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第360回 商売人武将の話

2020-03-06 | エッセイ

 以前、「司馬遼太郎の目配り」(第344回)と題して、司馬遼太郎の「歴史のなかの邂逅」シリーズ(中公文庫 全8巻)から、無名の人物二人を紹介しました。

 今回は、第2巻の「堺をめぐって」の章から「小西行長」を取り上げようと思います。
 秀吉のもとで、「朝鮮ノ役」を指揮した武将だったかなぁ、という程度の知識です。が、同書のエッセイを読んで、その数奇な一生に魅かれると同時に、そこそこ名が知られている割に、不人気な背景を知りました。こんな絵が残っています。

 元々は、堺の豪商の二代目です。その彼が、大名、武将として取り立てられるのには、当時の時代背景が大きく関係しています。

 室町時代頃から、中国(当時は「明」王朝)の揚子江以南の地で、にわかに、南海方面を中心とした国際規模での商業活動が活発になりました。優秀な航海技術を持ったアラビア人に負うところが大きかったのですが、港々は殷賑を極め、日本もそのうねりに飲み込まれます。
 折しも、信長、秀吉という進取の気性に富み、海外との交易も含めた商業活動の意義を十分に理解し、推進した政権が続きました。

 特に秀吉の時代になって、堺や博多が貿易港として格別の繁栄と存在感を誇る一方、日本からの産品と交換に中国から入ってくる大量の銅銭(明銭)が、我が国に貨幣経済をもたらしました。

 その堺で、薬商を営んでいたのが、行長の父の小西隆佐(りゅうさ)です。秀吉政権が安定してくる中、貨幣経済の担い手として、また、豊臣家の財務担当として、登用されたのが隆佐です。交易が生み出す利権、利益などで、政権の財政基盤を支えてきました。

 そんな功績が認められたのでしょう。秀吉は、息子の行長を、異常な出世で、大名、武将に取り立てます。家業は薬屋ですから、取引の相手国は朝鮮です。日本から何を持っていったかは分かりませんが、朝鮮からは、朝鮮人参や薬草の類いを輸入していました。

 行長の若い頃の事蹟はよく分かっていませんが、買い付けで、しばしば朝鮮へ行っていたようです。朝鮮の地理にも明るく、言葉も堪能だったと言われています。

 そんな経験が、行長の運命を大きく変えることになります、
 冒頭で触れました「朝鮮ノ役」です。ーー朝鮮を道案内役に、明王朝を征服して東アジアの大将になるーーという老境に入った秀吉の「誇大妄想的な、これはもう精神病理学の対象になる反応」(同書から)が引き起こした征服戦争です。

 かの加藤清正とともに、行長は最重要である先鋒大将に選ばれました。加藤清正は根っからの武人ですから、順当な人事です。事実、彼は、はるか満州国境近くまで猛進しています。
 一方の行長は、一介の薬商人です。(たぶん)朝鮮通だからというだけで選ばれて、取引先との戦争の指揮を執るなんて、悪夢でしかありません。こんな馬鹿げた戦争はないと心底から思ったはずです。当時。彼の父親は存命でしたが、私が父親だったら「命令やからしゃぁないけど、むこうではほどほどにやっときや」と声を掛けてますね。

 清正は、途中から割り込んできた行長を徹底的に嫌っていました。「どんな旗印で戦うのか」と嫌みたっぷりに行長に訊きます。薬屋だから、薬袋でも使うかな、と行長は答えたといいます。こんなところにも、武人である前に商人であるという彼の自負、反骨精神を見る思いがします。

 そんな武将のもとで、兵士のモチベーションも上がりません。行長軍は現在の平壌(ピョンヤン)辺りまで攻め入りましたが、清正の半分ほどの行程です。清正が、虎退治のエピソードまで生み出して、戦国武将的な勇猛果敢さが讃えられる一方、行長は、人気がなく、評価されないのには、こんな背景があったんですね。

 それに対して司馬は書いています。
「西洋でなら、むしろ行長の方が評価されるかも知れませんよ。清正は勇敢で興味ある人間である。しかしただそれだけではないか。(中略)しかし日本という孤島にいて世界性に目覚めていた人間というのは少ないんだから、この点で行長をもっと愛情を持って見てやろう、と」(同書から)私も同感です。朝鮮に甚大な戦禍をもたらしたという事実は変えようもないのですが。
 
 さて、その後の行長ですが、関ヶ原の時も、実にダメな武将として登場します。大軍を擁しながら十分に働かせることが出来ず、西軍敗北の原因の一つになりました。そして、逃げて、捕らえられ、最後は斬首(クリスチャンでしたので、切腹(自殺)は出来ませんでしたから)されて、一生を終えます。「ワイは根っからの商売人や。武将なんかに向いてない」そんな心の叫びが聞こえてきそうです。

 「お百姓の感覚で一生を生きた人」(同書から)家康が、閉鎖社会、閉鎖経済を作り上げていったのは、歴史の趨勢だったのか、皮肉だったのか・・・いろんな想念が浮かびます。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。


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