三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【明治3年段階 開拓使札幌建設工事】

2019年12月02日 07時30分59秒 | Weblog
<開拓使仮役所〜札幌市北4条東1丁目>


<官員たちの宿泊施設になった「本陣」>


さて引き続き、「北海道住宅始原期への旅」シリーズです。
明治初年のことがらでいろいろ調べながらなので、ブログ記事としては
行きつ戻りつというようになります。
でも、ブログに書くことで「絶対毎日」という強いメンタルが生まれるので
イマドキのテーマ追求にはこういうカタチはいいかもと思っています。
自由さがあって、毎日ワンテーマ的というのは書きやすい。

で、本日は「洋造」以前の開拓使建築。島義勇が札幌開府に猪突猛進し
ほかの上司たちから独断専行のそしりを受け転任させられるのが、
明治2年後半から明治3年3月という短期間。
しかし札幌の基本の「街割り」は決定し都市計画の基盤は確定した。
その後、明治4年には政府側の主導者・黒田清隆の方針が確定して
建築については「洋造」という大方針が固まり、
そのためにお雇い外国人や、開拓使側に建築の専門家スタッフも強化された。
明治4年の9月に建築専門家・岩瀬隆弘も札幌にやって来た。
そして明治5年から6年にかけての「開拓使本庁舎」建設が始動する。
・・・という流れになっていますが、この3年から4年にかけても
島義勇路線なのかどうか、建設工事は継続していた。
上の写真の「開拓使仮役所」や下の宿泊施設「本陣」建設などです。
仮庁舎は明治3年3月着工で4月に完成している。
建坪53坪、経費1,311円あまり。平面図は発見されていない。
前年まで建築と同様に「和風」の様式を持っていたとされている。
「明治2年11月(旧暦)島義勇は従属十有余名を率いて来地し、治所を相し、
仮に庁事を設く。」という記述が随行の高見沢権之丞の記録にある。
10数人が公務をここで執り行ったのだけれど、
史書には寝泊まりしたように受け取れる記述もある。
写真を子細に見るとチョンマゲ・帯刀の人物が見える、いかにも明治初年。
一方、写真下は「本陣」の仮建築から本建築に改修したあとの様子。
用途は江戸期同様の「本陣」という名前が表すとおり宿泊施設。
江戸時代には大名行列の参勤交代セレモニーでの旅宿。
この北海道始原期では、官員の生活居宅として使われたのだろう。
<下の仮本陣費用を見るとかなり安普請で仮本陣が建てられたと思われる>
明治5年に改修着工して7月に完成したと書かれている。
建坪245坪あまりという当時最大の建築とされていた。
その後、お雇い外国人の宿舎として「教師館」と通称された。

以下、最初期の非専門職「営繕」担当官・高見沢権之丞の記録に書かれた
2年から3年にかけての札幌本府建築状況()内は予算規模。
・西側壱番集議所(670両)・弐番小主典邸(880両)・三番小主典邸(854両)
・東壱番使掌長屋(1880両)・西弐番使掌長屋(1880両)・壱番板倉(201両)
・弐番板倉(158両2分)・御本陣(340両)・大主典邸(1360両)
・東壱番小主典邸(875両)・東弐番小主典邸(943両)・仮御宮(91両)
・営繕物置(325両) 以上〆て 10,387両 以て14棟。
他に取りかかり分
・民家 百弐軒 5,400両 ・板倉番所 凡そ2,500両

明治の革命というのは暦から貨幣制度、首都移転など、多方面にわたる。
そういうなか国家意志としての北方防衛国防意識からの北海道経営。
本府札幌ではこういった工事が進捗していた。
コメント
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