ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市菊川町の轡井・道市は山間の美しい里

2022年07月26日 | 山口県下関市

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、樅ノ木、道市、轡井など12ヶ村の区域をも
        って豊東村(とよひがしそん)が発足する。現在の下関市菊川町の東半分に位置する。
         その中の轡井(くつわい)は、西北に高畑山地が続き、東に猿王岳の山地が連なる。この2
        つの山地の間に
ある集落で、中央を駒込川が南流し木屋川に合流する。地名の由来は、往
        古、当地の山林を開墾した時、地中から轡(馬の口にくわえさせて馬を制御するのに用い
        る用具)を掘り出したことによるという。(歩行約3.2㎞)

        
         轡井には下関生活バス樅ノ木線があるものの予約バスで、利用が難しい地域である。県
        道日野吉田線を北上すると、右手に「厳島神社参道入口」の看板があり、路肩に駐車して
        神社への道を進む。

        
         途中から参道へ廻り込むと厳島神社の鐘楼門。

        
         梵鐘は、1702(元禄15)年に三浦半右衛門が願主となり、氏神である当神社に寄進し
        たという。先の大戦で武器生産に必要な金属資源を確保するため、金属類回収令が発動さ
        れたが特例で残されたという。(市指定有形文化財)

        
         1678(延宝6)年創建とされる社殿は、1846(弘化3)年に再建されたと伝わる。(権
        現造り)

        
         下轡井と上轡井の境なのか庚申塚。

        
         赤いトタン屋根は緑豊かな山間の農村集落にマッチする。

        
        
         1876(明治9)年開校の貴和小学校は、1907(明治40)年豊東尋常高等小学校に統合
        されたが、遠距離通学のため3年生以下は貴和小学校校舎を利用した分教場で学ぶ。
         現在の校舎は、1903(明治36)年現在地に移転して新築されたもので、その後、増改
        築などは行われたようだが、現在は「貴和の舘」として都市農村交流の拠点として活用さ
        れている。

        
         グラウンドの片隅にあるのが明拙呦記念碑。明拙呦師は薩摩藩士で姉がいたが、一向宗
        を信仰したため藩禁に触れ極刑に処せられる。師は逃れ高野に入り僧となり、20年の修
        行を終えた後、長門国の知友・長慶寺に寓居する。
         1872(明治5)年学制発布がされて、小学校を設立せんと多難を排して、1876(明治
          9)
年念願の小学校竣工を迎える。山口県令はその功を賞し、貴和小学校名と時計を下附し
        たが、その年の6月、病をもって没す。享年54歳。

        
         人口減少と高齢化により、担い手不足による耕作放棄地と空家が目立つようになってい
        るとか。

        
         轡井分校に通学した轡井・道市・樅ノ木の3地区民の方々が「貴和の里につどう会」を
        設立され、美しい里づくりに取り組んでおられる。

        
         竈(かまど)でご飯炊き、五右衛門風呂、囲炉裏といった農家の生活が体験できる「貴和の
        宿」がある。

        
         最奥部から見る轡井集落だが、駒込川沿いに道市から吉田(山陽道)に通じる街道があっ
        たという。

        
         道市(みちいち)は江舟山東麓、厚狭川の支流である原川の上流域に位置する。この地は山
        間にありながら各地に通じる交通の要地でもあり、中心に自然と市ができたので、これが
        地名になったという。(歩行約1.8㎞) 

        
         河内神社を中心として道筋に民家が並ぶ。

        
        
         河内神社は室町期の1495(明応4)年、上保木の雨郷から勧請され創建されたというが
        確証はないとのこと。
もと別の所にあったが、1696(元禄9)年現在地に遷座した。
         境内には生育に適し、地元民に守られてきた樹齢300余年の「夫婦杉」と呼ばれる巨
        樹がある。

        
         2015(平成27)年の国勢調査によると、14世帯27人が暮らす集落である。

        
         2005(平成17)年に菊川土地改良区が、農地の高度利用促進する事業を行った旨の碑
        が、樅ノ木と西厚保町原への三叉路に建立されている。

        
         引き返して保木地区への道に出ると、ここも広い屋敷地に大きな家が並ぶが、獣害防護
        柵が張り巡らされて柵の中にいるような錯覚を覚える。

        
         重厚感のある主屋、納屋、蔵が一体化された農家住宅。
    
        
         静かな山間の農村風景を楽しんで樅ノ木地区に移動する。

        
         樅ノ木(もみのき)は北に豊ヶ岳、西に大了寺山を望み、四方を山に囲まれ、厚狭川の支流
        である原川の源流をなす山間の集落である。地名の由来について地下上申は、「小村の樅
        ノ木村と申すは、往古、此所に樅ノ木の大木があり、それ故に村名になった伝える」とあ
        る。(歩行約0.9㎞)

        
         2015(平成27)年の国勢調査によると、5世帯13人が暮らす小集落である。

        
         集落を見守るように三界萬霊塔。

        
         下関市(菊川)生活バスの終点。

        
         天保2辛卯年(1831)3月建立の鳥居を潜ると長い急階段。

        
         広い平地の片隅に鎮座する河内神社は、現菊川町東長野の若宮八幡宮の末社とのこと。

        
         緑に囲まれた集落。

        
         集落に空家や休耕田を見ることがなかった。


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