三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【なんか似てる 幕末八王子武家住宅と琴似屯田兵屋】

2019年12月01日 06時38分16秒 | Weblog




「北海道住宅始原への旅」シリーズ。きのうの【江戸城から開拓使本庁へ
建築技術者のDNA移植】の続篇、スピンアウト篇です。
わたしは住宅取材という仕事をしてきている人間。
年間住宅数は最盛期には200軒くらい「取材」していた。
その経験から住宅を「どう作ったか」という設計思想のようなものは
雰囲気から「つたわってくる」という実感を持っています。

江戸後期下級武士の「公営住宅」ともいえる「八王子千人同心組頭の家」を
江戸東京たてもの園で体感した経験がある。ブログでも書いている。
その後、明治「武人住宅」の琴似・屯田兵屋をあらためて訪れたとき、
「どうも似ているなぁ」という強い感覚を抱いておりました。
八王子千人同心は、下級の武士団であり半農半士的なありようだったことも
琴似屯田兵との類縁性を強く感じさせられる。
住宅全体の中での農事作業のための土間空間の「按分」感覚とか、
平入りの土間入り口と「勝手口」が対面構成になっている、
いわば「通り土間」的な平面構成の感覚。切妻平入りで、間取り的にも
土間と板敷きの間、奥の畳の間、台所の配置関係など、
いかにも「似ている」。設計的なDNAの連続性を感じさせられた次第。
士族の心性を理解した空間構成だという感覚がある。
普通の江戸期農家住宅と比べて「座敷を見る」ことへのこだわり、
格式としての「ハレ」空間へのこだわりがより強く感じさせられる。
コンパクトに作らざるを得ないけれど、わが家は武家である、
というような精神性がその設計から伝わってくると感じるのです。
土間でのふだんの生活シーンから正面には格式を表す
座敷と床の間空間が「いつも見えている」ことが、
農事のなかでも身分を決して忘れるな、みたいなことを諭すように感じる。
屯田兵屋は写真左ですが、床の間には主君たる明治天皇の真影まで飾られている。
開拓と防衛任務の両用目的として、設計的な「下敷き」に
八王子住宅が屯田兵屋にDNA的に「移植」されたように思われるのです。
わたしは遠藤明久先生のような学究者ではないのでエビデンスを探って
実相をあきらかにすることは碩学のみなさんに期待したいところですが、
取材者の感覚として、強い「素性」の類似性を感じた次第。

で、こういう感覚のうえに、遠藤先生の研究を読み進めて
幕臣から開拓使の建築技術者に転身の岩瀬隆弘が発掘されて
この実感という「点」が「線」へと繋がったと思える。
外形的事実としては、かれ岩瀬隆弘が琴似屯田兵屋の設計に
深く関わっていただろうことはあきらか。
琴似の大規模公営住宅「屯田兵村」208戸建設は、明治7年中のこと。
かれは同年3月に札幌を去っているのだけれど、
基本設計は工事着工までには当然済んでいただろうし、
なんといっても208戸の大工事で設計は十分な時間をかけたでしょう。
幕府から明治政府への移行期、屯田兵という兵農一体組織の役宅建設で
その類似先行形態として江戸後期の「八王子同心住宅」の設計が
下敷きとされるのはきわめて自然ではないか。
こういう国家意志・建築目的があって、高齢(推定55歳前後)ではあるが
岩瀬に寒冷の地、札幌勤務が命ぜられたのではないかと思える。
しかもかれは同時進行した開拓使本庁舎のアメリカン「洋造」についても
当時の日本建築界で高レベルの基礎的知見を有していたとする記述があった。
〜幕末期には横浜で「洋館」建設の実経験もあったかもと類推できる。
このあたり幕末の公共事業の研究発掘も期待したい。〜

以上の「実感」はあくまでもスピンアウト的な想像であります。
しかしこういう取材者としての感覚もなにかのきっかけにはなるかもと
書きとどめておきたいと思った次第。
八王子千人同心は幕府末期に蝦夷地開拓に取り組んだりもしている。
困窮の暮らしの中で蝦夷地に夢と希望を抱き、そして挫折している・・・。
幕府機構にいた人間として設計した屯田兵屋に対して、ある思いも
かれ岩瀬の胸に去来することはなかったか、
人間の側から建築を見つめ続けている人間として、想像力がうずく。
コメント
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