三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【地元産材が彩る和洋混淆の調和「清華亭」】

2019年12月27日 06時28分15秒 | Weblog




きのうの続き、明治13年建築の開拓使建築の華「清華亭」。
この建物は周囲を偕楽園庭園が囲み、さらに造園設計としてドイツ系米人
ルイス・ベーマーが和洋調和した庭園を造作したとされます。
かれは札幌地域名産とされた「りんご栽培」なども手掛けたそうです。
お雇い外国人たちというのは、実に深くこの地の開拓に関わっている。
わたしたち北海道人には日本中のDNAのブレンドが見られるけれど、
同時に日常的なメンタリティ・価値判断にインターナショナル性もある。
ちょうど時代が明治に遭遇したこともあって、
他地域とはかなり文化や趣向組成に違いが出たものでしょうか?

和洋混淆という住宅のスタイルは、
積極的に「洋造」を取り入れる大方針から、
実際の実施段階に立ち至って、やはり日本人としての美意識も反映させる、
そういった日本らしい「文明の咀嚼」を追体験する営為。
この清華亭に至って、明確な貴賓使用を前提とした施設でもあり
和の空間でも洋の空間でも本格的な意匠を施しながら調和させている。
構造材にはトドマツや一部にアカマツ、造作材として
ヤチダモ・カンバ・セン・カツラなど地元産材だけで構成されている。
開拓の初期には秋田能代から北東北の木材がもたらされたのですが、
この時期明治13年段階では、開拓使での製材が進捗していた。
さらに暖炉煙突や土台石、玄関土間、外部敷石などに札幌軟石。
開拓使として地域の産業育成、地場産業の振興を施政方針とし、
天覧に供するこの建物で、その施政方針を「直答」したかったのでしょう。
天皇はこの和室から縁に立たれ、庭園の景観に満足したとされる。
そこにも和と洋のブレンドが表現されていた。
・・・という逸話からは、やはり洋の間よりも和の間に
天皇自身の自然な「くつろぎ」空間嗜好性もあったと思える。
これらの構造材などは径の大きな材が使われ丁寧な施工がされて、
140年ほどを経ても基本構造はしっかりしている。
<この建築は数奇な運命をたどり、1961年に札幌市有形文化財指定、
1978年に復元工事がされて往時の華やぎを取り戻した>
主要な居室は15畳の和室と、建物外観を特徴付ける円形の出窓、
ベイウィンドウを持った16畳相当の洋室の2室。
こちらの洋室にはシャンデリア。吊り元には円形飾りメダイオンが付き、
桔梗模様が彫り込まれている。和を意識した意匠。

このシャンデリアは蝋燭が明かりだったとのこと。
北海道で電灯が点るのは明治24(1891)年だったのです。
その間で、せっかくの大工事・開拓使本庁舎も焼失してしまった・・・。
繰り返される火災被害から近代国家としての基本的建設事業は
どうであるべきか、西欧先進文明とは石造建築文化を基礎とする
耐火性の高い「建築蓄積」であるのだと深く思い知ったに違いない。
彼我の相違を間違いなく為政者は感じたと思う。
防火の基準への偏執的固執は、近代主義国家としての基礎になった。
日本の為政方針は理の当然として定まっていったように思われる。
江戸期からの離脱とは建築としてはそのようなものだった気がします。
エネルギーを集中して新国家を建設し、欧米列強を坂の上の雲として
はるかに目指した開発国家に、電化は絶対不可欠なものだったでしょうね。
コメント
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