飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

子どもと向き合うということ

2008年04月29日 13時47分11秒 | 授業論
現代の教師は多忙だ。
現実、私が教師になった頃から比べて、学校に対する地域や保護者の要求は格段に増えた。
学習指導要領も大きく変わり、教える内容も増え、高学年にはあたらしく英語教育も年間35時間行われることになる。

こんな中で子どもと向き合う時間が確保できるのだろうかと疑問視すること声も大きい。
では、子どもと向き合うとはどういうことだろうと考えてみる。

一般的に考えてみると授業が終わった放課後、たわいもない話題で盛り上がるこんなイメージをもっている人が多いかもしれない。
子どもたちの安全確保の問題から放課後の指導は実施できないのが現状だ。
保護者からも学校から子どもをすぐに帰してほしいという意見も多い。

指導の存在しないところでしか子どもと向き合うことができないのだろうか。
学校生活のほとんどは授業である。
この授業の中で子どもと向き合うことをしなければどんなに時間があったとしても子どもたちを理解することなどできない。

では、実際の授業の中で子どもと向き合うにはどうしたらよいのか。
そこには確かな教育技術が必要なのである。
だから、教師の技量が未熟では子どもと向き合うことはできないのである。
さらにいえば時間があったとしても技量が低ければ子どもたちを理解することはできないのである。

saitani
この記事についてブログを書く
« 情報の管理 | トップ | 同じようで異なる道 »

授業論」カテゴリの最新記事