ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市彦島の弟子待は佐々木巌流の弟子が待っていた地

2022年02月26日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         弟子待(でしまつ)は下関市彦島の一部で、大瀬戸と呼ばれる海岸線に位置する。
         地名の由来について、「類聚国史」に記される勅旨町(てしまつ)と読むことに由来する説
        と、口碑に宮本武蔵と佐々木小次郎が船島で決闘したとき、小次郎の弟子が待っていたこ
        とによるという説(市史)がある。(歩行約3.5㎞)  

        
         JR下関駅(11:22)からサンデンバス弟子待3丁目行き約20分、終点で下車する。バス
        は回転場で向きを変えて引き返して行く。

        
         海軍浜へは3ヶ所の進入路があったようだが、現在は彦島南公園経由の道だけとなり、
        長い階段を上がらなくてはならない。

        
         長い階段を上がればこの景色が得られる。

        
         グラウンドから見る弟子待3丁目付近の町並み。 

        
        
         日露戦争(1904-1905)が勃発する前の1902(明治35)年、ロシアバルチック艦隊が日本
        に迫ることを危惧し、関門海峡に侵攻してきた場合、これを迎え撃つため水雷基地が建設
        された。近年石組みの一部が崩落したため、2014(平成26)年に改修された。

        
         基地のすぐ傍には攘夷戦(外国人を日本から追い払う戦い)に備え、1863(文久3)年荻
        野隊と長府藩により台場が築かれ、連城砲7門が配備された。
         1864(元治元)年三条実美ら5卿が、台場を巡見するなど攘夷戦における主な台場の1
        つであったが、実戦に使用されることはなかったという。

        
         関門海峡の先に北九州市街地。

        
         赤煉瓦造のトンネルは水雷貯蔵庫とされる。

        
         3丁目バス停に戻って関門橋方向へ進む。道路の右手は昭和シェル㈱の社有地のようで、
        かっては油槽所があったと思われるが、今は太陽光パネルがずらりと並ぶ。 

        
         道路の左手は石垣が続くが、海岸線と境をなしていたようだ。

        
         家に上がる2つ目の道が龍宮神社への参道。その途中に「姫塚」があるとされるが、
        その塚なのかはっきりしない。刻字は風化して読めないが、そうであるとすれば平家にま
        つわる塚と思われる。

        
        
         さらに上がると龍宮神社。1896(明治29)年頃に創建とされたようだが、詳細は知り
        得ず。歩かれている方に神社について尋ねると、神社の存在すら知らず無縁のような口ぶ
        りだった。(個人の神社?)

        
         在来線の関門トンネルは下関から彦島に入り、弟子待から海底を潜って小森江に渡って
        いる。

        
         この付近が弟子待2丁目の町並み。(2丁目バス停)

        
         下関市の「し」の中にフグが描かれたマンホール蓋。

        
         国交省所管の下関港弟子待検潮所。

        
         岩礁の先に関門橋と門司港。 

        

        
         旧軍の施設を思わせるような塀。

        
         弟子待に駐在していた奇兵隊の福田氏が、地元の植田氏らと海面を埋め立てて貯炭場を
        開設したことが、この地の開発の一歩となったとされる。

        
         彦島八十八ヶ所霊場は、1923(大正12)年頃に彦島の真言宗寺院が呼びかけて設けら
        れたようで、ここ大師堂は19,45,83、88番札所となっている。

        
         1612(慶長17)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したとされる
        船島。敗れた小次郎の流派「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになった。
         島は旧軍の下関要塞地帯となり、島を撮影することも許されなかった。戦後に有人島と
        なったようだが、1973(昭和48)年無人島となり、現在は三菱重工業と下関市が所有し
        ている。

        
         行き交う船を見ながら弟子待2丁目バス停に戻る。 


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