幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

幸福の科学の、高知の信者による共同ブログです。
日々の活動や、イベントのお知らせをいたします。

戦わないことだけが正義なら、それは奴隷制を認めることになる。

2017-05-23 00:51:36 | 憲法改正

映画『君のまなざし』黒沢年男さん(特別出演)

  お陰様でベスト10入りできました。これからも応援お願いします! 

大好評でスタートを切った幸福の科学系芸能プロダクション、ニュースタープロダクションが作成した映画『君のまなざし』。

マイフェイバリッドなおすすめシーンは、作品後半の平安時代のシーンです。

時代考証など、そうとう研究した様子があって、極めてリアルな雰囲気が漂います。

この平安時代のシーン、あちこちで斬りあいをしておりますけれども、ここらへん、一般的なイメージと違うかと思いますが、実は平安時代ほど、治安の悪かった時代はないんですね。

まさに映画どおり「鬼が跋扈した」時代が、平安時代なんです。

なぜか?

それは平安時代の中期ごろから、朝廷は、国軍機能と警察機能をやめてしまったからです。

なぜやめてしまったかというと、どうやら、貴族が”穢れ”を嫌ったかららしい。

たとえば平安時には、強大な権力を握った藤原道長などの大貴族であっても、お墓に埋葬されなくて、遺体はどこかの山に捨てられていたらしいです。

現実、教科書に載っているような大貴族、藤原道長といえども、お墓は残っていません。

それだけ古来、特に平安期の日本人は、死体を嫌いました。

そういう死生観とか清浄観とか、時代によって変わったりするし、穢れを嫌うのも結構だけれども、それが高じて、国家が、国軍を廃止したり、警察をなくしてしまったらどうなるかを、日本は平安時代に経験しているんですね。

絶対平和主義を原理主義的に実行すれば、平安時代のようになるわけで、日本ではその文明実験は、とっくに経験済みなんです。

つまり、平安時代の朝廷の、原理主義的絶対平和主義の結果、国民は「自分の身は自分で護る」しかなくなったわけです。

それが、後に天下を納める、”武士”の始まりなんですね。

武士にもいろいろあって。貴族の警護をしていた、後の源氏や平家などの高級武士もいれば、切り開いた農地を、武装して護っていた方も多くいましたけれども、その始まりは、国家が国軍をなくしてしまったからなんです。

ですから映画『君のまなざし』は、極めてリアルに描かれているんですが、この後に日本は、また、「自分の身は自分で護る」時代が来ています。

それが戦国時代ですが、メカニズムは同じなんですね。

室町時代の足利将軍家は、所領がほんの僅かしかなくて、自前の国軍を持てませんでした。

それで最終的には平安時代と同じく、国防機能や警察機能のない時代になって、一般国民は皆武装していたわけです。

それは、大名などに限らず、寺院や仏閣も同じでした。

結局、織田信長が掲げた「天下布武」で戦国時代は終わりに向かうわけですが、要するに天下布武って、「俺たち(織田家)が武力で護るから、それ以外は武装解除せよ!」という、一種の脱戦国政策でもあったわけです。

だから織田信長さんは、結構ハードなお方であったけれども、多くの人がついてきたわけです。

なぜなら、「自分の身は自分で護る」というのは、さすがにシンドイです。

代々続けるとなると、大変な負担ですよね。

ですから、その後の豊臣時代も徳川時代も、性格を変えた天下布武=脱戦国政策なんですね。

まぁ何が言いたいかと言うと、国防を嫌ったり、穢れているとか、平和に反するとか、そういう風潮が蔓延したり、それが現実に国家で実際に行われるようになれば、必ずそのあとには、「国民が自分の身は自分で護る時代に移行する」ということです。

それが歴史の鉄則ですけれども、「果たして、それが良い時代なのか?」ということですね。

身体機能にも、免疫機能というものがありまして、それが強く出すぎるとアレルギー反応が出ますけれども、アレルギーが嫌だからって、免疫不全にしたら、もはや健康な人生を歩むことは難しくなりますよね。

平和と健康というものはとても似ているところがあるので、言葉に酔うのではなく、現実的に決めるものは決めることは大切だと思います。

また健康面で言えば、季節や気候、年齢によって、気を付けるポイントが違うように、時代や周辺環境を対比しつつ、柔軟に対応することも、平和を維持したり、戦略的に平和を続けて行くうえで、とても重要な精神だと思います。

平和平和と叫んでいれば平和になるほど、世の中は平和ではないと思う。

こういうと、「宗教の信者が、そんなことで良いのか」と言われそうですが、現実を直視し、最大多数の最大幸福の観点を見出すのも、神の心を学ぶ、”神の子としての、あるべき姿”であると信じます。

本日は、日蓮聖人の霊言『日蓮聖人「戦争と平和」を語る』の一部抜粋をお届けいたします。

「戦わないということを第一義の正義とするならば、それは奴隷制を認めることになる。」というのは、私の脳天をカチ割る、目から鱗の平和論でございました。

             (ばく)

  ランキングに参加中。クリック応援お願いします! 

「武力を放棄した自衛隊」を憲法に明記??安倍首相が2020年改憲案を発表【ザ・ファクト】

振り向けば愛~「ファイナル・ジャッジメント」挿入歌

   

だから、「戦争というのは、とにかく善なる戦争も悪なる戦争もなくて、完全に、戦争そのものが悪なんだ。平和そのものが善なんだ」という感じ方、考え方は、非常に単純な正義論ではありますし、政治学者、国際政治学者等のなかにも、そういうふうに言う方はいらっしゃいますが、本当に歴史をよく勉強した人であったら、その考えが間違いであることは分かるはずなんですね。

その意味で、仏陀の教えにもあるように、やっぱり、「悪が行われ、広がるということは、よいことではなく、善が広がるということがよいことなんだ」と。

要するに、仏の思想、まあ、神の思想と言い換えてもいいけども、その「神仏の理想や思想が広がるようなものはいいことであるが、逆に、悪魔の思想が、この世にはびこるということは、よろしくないことで、押しとどめなくてはいけないんだ」というのが基本的な考え方です。

「戦争に善悪なし」っていうのは間違いで、「善悪はあるんだ。神仏の応援を、ご加護を受けているかいないかなんだ」ということですね。

(中略)

だから、戦争指導者のなかにも、神仏のご加護を受けている者もあります。
例えば、よく引き合いに出されますが、リンカンのような方だって戦争はしたわけです。

アメリカでいちばん代表的な大統領ではあるけれども、南北戦争という、アメリカではかつてない内戦をやっています。

(中略)

だから、「戦わなければ正義だ」という考えは、気をつけないと、理念がなければ「奴隷の正義」になる。

要するに、「戦わなければ正義だ。相手の支配のままに任せる」っていうのならば、どうなるか。

例えば、最近、アメリカでもよく言われてるようですけども、黒人奴隷ですね。

「戦わない」というだけであれば奴隷の状態がずっと続く。

また、古代のイスラエルでは、エジプトの奴隷として働いていた時代があるし、バビロン捕囚で奴隷になった時代もありますけど、「それが正義だ」ということを認めるのと変わらない思想にもなりますわね。

だから、もし、自分たちの側に神仏のご加護があると思うなら、やっぱりそれを信じて行動すべきです。
『日蓮聖人「戦争と平和」を語る 集団的自衛権と日本の未来』(幸福の科学出版)P78~83

 

【PV】 TOKMA 「I LOVE Zipang」

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。