(聖書箇所:マタイ16:21-28)
[ その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。](21節)
キリストの生涯が十字架の苦難と栄光の復活に集約されてありますように、主に従っていく弟子たちの生涯も同じであります。ですから、最初から弟子たちに対して「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」とはっきりと語りました。
それなのに、「私も弟子になって主について行きます。」と言いながらも、十字架の苦難なしの栄光だけを求める姿ではありませんか。
(第2テモテ2:9-10 -- 私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。)
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