A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記207 「引込線」

2008-10-20 23:58:47 | 書物
タイトル:所沢ビエンナーレ・プレ美術展2008 カタログ
編集:椎名節、坂上しのぶ、保谷香織
撮影:山本糾(表紙、見返、会場・出品作品)
デザイン:大石一義
制作:大石デザイン事務所
発行:所沢ビエンナーレ実行委員会
発行日:2008年10月1日
金額:2000円
内容:
埼玉・所沢の西武鉄道旧所沢車両工場において開催された<所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線>(2008年8月27日-9月12日)の展覧会カタログ。カタログは会期終了後の発行となる。

ごあいさつ
作品リスト
伊藤誠
「日本現代美術覚書’91」青木正弘
遠藤利克
「捩じれの行くえ」天野一夫
大友洋司
「80年代考-80年代ニューウェーヴをめぐって」坂上しのぶ
岡安真成
「捻転する彫刻-「芸術と客体性」から、ブルース・ナウマンを読む」沢山遼
木村幸恵
「1965年夏:前衛の花火 「アンデパンダン・アート・フェスティバル」が問うアノニマス性」高橋綾子
窪田美樹
「洞窟の思想と1970年代-中西夏之から戸谷成雄、遠藤利克への架橋の試み-」谷新
高見澤文雄
「「問い」としての「アフリカ」」千葉成夫
建畠朔弥
「置換」拝戸雅彦
多和圭三
「美術館員のひとりごと」原田光
手塚愛子
「美術と場所」真武真喜子
戸谷成雄
「三木富雄論 序章-「表現」の切断-」峯村敏明
中山正樹
「桑山忠明と伝統」本江邦夫
増山士郎
「「網膜」は存在しない」守田均
水谷一
「「描くこと」について」山本さつき
山下香里
「「横たわる人体」としての《正午》-アンソニー・カロの「身振り」をめぐって-」渡部葉子
山本糾
シンポジウム
音楽パフォーマンス
ワークショップ
展示ガイドツアー
公開制作
(本書目次より)

各作家、略歴、テキスト収録

予約日:8月31日
購入店:西武鉄道旧所沢車両工場
購入理由:
戸谷成雄、遠藤利克、中山正樹ら作家が中心となり、企画・運営を行なう<所沢ビエンナーレ>のプレ美術展「引込線」の展覧会カタログ。
内容を見ていただければ分かるように、通常の展覧会カタログとはその性格を異にする。なぜなら、出品作家の作品図版、経歴、コメントの掲載は当然として、美術評論家、研究者、ジャーナリスト、学芸員らによるテキストが展覧会内容とはまったく接点をもたず自立したかたちで収録されているのだ。このような形式の展覧会カタログは初めて見た。その理由として「本書は、カタログ機能と批評誌の機能を合わせもったもの」とし、美術家にとっての作品記録集、著述家にとっての作品発表の現場として機能するカタログというのが本書成立の趣旨なのだという。つまり、著述家もまた作家であり、その発表場所がギャラリーではなく、カタログという本であるという違いだということだ。この試みは、美術研究・批評において、とても勇気ある試みだと評価したい。もちろんそのような文章などいらないという意見もあるだろうし、作品本位に考えるならば、出品作家及び作家について(あまり)言及がないのは、資料として物足りない気もする。だが、批評におけるテキストとカタログの関係とは何だろうか。とくに現代美術において展覧会カタログでは解説文のようなものが多く、洋楽CDアルバムに付属するライナーノーツのように当たり障りのない文章さえ散見される。それならば、各著述家が書きたいテーマを自由に書けばよいではないか。そのような「批評」への引込線としての機能も付随させたこの展覧会は、現在開催されている「批評」なきトリエンナーレとは対極にある展覧会だろう。

 「批評」はそれとして、では肝心の作品はどうだったのかと言えば、こちらもまたノンテーマであり、作りたいものを作り展示するという構成である。車両工場という極めて特殊な場を得ながら、ノンテーマゆえにやや散漫な印象を受けてしまうのは否めない。とくに絵画作品は展示環境が悪く、分が悪い。しかし、特殊な「場」であることの特性は「場」が空間を助けるという点であろう。私はシンポジウムがあった日に鑑賞したのだが、シンポジウム前の昼間と終了後の夕方と2回見た。夕方に見た際、突如振り出した夕立がこの空間を一変させたのだ。会場の所々からは雨漏りがし、作品周辺の一部に水溜りができたのだ。通常ではありえないことだが、水溜りと強く打ち付ける雨音、どんよりと暗い工場内に灯される光、外から吹き込む雨風が、工場内の空間を劇的にしてしまった。作家にとっては迷惑でしかないと思うが、水谷一、木村幸恵の作品は昼間より見たときよりもすばらしかった。時間を別とすれば、多和圭三「景色-境界-」(2008)は今展中最も印象深い作品であった。この「景色」こそ、この「場」とともに記憶し続けることになるだろう作品となった。テーマがあるなしに関わらず、結局は作品にすべてがかかっているということだろう。

 「書籍」としての問題点もまたテーマに関わる。作品ならば、その展示される「場」に合わせた作品の制作・展示ということができるが、テキストの場合、そうはいかない。なぜ、この展覧会にこの文章なのかという理由がわからないのだ。もっとも知らなくてもかまわないのだろうが、個々のテキストの主題も多岐に渡っており、魅力的ながらもその多様さゆえに読みにくい。これだけの豪華な執筆陣だからこそ、もう少し「編集」してもよかったのではないだろうか。