「反骨のブッダ」 高山龍智著、コスモ21 2018年。
原始ではなく原語から仏教を捉えなおし、ブッダの教えは社会矛盾に対する改革であるとします。目からウロコとはこのことで、私も諦観やペシミスティックといった仏教に対する見方がまったく変わりました。
まずは「無常」について。永遠なるものは虚構である、ということを意味します。ブッダの時代のインドは (今でも) バラモン教の厳格なカースト制度です。永遠・恒常 (ニティヤ) ということはカースト制度を固定化し、永遠に身分が変わらないことを意味します。つまり侵略して支配階級となったアーリア人にとって、支配体制を永遠に確保するためのものだということです。ブッダは、それを否定してアニティヤ (ニティヤに否定の冠詞をつけた)と呼んだわけです。(30-31p) これを漢訳するときに、無常と訳し、中国的なニュアンスを含んだ。それが日本に入ると、変事・凶事に対する情緒的な詠嘆や無情というニュアンスでとらえられることになります。
ブッダはまた、叔母で寡婦のプラジャーバディの、「人間は平等だ」というなら私たちも導くのが当然だとの訴えを聞いて、尼僧集団を許したそうです。(38p) 女性も人間だという、当時としてはありえないほど革新的な立場でした。
自由自在とはもともとブッダの言葉で、ブッダ臨終の床で弟子たちが今後誰に教えを乞うたらいいか嘆いていると、ブッダが、「他者によるのでなく、自らを拠りどころとしなさい。ダルマ (道理) を拠り所とし、他に拠ってはならない。」といったそうです。自らに由り、自からに在る。すなわち自由自在である。(51p)
「無我」はアイデンティティの放棄ではない。ヒンドゥー教では、人にアートマン (霊我) という概念を設定した。人には霊我があって輪廻転生するが、下層民は霊我が穢れていて転生できず、永遠に下層民のままだということです。そこでブッダはアートマンを否定し、無我を主張した。すべての物事はそれを成立させる因と縁とが仮に集合しただけで、固定的な実体は存在しない、としたのです。(57p)
「いきなり100点満点の悟りはできない。世間では、ある日鳥籠の扉を開けて自由な空へ飛び出すかのように、突然100点満点の答え (=悟り) を得られるという幻想が、まことしやかに語られている。 この幻想に取り込まれてしまうと、新たな支配に騙されてしまう。(中略) 100点を目指して歩いていく、それこそが英知に近づいていく道である。(中略) 諸悪を一網打尽にはできないが、まず町内のゴミを拾うところから始めれば、すこしずつ理想には近づく。それがブッダの教えではなかろうか。」(81p)
改革と慈悲のブッダ。これまで聞いたこともない、新しい仏教の教えです。
インドではアンベードカル博士の指導により、仏教が再興され、信者が増えているそうです。このような仏教なら、私もその信者に加わりたいと思ったりします。
(わが家で 2019年9月15日)