ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市の前田・火の山に砲台跡

2022年03月29日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         前田は霊鷲山(りょうじゅせん)山麓に発する前田川流域に位置し、関門海峡東入口に面す
        る。 
         一方、火の山は、関門海峡東側の早鞆瀬戸に面する独立峰。海峡を扼する要害の地で、
        山名の由来は、敵の来襲を都に知らせる烽火(のろし)場があったことによる。(歩行約6㎞、
        🚻前田にはなし)

        
         JR下関駅①、②番のりばからサンデンバス小月行き約15分、前田バス停で下車する。

        
         バス停からバス進行方向へ歩くと看板が見えてくる。

        
         国指定史跡「長州藩前田台場跡」は、幕末の下関で攘夷戦(外国勢力を追い払う)におい
        て、長州藩が関門海峡沿いに構築した台場である。

        
         1863(文久3)年5月、初めて外国船に攻撃して戦果をあげたが、翌月には米仏軍の報
        復を受け、台場は壊滅的な打撃を受けた。
         しかし、台場を修復したうえ、新たな台場を構築して海峡封鎖を続行した。1864(元
          治元)
年8月、米英仏蘭の4ヶ国艦隊の攻撃をうけ、陸戦隊によって占拠・破壊された。(山
                は火の山だが煉瓦造は不詳)

        
         この敗戦によって長州藩は軍備の西洋化を進め、攘夷の方針から倒幕への道をとること
        になるが、その起点となった重要な史跡である。(碑は行啓記念碑?) 

        
         高台にあった御茶屋を移転して台場を増設し、以前からあった台場を「低台場」、増設
        された台場を「高台場」とする。その高台場に「皇太子殿下駐駕之處」の碑が立っている。

        
         高台場から低台場と前田の町並み。 

        
         すみれ保育園前から前田川筋へ向かう。

        
         路地を通って旧山陽道に出る。

        
         旧山陽道は現在の国道9号線よりも10数m高い山裾を通っていたようで、今は消滅し
        て辿ることはできない。

        
         民家を結ぶ路地を抜けると広い道に出る。

        
         西進して国民宿舎「海峡ビューしものせき」を過ごすと、正面に火の山ロープウェイ壇
        の浦駅が見えてくる。

        
         山頂まで歩いて上がる予定にしていたが、ロープウェイが運行されていたので利用する。
        (往復520円) 

        
         1887(明治20)年西日本における国防の拠点として、下関に要塞砲大隊の設置が決定
        され、下関要塞の一部として「火の山砲台」の建設が開始される。1890(明治23)年の
        完成後、太平洋戦争の終結まで、他の丘陵とともに一般人立入禁止の要塞地帯となる。

        
         第一砲台はロープウェイ駅の設置により消滅。第二砲台の観測所指令室は、ロープウェ
        イ駅から遊歩道に沿うと、火の山展望台の直下にある。 

        
         観測所があった所に展望台が置かれ、関門海峡を一望することができる。

        
         展望台からコンクリートの一部に丸い穴が見える。

        
         第3号砲側庫(弾薬庫)の入口に「第三號」の文字が見える。

        
         入口はモルタル仕上げとなっているが、構造は煉瓦造である。展望台から見た2つの穴
        はこの砲側庫だった。 

        
         砲側庫よりも高い位置にテレビ中継局が建っているが、ここに「2番砲座」があったと
        される。その一角にコンクリートの構造物があるが正体不明である。

        
         テレビ中継局の入口に煉瓦積みと石が置かれているが、これも遺構のようである。 

        
         砲側庫は半地下式の構造になっているが、戦後の公園化事業により、当時の状況がどの
        ようであったかはわからない。

        
         次の第3砲台の砲側庫は柵もなく、スロープが設置されて中に入ることができる。

        
         砲側庫が3つ並び、内部は休憩所になっている。 

        
         煉瓦とコンクリート、石で築造されており、24センチカノン砲の弾薬が納められてい
        た。

        
         第4砲台は地下棲息掩蔽(ちかせいそくえんぺい)部や砲座、堡塁等が当時の姿で残されてい
        る。

        
         
        
         石段を上がると正面に観測所と司令室。

        
         司令室手前の左側には地下棲息掩蔽部へ通じるトンネル。 

        
         棲息掩蔽部は5つの兵員室と、それを挟む形で両側に砲側庫が置かれている。

        
         石段があって棲息掩蔽部に下りることができる。

        
        
         棲息掩蔽部(兵員室)は煉瓦とコンクリート石でアーチ状に築かれ、南北に長い部屋の造
        りで、双方に出入口が設けてある。

        
        
         内部にはカマドや貯水式井戸などがあって、ここで身を潜め食事や休息をとっていたも
        のと思われる。

        
         南側の棲息掩蔽部(兵員室)出入口。左の開口部は砲座に上がる階段。

        
         司令室の上に観測所。

        
         円形の中央部にある円柱は、敵艦を観測する測遠機が置かれていた台座である。

        
         2つの砲座に挟まれた中央に観測所と司令室があり、観測所で敵艦の距離や方向を測り、
        測量結果を指令室に伝え、指令室から両脇の砲座に指示がなされていた。

        
         28㎝榴弾(りゅうだん)砲の砲座。

        
         第4砲台入口まで戻って、外側の堡塁に沿って反時計回りで歩いてみると、堡塁の形が
        しっかりと残っている。(歩いて見返る)

        
         9号砲側庫の南側に大砲を据え付けた砲座があって、ここには小型砲の弾薬などが保管
        されていた。

        
         子供の遊具がある北東側に第10と11の砲側庫があり、第9号と同サイズのように思
        われる。

        
         砲側庫の奥に砲座跡があるが、説明によると明治時代に築かれた火の山砲台は、大正期
        を迎え国の防衛に対する方針転換からその役目を終える。
         昭和期に入ると、新たに上空に向けた防衛の役割が重要となり、高射砲陣地が配置され
        る。中央にある多角形のコンクリート基礎が砲座跡とされる。

        
         岩盤の上に石組みと煉瓦で壁を作り、防御壁としていた堡塁の壁のようだ。

        
         ロープウェイのおかげで時間的な短縮と疲労が軽減できた。 

        
         みもすそ川までの遊歩道を下る。

        
         みもすそ川公園は源平合戦最後の戦いとなった壇ノ浦に面しているため、平家にまつわ
        る碑などが設置されている。

        
        
         早めにみもすそ川バス停に下ったため、1958(昭和33)年に開通した関門トンネル人
        道を県境まで歩いて引き返す。

        
         みもすも川バス停からJR下関駅に戻る。


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