この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年町村制施行により、貴飯村・久野村・楢崎村が合併して豊東郷村が
発足する。その後、楢崎村に村名変更したが、1951(昭和26)年岡枝村と合併して菊川
村に移行し、平成の大合併で下関市の一部となる。
久野(くの)は狗留孫山の南麓、田部川の支流である久野川流域に位置する。地名の由来に
ついて地下(じげ)上申は、往古、平野下野という侍が当地に居住し、下野死去後は9人の家
来が、この土地を拓いため九野と称し、これが久野になったという。
久野は旧長府街道筋ではないが、見どころもあるので散歩する。(歩行約3.1㎞、🚻な
し)
久野公民館に駐車して県道豊浦菊川線上の中村バス停付近から南下する。JR小月駅か
らバスを乗り継げば散歩することは可能だが、3集落を歩くには難がある。
県道沿いに大きな民家が並ぶ。
山間に田園風景が広がる。
日瀬(ひのせ)神社入口に稲原寅惣(1845-1930)翁の頌徳碑があるが、翁の一生は日本の興
隆期ー幕末から昭和初期にわたっており、その間、庄屋、戸長、村長など全生涯を地方自
治の振興と開発に尽力を注ぐ。
1959(昭和34)年の大干ばつでは、翁が精魂を傾けて築造した長谷溜池によって久野
地区は何も被害がなかった。同年に感謝を込めて碑が建立された。
日瀬神社は神仏混合時代に万年山妙見宮と称していたが、1874(明治2)年村社となり
日瀬宮に、さらに1909(明治42)年現社号に改称する。
1873(明治6)年神社境内に義方学舎が創立され、翌年には義方小学と改称するが、そ
の後に楢崎小学校の分校となったが、1886(明治19)年廃止される。
狛犬の台座には「近江源氏9代後胤 川北邑住人伊侂孫三郎源清長 天保15年(1844)」
とあるが、近江(現滋賀県)の方がどういう経緯で寄進されたのかは知り得ず。
正面に六万坊山を見ながら集落内を下る。
ケアハウス希望の郷への道に入ると菊川水掛不動尊。
広い敷地の一角に狗留孫山八十八ヶ所50番札所(薬師如来 )
菊川不動尊。
ここの湧水はラジウム泉質で、眼病、水虫、胃腸に効能があって、他地区から参詣して
冷水を持ち帰るという。
貴飯(きば)は狗留孫山の南麓、田部川の支流である貴飯川の流域に立地する。
地名由来について地下上申は、仲哀天皇が華山に登った時、この地で土地の者が食事を
差し上げたところ、喜んで「いと貴き飯なり」といったことによると記すが、木場を貴飯
としたものともいわれる。(歩行約1.3㎞)
県道の脇に庚申塔。
道標には「右楢原・内日(うつい)・小月」「御成婚記念」大正13年(1924)松田民三郎と
刻字あり。
貴船神社遥拝所改築記念碑があるが、詳細は知り得ず。
光明寺(真宗)の寺伝によると、開基の空正は上杉弾正顕定の子で、15歳の時仏門を志
す。室町期の1496(明応5)年西下し、貴飯に来て大藤浴の上に一宇を建立する。
のち、楢崎の麓にあった金光明無量密院の本堂を移して光明寺と称するようになり、1
648(慶安元)年寺地を現在地に移して本堂を建立したという。
光明寺前の道は、江戸期には郡部から長府藩へ通じる長府街道で、杢路子(むくろうじ)浴
を上り、貴飯峠を越えていたので、光明寺は幕府巡見使の本陣(休憩・昼食場所)となった。
1633(寛永10)年から1838(天保9)年まで10回幕使を迎え、脇本陣は惣別当の林家、
迫田家であったという。
生活バスの新藤内畑付近だが、民家は点在している。
楢崎は狗留孫山の南麓、田部川の支流である久野川、貴飯川の流域に位置する。
地名の由来は、古来、山林に楢の木が多いからという。(歩行約2km)
美栄(みさか)神社は、出雲大社から勧請されたが、その年代は不詳とされ、古くは妙見社
と称していたが、1803(享和3)年に現社号となる。国道491号の工事により現在地に
移転したと案内されている。
中の田公会堂前に猿田彦。
ヤマザクラと旧菊川町の町章がデザインされた農業集落排水用のマンホール蓋。
楢崎の田園地帯。
国道を横断すると楢崎(岡田)の町並み。
この付近が楢崎の中心だったと思い歩いてみたが,家々は更新されて昔日の面影は残っ
ていなかった。