長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

金田一耕助に帰ってきてほしいオレの事件簿  Vol. TAMAYO (珠代)

2012年06月11日 14時34分02秒 | ミステリーまわり
 どうにもこうにもこにゃにゃちは~。そうだいでございます。
 いや~、もう雨はザンザン降るし、晴れたら晴れたで暑くなるし! 夏ももう目の前ですなぁ。
 今年の夏は、ほんとにいろいろ新しくチャレンジしたいことが目白押しなんでねぇ。汗だくでがんばって、そのあとはぜひとも実りの多い秋を迎えたいもんです。
 っていうか、そうこうしてるうちに今年2012年の全体像もだいたい見えてきちゃったよ! 早いねぇ~。ホントに時間というものは貴重なんであります。

 気がつけばわたくしも、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝(1192~1219年)や鎌倉幕府第14代執権・北条高時(1303~33年 言っとくけど「最後の執権」じゃないヨ)、そして室町幕府第13代将軍・足利義輝(1536~65年)といった錚々たる歴史上の偉人たちの寿命をこえる人生をあゆむこととなっております。みなさまのようなバッドエンディングで人生をしめくくることのないように、心してかからねばなんねぇ。


 さて、「時間を大事に!」と言っておきながらも、思いっきりのんべんだらりと月をまたいで続けることとなってしまった「映像化された金田一耕助シリーズの歴史」なんですけども、そ~ろそろ! いいかげんにホントのおしまいにすることにいたしましょうや!!

 まぁ、例によってシリーズ全体を総括するようなたいしたシメかたはできないんですけれども、金田一耕助シリーズについての私の思い入れみたいなものをくっちゃべってまとめにすることにいたしましょうか。
 歴代金田一耕助のリストが先月の記事でバラバラになってしまってはなはだ見づらいかと思うのですが、そこはとっちらかりまくりの個人ブログですので、何卒御容赦のほどを!


 今現在2012年6月時点、「映像化された最後の金田一耕助」は2009年1月にフジテレビで放送された28代目金田一耕助・稲垣ゴローによる第5作『悪魔の手毬唄』になっております。その後、舞台というかたちで登場したスネ夫くんによる金田一耕助は、やっぱり映像の記録があったとしても当時上演されていたナマの演劇として楽しむべき作品かと思われますので、この際おいておくこととします。

 ということは、私たちはなんと、「3年半」もの長きにわたって金田一耕助の活躍を観ていないことになるのです。

 これは実に憂慮すべき事態です……

 これまでまとめてきた映像化リストの流れをおってみますと、実は1975年の中尾版『本陣殺人事件』の公開以来2009年にいたるまで、映画や TVドラマの中で2年以上ものあいだ金田一耕助の新作が発表されなかったことはまったくありませんでした。
 しいてあげれば、原作者・横溝正史死没直後の1982年と、9作続いた22代目金田一耕助・片岡鶴太郎によるフジテレビ版金田一耕助シリーズが終了した後の2001年だけが「まるまる1年新作がなかった」というだけで、それ以上に長くブランクがあくことはなかったのです。

 大変だ!! 要するに、今現在は「よれよれ袴にもじゃもじゃ頭」といった原作イメージにおおむね忠実な金田一耕助が映像作品に登場して以来、最大級の「金田一耕助氷河期」が到来している真っ只中だということになるのです。ヤベェよ!!
 この事態は規模でいうのならば、「第1次ブーム」と「第2次ブーム」とのはざまにあった、あの1970~74年の「金田一耕助が出ている原作の映像化作品にさえ金田一耕助が出てこなかった」超不遇時代に匹敵するものがあるのではないでしょうか。嗚呼、金田一耕助にとっては思い出したくもない恐怖の記憶がよみがえる……

 いったい、この冬はいつまで続くというのでしょうか。
 もはや3年以上新作が絶えている以上、稲垣金田一シリーズも終了したものと考えていいのかもしれませんが、天下の SMAPメンバー主演によるシリーズがたいした理由もなく撤退してしまったのだとしたら、一体これから誰がどうやって新シリーズを立ち上げたらいいというんだ……

 ただし、ここでちょっと私見をのべさせていただきますと、私自身は稲垣金田一シリーズはあんまり楽しんでは観ていませんでした。
 最初の『犬神家の一族』や『八つ墓村』はゲスト女優陣になかなかの迫力があって好きだったのですが(『女王蜂』の栗山千秋さんも出オチみたいな役柄ピッタリ感がありましたね)、これは演出者による意図的な采配なんでしょうけれども、シリーズ全体にわたって、なんとなく作風が「スナック菓子っぽい」というか、むりやりコミカルな演技を役者にやらせているような軽さが目立ってきたので、だんだん嫌いになっちゃいました。
 特に、レギュラーの小日向文世さんや塩見三省さんといった「オッサン陣」のキャラクターの単純さが観るに耐えなくなっちゃって。ほんとに「物語の進行役や説明役」ってだけになって、少なくとも生身の人間には見えないんですね。そんな「 RPGゲームやってみた。」みたいなドラマを2~3時間も見せられて、誰が喜ぶんでしょうか。

 ともあれ、天下のジャニーズでさえ手を引いてしまった金田一耕助シリーズ。こうなってしまったからには、これまでのテイストの繰り返しでは、新たなる「ポスト古谷」の時代は切り開けないと断言して間違いないでしょう。およそ30年間続いてきた「サスペンスドラマといえば金田一耕助!」という旧来のイメージを刷新する作品が必要とされているのです。

 思い起こせば、現在生きている私たちの脳内にある「金田一耕助イメージ」は、良い意味でも悪い意味でも「映画監督・市川崑」と「俳優・古谷一行」の両者に甚大な影響を与えられてきたと言えると思います。


 ここでちょっと私の過去の記憶をガサゴソとひもときますと、私が本当の「いちばん最初」に映像化された金田一耕助に出逢ったのは、1989年10月に放送された古谷一行金田一シリーズの『薔薇王』だったと思います。マイナー!!
 ただし、この時点では私もいとけない小学生だったため、「名探偵が謎の猟奇殺人事件を推理して解決する」というストーリーラインさえ理解できず、確か「お茶を運ぶからくり人形がどこからかカタカタ……とやってきて犯人の犯行メッセージを持ってくる」という描写にただひたすら恐怖していました。こりゃあ子どもにはこえぇ!!

 それから間もない翌90年に巻き起こった「1年間に5人もの金田一耕助が TVドラマで続出する」アホみたいな旋風の中で、やっと話がつかめるようになった私は同年9月放送の鶴太郎金田一の第1作『獄門島』と23代目金田一耕助・役所広司による唯一の作品『女王蜂』を親に許可をもらって最後まで観きり、いらい横溝作品の味わいにメロメロになって現在にいたります。当時の角川文庫版でのおどろおどろしいカヴァー絵が刺激的だった原作小説を読みはじめるようになったのは、中学生になってからだからもうちょっと後でしたね。

 その後は毎年のように放送される古谷金田一か鶴太郎金田一のどちらかをチェックする生活が続いていたのですが、思春期の私の胸に最もグサリときたのは、1991年7月に放送された古谷版の『八つ墓村』でした。これはも~おもしろかったですね!!

 原作小説の『八つ墓村』が2~3時間やそこらのスケールでは100% 再現できないボリュームの大長編ミステリーであることは前回にもふれたのですが、今まで9度も映像化された中でも、6度目の映像化(古谷金田一としては2度目)にあたるこの91年版『八つ墓村』は、原作の無数の要素の中からベストに近い取捨選択がなされていたのではないでしょうか。
 要するに、本作の主人公にあたる寺田辰弥という青年の「出生の謎」に照準を当てた非常にロマンチックな内容にまとめられていたところがすばらしかったと記憶しています。

 また、その辰弥役の鶴見辰吾さんと、重要な役で出演している夏木マリさんのインパクトがでかいでかい!! 通常、「『八つ墓村』といえばあのキャラクター」とよく言われる「多治見32人殺し」の主犯・多治見要蔵の役を演じていたジョニー大倉さんはそれほどでもなかったですけど、とにかくこの鶴見・夏木ペアが実にうさんくさくて最高なんです。

 いろんな俳優さんが寺田辰弥という世にもかわいそうな青年の役を演じてきましたけれど、この鶴見さんほど、

「大金持ちの後継者になれるって聞いたから来てみたけど……こんな村やっぱ来るんじゃなった! 早く帰りてぇ!!」

 という後悔の念を、そのうつむき加減でいつも土気色になっている顔にありありと浮かべた方はいなかったのではないでしょうか。まさにリアリズムだ。

 また、夏木マリさんも強烈でさぁ!
 私なんか、この『八つ墓村』だけで一生のうちに摂取するべき夏木マリ成分の許容量を軽々とオーバーしちゃいましたからね。だから今でも、夏木マリさんは基本的には観たくない感じです。たった1時間半の演技で20年間おなかいっぱい。スニッカーズもビックリよ。

 あと、非常に印象的だったのがこの91年版『八つ墓村』のエンディングで、霧深い中国山地の遠景をバックにスタッフロールが流れながら、たまらなく哀切で美しいヴァイオリンの調べが響いていたんですね。この曲がほんっとにいいんだ! いちおう真犯人も明らかになって事件も解決しているものの、村の名士がほぼ全滅というすさまじい有様になっている『八つ墓村』の幕切れに実にふさわしいメロディだったのです。
 当時まだガキンチョだった私は、単なるサスペンスドラマの BGMとしては異常にレベルが高くて気合いが入りまくっているこの主題曲を聴いて、世界に通用するといっても言い過ぎではないクオリティをさらっと提示しているドラマスタッフの手腕に激しく感動したものだったのです。これはとてつもないと。

 ところがそれから数年後、私はこのときにエンディングに使われていた曲が『八つ墓村』オリジナルのサウンドトラックではなく、バロック音楽の不朽の名作として世界的に有名な『アルビノーニのアダージョ』だったという驚愕の真実を知ってしまうのでした。そりゃあ世界に通用するわ! っていうか、軽く2~300年は世界に通用し続けてるんだよ!!
 ……と思ったんですけど、実は『アルビノーニのアダージョ』って、楽譜が見つかって発表されたのは戦後の1958年だったんですって! クラシック音楽としては新人中の新人だったんですねぇ。名曲にドラマありですわ。

 まぁ、とにかく俳優と演出と脚本とが非常にバランスよくいいお仕事をしてくださった大傑作だったと記憶しておるんですね、私は。あと、後半の大洞窟のシーンで適度にエロがあったのも大切な心の宝物です……今みなおしたら多分たいしたことないんでしょうけど。

 『八つ墓村』が、日本ミステリー史上に残る「被害者が多すぎる大事件」であることはつとに有名なのですが、この作品の中での金田一耕助はバッタバタと人が死んでいくのを何もせずに傍観していると揶揄されることも多いです。
 特に過激な犯行描写だけをピックアップするような映像化作品の中ではよけいに「役立たず感」を強調されてしまうような哀しさがあるのですが、91年版『八つ墓村』では、当時40代も後半にさしかかった古谷一行さんのなんとも言いようのない哀感に満ちたたたずまいがきわだって作品にマッチしていました。人間の力ではふせぎようのない「なにか」の力が働いて事件が起こっている、という恐ろしさですね。

 リストを見てもらってもおわかりのように、「通算48作で金田一耕助を演じる」という文句なしの史上最多登板数をほこる古谷一行さんは、1977年に33歳で初めて演じて以来、2005年の『神隠し真珠郎』まで四半世紀の長きにわたって、この日本を代表する名探偵のビジュアルイメージを担当することとなりました。
 この古谷一行による『横溝正史シリーズⅠ&Ⅱ』ならびに『名探偵金田一耕助の傑作推理』シリーズは、やっぱり後半に行くにつれて原作からかけ離れた脚色が目立つようになったし、出演者も「いかにもサスペンスドラマ」といった感じの、重厚さはあるけど新鮮味に欠ける顔ぶれといったマンネリズムに支配されるようになってはいたのですが、特に若かったころの古谷金田一による映像化作品の功績は無視できないものがあると思います。長くやるにはちゃんとそれなりの理由があるということだったんですよ!

 また、実は原作小説の中での金田一耕助も、60歳になった時に長年の懸案だった『病院坂の首縊りの家』事件を解決したことをしおに探偵業を引退したということになっており、2005年に61歳での主演を最後に金田一役を封印している古谷さんの姿勢も非常にファンの気持ちをくみとった判断だと思います。
 ただねぇ、最後の事件が『真珠郎』ってのは、ちょっと寂しすぎるかしら……もっと「最後の事件」らしい作品をもってフィナーレにしてほしかったんですけど、まぁ~これから古谷さんが再びあのマントをはおる機会はないんじゃないかな! ほんとうにお疲れさまでした。
 ちなみに、「金田一耕助がマントをはおって行動している」というのは明らかに映像化作品によるオリジナル要素で、原作小説で金田一耕助がはおっているのは、マントとコートの中間に位置するような形の「二重回し」という外套です。あの、太宰治が着ているイメージの強いやつですね。
 ぜんぜん関係ないですけど、おれ、なぜか二重回しを二着とマントを一着もってるんだぜ! きぃちがいじゃが、しかたがない。

 とにかくこんな感じで、私は「特に誰の金田一耕助にお世話になった?」と問われると、やっぱり幼少期におびえながらもブラウン管(古……)に釘づけになった古谷一行と答えざるをえません。

 だとしたら、古谷金田一に匹敵する存在として今なお語り継がれている「映画監督・市川崑の金田一シリーズ」のほうはどうだったのかと言いますと、これは確か、私の場合は1996年のトヨエツ金田一による『八つ墓村』公開にあわせた衛星放送での映画特集で『悪魔の手毬唄』を観たのが最初だったかと思います。『犬神家の一族』はもっとあとでしたね。

 言うまでもなく、その映像の1コマ1コマにもらさず込められた監督の哲学というか美学というか、特徴的なカット割りのセンスや、意図的に陰影を強くした映像色調などでなにかとインパクト大な伝説シリーズなのですが、私は他ならぬ市川監督ご自身による後年での「晩節の汚しっぷり」こそが、現在の金田一耕助氷河期の最大級の主犯になっていると確信しています。憎んでも憎みきれねぇや、コンチクショウ!!

 一般に「市川崑の金田一耕助シリーズ」というと、1976年の角川映画『犬神家の一族』にはじまって、1977~79年の東宝『悪魔の手毬唄』『獄門島』『女王蜂』『病院坂の首縊りの家』、1996年の東宝『八つ墓村』に2006年のリメイク版『犬神家の一族』のことをさすのですが、リストでも指摘しましたが、私はここに1991年公開の東映『天河伝説殺人事件』も入れなければ、完璧なラインナップにはならないと思います。

 以上の8作の共通項は「監督が市川崑」ということと、「なにかと猪突猛進な加藤武演じる刑事が登場する」ことです。っていうか、この2つがおさえられている時点で、「娯楽映画」としての体裁はできあがっていると言ってさしつかえないでしょう。お話に少々納得いかない部分があったのだとしても、なんとなくそれなりのクオリティの作品を見た気になってしまうのが、市川崑監督の非常に悪いところです。

 つまり端的に言ってしまえば、市川崑の金田一耕助シリーズは1979年までの5作で「できあがってしまっていた」ことを、のちの3作でくりかえす、しかもオリジナルを超えない劣化コピーという形でしか提示していないと、この際わたしは断言してしまうのであります。いくら日本を代表する巨匠っつってもさぁ、3回連続でひどい出来のヤツを見せられたら、そりゃあどんな映像美でもアクビがでてきますわ!

 後半3作のうち、しいてあげればトヨエツ『八つ墓村』だけが多少は新しい金田一作品を生み出したいという気概もあったのかも知れませんが、いかんせんキャスティングと脚本に難がありすぎたかと思います。
 天下の名女優・岸田今日子による「双子の老婆」だとか白石加代子による「濃茶の尼」だとかいう「そこなくっちゃ♡ 」な配役はいかにも市川崑らしくて良かったのですが、やっぱり高橋和也さんに萬田久子さんに宅間伸さんといったあたりのニューフェイスに「まぁそれなりに絵にはなるけど、毒にも薬にもならない味気なさ」があるせいで物語にひきつけられないというか、話の本筋を担当するべき中核メンバーに魅力が足りなくて、その周囲にいる脇役陣にインパクトがありすぎるという「役者のドーナツ化現象」がはなはだしい作品になってしまっているのです。
 ただし、若い役者さんの中ではトヨエツさんと喜多嶋舞さんが非常にいい浮遊感をかもし出していて良かったですね。

 ところがねぇ~、この96年版『八つ墓村』は、この作品オリジナルで組み込まれた「真犯人確定の手がかり」という部分がとにかく、ひどいひどい!! これのせいで作品全体の雰囲気がどっちらけになっていると言ってもさしつかえないでしょう。
 いくら物語の舞台が戦後まもない1940年代後半の日本の片田舎だったのだとしても、そんなアホンダラな犯人だったら第2第3の殺人なんかやるひまもなく警察にしょっぴかれているのではないでしょうか。もちろん八つ墓村のたたりどころか、金田一耕助さえもが出てくる必要のないつまんない事件に終わっていたはずです。市川監督、映像的な美にこだわるあまりに観客と警察をナメすぎ!! 天界で横溝先生にあやまってください。

 96年版『八つ墓村』についてはそんな感じなのですが、それ以外の『天河伝説殺人事件』と06年版『犬神家の一族』にかんしては、申し訳ないですがこの『長岡京エイリアン』ですら文字数をさくことが惜しまれるような最低な出来になっていたかと記憶しておりますので、特には触れないことにします。

 いや、映像はきれいです! そういう点では2作とも、プロの映像作家の作品として充分に成立しているものではあるんですが、「ミステリー作品の映像化」だとか、「役者の演技を楽しむエンタテインメント」という観点でみてしまうと、まるで成立していないか絶望的に退屈だとしか言いようがないんですなぁ。

 しかも、後年の3作を見渡してみますと、どうにも市川崑は1990年代以降の日本の俳優界に絶望していたとしか思えないフシがあります。
 要するに、自分の信頼している俳優なら、その人がいくらヨボヨボの爺ちゃん婆ちゃんになろうが喜々として起用するのですが、若手のニューフェイスにたいしては「絵としてはえるんなら誰でもいいや。」くらいの適当さで演出しているとしか思えない「ネグレクト感」があるのです。な~んか、全体的に若い俳優陣が活き活きとしてないっつうか、単なるおしゃべり人形になってるんだよなぁ。

 だいたい元をただせば、市川崑監督の作品のうち、横溝正史の原作の比較的忠実な映像化といえるものは『犬神家の一族』と『悪魔の手毬唄』くらいで、それ以降の作品はどこかしらでだぁれも得しない崑印のよけいな脚色がまじってしまっています。極端な話、『天河伝説殺人事件』なんか内田康夫の小説らしいとこなんかどこにもないですし。

 思えば「よォし、わかった!!」の加藤武さん演じる刑事キャラなんかは、名前こそ同じだったとしても、原作小説のどこにも登場しない性格の完全な市川崑のオリジナルなわけで、つまるところ、市川崑の仕事は「横溝正史の世界を単純化して映像変換して2時間半のワクにおさめる」というディフォルメ作業に徹する、ただそれだけなのです。


 そういう考えを持っている私なので、市川崑のシリーズを観ただけで横溝正史の世界を知った気になるのだけはやめていただきたい、と切に願っています。それはもう、映像作品としては余人にはないセンスというものがあるので一見の価値はあるとは思いますが、それで満足して原作小説を読まないのは、「夜のお菓子『うなぎパイ』を食べてうな重を食べたような気になる」のと同じくらいの恥ずかしい、そしてもったいない行為だと言わざるをえません。

 いろいろ言いましたけど、市川崑の一連のシリーズの最大の問題点は、

「原作にさも忠実そうなふりをしてまったく似ていない金田一耕助像を提示していること」

 これに尽きます。

 06年版『犬神家の一族』のラストシーンでは、事件を解決してひょうひょうと去っていく金田一耕助をさして、登場人物のひとりが原作小説にも76年版のオリジナルにも存在していないこういったセリフをつぶやきます。

「あのひとは、天使だったのかも知れない……」

 気持ちわるっ。

 こういうことを、暗に観客に感じさせるんじゃなくて役者にセリフとして堂々と言わせるっていう、その厚顔無恥さね。
 金田一耕助が天使だなんていうのは、ど~せ知ったかぶった監督と金田一役とが意気投合して思いついた無責任な思考停止スイッチでしょ!? ちゃんと人間として描いてくださいよ~っての。そんなボケラッチョな台本を書いてるから、1年後にモノホンの天使に誘われて逝っちゃったんじゃないですか。


 ま、それはさておきまして、3年以上もの沈黙をへて新生するであろう、いや、新生しなくてはならない金田一耕助は、そういったさまざまな旧来イメージを破壊するような「私立探偵業で生活している生身の人間」であるべきだと、私そうだいは夢想しています。

 そのためにも、映像化に挑戦する作家さんも横溝正史の原作に今一度たちかえる作業が必要でしょうし、役者さんだって「正体不明で生活感がない」だけではなく、犯罪の闇に対峙するダーティさも持ちあわせた技量が要求されるでしょう。

 私としましては、『本陣殺人事件』は絶対にまた映像化してほしいのですが、それ以外で言えば『三つ首塔』や『幽霊男』や『仮面舞踏会』というあたりの、定番の「いなかのじけん」とはちょっと違う味わいのある作品群が観たいですねェ~!! 決して悪い食材じゃあないと思うんだ。『悪魔の寵児』とか『夜歩く』とかは食中毒必至のデンジャーゾーンですけど。

 復活せよ、横溝正史。復活せよ、金田一耕助!!


いちどでいいから観てみたい  『白と黒』の映像化


 そうだいでした。歌さん、腰よくなるといいですね。

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