飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

決定権の誤解2

2022年10月09日 14時50分58秒 | 教育論
決定権が子供にあるような対応は、誤学習のもととなる。
それでは、どのように対応すればいいのか。
このときには「120%要求の法則」を使う。
先の事例のような場合、決定権を教師に戻して終えることが重要。

本来は6問で終了のようなときには、あえて8問の問題をやるように指示する。
「調子がわるいんだね。でも、大切な勉強だから8問でいいよ。」
「そんなにたくさんできません」
「じゃあ6問でいいからやってごらん」
予め120%の要求をしておいて、初期の100%の要求をさげた目標のように言う。
要求を下げたように見せる。
最後の一言が大事である。
6問という決定権は教師にあるようになっている。
このように何かを決定するときは決定権が最後はどちらにあるかを常に意識のうちにおく。
このことで二次障害を防ぐこともできる。

基本的なことだが、こんな聞き方もしばしばする。
「明日の宿題は何がいい。」
これはいけない。
決定権が子供にあるから。
「明日の宿題は、意味調べか、算数の練習問題だけどどちらがいいですか。」
宿題はあることが前提になっている。
「宿題なしにして。」という選択肢は子どもたちにはすでにない。

別の事例で考えてみる。
給食の片付けの場面、牛乳パックを自分で片付けようとしない子供がいる。
「先生が、片付けてよ」
という。
「だめだよ。自分で片付けなさい。」
ここで子供は切れるか、パニックを起こす。
牛乳パックを床に投げつける。
そして、片付けをしないで遊びにいってしまう。
しかたなく、教師が片付ける。

問題は明白である。
教師が牛乳パックを片付けてしまっている。
片付けを拒否して、床に投げつけるような行動をすれば教師が片付けてくれる、自分の要求が通るという誤学習をしている。
さらに、そのことにより決定権が子供がある状態をつくってしまっている。

それではどのような対処があるが。

saitani

この記事についてブログを書く
« リズムとテンポを生むには | トップ | 決定権の誤学習3 »

教育論」カテゴリの最新記事