長いタイトルですが、「『邪馬台国=畿内説』 『箸墓=卑弥呼の墓説』の虚妄を衝く」 安本美典、宝島社新書 2009年。
著者は邪馬台国研究の論客で知られ、反畿内説に立っています。しかしその説はたいへん科学的で論理構成もしっかりしています。歴博研究グループによる 「科学的な」 炭素14法で箸墓が卑弥呼の墓である、と発表され、一般的には邪馬台国は畿内で決まり、のように報道されています。しかしその炭素14による年代の決定法について歴博研究グループには明白な欠陥があるとのことです。
まず、炭素14年代法の現在の測定精度と較正グラフの読み方に問題があります。
北海道埋蔵文化財センターの西田茂氏が発表した分析資料 (2008年) で、江別市対雁 (ついしかり) 2遺跡から出土した1個のクルミを20分割してそれぞれ炭素14年代を測定すると、2シグマの誤差範囲を含めて炭素年代で140年の幅ができる。(58p) その炭素年代を実年代に当てはめる較正グラフは波打っていて1点に適合するわけではなく、誤差範囲は400年ほどにも広がってしまう、ということです (62p)。これはまったく驚きです。
そして標本による誤差。橿原考古学研究所奥山誠義氏の「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の炭素14年代測定」(2008年) では、古木効果の影響を考える必要のない小枝の分析では参考値ながら紀元 325-335年、古木効果の影響が考えられる試料ではなんと BC195-185年と、500年ほどの差が出ています (23p)。
歴博研究グループは主として土器付着炭化物を分析して推定年代を出していますが、その試料は同一遺跡の堅果類の遺物にくらべて、大変古い炭素年代を示す誤差の大きい資料である、ということが分かってきています (64p)。その原因は不明ながら、土器付着炭化物はどの遺跡でも大変古い酸素14年代を示すそうです。
土器においても、箸墓とほぼ同時代のホケノ山古墳から、小型丸底を特徴とし4世紀とされる布留式土器が出土し、(114p) 古墳時代前期といわれるノカツギを持つ銅鏃も出土 (126p)。もうひとつ、画文帯神獣鏡も出土していますが、これは魏と対立していた呉系の鏡で、魏と親密だった邪馬台国の本拠地としてはふさわしくありません。せめて、呉が滅亡した280年以降なら、理解できなくはない(134p)。 これだけ幾つもの出土遺物がそろって4世紀前後以降を示しているのに、ただ歴博研究グループの、土器付着炭化物の炭素14年代法だけが100年古い250年前後を打ち出しているわけです。
私はこれまで、歴博研究グループの発表は科学的なものだと感じていましたが、すっかり否定論になりました。不思議なのは、まともな反論が、いくら探しても見つからないことです。歴博研究グループはなぜクルミや堅果類、小枝などの、素性のしっかりした遺物と土器付着炭化物の比較研究をしようとしないのでしょう。これでは科学的な論争とは呼べません。ところが、箸墓=250年ころ築造=卑弥呼の墓で、古墳時代100年繰り上がり説が確定したかのように書いている研究書が多いのは驚きです。(弥生時代500年繰り上がり説も同様のようです。)
安本氏はさらに進んで、九州勢力の東遷論が、和漢の文献資料や出土遺物などいろいろな事柄を包括的に説明できる仮説だと主張しています。(194p) 漢の時代に北九州に倭人政権があった (倭を統一していたかどうかは別として) ことはほぼ確実ですから、私も東遷論は有力だと思います。神武天皇神話は単なる作り話、というのでは、なぜ出自を九州にしたのか説明できません。東遷した勢力が邪馬台国自身なのか、その中の有力な一族なのか、邪馬台国に圧迫された部族だったのか、それはわかりません。
関連して、卑弥呼の墓のことです。「大いに塚を作る、径百余歩」 というのですが、塚であって 「墳」 とは書いていません。中国にも稀な高く大きい墳墓であれば、「墳」 と書くと思うのですが、これを指摘している本はまだ見たことはありません。さらに、箸墓には槨があり、「棺あって槨なし」という魏志倭人伝の記述にも合いません。
箸墓=卑弥呼の墓説は、ほとんど根拠のない、トランプの家のような空中楼閣ではないでしょうか。
(我が家で 2016年10月14日)
著者は邪馬台国研究の論客で知られ、反畿内説に立っています。しかしその説はたいへん科学的で論理構成もしっかりしています。歴博研究グループによる 「科学的な」 炭素14法で箸墓が卑弥呼の墓である、と発表され、一般的には邪馬台国は畿内で決まり、のように報道されています。しかしその炭素14による年代の決定法について歴博研究グループには明白な欠陥があるとのことです。
まず、炭素14年代法の現在の測定精度と較正グラフの読み方に問題があります。
北海道埋蔵文化財センターの西田茂氏が発表した分析資料 (2008年) で、江別市対雁 (ついしかり) 2遺跡から出土した1個のクルミを20分割してそれぞれ炭素14年代を測定すると、2シグマの誤差範囲を含めて炭素年代で140年の幅ができる。(58p) その炭素年代を実年代に当てはめる較正グラフは波打っていて1点に適合するわけではなく、誤差範囲は400年ほどにも広がってしまう、ということです (62p)。これはまったく驚きです。
そして標本による誤差。橿原考古学研究所奥山誠義氏の「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の炭素14年代測定」(2008年) では、古木効果の影響を考える必要のない小枝の分析では参考値ながら紀元 325-335年、古木効果の影響が考えられる試料ではなんと BC195-185年と、500年ほどの差が出ています (23p)。
歴博研究グループは主として土器付着炭化物を分析して推定年代を出していますが、その試料は同一遺跡の堅果類の遺物にくらべて、大変古い炭素年代を示す誤差の大きい資料である、ということが分かってきています (64p)。その原因は不明ながら、土器付着炭化物はどの遺跡でも大変古い酸素14年代を示すそうです。
土器においても、箸墓とほぼ同時代のホケノ山古墳から、小型丸底を特徴とし4世紀とされる布留式土器が出土し、(114p) 古墳時代前期といわれるノカツギを持つ銅鏃も出土 (126p)。もうひとつ、画文帯神獣鏡も出土していますが、これは魏と対立していた呉系の鏡で、魏と親密だった邪馬台国の本拠地としてはふさわしくありません。せめて、呉が滅亡した280年以降なら、理解できなくはない(134p)。 これだけ幾つもの出土遺物がそろって4世紀前後以降を示しているのに、ただ歴博研究グループの、土器付着炭化物の炭素14年代法だけが100年古い250年前後を打ち出しているわけです。
私はこれまで、歴博研究グループの発表は科学的なものだと感じていましたが、すっかり否定論になりました。不思議なのは、まともな反論が、いくら探しても見つからないことです。歴博研究グループはなぜクルミや堅果類、小枝などの、素性のしっかりした遺物と土器付着炭化物の比較研究をしようとしないのでしょう。これでは科学的な論争とは呼べません。ところが、箸墓=250年ころ築造=卑弥呼の墓で、古墳時代100年繰り上がり説が確定したかのように書いている研究書が多いのは驚きです。(弥生時代500年繰り上がり説も同様のようです。)
安本氏はさらに進んで、九州勢力の東遷論が、和漢の文献資料や出土遺物などいろいろな事柄を包括的に説明できる仮説だと主張しています。(194p) 漢の時代に北九州に倭人政権があった (倭を統一していたかどうかは別として) ことはほぼ確実ですから、私も東遷論は有力だと思います。神武天皇神話は単なる作り話、というのでは、なぜ出自を九州にしたのか説明できません。東遷した勢力が邪馬台国自身なのか、その中の有力な一族なのか、邪馬台国に圧迫された部族だったのか、それはわかりません。
関連して、卑弥呼の墓のことです。「大いに塚を作る、径百余歩」 というのですが、塚であって 「墳」 とは書いていません。中国にも稀な高く大きい墳墓であれば、「墳」 と書くと思うのですが、これを指摘している本はまだ見たことはありません。さらに、箸墓には槨があり、「棺あって槨なし」という魏志倭人伝の記述にも合いません。
箸墓=卑弥呼の墓説は、ほとんど根拠のない、トランプの家のような空中楼閣ではないでしょうか。
(我が家で 2016年10月14日)