飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

人生は四季を巡る

2013年07月06日 16時21分09秒 | 教育論
吉田松陰の留魂録にある言葉。

もうすぐこの世を去るというのに、
こんなにおだやかな気持ちでいられるのは、
春夏秋冬、四季の移り変わりのことを考えていたからです。

春に種をまいて、夏に苗を植え、
秋に刈り取り、冬がくれば貯蔵する。
春と夏にがんばった分、
秋がくるとの農民は酒をつくって、
なんなら甘酒なんかもつくって、
収穫を祝い、どの村でも歓喜の声があふれます。
収穫期がやってきて、
きつい仕事がようやく終わった。
そんあときに、悲しみ人なんていないでしょう。

私は三十歳で人生を終えようとしています。
いまだ、なにひとつできたことはありません。
このまま死ぬのは惜しいです。
がんばって働いたけれど、
なにも花を咲かせず、実をつけなかった。

ですが、私自身のことを考えれば、
やっぱり実りを迎える時期がきたと思うんです。

農業は1年で一回りしますが、
人の寿命というものは決まっていません。
その人にふさわしい春夏秋冬みたいなものが、
あるような気がするんです。
百歳で死ぬ人は百歳なりの四季が、
三十歳で死ぬ人は三十歳なりの四季があるということ。
つまり、三十歳で短すぎるというなら、
夏の蝉と比べて、ご神木寿命が長すぎる
というのと似たようなものじゃないかと思います。

私は三十歳で、四季を終えました。
私の実りが熟れた実なのか、
モミガラなのかはわかりません。
ですが、もしあなたたちの中に、
私のささやかな志を受け継いでやろう
という気概のある方がいたら、
これほどうれしいことはありません。
いつか皆で収穫を祝いましょう。

その光景を夢に見ながら、私はもういくことにします。

吉田松陰の死生観がよく表れている言葉である。