ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊北町の神田上に弥生パークとコバルトブルーの海

2022年05月05日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         土井ヶ浜は響灘に面し、ほぼ海岸線に沿って国道191号が走る。この一帯の住居表示
        は下関市豊北町神田上だが、域内は広いため土井ヶ浜弥生パークを中心に散歩する。(歩行
        約3.5km、🚻パーク内のみ)

        
         JR下関駅から山陰本線でJR二見駅下車。ブルーライン交通(9:27)に乗り換えて土井
        ヶ浜バス停で下車する。

        
         下車するとバス進行方向に神功皇后社の大鳥居が見える。

        
         鳥居からの道。

        
         右手に人骨の出土密度が高い部分に覆屋(ドーム)。

        
        
         弥生時代の人骨約300体や副葬品などが出土した「土井ヶ浜遺跡」の全容を紹介した
        施設である。正面にはシンボルのゴホウラ貝輪と、1993(平成5)年に出土遺物を収蔵す
        る土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムがある。(国指定遺跡)

        
         弥生式土器が並ぶ。

        
         弥生人のレプリカ。

        
         人骨の埋葬密度がもっとも高い部分に半地下式ドームが設けられ、一般に公開されてい
        る。ここには約80体の人骨が発掘時の姿で復元されており、顔を西に向けているのが特
        徴である。(人骨はレプリカ)

        
         埋葬には無施設のもの、四隅に1個ずつ石を置く簡単なもの。石囲いのもの、組合せ箱
        式石棺の4種類がみられる。

        
         6体埋葬の石棺。

        
         遺骸の中には11本もの石鏃(せきぞく)や牙鏃(がぞく)が腰などに射込まれた男性人骨があ
        る。
         酸性土壌の日本では、土に触れ続けると人骨は消滅してしまうが、ここ土井ヶ浜は、海
        岸から吹き飛ばされてきた貝粉が非常に多く含まれており、貝に含まれているカルシウム
        が長い年月の間に溶解し、骨に浸透したことによって、骨を良好な状態で保存してきた。

        
         浜出祭(はまいでさい)は、7年毎に行われる田耕(たすき)神社と神宮皇后社双方の神事で、
        花神子が滝部堀切で合流して
土井ヶ浜で浜出神事が行われる。
         蒙古襲来と結び付けられた伝説があるが、民間では、厳島神社と海側の土井ケ浜にある
        蛭子社との男女2神の再会の神事であるといわれている。それぞれ生産を異にする山地と
        浜とが、定められた年に、合同で祭礼行事をすることによって、村内の繁栄と秩序を願っ
        たものではないかと考えられている。(浜出祭の祭場)

        
         元寇の碇石。(ディサービス向日葵の向い側)

        
         海の家がある地点から見る土井ヶ浜。

        
         海の中にある白い島が壁島で、「鵜」が11月下旬から翌年の3月頃まで越冬し、鵜の
        糞で白く見えるという。その奥に角島が横たわり、角島大橋が曲線を描く。

        
         海岸部に咲くハマヒルガオは、茎や枝が地面を這うように伸びる匍匐性(ほふくせい)植物。

        
         神功皇后社への道を辿ると庚申塚と御旅所の鳥居。

        
          土井ヶ浜の南外れの台地上に鎮座する神功皇后社。住吉神社を一の宮というのに対し、
         通称二の宮と呼ばれ、神功皇后を祀る。

        
         社伝によると、鎌倉中期の1288年蒙古襲来のとき異国降伏祈願のため、長府から勧
        請して社殿を建立したという。

         特殊神事として浜出祭と呼ばれる神事は、土井ヶ浜での行事であるが、浜にあった蛭子
        社が明治期に当神社に合祀されてしまったため、現在は神輿及び行列はここから出発して
        いる。

        
         神社脇の道から見る豊北の海。

             
        
         集落としてのまとまりを見せないが、広い屋敷地に蔵・長屋などを有する民家が多い。 

        
         峠手前の人家脇を抜けると海の家駐車場に出る。

        
         駐車場の最奥部の左手にある鎌倉の森は、弘安の役(1281)で蒙古軍と戦い討死した鎌倉
        方の武士を祀った祠であるという。一方の蒙古兵の骨を埋めた「鬼の松」とされる場所は
        見つけることができず。

        
         コロナ禍で影響を受けた海水浴場だが今年はどうだろうか。コバルトブルーの海と白い
        砂浜が続く風景を堪能して、往路を引き返し、バス停から矢玉に移動する。


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