去年の7月に行った信州旅行、もう遥かむかしむかしですが、せっかく撮った写真がもったいないので、写真の陳列だけでもしておこうと思います。まさかこの1年半でマイナーな北条時行が主役のジャンプ漫画が出てくるとは思ってもいなかった。
浪合村で出会ったクマ(の剥製)。一緒に寝ました。
浪合村で泊まったのは、「観音山少年自然の家」(←浜北市民が40年前の子供の頃に自然研修した施設)みたいなかんじのところだったのですが(格安)、「信州で刺身を食べる」ってのは南信では定番らしいのですが、昨晩飯田市で泊まったときはそれができなかったので(一軒で満足してしまう悲しいお年頃)、飯田市の地元スーパーで大量に刺身を買って浪合村に持ち込みました。
だだっぴろい施設でしたが、季節外れ(?)なのでワタシ独り(笑)。
泊まったのは「なみあい楽遊館」という施設。親王の墓所である浪合神社までは1000mぐらいの場所にありました。なんと一泊2,600円税込。
私に割り振られたのはこの写真の2階部分の雰囲気ある板敷きの6畳間だったのですが、なんせ一人貸し切りだったので一階の大広間でテレビ見ながら(うそです『浪合記』を読みながら)、ビールを浴びまくってそのままその場で事切れる流れでした。
写真じゃ分からないと思いますけど、私がこの宿に辿り着いた時点で大豪雨で、近辺を歩き回りたいと思っていたのですけど、とうてい無理でした。周りは自然豊富で、モリアオガエルの卵がそこらじゅうにあったので写真を撮りまくったのですけど、ぜんぶきれいに撮れていませんでした(笑)。
いろりの間もあったけど、ここの使用料は¥1500ですって。(ここからはテレビが見えませんが目の前にクマがいる)
おお、宗良親王(尹良親王)も650年前にこの景色を眺めていたんだな。
・・・ただ、私のおぼろげな記憶(楽天トラベルの宿泊履歴)によると宿の予約到着時間を18:00にしていたけど、いろいろやっていたら間に合わなくなって宿に「すみません遅れますすぐ行きますから」と電話をしたような記憶がある。(「到着する頃に電話して」と言われていたのだった)。しかし私のカメラの記録によると18:00に浪合神社を訪れていて写真を撮りまくっている。なんでチェックインを済ませた後、ゆっくり行かなかったんだろ。(・・・というのは豪雨だったからです。おそらく私は写真を撮ることを優先した)
浪合神社。
御祭神は宗良親王の2人いた皇子のひとりである尹良親王。
Wikipediaでも尹良親王は「架空の人物である」とされていて、でもここには立派な古墳があるので「それに相当する何かの人物はいた」とされているというふわふわした感じの歴史上の浪漫のかたまりのような土地にある神社。
「尹良親王」はなんといっても想像上の人物であるので名前の読み方も定まっていなくて、Wikipediaでは「ゆきよししんのう」「これながしんのう」「ただながしんのう」ですが、尹良親王崇拝派のわたくしでもその都度適当な名前でお呼びしちゃってるんですが、「これよし」と「ただよし」が多い気がします。(※尹良親王は足利直義の御落胤説がある。“御落胤”ってなんなのか)。なぜか私のパソコンのATOKには「尹良」を「いいん」で登録してあります。打ちやすいから。(宮城谷昌光氏の『伊尹伝』の影響ですね。井伊家の王子だからですかね。ただし尹良親王は井伊家とは何の関係も無い説もある)。 ※遠江史学的には「ゆきよし」が正解。
神社の写真はそれなりにりっぱな神社に見えると思いますが、実は右側にある建物は「一心流鎖鎌術」の記念館です。なんでやねん。
一心流鎖鎌術は南北朝時代発祥で江戸時代に九州を中心に隆盛を見せ宇宙世紀のジオン公国で全盛を誇った流派だそうですが、宮本武蔵に負けたという伝説を持つという。(でも宍戸梅軒とは全く関係が無いという)。この神社と何の関係があるのでしょう。(調べると、始祖のジオン・念阿弥・ダイクンなる某がここの裏山で修行をしたらしいです。)
写真じゃ分からないと思いますが、この参道が雨で、もはや川状態。
この宝筺印塔、歴史に詳しい人だとここが尹良親王のお墓だと思ってしまうと思うのですけど、これはただの慰霊碑だそうです。
明治12年の勅使参向の碑。
この勅使とは西四辻公業(にしよつつじきみなり)卿。
なにかの小祠がたくさん。
・・・で、私は明るいうちにここの視察をしておいて、また丑三つ時ぐらいになってから再度ここを訪れたかったんですよね。「何か私に言いたいことは無いか」って言おうと思って。(※参考)。でも夜通し雨がすごくて無理なはなしでした。
えーーと、後醍醐天皇の関係者のお墓に夜中に行って、「私ははるばる浜松から来たんですよ。何か私に言いたいことはないか」と言うっていうことを私はライフワークにしていたと思うのですけど、それは何がきっかけでしたっけ。さっぱり思いだせない。思い出せないならただ変な奴なだけじゃん。
文章を書いていて思い出したんですけど、この「一心流鎖鎌術」の創始者である「念阿弥慈恩(じーくじおん)」という人は、正平5年相馬氏の生まれで新田軍の関係者。全国を流浪して18歳の時九州で剣術の奥義を取得したという人。つまり宗良親王や尹良親王とは同時代の人なんですって。この人が浪合村にやってきたのは58歳の時(応永15年)で、浪合村に「長福寺」という時宗の寺を建てる。それが現在の浪合神社の場所(・・・の入口のすこし南側)だったんですって。
架空の人物である尹良親王が、浪合村か大河原村のどちらかで戦死したのは応永31年で、その直後に長福寺の裏に誰かの手によって、伝・尹良親王のものとされる塚が造られて・・・ って、これを作ったのはおそらく間違いなく念大和尚じゃんね。
長福寺は現存していませんが、その流れを汲む「堯翁院(ぎょうおういん)」という曹洞宗のお寺が、この浪合神社から南へ500mぐらいのところにありまして、なんといってもこのお寺の山号を「尹良山(いんりょうさん)」といって、架空の人物である尹良親王直筆のお経2巻を寺宝としているそうなので(何のお経なのかはネット情報では分からない)、事前に家で情報を集めていたときは「ぜひ行ってみなければ」と思っていたのですが、、、、 当日雨が酷くてすっかり忘れてしまいました。
慈恩さんはお寺の住職さんなのに浪合神社の裏山(摩利支天山・・・通称“念山”)で剣の修行にあけくれていたのだそうで、それってきっと年代的に尹良親王も一緒でしたよね。でもわざわざ浪合神社に「鎖鎌術記念館」があるってことは、鎖鎌ばっかりしていたのかもしれない。
阿智村と浪合村は「日本一星空が美しい村」なのだそうです。
でも残念ながら私はさっぱり星が見えませんでした。これは涙だ。尹良親王の無念の涙が槍(もしくは鎖鎌)となって私の泊まっている宿に降り注いでいる。
昨日は18:00頃に神社に行って、尹良親王のお墓の写真をいっぱい撮ったのですが、光量が足りず、ほとんどの写真が役に立たない物になっていました。なので夜が明けてチェックアウトを済ませてから、ふたたび浪合神社へ写真を撮りに行きます。でもしかし、昨日よりも遥かに豪雨が凄くなっていて、昨日以上に2日目撮った写真で綺麗に取れているのものはありませんでした。
諦めて捜しに行ったのは、「尹良親王墳墓の陪塚」です。
「陪塚」は「ばいちょう」と読む。「浪合合戦」で尹良親王を護りながら死んでいった忠義の士たちを弔う塚が各地に点在しているんですって。
ところが、結果から申し上げますと、かなり歩き回ったのに、私は「ろ号」の塚1つしか見つけられませんでした。こんな明晰な地図があるのに見つからないなんて、なんでなんだっ。・・・何でなのかと言い訳しますと、このとき、この地図は私のカメラの中にしか無くて、あまりに雨が凄くてこの中で無闇にカメラを取り出して降り注ぐ涙の鎖鎌の中で大事なカメラがどうにかなってしまやないかと怖くて、私はほとんど地図を見ずにずっとあたりを歩き回っていたのでした。
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