たいへんマイナーな夢だったのですが、
わたくし、この度ついに、念願の地、十三湊を見ることができました。
感激いたしました。
東北をたびたび訪れるようになったとはいえ、さすがに
津軽半島の西側日本海本州最北端に近い
十三湊は、さすがに機会がなかなか訪れませんでした。
今回、たまたま、五所川原での講演の機会がありましたので、
そのあとの盛岡での取材時間を調整させて貰って、
ついに念願を果たすことができた次第です。
十三湊って、歴史に興味がある人でもそんなに知らない。
忽然として歴史上から消え去ってしまったという
ことから、「幻の湊」というようなとらえ方もされていた。
大津波で一気に存在が消えてしまったという説も流されていたのですね。
ところが、北海道から北の北東アジア民族との日本の交流は
ひとえにこの十三湊が主要舞台になってきていた。
中国朝鮮との交流が博多が主要舞台であったとすれば、
北の方は、この十三湊であるのですね。
北海道に暮らすものとして、アイデンティティのまほろば、という思いがある。
そして、その存在などがなんとも謎に満ちているのです。
日本列島社会の北の玄関口だとすれば、
歴史年代を通じて、活発なコミュニケーションが展開されたことは疑いがない。
十三湊に近い場所には、遮光土偶が出土した亀岡遺跡も存在し、
青森市の三内丸山なども考え重ねると、
この地域は、まさに豊穣な歴史が浮かび上がってくる。
律令時代の古代城柵、福島城祉も近接してある。
ということはこの地がいかに枢要の地域であったのかを表している。
出土する土器のたぐいは、中国から朝鮮、日本の太平洋側・常滑など、
世界中のものが集まってきている。
この地を支配した「安東氏」は、前九年戦役の安倍氏の後裔ともいわれる。
そして、なにより、安東氏は「日本将軍」と称していて、
京都の中央内裏もその名を確認している。
日本という国号は、律令の祖国、中華世界から見て東側にあって、
「日が昇ってくる」という意味合いだと言われる。
そして、日本列島社会では、その「まほろば」の地は
この十三湊を中心とする地域が擬定されていたのでしょう。
その地の最高権力者として、安東氏は認定されていた。
1993年に国立歴史博物館がこの遺跡を調査して以来、
実に遺跡全体が明瞭になってきているのです。
まさに北の中心地であり、博多と並ぶ大港湾都市だったのですね。
いや、まだ興奮が続いているような次第であります。
で、本日は盛岡市で講演を行います。
ようやくプレゼン資料が確定して、やれやれであります。
あすは久しぶりに札幌に帰られます。あとひとがんばり!
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