飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

発問の生産性

2020年08月23日 10時35分11秒 | 授業論
優れた発問とはなんだろう。
次のように言うことができる。
「優れた発問とは、子供の思考を広げ、深め、高めるのに大きな貢献をしている発問」
さらには、問われて気づく、問われて初めて見えてくる発問である。
通読しただけは通常子どもたちは印象批評しかもつことができない。
まあ、そうとう読書好きで、様々な経験をしている子は別だが。

この印象批評を、分析批評し、思索批評にまで高めるのが教師の役目であり、技量のなせる技である。
倉沢栄吉の「読解指導」の中に次のような実践がある。
教材は、アンデルセンの「裸の王様」である。
このお話の発問を考えるとどうなるか。
倉沢は「このお話の中で一番愚かな者は誰か」と問うた。
当然、多くの子供達は「王様である」ということになるだろう。
そこで、教師は「本当にそうだろうか」と問う・
そうすると「王様が一番愚かだ」と言っていた子どもたちは、王様には王様の立場や状況というものがあり、無理もないことだったと理解する。

そこで、二回目に同じ発問する。
「では、一番愚かな者は一体誰なのか」
そこで取り巻きの大臣だという意見が出てくるだろう。
では、なぜ大臣は見えもしないものを見えると言ったのか。
そこで、また気づくのである。
大臣の気持ちや状況、無理からぬ理由や心情を理解する。

さらに、子どもたちに問う。
「一番愚かな者は一体誰だろう」
残るは民衆である。
民衆には失うべき地位や名誉もない。
にも関わらず「裸だ」といえない。
これが一番愚かだという考えを持つ子もいるだろう。
一読しただけでは気が付かないことに気づいていく。
読みを深めるとは多様な価値観が理解でき、多面的に物事をみられるということだ。
その点では、日常生活に通ずる部分が大きい。

最終的は、本当のことを言ったのはあどけない一人の子供。
そこで、本当の主題に気づくのである。
純粋さの畏敬に。

このような発問を考えるということが発問の生産性だということだ。

saitani
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