オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

そして太郎がそこにいる。

2017年03月07日 23時35分18秒 | 伊豆の歴史


3ヵ月半ぶりに連休をもらったので、久しぶりに伊豆に帰ってきました。
やれやれだぜ。もっと頻繁に伊豆に行きたいのにな。

前回(11/16~17)の行き先は西伊豆・松崎だったので(※この日記には記事を書いてない)、今回は東の方です。朝7時に家を出て、新東名を使って三島・長泉で降り、まず最初に向かったのは箱根と小田原です。(わたくしの勝手な定義では箱根は伊豆の一部です)

まず向かったのは、箱根と小田原の境目辺りにある「秋葉山量覚院」。



ほら、あんなところに立派な天狗様が!



このお寺に行きたいと思ったのは、2014年に田村貞雄氏の『秋葉信仰の新研究』(岩田書院)という素晴らしい御本を買ったから。「小田原の量覚院には秋葉の火祭りの最も古い形が保存されている」と書かれている。

秋葉山三尺坊を調べるのに欠かせない本に、雄山閣出版の民衆宗教叢書31巻『秋葉信仰』(1998)がありましてこれはいろんな人が秋葉を語った論文をまとめてあって図書館で読むととても便利な広範な本なのですが、現在は絶版で古本価格は非常に高価でとても私には買えない。
その監修者である田村氏が15年を経て新たな研究成果を示してくださったのが本書。田村氏は昭和12年生まれ(80歳)だそうで、ネット上で読める文章を見るととても偏屈な方のような印象を受けるのですが、一方でとても公平な方で、氏の論文のほとんどはネット上で公開されている。『秋葉信仰の新研究』の文章のほとんどもネット上で読める。(と思ったら小田原の量覚院の火祭りに関する当該の記述を簡単に見つけることができなくなっていますが)、でもこの本は秋葉山天狗の愛好家は是非とも買っておく本だと思います。
とりわけ私は、江戸時代後期の秋里籬嶌による人気図書『東海道名所図絵』(寛政9年)とそれに次ぐ藤長庚の『遠江古蹟圖繪』(享和3年)に「秋葉権現は小国神社の祭神と同じ(=オオナムチ=大國主命)」と書いてあって単純に「へぇ~そうなんだぁ~」と思っていたのが、田村氏が明快に「そんなわけあるか、秋葉山大権現は秋葉山大権現だ」と論証していたのにとても衝撃を受けた。内山真龍の『遠江風土記伝』(寛政元年)の意味の分からない「秋葉権現=岐気保神」説にも明快な解答をくださってる。

「秋葉山三尺坊というぐらいだから秋葉山にいるんだろう」と安易に思うことが出来ないのがこの問題の大変な所でございまして、端的に言えば遠州秋葉山山頂の秋葉神社には現在は秋葉山三尺坊はいない。公式には明治に袋井市の可睡斎に三尺坊が移ったことになっているが、古くは寛保3年(1743年)に越後の楡原蔵王堂との間に「秋葉山三尺坊は越後の天狗か? 遠江の天狗か?」を裁判で争った「天狗問答」があり、(この時は寺社奉行・山名因幡守豊郷により「遠州は三尺坊の根元越後は三尺坊の根本、そして江戸は三尺の太さの大根足」という「三尺一方損」の判決が下されました。これはこのころ大岡越前も寺社奉行のひとりだったので、彼の入れ知恵があったと思われます)、逆にそれに先立つ元文5年(1740年)にも越後系の系譜を引く江戸の瑞雲寺が勝手に秋葉山三尺坊を売り出したことに、遠江側が訴えを出したことが大岡越前の日記に書かれているそうです。
「三尺坊の出生地」も3説があるそうです。(北信濃の木島平/戸隠山の宿坊岸本/伊那郡箕輪町松島)
徳川家康がやってくる以前は天野氏が秋葉山の神事をつかさどっていたものだと思われ、その「原・秋葉信仰」がどういうものだったかはよく分かっていないのですが、天野氏を家康の元に帰参させることに功のあった武蔵国出身の修験者・茂林光播(叶坊)が永禄12年(1569年)に家康によって秋葉山の別当に任じられ、翌年(元亀元年)に家康の使者として赴いた越後国から飯綱信仰を持ち帰ってきて、秋葉山の三尺坊と組み合わせます。家康は叶坊に「秋葉山のことは天野宮内右衛門尉(景貫)とよく相談してうまく運営するように」という命令をするのですけど、元亀3年には早くも天野景貫(藤秀)は家康に対して反逆の動きを見せ始め、叶坊光播も天正7年に亡くなってしまったので、秋葉山の運営は袋井可睡斎の影響の下におこなられることになります。(これが明治になって三尺坊が可睡斎の物になってしまった根拠)。
天正7年(1579年)に徳川による最後の犬居攻略戦が行われ、天野景貫は武田領に退去します。攻防の年間にずっと徳川方の司令官であった大久保忠世が二俣城の城主となり、犬居領もその支配下に組み込まれます。天野景貫(藤秀)は逃げる時に秋葉信仰の大事な何かを一緒に持ち去っていたようで、長い間武田の人質として甲斐にいた景貫の次男・天野小四郎(天野小四郎は天野景貫本人だという説もある)、穴山梅雪支配下の駿河国清水湊に新しい秋葉権現社(峰本院)を作ります。ここには遠州秋葉山では失われてしまった何かが今でも受け継がれているようだ。
一方で、秋葉山を支配するようになった大久保忠世も秋葉山にまだ残っていた何かを接収したようで、天正18年(1590年)に豊臣秀吉によって関東国替えがあったとき、小田原城主に任じられた忠世は三尺坊を小田原に持っていくことに決め、配下の一月坊という人物を使って箱根と小田原の境目に秋葉山量覚院を作る。この量覚院に、天正の頃の最も古い秋葉の火祭りの形が残ってるんだと。(小田原の秋葉山は遠州の秋葉山には無い「白山の泰澄伝説」を伝えている)
要は、現在は遠州の秋葉山は秋葉神社と秋葉寺に分かれてしまっているから、12月の15日と16日におこなわれる《火祭り》では両者全然違う火祭り(秋葉神社では《剣舞》、秋葉寺では《火渡り》)をおこなってるんですけど、小田原の量覚院では両者を組み合わせた独特な儀式をおこなってるんですって。

ユウチューブより動画。


ただ、小田原の火祭りは12月15日ではなくて、12月6日におこなわれるという。
どちらにせよ今は3月なので今来たって何も見るものは無いのでいけど、いいもん。



小田原のこのあたりの1号線以外の道路を走るのは初めてなのですけど、凄いな。道路が狭い! 車2台がすれ違うのも難しい道路に、みなさんどんどん突っ込んでくる。地図を見ながらだとすぐそこにあるのに、入り組んだ住宅地のせいでどうやって行くのかわかんない。とても苦労して、お寺の前まで来ました。
最初社務所かと思った小さな建物が、量覚院の本体なんですって。同じ敷地の高い所には秋葉山神社があり、また隣接して「クレヨンの森保育園」がある。同じ敷地なので「量覚院が経営している保育園?」と思ったのですけど、保育園には宗教的なにおいはほとんどない。(しかし量覚院の目の前まで子供たちの遊ぶ領域が広がっています) 小さい頃からあんな立派な天狗面を目にして育ったら、天狗教育的には素晴らしいだろうな。



秋葉山神社と並んで「聖天尊堂」もあります。左側の白い建物が秋葉山神社なのですが、「大徳山」と書いてある。
住宅街の中にあるのに静寂ですね。
火祭りは保育園前の広場でおこなうのかしらね。
すぐ近くに「大久保一族墓地」というのと「大久保神社」っていうのがあるんですけど、大久保氏を祀っているんですかね。すごく好きな小説に宮本昌孝の『家康、死す』というのがあって、その小説では大久保一族が影の黒幕として書かれてあってとても怖いのですけど、宮城谷昌光の『新三河物語』では大久保一族(の大久保彦左衛門)が主役なんですよね。そういえばわたくし、『新三河物語』、最後まで読んでないや。(中巻がどこかへいってしまったから)




続いて向かいましたのは大雄山です。



足柄の道了尊には10年前に一度行ったことがありますね。

10年前の私がどうして小田原の北の方に行ったのか、そのきっかけをまったく覚えてないのですけど、その頃の私はまだ伊豆に住んでいました。伊豆の各地の伝説に多大な興味を示してはいましたが、決して天狗は私にとって特別な存在ではありませんでしたよね。そもそも伊豆には天狗は比較的少ないのです。この少し前に三井寺に行って天狗杉を見たのですけど、2007年12月に最乗寺に行ってそこで道了尊の伝説を学んだとき、あの杉こそが道了尊が飛び立ったという伝説の記念の松だったということを聞いて、「そうだったか、そういえばその杉見たぞ、写真に撮っておけば良かった」と思った記憶がある。そもそもその直前に三井寺に行ったのは、源頼政と円珍を見に行きたかったからで、三井寺にしんしんと雪が降っていたのは記憶にあるけど、オカルト的なことは賴豪・鉄鼠の伝説に涙を流した記憶しか無いんですよね。でもしかし、最乗寺の御真殿の中にあった2体の巨大天狗像(@禁写真撮影)のことはとても印象に残ってますので、もしかしたら10年前のこの最乗寺行が現在の私の天狗狂の契機なのかもしれませんね。(全然よく覚えてないが)



結界門。結界されている。
この日は小雨が降って霧が立ちこめており、とても夢幻な雰囲気でした。
(でも参拝者はなかなかいた)

簡単にまとめます。
このお寺の開創は室町時代の応永元年(1394年)。
開山は了庵慧明といって、相模国の古豪・糟谷氏の出身で建長寺(鎌倉)→総持寺(能登)→永沢寺(丹後)→総寧寺(近江)→龍泉寺(越前)→総持寺(能登)と修行を重ねましたが、58歳の時(応永元年)に故郷に帰ってきて、上曽我の竺土寺に住み始めます。ある日、袈裟を洗濯して外に干しておいたところ、大鷲が舞い降りて袈裟を攫い飛んで行ってしまいます。「このやろう」と和尚がかんかんになって鷲を追いかけていくと、鷲はある老松の梢にその袈裟を掛けて、どこかに飛んで行ってしまった。禅師がほっとしてあたりを見回すと、その山(明神ヶ岳)は岩々が峨々として景色が非常に素晴らしく、まるでもろこしの大雄山に似ているようだと老師は思ったので、ここに新しい自分のお寺を建てることに決めたのでした。すると、大山明神と飯沢明神(南足柄神社)、矢倉明神(足柄神社)が眼の前に現れて造営を手伝いはじめ、さらに遠く近江の国の三井寺でそれなりの地位にあった妙覚道了という人が実は若いころ慧明禅師にかなりの恩を受けていたそうで、大雄山の開山を聞いてぜひ役に立ちたいと思い、「とうっ」と言って突如天狗の姿となり、三井寺から飛び立って東の方へ行ってしまったという。相模の人たちはどこかからやってきた妙覚道了が三井寺の偉い坊様だなんて知らなかったから、「やけに力持ちの坊さんが来たな」ぐらいにしか思っていなかったし実際に小坊主の如く慧明禅師の脇に付き従っていたが、見事お寺が建って17年後に慧明禅師が示寂すると、道了尊者は「これにて我と師の縁は果てた。以後は我は明神ヶ岳の頂から護山として寺を守護しよう」と叫んで、天狗の姿になって飛んでいってしまう。
(このとき道了は翼を生やしてばっさばっさと飛んでいったのだが、260年後に道了尊は見事羽を落として羽無しで飛べるようになったという伝説があるのだ、と、全国の山とまつわる各種伝説の生き字引であるとよだ時さんに教えていただいたのですよね)

現在はこのお寺は山名よりも天狗の名前を愛称として呼ばれることが多いのですけど、実はお寺の中で一番のパワースポットは、天狗のおわす奥の神域じゃなくて、突然現れたイタズラ好きの大鷲が坊主の袈裟をひっつかんで吊したという“袈裟懸けの松”なのです。この鷲は特に天狗だとは語られてはいない。(松は寺の入り口にあたる仁王門と山門の間にある。)
が、よくよく本を読んでみますと、「恩ある師がお寺を建てていると聞いて「自分も手伝おう」と思って天狗に化って飛び立った」道了が三井寺からいなくなったのは、三井寺にある記録によると(あるんですね記録が)、明徳4年(1393年)の9月17日なのです。まだこの時は和尚の麗しい袈裟は鷲にさらわれてはいず、それがおこるのは半年後です。つまり、和尚の大事な袈裟を盗もうとしたバチあたりな屎鳶が、道了尊その人だったという可能性が無い訳がないわけでもなくはない。















とにかく大雄山は全体に天狗気配が充満に溢れていて、羨ましくなるほど。
われらが浜松市だって天狗都市なのですけど、春野町ですらとてもとてもこのレベルには無い。
鞍馬山だってここほどではないです。
大雄山駅前はそれほど天狗的未来都市風ではなかったですから、このお寺一つで全ての雰囲気を決定しているんでしょうね。凄いです足柄町。
まだ行ったことが無い東京の高尾山はこれ以上だと聞きます。早く行ってみねばな。

さて、今回どうして10年ぶりに大雄山を訪れてみたのか。
それは、10年前に来たとき、門前に「大雄山名物 天狗そば」って書いてある土産物やさんがあって、でもスルーして帰ってきてしまったから。天狗そば。未来に生きようとする天狗人としては、ぜひとも食べとかねばならないものでした。



大雄山最乗寺の門前には3軒の土産物屋があってそこそこの存在感を放っているのですけど、実は最乗寺の駐車場はここを過ぎて遥か上の方に広いのがあるので、参拝客でも土産物屋の前を歩いて通っていく人は少ないんじゃないでしょうか。実際に人通りは少ないし(平日だから)、3軒もあって大丈夫かと、余計なお世話ながら心配になってしまいました。



で、目当ての「天狗そば」のお店に向かおうとしたのだけれど、そうじゃない2軒のお店のおばちゃんの客引きがすごい。(天狗そばの人は全くよびこみをせず、私が近づいて行っても全く無反応だった)。人の良い私は向こう側の2軒の方を素通りすることがついついできず、看板に「天狗せんべい」と書いてあるのを見て、「この3軒の天狗煎餅ってそれぞれ違うんですか?」と聞いたら、「もちろんぜんぶ違う」「作っているお店が違う」とのこと。南足柄市にはいくつかの天狗煎餅メーカーがあるそうです。

  ★「山城屋」・・・南足柄市狩野99
  ★「村上商店」・・・南足柄市大雄町1089
  ★「松尾屋菓子舗」・・・南足柄市飯沢5

村上商店というのが、ここに来るとき山道に入る手前にあったお店ですね。(数年前に火事になったという。天狗を強く信仰すると火事の試練を受けるのは、天狗信仰の宿命)
話を聞いていたら、それぞれのお店でこれでもか!というくらい煎餅(とお茶と漬け物)を試食させてくれるので、おもしろく思って、全種類買って帰ることにしました。
・・・と思ったけど、それぞれのメーカーごとに味の種類が多くて、(けっこうたくさん買ったんだけど)全種類制覇して買って帰ることはムリでした(笑)
あれから2週間、家で毎日ポリポリせんべいかじっているけど、まだなくならない(笑)


これは「山城屋」さん。たしか「ピーナッツ」と「みそ」50枚詰め合わせ、1100円ぐらいだったと思う(もう覚えてない)。
どの味も美味しいのです。



それに入ってなかった山城屋さんの「ごま味」(試食でめちゃくちゃ美味しかったのです)、松尾屋総本店さんのものから5種類ぐらいあったもののうち、山城屋さんのものとはかぶらない「バター味」と「しょうが味」を。一袋350円ぐらいだったかな。しょうが味はとりわけ酒のつまみに良い。
村上商店さんのものは味が「ノーマル」一種類しかなかった気がしますな。(自信は無い)



村上商店さんの箱には、「本品は道了尊のお告げより當山の金剛水を用い、本舗独特の方法を以て精製せしむものなれば、香気風味共に良ろしく、衛生的の銘菓に付多少に不拘御用命被成下度奉願候」という説明文が、「大雄山御用達」の文字と共に書かれています。
一方で、山城屋さんの方は「関東の名刹、曹洞宗大雄山最乗寺の守護の神である天狗様は、八ッ手の葉うちわを持って人の七難八厄を除き幸福を授けられたと言い伝えられております。此のせんべいはその縁起ものの「天狗の葉うちわ」にちなんで弊店独特の原料と製法に依って風味豊かに焼き上げました。御参拝の御土産に御贈答に一層お引立の程お願い申し上げます」と、ひかえめ。





ぜんぶ同じ形なんですけど、やはり味と歯触りはそれぞれ違って、どれも美味しい。
天狗みやげに天狗せんべいって、なかなかいいな。
あまり堅くしてない、お酒に良く合う(こればっかだな)。
静岡は「天狗まんじゅう」だらけですけど、マネすべきですよな、と思いました。
わたくし気の弱いおっさんなもので客引きのつよい土産物屋さんって苦手なんですけど(得意な人がいようはずもない)、それぞれのお店のおばちゃんたちと会話するのはとても面白かった。「浜松も天狗の町だから天狗見物に来た」と言ったら「天狗の町なんてあるの?」と聞かれ、「秋葉山っていうのがあるんですよ」と言ったら、知らないって言われた。お話に出てきたのは高尾山と永平寺と総持寺でした。でも何かで秋葉山を検索してくれて「この(春野の)天狗の巨大面は何かで見たことある」ですって。結局一番やかましく声を掛けてくれたおばちゃんの店が一番楽しく、「おでん食べていきなよ」と言われて、「次に天狗そばを食べる計画じゃなかったらこのおばちゃんの店で食べるのになあ」と残念に思いました。

で、向かいの店に移って「天狗そば」です。
こっちは向かいの2軒とくらべて全然客引きしてこない(笑)
(調べてみたら「伊豆箱根鉄道」が経営するお店みたいですね。なるほど)







天狗そば、740円。
ここの天狗そばはキノコがたっぷり入れられたそばです。
おもてに「天狗ジェラート」の看板もあったんですけど、写真に撮ってくるの忘れました。おそらく天狗せんべいが1枚乗せられたアイス。

おそばは濃くて甘めのおつゆでとてもおいしいです。きのこはうまいな。
また、ここでもサービスで試食の漬け物が6種類ぐらい出されたので笑いました。ここはどこもかしこもサービスが凄い。もちろん全部ぺろりと食べました。中に「天狗ひょうたん」というのがあったので、折角なので購入。



いくらだったか失念。
買おうとしたら説明されたのが、実は赤いのと白いのがあって、紅白でめでたいので正月なんぞには両方買っていくのが地元の習いなんだとか。とは言われても、わたし個人には愛でたいことなど最近ちっともないので、(試食で食べた)赤いのだけを買って帰りました。
パッケージの天狗様がめちゃ凜々しいですね。



天狗のひょうたん。
なんで天狗で瓢箪なのかというと、天狗と言えば瓢箪だから瓢箪なのです。「天狗の葉団扇」「天狗の隠れ蓑」「天狗の遠眼鏡」「天狗の高下駄」「天狗の幸運の財布」「天狗の瓢箪」「天狗の黄金の箸とランチョンマット」「天狗のどこでもドア」「天狗の洒落鬘」「天狗の鷹(実は鮫)の爪」のことを一般に“天狗の七つ道具”と呼びます。全国で「天狗のひょうたん」の昔話はいろいろなバリエーションがありますが、大体はお酒に絡んだ童話です。天狗はタバコは絶対にやらないが、お酒は大好き。女と賭け事も絶対断忌ですよ。煙草は不浄で、火の禁忌に触れるぞよ。酒はいわゆる般若湯なので、むしろ推奨されます。



「しいの食品」(小田原市成田939)さん。(エヴァンゲリオン商品をたくさん出している真面目なステキ企業)
ひょうたんは食用のベトナム産ひょうたんだそうで、なんでこれがひょうたんなのかっていうくらい美味しい。この見た目で柴漬けで、完全に柴漬けの味なんですよね。白ひょうたんは何味だったんだろうか。結局、3店舗で、せんべい以外に結構な量の漬け物類も買っちゃいました。わたくしはいいお客さんなのですよ。




ついでに、「山道を来る途中にも天狗のお土産やさんがあったなあ」と思いだし、車で仁王門まで下だる。
「大雄山 茶屋 天んぐ」さん。

てっきりお土産物やさんだと思って入ったのですけど、「お召し上がりですか?」と聞かれ、「いえ、おみやげを見せてください」と言ったら、「では試食品を用意しますので、ちょっとまっててくださいね」と言われる。店内はかなりオシャレ空間で、外からは分からなかったがお客さんもけっこういる。なんと、喫茶店の方がメインのお店でしたか。ていうか、メニューは御膳物があったりして、お食事処でしたか。(でも、お菓子類も結構ある)

で、「試食」と言って出されたのがこんなの。



(この写真はディスプレイ用のサンプルですけどね)
なんで試食がこんなに豪華なのだ。どこでもここでも試食を豪勢に出しおって。少しでも食べたら買わなくちゃ申し訳ないと思う私みたいな気の弱い人間を狙い撃ちする作戦なんでしょうなぁ。でもしかし、ここの餅はめちゃくちゃ美味い。とりわけ(天狗の名の付いていない)「御焼」が気に入ってしまったので、ここでも全部買うことに決めました(笑)。
いろいろ自由に組み合わせて買えるのだそうですけど、「下駄まんじゅう」(6個)、「道了餅」(2個)、「御焼」(3個)、「天狗伝」(4個)入りのが「彩りセット」といって1430円だそうなので、「これください」と言ったら、「おつかいものですか?」と問われ、「いえ全部自分で食べるんです」と言ったら「この1430円には箱代が含まれるので、個包みにして箱代は引いときますね」と言われた。そうでしたかここはお使い物のお店でしたか。で、ついでに「どうして“下駄まんじゅう”っていう名前なんですか?(下駄にまつわるエピソードが何かあるんですか?)」と訊いたら、「天狗といえば下駄だからですよ」という主旨のお言葉をいただきました。素敵!



これ、どれもウマイ!
ただ、御焼の賞味期限は翌日で、道了餅は翌々日です。(実はこの日記を書いているのは2週間後で、食べずに放っておいた道了餅の袋がガスでパンパンになってしまってて(←写真のは爪楊枝で袋の後ろに孔を開けてガスを抜いたところ)、食べようかどうしようか迷ってる(笑)。まあ、賞味期限なんて飾りだから食べるけどね)。写真を早く撮ってさっさと食べておけばよかった。
メニューには「天んぐ御膳」(1500円)と「天んぐ御膳コース」(2000円)というのがあって、天んぐ御膳は「栗おこわ、茶碗蒸し、野菜ともち豚のしゃぶしゃぶ、俵形のお赤飯、凝ったお汁物」などのセットで、とても美味しそうだったんですけど、この時間に豚のしゃぶしゃぶなんて食えそうになかったので(さっきそばを食べたばかりだから)泣く泣く諦めました。この御膳の中の天狗成分は「栗おこわ」なのかな。天狗は豚のじゃぶしゃぶなんて食べるのかな。イラストには「さしみゆば」の絵も添えてあったのですけど、これは別注文メニュなのでしょうかな(じゅるりん)。
店内には民芸調の雑貨が空間を贅沢に使って飾り付けられてあって、天狗マニアをとことん満足させることにこだわりを持った素敵カフェだと思いました。
足柄道了尊、バンザイ!





さて、御真殿の横のお札売り場で購入した『大雄山誌論考』(2010年、2000円)に、知切光歳師の『圖聚天狗列伝』(1977年)にも書かれていなかったさまざまな道了尊についてのエピソードが豊富だったので、わたくしの交々の疑問と共に列挙していきますね。

知切師は「道了尊はけっして新参の天狗ではなく(黒眷属金比羅坊や象頭山金剛坊などよりも古い)、知名度も戦国時代には関東一円に鳴り響いていたはずなのに、天狗経の四十八狗の中に名が無いのはおかしい」と憤慨しておられるのですが、一般に著名な天狗が“大天狗”として“列聖”されるのは、(例外もありますが)知名に加えて「その人の取り次ぎによって引き起こされた2つ以上の“奇跡”がある」と教皇廰の中にある列聖敞で認定されることが必要になります。道了尊の場合、『圖聚天狗列伝』の中で知切師が記しているのは、(1)三井寺に相模坊道了が天狗になったということを記した確実な記録がある(『園城寺学頭代北林院日記』) (2)境内にある金剛水の泉は、道了薩埵が2人の木樵(実は矢倉沢神と飯沢神)の助力を得て掘ったもの。そのとき出土した金印が寺宝となっている (3)応永18年に明神ヶ岳に去るとき5つの誓願をした (4)北条氏康が道了尊の噂を聞いて最乗寺に赴いたとき、大風を吹かせて寺の屋根を飛ばした (5)延宝4年に羽を落とした (6)国安普明が道了尊を使役したといっていた などなどを紹介してるんですが、これくらいではまだまだ弱い(のか)。しかし、寺側にはもっとたくさんの道了尊の“奇蹟”が実はあったと言っているそうです。

・道了の食事はいつも質素なので弟子達が「少しでも食べないと死んでしまいます」と懇願するほどだったが、弟子の中には「師は隠れて美味しいものをたくさん食べているから弟子の前では何も食べなくても平気なのだ」と悪口を言う者もあった。実は道了は弟子達の食事の時間になると、毎日うすぎたない袋をひとつぶらさげて出かけていく。そして弟子達の食事の時間からだいぶ経つと、師の部屋からめちゃくちゃ美味しそうな匂いがしてくる、ということが幾度かあった。この謎を解こうとした弟子達が数日探偵活動をして分かったこと。実は師は台所の流しの下に袋をぶら下げておいて、食事を終えた弟子達が食器を洗うとき捨てた残飯がそれに入るようにしていた。その残飯を集めて師は自分の部屋で美味しい雑炊を作り、それを食べていたということ。これを知った弟子たちは、以後とても真面目になったといいます。(天狗かんけいない)

・あるとき道了が托鉢のために遠州城東郡平尾村を巡っていたときのこと。平尾の八幡宮の宮司がこのこぎたない坊主を侮って、「お前にあげるものなど何も無いが、梵鐘は壱千貫はあって価値のあるものだから、(持ってけるものならば)持ってってもいいよ」と言ったところ、道了は「ありがとう」と言って呪文を唱え、杖の先に鐘をひっかけ、相模の国まで持ち帰ってしまった。その鐘は天明4年の大火で溶けてしまったというが、その後の2代目、3代目の鐘はそれぞれ「錫杖(拄杖)鐘」と呼ばれている。・・・なんで道了が遠江国まで托鉢に行ったのかわかんないんですけど、最乗寺側にはこの時の八幡宮宮司の名前(栗田吉住)が誇らしげに記録されていて、でも平尾村(菊川市)の八幡宮にはこの時の記録は全く残ってないそうです。この栗田吉住は遠州の偉人・栗田土満のご先祖ですって。

・寺院建築中、道了が大石を運んでいるときに了庵禅師に呼ばれた声がしたので、道了薩埵は持っていた大石を放り投げて禅師の元へ走って行った。この石はもう二度と動かすことができなかったので「一擲石」と名付けて今の位置にあるという。

・江戸時代中期の有名人・国定忠治の関係者に“天狗霧太郎”という名の人物がいた。彼は相州小田原の出身で、若い頃は大盗賊だったが年を経てから道了尊の裏山で修行して、忍術を身につけ、それは道了山の天狗のおかげだと人々は考えたのだそうです。彼が言うには、道了尊の参道を往復する二人の男女を見ていたら、どうにもこの二人が神々しい仏さまにしか見えなくなった。(話を聞いたらこのふたりは富士山浅間神社に参ったあと伊勢原大山に登り、そのあと足柄道了尊に来たそうです)。霧太郎はこのふたりの背後に煌煌と差す後光を見て阿弥陀の威徳を感じ、盗賊をやめて道了の寺男となったそうです。(なんだそりゃ)

・・・(ありゃ、これしかなかった)

つづきまして、私のいくつかの疑問点を。
(1).「道了薩埵」はどこの出身の人物なのか?
知切師は、三井寺の記録の中に「相模坊道了」と書いてあるから相模国の出身に違いない、と書いているのですけど、別に坊名が出身地を表すとは限りませんよね。武蔵坊弁慶や常陸坊海尊の例もあるし、三尺坊や叶坊光播も越後に(ゆかりは大きくあるけど)出身だってわけじゃない。三井寺の記録に「相模坊」と書かれているからと言って、その記録が南北朝の同時代に書かれたという証拠も(おそらく)無いわけで、「いつのまにか行方不明となった道了という人が相模にいたという噂を聞いたので相模坊と書いた」という可能性も無いわけじゃない。何を問題としたいのかというと、一般に天狗の中で“格が高い”とされているのが鼻高天狗で、カラス天狗は“小天狗”というイメージがある中で、明らかに例外的な鳥顔の大天狗が3人いるわけです。「飯綱三郎」と「秋葉山三尺坊」と「道了薩埵」なんですね。(高尾山の天狗は“飯綱三郎”ですよ)。この三者には「白い狐に乗っている」という共通点があるのです。三郎坊と三尺坊が信濃国の出身だということは明らかであり、じゃあ道了薩埵の出身地が信濃だという可能性はないのか?、ということ。
一応、『大雄山誌論考』には「道了は能登国總持寺で了庵慧明と出会い、以後彼が移動する度にそれについていったが、最後に理由は不明だが了庵と分かれて三井寺に向かって、そこで高名な修法僧となった」と書いてあります。でも總持寺は曹洞宗、三井寺は天台宗じゃないですかね。そんなことあるんでしょうか。

(2).「御真殿」について。
最乗寺の御真殿は安政頃まで現在地とは違う、もっと高い山の頂上付近にあったそうです。現在の御真殿はとても立派で、御真殿・本殿共に昭和初期の著名な妖怪建築家である伊藤忠太氏の設計になるものなのですが、そもそも御真殿ってなに?
一般に天狗世界で、巨大なお寺で本殿の他に天狗が祀られている立派な建物のことを「御真殿」というのですけど、実を言うと私もまだ見聞が浅いので、真の意味の「御真殿」って、「可睡斎」と「奥山半僧坊」と「大雄山最乗寺」しか見たことが無い。(金光明山(新)光明寺にもあったっけ) そして『大雄山誌論考』にはしばしばこの御真殿のことを「宮殿」と書いています。本当にこの建物の呼び名は昔から「御真殿」だったのでしょうか。(山の上の不便に場所に「御真殿」があって嘉永の地震で倒壊する前も、その建物は極めて華麗だったそうです)
一方で、曹洞宗総本山の「總持寺」(能登国輪島)にも「御真殿」という名の建物があるのですが、中に祭られているのは高祖・道元禅師、開祖・螢山禅師、二世・峨山禅師の像と歴代住職の位牌なのだそうです。

(3).西相模に住む人々は、道了天狗のことを鼻高大天狗だと認識しているか? それとも鴉天狗だと認識しているか?


・・・わたくしの探求はまだまだ続きそうです。

さて、大雄山を辞してようやく南下を始めます。
あれですねー、静岡県と神奈川県って隣り合った県なのに、全然空気が違う。小田原の町って感心してしまうくらいあらゆるものがビッシリとしています。道が狭い。神奈川は好きだけど苦手。私は絶対にここには住めない。静岡県ってスカスカな空間をとても贅沢に使っていますよね。
湯河原に入って、ようやく(ホッ)とすることができました。

(・・・つづきます
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 黒後家蜘蛛の会。 | トップ | ブリジストーン。 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
美しい (山童)
2018-09-11 03:08:06
天狗様と狛犬の写真ですが…。
ますますアジア系でないアーリア系の何者かが古代に来ていたとしか思えません。
で、カラス天狗と狛犬を観ても……
実は同じなのでは?
狗もカラスも、こう…顔の中央が盛りあかっていて、眼が左右に散ってるのは同じすね?

顔の中央に眼が寄っているのは、霊長類とフクロウだけでして。これは目視で距離を計って枝から飛ぶ事が共通してるからです。
(じゃあ、モモンガは?とか云わないでね)
キューブリックの2001年宇宙の旅とか観ると、
骨を棍棒にしたのが最初の武器と描いていますが、それは嘘なんすね。
人類の最初の不気味は「投石」すよ!
猿一族は樹上で枝から枝へ飛ぶ為に、360°回転する上肢と、左右に狭く並んだ眼球を持ちました。これは鳥や獣の視野に劣る。
けれども深視力で立体視ができる!
つまり距離感を計れて、それ故に飛び道具を開発する事ができた。これが猛獣を倒せた理由!
ヒグマを銃で射殺した事があるすが、あんなの刀だの槍だの接近戦の武器じゃムリって!!
300~500㎏でっせ!
毒矢かライフルでないとムリ!!
私は山歩きの時にGSG9(ドイツ国境警備隊の対テロ部隊)が使う催涙ガスを持ち歩きますが、
何とか避けてもらうのが目的で、間違っても闘おうなんて思いません!
これは野犬でも同じです。
四つ足の「顔のまん中が盛り上がる種族」というのは、狗も熊も猪も「首」が太くて、バットで殴るくらいでは死なないんです!
(あ、本州鹿はバットでいけますけど)
実はすね、あのカラス天狗の顔立ちは、実はそもそもは鳥類でなく、「狗」だと思う。
鳥は空を飛ぶ構造から、骨が軽量化されていて
かなり格闘に脆い!
ただ熊だの狼だの「狗」な連中は、首が太いからタフなんですよ!
その殴っても死なないタフさを崇めて、デフォルメする過程で、「飛行」との関連で、鳥になったのだと想うのですね!
天狗様はアーリア系人種としても、カラス天狗は鳥類でなく、狗や熊など四足獣のタフさへの
尊敬から産まれたキャラクターだと思うす。
実際、市街地で猪とか駆除する時には、銃が使えないもんで、ナイフを装着した槍で仕留めるのですが、かなり苦戦しました。
カラス天狗の原型は鳥でなく、狗(熊とか含む)だと思うなぁ!
返信する

コメントを投稿

伊豆の歴史」カテゴリの最新記事