礼拝堂のロケセットが残されている。 

          
         大浜海岸とロケット打ち上げのように見える角島灯台。

          
         大浜海岸からの道は上りで自転車を押して行くと、歩道で漁網を修理されている方に遭
        遇する。角島周辺の漁労について話を聞かせていただく。(電動カーの人だが83歳とか)

          
         出発時には灯台公園前バス停で下車予定であったが、この先を考えるとレンタサイクル
        
が大いに役立つ。

          
         本州の西北端に位置する角島灯台は、1876(明治9)年3月1日に初点灯した日本海
        側初の西洋式灯台。

              
         円形の灯塔は高さ22.7m・直径6.04mの白御影石造で、灯塔の上に乗る灯篭は上
        部銅造・下部鉄造の円形で高さ6.92m、直径5mもある。

          
         「お雇い外国人技師」R・H・プラントンが設計、灯台築造鉛工兼器械取付方オースト
        レルの指導で進められた角島灯台の建設は、灯明番教授方バウエルスの手で初点灯され、
        同ディックに守灯業務が引き継がれて、1879(明治12)年まで英国人技師によって保守
       
 されてきた。
         そのため、英国人技師が居住する吏員退息所(現灯台記念館)が築造された。

          
         コロニアル様式のベランダが付いた鎧戸の建物は、その後、日本人吏員の入居にあわせ
        た内装の改修を受けながら存続した。灯台業務の自動無人化で払い下げを受けた旧豊北町
        が、1994(平成6)年に記念館として一般公開している。

          
         風が強いためか煉瓦造の壁に石を張って頑丈な造りとしている。

          
         台所・浴室から見た中央廊下。

          
         1875(明治8)年12月に竣工した赤煉瓦造り倉庫は、生活用具などを入れていたもの
        と思われる。この倉庫は、木造組漆喰瓦葺平屋25m2で、規模が小さいためか災害の影響
        を受けず、独特な小屋組みなど当初の姿をほぼ完全に残している。

          
         角島灯台の北北西約1.3kmにあるクヅ瀬を照らす照射灯。以前は角島灯台の上部に張
        り付くように設置されていたが、角島灯台と同じ石造りのデザインで灯台のすぐ隣に設置
        されている。(1972(昭和47)年に初点灯)

          
         塔内には御影石で造られた105段の螺旋階段があり、海側に小窓が設けられている。

          
         レンズは第一等正八角形の閃光フレネルレンズで、1874(明治7)年に製造された現役
        最古のものである。

          
         灯塔から360度の大展望が広がるが、高度恐怖症にとってはこの1枚が限界である。

          
         灯台見学の受付になっている建物は旧角島灯台気象観測舎で、1943(昭和18)年に旧
        軍部の要請で気象観測業務を強化する目的で建てられた。
         戦後、ようやく観測機器が設置されたが、気象観測は1964(昭和39)年に終了してい
        る。

          
         灯台の海側にあるのが夢崎波の公園。角島出身のプロレタリア作家・中本たか子が「故
        里をとおくはなれて 思うかな 夢さきの波 牧さきの風」と詠んだ歌から、角島の2つ
        の岬にある公園が、夢崎波の公園・牧崎風の公園と命名される。この時期はヒルアサガオ
        の花が満開である。

          
         丘陵地内にある尾山集落に入る。

          
         漁師が多く暮らす尾山地区は、狭い坂道に沿って石垣や防風林が設けられた中に民家が
        ある。

          
         海岸からの狭い坂道に民家が沿うため、坂道と坂道を横道がつないでいるが、すべてが
        連結されていないため、海岸線を出入りしなければならない。(横道にある勝安寺)

          
         袋小路となって引き返さざる得ない坂道もある。(自転車が重荷となる)

          
         丘陵地を進むことを残念して海岸線を走行する。(尾山港) 

          
         2つの地区が中央部の地峡で結ばれ、学校などが存在する。(丘陵地は元山)

          
         元山の先に角島大橋が見え、コバルトブルーの海が続く。

          
         2006(平成18)年に旧豊北町の4中学校が豊北中学校に統合され、角島中学校は閉校
        となる。(下関市に合併した1年後の出来事)
         閉校となったが建物は現存し、グランドの先に体育館と校舎が続く。

          
         レンタサイクルを返却して元山地区へ向かう。

          
         地峡から坂道が続き、頂上部付近で尾山の海岸線が見えてくる。

          
         元山の中心部に角島八幡宮と豊北総合事務所角島支所がある。1889(明治22)年の町
        村制施行により、単独で自治体を形成し角島村となる、1955(昭和30)年に7ヶ村が合
        併して旧豊北町が誕生するまで、角島八幡宮横に村役場が置かれていた。

          
         角島住民の氏神である角島八幡宮は、室町期の1395(応永2)年に神田上村の一宮から
        勧請されたと伝える。神社のある元山地区は、台地や斜面に農村的な風情が見られる。

          
         牧崎風の公園への道を進む。

          
         中本たか子は結婚して蔵原姓となったが、この地で生まれ日本海の怒濤を子守
歌に育ち、
        不屈の闘志で生涯を生き抜く。
プロレタリア作家として精力的に活躍したが、投獄の苦し
        みをなめる。戦後は
民主主義文学を旗印に、基地問題や安保闘争など現代史の断層を描く。
        「闘ひ」
「南部鉄瓶工」「耐火煉瓦」「白衣作業」などが中本たか子の代表作である。

          
          
         来た道を引き返し、徳蓮寺手前の道を右折すると、第一区公民館前には草で覆われた倉
        庫が残っている。戦後、木造兵舎は払い下げられて、民家として利用さ
れていたもので、
        大部分が火災で焼失してしまう。


          
         弾薬庫2基、兵舎棟2棟、監視所1棟などが残存するが、地元住民の施設に転用される。

          
         角島には現役兵と召集兵で編成された約60名の部隊が、1941(昭和16)7月中旬に
        に島へ到着して戦備を担当した。(水槽は当時のものと思われる) 


          
         4号砲座の弾薬庫跡。4号砲座は埋められて畑になっている。

          
         砲台観測所は砲台付近に設け、96式測遠機による射撃設備を具備したとある。この周
        辺に2・3号砲台と弾薬庫はあったようだが畑化されてしまったようだ。 


          
         1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると、海軍省は角島に砲台4基の築造を開
        始し、1940年頃に完成するが、おおよそ南北に50m間隔で並び、
対馬海峡を臨む位
        置に配置された。ここに15K(15cmカノン)砲が設置され
たかどうかは定かでないが、
        実戦に使用されることはなかったとされる。(県道
を横断せずに右折すれば1号砲座の弾
        薬庫跡)


          
         1号弾薬庫跡を挟んだ県道の向かい側に角島砲台の説明板がある。ここに1号砲台があ
        ったようだが歩き方が逆であった。


          
         牧崎公園入口バス停よりJR特牛駅に戻る。