オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

姫様道中。

2014年04月07日 08時55分26秒 |   北浜名湖暮らし


気賀の町に引っ越してきて丸1年。
気賀といったら“姫様”。
この町の一番の祭りが4月におこなわれる「姫様道中(桜祭り)」で、浜松ではそこそこ有名なものなのですが、こんな狭い町で道路を通行止めにして行われる行列なので、それまで浜北住まいだった私でもなかなか足が重く、去年の4月、この祭りが終わった直後に引っ越してきたので「次こそは必ず、(見に行けたらいいな)」と思っていたのでした。いわば、これを見るためにあわせて失業したともいえるわたくしなのでした。(嘘)

「姫様道中」は今回で62回目で、昭和27年の始まりだといいます。
商工会のサイトによれば、昭和25年頃に「各地区ごとにそれぞれ祭りをやるのが面倒くさいから、全部ひとまとめにして一緒にやってしまおう」と思ったことがきっかけだそうですが、ウィキペディアによりますと昭和25年当時の「気賀町」の範囲は、現在の気賀駅・西気賀駅周辺と広岡・小野のあたりだったそうです。
「小野」って井伊谷ではなく気賀の領地だったのか。

ややこしい話なんですが、「気賀」と「井伊谷」は隣接していて今では一つの町(?)になってるんですが、戦国時代の頃には全然違う領地でありまして、井伊谷を治めていたのが源を平安時代の「武家八介」までさかのぼる名家「井伊氏」。一方、気賀には明確な支配者がいなくて、交通の要衝なものですから町人や地侍の寄り合いがいろいろやっていたみたいです。ですから、永禄11年に三河から徳川家康が攻め寄せてきたとき、井伊谷はいちはやく家康に恭順を誓ったのに(※このとき井伊家は一時的に滅亡していた)、気賀の農民や地侍たちは今川氏の方を選んで家康に戦いを挑み、華々しく皆殺しにされるのです。この戦いを「堀川城の戦い」と言って、浜松史の中では些細な出来事であるのですが、地元の人は家康に対しては複雑な感情を持っています。
このときの気賀の町の指導者だったのが、尾藤主膳・新田喜斎・竹田高正・山村修理の4人。4人とも遍歴の(?)武士だったのですが、それぞれおもしろい経歴を持った人間なので、そのうちまたたくさん本を読んでから紹介しますね。「竹田高正」はサッカー王子・今川氏真にサッカーの奥義を伝授した人物だと伝えられておりますよ。尾藤主膳は真田幸村の母方のひいじいちゃんなんですって。
とにかく気賀の町は変な個性を持った町で、周辺諸村とは一線を画している。
江戸時代に気賀を支配したのは旗本近藤家の分家、気賀近藤家。(本家は金指)。気賀関所を支配した気賀家の方が重要な気がするのに、当然ながら本家の金指家の方が格が高い。
そして、平成の大合併までは気賀は「細江町」、井伊谷は「引佐町」だったのでした。どうも、よその人間だと細江と引佐の違いがよくわからなかったりしたのですが。
現在でもすごく近い距離(800mぐらい?)に、「県立気賀高校」と「県立引佐高校」があって、「こんな小さな町になんでふたつも高校が?」と頸を捻ったものでしたが、歴史が違うんだよね、引佐町と細江町は。(といいつつ、引佐高校は金指にあったりするんですが)


なんの話をしていたんですっけ?
えーと、62年前に「新しい祭りを作ろう」と思ったとき、「姫さま」という素材がこの町にあったというのは幸せなことです。
「江戸時代に“姫街道”というものがあって、そこは(さまざまな理由で)東海道を旅することを嫌った女性たちが主に使った道だから」というのが気賀町がアピールするこの祭りのキモなのですが、別に、姫街道は磐田の見付から三河の御油まで約60kmを歩くコースで、つまり気賀でなくてもどこにでも姫さまはうじゃうじゃいたわけです。さらには姫さまだけじゃなくっても、武骨な侍たちだってうじゃうじゃとここを通っていたわけです。徳川家康だってここを通って遠江侵攻したんですし。武田信玄だって刑部城で越冬したし。
なのに、昭和27年に「気賀の町を姫さまの町にしよう」と思ったという慧眼。
本当に、家康がここに関所を作ってくれて良かった。

大事なことは、ここを通る「姫さま」は、全部「よその土地の姫さま」だったということです。
近藤氏の歴史には著名な姫さまがいませんよね。
隣り町の井伊谷には「井伊次郎法師直虎」という(そこそこ有名な)姫さまがいたのですが、ここでは出番がありません。



で、このお祭りでは毎年姫さまは応募によって決められるのですが、
姫さまは一人ではなくって「2人いる」というのもポイントです。
(土・日の2日にかけておこなわれるから)
どういう風に決められるのかがとても気になりますよね。

昨今の個人情報保護の流れによって、外部から調べようと思っても、いったいどうなっているのか(どういう風に募集するのか、どういう人が応募するのか、選考基準は何か、などなど)さっぱり分かんないんですが、やっぱり応募者がそれほど潤沢じゃなくて、苦労しているような気配はうかがわれます。さすがに歴史ある祭りなので、主役の姫さまを決めるのは簡単でしょうが、なんといっても「行列」なので、「それ以外の人々」の数を集めるのが。
当然「よその地域から来てくださった人々」を集めるのが理想的なのでしょうけど、当然ながらそうもいかないでしょう。

浜松市姫様道中実行委員会の顔が本によりますと、今年の場合は12月19日~1月20日の間が募集期間。(それが2月10日まで募集期間が延長されてますから、やっぱり参加希望者の集まりはかんばしくなかった模様。とほほ)。3月2日に“参加者”に最初の案内が送られたそうです。まずは「腰元」を選んで、さらにそのなかから「姫様」と2人の「上臈」を選定するのですが、さっきも言ったように姫様は2人。上臈2人も一日目と二日目で入れ替えるという贅沢ぶりだそうです。行列と踊りの練習が始まったのが3月29日。姫様決定は4月2日(←祭りの3日前)だそうです。こりゃ大変だなあ。
まつりの最後に舞台で「姫様たち」にインタビューをしてたんですが、やっぱり「姫様」は地元の人、もしくはゆかりのある人みたいですなあ。(当たり前ですが)。「去年も参加したから今年も出てみた」という方が何人もいたのも印象的でした。また、特筆すべきなのは「今年は地元の中学生の協力が大きかった」と強くアピールしていたこと。腰元さんたちの1/3ぐらいが中学生のようです。(化粧が頑丈なので写真をたくさん撮っても容易に顔バレしないでしょうから安心)。でも言い換えると、「去年までは中学生の助けを借りなくてもなんとかやってきた」「今年はとうとう公的機関に声をかけなくてはならない緊急事態におちいった」ということなのでしょうねえ。
一度参加してしまえば、「あの祭りに参加することがこの学校の伝統」となるでしょうから今後の心配はしなくてもいいのでしょうけど、淋しくはある。
ちまたでは歴女ブームとかいって武将のコスプレが盛んなのですが、そういった流れがこちらに来ることはなかなか無いのでしょう。次郎法師のコスプレをしたい人ならいっぱいいるでしょうに~(でも、本当の次郎法師は武将じゃありませぬよ)

(★参考★)
『戦国IXA』の次郎法師。


『戦国大戦』の次郎法師。


『戦国無双』の次郎法師。


『信長の野望』の次郎法師。天道以前は出てなかったんですっけ。


『戦国BASARA』の次郎法師。

“ウェディングバージョン”ですって。なんの嫌がらせか。
(※次郎法師は結婚をしなかった人。法師ですから。井伊直政を養子にした)

・・・また、何の話なんだっけ。

姫様道中は「四月の最初の土・日」と決められている。
気賀の関所から気賀の古い町中をぐるーっと廻って、都田河畔に至り、満開の桜の下の川堤を通ってやってくるという趣向となっています。
浜松は南国なので、もうかなり暖かくなっているはずなのですが、この日は少しだけ風が寒かった。
ここ数日外に出ていなかったので全く知りませんでしたが、桜が満開になってたんですなあ。
というか、すでに葉っぱが目立つ。
周囲の人たちの会話を聞くと、「昨日までは満開だったけど、昨日の夜に雨が降って、一気に花が落ちてしまった」とのことです。昨年や一昨年の写真を探すと、まさしく桜が花盛りなので、今年はちょっと運が悪かったのかも知れません。(もっとも、昨年は雨が降っていて大変だったそうなのですが)



ヒマなので2日とも観に行きましたよ。
1日目の姫様。



2日目の姫様。



おお、ちゃんと2日とも違う雰囲気の方が選ばれていることが分かる。
御家老もいいですね。
姫様・上臈・小姓・御家老は日替わりですけど、腰元のみなさんは2日間同じ方々でした。けっこう長時間(2時間)歩くので、大変です。1日目のお姫様は2日目は腰元をやっていました。2日とも同じ役よりは楽しめるのかもしれないのですね。



腰元の方々は赤い衣装の腰元さんと紫の腰元さんがいるんですけど、身分(?)に違いは無いそうです。
赤い方が前、紫の方が後ろ。姫様はだいたい行列の真ん中から少し後ろ気味にいます。







美しい。


いなかの創作的な祭りですけど、やはり「姫」という語句にはインパクトがある。
こんな町には信じられないくらいの見物人がおしかけてました。
やはり2日目(日曜日)の方が人が多かったですね。
そして、気賀の町は道路が狭いので、写真はすごく撮りづらい。

姫様たちに名前があったらおもしろいですね。
アナウンスで「気賀の関所は将軍吉宗の御母堂や篤姫が通った~~」とか言ってたのですけど、「姫街道」というからにはもっとたくさんの姫君が通ったはず。関所の記録を調べればここを通った姫君のリストが作れるはず。
毎年年代わりで列藩の姫君たちの扮装をするの。
(※意外と中山道を通る姫様が多い)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カール! | トップ | 英国民は獅子の心を持つ国民... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

  北浜名湖暮らし」カテゴリの最新記事