オセンタルカの太陽帝国

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泉頭城と徳川家康。

2006年08月10日 17時35分32秒 | 伊豆の歴史

 
                            ≪徳川家康≫

(※)どこが家康じゃあ、豊臣秀吉じゃないのか? と思われる方もおられるかもしれませんが、私の中では家康はこの顔がデフォルトです。遠州人はみんなそうですよ。

沼津市と三島市に挟まれた駿東郡清水町には、「柿田川湧水群」という、とんでもなくキレイな水が湧くところがあることで有名であり、それが町名にもなっているのですが、ちょうど現在「柿田川湧水公園」がある場所には、戦国時代には「泉頭城(いずみがしらじょう)」という小城があって、武田と北条の激しい争いの最前線になっておりました。
1575年に長篠の戦いで敗北した武田勝頼は、態勢を立て直すために部下の穴山信君に遠江の徳川家康の攻略をまかせ、みずからは関東の北条氏を追い落とすために、なぜか沼津の三枚橋城(沼津古城)に兵力を集中させ、ここから戸倉城と泉頭城を激しく攻めたのでした。
・・・・・というような武田と北条の激戦の記録を、きのう延々と調べて、アップする予定だったのですよぅ。・・なのに、全部消えてしまった、シクシクシク。(←失われた事をいつまでも嘆く男)

ちょうどここの場所には、この泉頭城と戸倉城が並んで立っており、沼津と三島の両方ににらみをきかせていたのですが、北条家の勢力がまだ裾野・御殿場・富士にまで確固として伸びていた頃には、この沼津の両城の重要性はたいしたものではありませんでした。それが、武田信玄のたくみな武略によって北部の地域が蚕食され、(←北条家だって手をこまねいていたわけではないのですが、いつのまにか勝ち負けをくつがえせない状態にしてしまうのが信玄の魔力)、ついに狩野川河口に三枚橋城を築かれてしまったのが最大の失敗でした。信玄が死ぬのがあと2,3年遅かったら、伊豆の北条領はどうなっていたかわかりませぬ。

泉頭城の縄張り図を見ると、柿田川の湧水がみごとな堀となっていて、なかなかエキサイティングな曲輪の配置です。気持ちのいい縄張りのお城です。そして、ちょうど東海道(現在の一号線)に面していて交通の要衝であります。河口から10kmもあるというのに、豊富な狩野川の流量を利用して、海に通じる船の着き場もあったそうです。
しかしながら、明らかに泉頭城と向かい合う戸倉城はセットですね。こんもりと小高い戸倉城が絶対落ちない堅城(1580年にナゾの落城をしたけど)であるのに対して、泉頭城は低くて、柿田川は要害ではありますが、やや弱い。きっと戸倉城と役割分担をされて運営されていたのでしょう。
しかし武田氏との抗争でこの両城は取ったり取られたり。やがて1590年の小田原攻めで、豊臣軍の大軍を前にして、戸倉城も泉頭城も、戦わずして放棄されました。

  
全域が公園になっている。
お城の遺構とは関係のない(笑)階段です。噴水がある。


すごく癒される水園(湿地帯)です。戦国時代はこれが堀になっていたのね。

  
とても綺麗な水が各地で噴き出しています。         子供たちの遊び場も。


よく見れば、お城っぽいつくりも随所にあります。・・・よく見ないとわかりません。

さてさて。
八代将軍吉宗の時代に編纂され将軍に献上された、神君家康の伝記である『武徳編年集成』に、このお城のことがチラッと出てくるそうです。

元和元年(1615年)、大阪の陣が終結して豊臣氏が滅亡したあと、家康は江戸に向い、その帰途、12月に泉頭城を訪れた。その時、なにか気に入ったことがあった様子で、ここを「隠居の地とする」と宣言。来春本格的に縄張りすると決めて三島を発ち、善得寺を経由して駿府に帰った。翌正月5日、金地院崇伝と本多正純を召して泉頭城の縄張りを指示。崇伝が占いにより、1月17日に駿府を出発し、19日に「鍬初め」をすることに決めた。
しかし数日後に、家康は突然17日の三島行きを中止。(一説には奥女中たちが引っ越しに反対したのだという) そして4月に家康が急死したため、この計画は立ち消えになった。

うーーーん。少なくとも家康は本気ですよね。
「家康の隠居の地」は駿府だと思っていたのですが、駿府は家康が幼少期を過ごした思い出の地であり、気候温暖、風光明媚、魚がおいしく、大阪と江戸の中間、ということでここを選んだんですけど、駿府での大御所政治も長くなり、家康にはそこはすでにゆっくりと老境を過ごす気になれぬ場所になってしまったんでしょうか?
だとすると、「どうして、よりにもよって沼津・三島を選んだのか?」という疑問がむくむくと頭をもたげてきます。
ここには、ついせんまで「沼津御用邸」もあったことだし、静岡市以上に冬暖かい気候・駿河湾深部ということで老体に悪い海風は届かず、美味しい料理・大きな富士・鷹狩りに最適な御殿場・交通の要衝・江戸に近い・麗しい伊豆女、冷たい水、涼やかな川風、などなどいろいろ家康の好きそうなものが揃っていて、いかにも「隠居の地にふさわしかろう」気がしてきますが、でも逆に、『名将言行録』の晩年の家康の言行などを読んでいると、絶対にそういう観点からは、この地を選ばないような気がするのです。

なにかあるぞ、このお城には、何かが。
ともあれ、わたしたちは寂れた風情の伊豆が好きなわけで、家康なぞが引っ越してこなくてよかった。


国道一号線付近はとても騒がしいけれど、公園の裏側に入れば静かな住宅地が広がっている。


戸倉城跡展望台から見た柿田川湧水公園。

コメント
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