飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

向上心をもつ

2006年10月02日 23時15分25秒 | 授業論
我々、教師には研究と修養に努める義務がある。
それは教育という人間の根幹にかかわる仕事に携わるという大きな責任があるからである。
ときには教職は聖職とまでいわれることもある。

教育の専門職として必要なことは何なのか。
いくつか考えられるが、それは教育技術をもち、技術をつかいこなす技能を身に付けていることは不可欠だろう。
適正な教師としての資質を有することは、仕事のプロならば当然のことである。
だから、心ある教師は身銭を切り、研修会や講座に出かけ優れた実践を直に学ぼうとする。
また、月何万ものお金を使い本を買い、多くの知識を得ようとする。
本を読むことは当然のことであり、これは教師に限らず社会人として最低限のことである。
すぐれた授業、すぐれた教育哲学をもとうとするならば基本的なことである。
ベイシックな部分が広く、深くなければ、優れたアイディアなど浮かぶはずもない。

しかし、人に与えられた時間は決まっている。
研修したからといって急激に効果があがるわけでもない。
それでも新しい教育技術を学び、前向きに努力しつけることには意味がある。
子どもたちは、より高いものにあこがれ、自分も成長したいと心からねがっている。
前進したい、変容したいと思っている。
ある場面においては身の程知らずと思えるほど伸びたいと思っている。
その健気で素直な気持ちに共感できるのはどんな教師だろう。
それは、自分も伸びようと努力している教師以外にないのである。
学ぶことの苦しみ、そして少しの喜びを子どもとともに共感できる教師が本当に子どもを理解していると言える。

常に前進し、向上的変容を遂げようとしている教師の魂はどんなときも子どもとともにある。
年齢は若くとも、貪欲に学ぼうとしない教師は、子どもたちの魂とは無縁の教師と思える。

saitani
この記事についてブログを書く
« 積小為大 | トップ | 努力こそすべて »

授業論」カテゴリの最新記事