『刑事コロンボ』オリジナル小説作品の事件簿!! 各事件をくわしく解析
※TVドラマシリーズ『刑事コロンボ』の概要は、こちら
※未映像化事件簿の「 File.1、2」は、こちら!
File.3、『クエンティン・リーの遺言』( Shooting Script)ジョゼフ=P=ギリスとブライアン=デ・パルマの共作 訳・大倉崇裕 2004年12月~06年12月
≪犯人の職業≫ …… 犯罪心理研究家(映像マニア)
≪被害者の職業≫ …… TV番組司会者、一人芝居俳優
≪犯行トリックの種類≫…… 動機なき無作為殺人
・アメリカ本国で1973年7月(第2シーズンの放送終了後)に、第3シーズン用として執筆された没シナリオの小説化作品。日本における『刑事コロンボ』シリーズ研究の第一人者である町田暁雄が編集した同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』の Vol.1~3にて連載された。
・シナリオ版では、コロンボをサポートするオリジナルキャラクターとして、メカ小僧のスピルバーグ君ら3人の大学生が登場するが、小説化に当たって日本人映画監督キタカワイッペイに差し替えられている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、コロンボの部下のジョージ=クレイマー刑事とシオドア=アルビンスキー刑事(通称マック)、「バーニーの店」のバートが登場する。
あらすじ
犯罪心理の研究家であり、常にビデオカメラを手放さない映像マニアのクエンティン=リーは、自身の完全犯罪の一部始終を録画して、自分の死後にドキュメンタリー作品として発表しようと計画した。そのために、自分の住むマンションに数多く暮らす「無益な有名人」のリストを壁に貼り、ダーツで決めた被害者をビデオカメラで撮影しながら殺害する! 事件解決に協力する映画監督くずれの日本人青年とともに、コロンボはこのあまりにも異常な犯罪を打ち砕くことができるのか!?
私が今回の企画で読んだ、『刑事コロンボ』の未映像化作品8作のうち、唯一、一般書店で流通していた書籍でなく同人誌内での連載という形で小説化されたエピソードとなります。ただし、訳者はプロのミステリ小説家で二見書房文庫の『刑事コロンボ』ノベライズシリーズでも2作担当されている方なので、単行本化していないというだけの違いで内容のクオリティは他のエピソードと遜色ないものであると思います。だって、同人誌の責任編集者が、あの町田暁雄先生なんだもの! わざわざ町田先生に連絡して同人誌を注文購入するだけの価値は十二分にありまっせ。
非常に不勉強なことに、私はミステリ作家としての大倉崇裕先生の作品をまともに読んだことはなくて、今回の本作と、アニゴジ2作のノベライズでしか存じ上げないんですよね……もうね、ここ20年くらいは新しいミステリ作家さんの作品を開拓してない感じなのです、申し訳ない!
ただ、本作に大倉先生オリジナルで追加、というかシナリオの「スピルバーグ君」たちと交代で登場することとなった日本人監督「キタカワイッペイ」というキャラクターに関しては、ゴジラシリーズのノベライズを手がけた大倉先生としては許すことのできない実在の人物がいそうなことを予想せずにはいられません。ま、あの人のことだろうな……最近は『シン・ゴジラ』や『ゴジラ -1.0』の大ヒットでシリーズにも余裕が出てきたので、その人が手がけた作品も「いい思い出」みたいな感じになってきてますが、当時は私も「ゴジラシリーズの乗っ取りだ!」と憤慨したものでした。にしても、作中で彼にここまで落ちぶれた生活を強いているのは、大倉先生のそうとうな恨みを感じますね……フィクションだけど!
さて肝心の内容についてなのですが、本作は何と言っても、かの『スカーフェイス』(1983年)や『アンタッチャブル』(1987年)などで有名な映画監督のブライアン=デ・パルマが脚本を手がけた作品であり、しかもゲスト主人公となる犯罪心理研究家のクエンティン=リーが、「ビデオテープで録画しながら殺人を犯す」という、かなりサイコで倒錯したエピソードとなっております。
確かにそういう目立つポイントだけを見てみると、同人誌の中で町田先生も解説しているように、執筆された1970年代前半の価値観から「恨みも何もない相手を興味本位で殺す」という点が過激だったがために映像化が見送られたという経緯もあるかも知れません。
ただ、この作品、今回大倉先生による訳を読んでみて率直に私が感じたのは、単に「他の候補シナリオに比べてパッとしないから」映像化しなかっただけなのでは……? という印象なんですよね。この点、実は大倉先生も小説化にあたってもっと面白くアレンジしようかということも考えられたらしいのですが、これはあくまでもデ・パルマのシナリオを翻訳する仕事なので、極力手を加えずに小説化したと語っておられています。例のキタカワイッペイ青年の登場も、元のスピルバーグ君達の活躍を小説という文章の世界で表現しても面白くなりそうにないという判断からだったとのことです。つまり、デ・パルマのシナリオはやはり映画監督の作品らしく、ハンディカメラを構えながら人殺しをする犯人とか、クライマックスで犯人の目を盗んで「罠」をしかけるコロンボ達のサスペンスとかいう「映像映え」に特化した作品だったということなのです。
なので、本作は正直、ミステリ作品としてはかなりスカスカな内容になっていると言わざるを得ず、その割にゲスト犯人のリーは冒頭で「自分が死後にバラすまで絶対に解明されない完全犯罪をやってのけるゼ!」と傲岸不遜きわまりないハードル上げをブチあげてしまうので、「お前あんなこと言っといて、結果そのザマかよ~!!」とツッコまざるを得ない醜態をさらしてしまうのです。
このリーは、ミステリ作品なので具体的には言えないのですが、まず肝心カナメの殺人の決行後に、自分の録画したビデオ内に映っていた「あるもの」を見てとんでもない勘違いをやらかし、それを隠蔽しようとして、やる意味の全く無い第2の殺人を犯してしまうのです。当然、その辺の行きあたりばったりな犯行からコロンボもリーを怪しむわけなのですが、コロンボもコロンボで捜査にはイマイチ精彩を欠き、最終的にリーを追い詰める最後の一手は「リー自身が慌てて決定的な証拠を持ち出す瞬間を押さえるために罠をかける」という定番のやつなので、はっきり言って疑わしい人物の家に火を放つのと同じくらい原始的な作戦で強引に犯人検挙をもぎ取るのでした。犯人がリーだったから良かったようなものの……
いやほんと、今作のリーは口ばっかり達者なのに実際にやってみようとしたとたんに足元がガタガタ震え出して、疑心暗鬼からいらぬ失敗を呼び込むような典型的な犯罪チェリーボーイくんで、第一、上で言ったリーが誤認した「あるもの」というのも、そこにいくまでにリーは2回はそれを見ているはずだし(被害者が手渡される時と、部屋で放り投げる時)、それ自体A4 サイズに拡大されているものだそうなので、いくらなんでもそれを「生きている人間」のように勘違いしてしまうというのは、視覚認知機能に異常な欠陥のある人間でなければ犯さないミスなのではないでしょうか。でも、リーはビデオカメラを手放せない映像マニアなんでしょ? その彼がこんなミスをやらかすとは思えないんだよなぁ。
この「あるもの」の要素を読んだ瞬間、私はミステリ映画の世界ではかなり有名なある作品(続編でも何でもないのになぜか日本では『 PART2』呼ばわりされてるやつ!)のメイントリックを連想してしまったのですが、あれもあれで「いや、そうはならんやろ……」と感じてしまうものではあるものの、デ・パルマの本作の方が数段ありえない誤認だし、そもそもそれをサスペンスフルに映像化するのはほぼ不可能だと思います。まともに映像化したら視聴者に笑われたんじゃなかろうか……
もう一つ、リーは「無差別にダーツで選んだ人間を殺す」という、所さんもビックリの無差別殺人という悪魔の所業を犯して……いるようでありながらも、まずダーツの標的がリーの住むマンションの同居人というアホみたいに近い生活範囲内の人選ですし、選んだ実際の被害者もリーにかなり面識のある人物だったので、「無差別」というのは看板に偽りありで、コロンボにとってイージーな問題になってしまったと思います。
そもそも、本作最大の「ビデオ撮影する殺人者」というのも、そのまんま「殺人者がビデオで撮影している」という事実以上なんのミステリ的な面白みにもつながっていないので、ここのビデオが「カセット録音」であっても「犯人しか知り得ない情報を記した日記」であっても全然互換可能なのが残念で仕方ありません。ただ目新しいからビデオになったってだけにしか見えないというか。その実、内容はかなり古臭いんですよね。
せめて、ここのビデオという要素にもうちょっと工夫を足して、「たまたま撮影していたビデオの中に人死にが映り込んじゃった」みたいなていで実は撮影者が計画的に殺人を犯していた、みたいな感じになっていたら、音声や文章では代えられない独自のサスペンスを生んでいたような気もするのですが……これはこれで、松本清張の有名な短編作品を思い起こさせますね。でも、本作よりは面白そうでしょ?
いずれにせよ、この『クエンティン・リーの遺言』は、「あのデ・パルマ監督が演出したかもしれない幻のエピソード」ということで過剰に伝説化しているきらいがあるのですが、映像化されなかっただけの十分な理由はある凡庸きわまりない作品だと思います。ただ、この「凡庸」というのは、あくまでも異常にレベルの高いエピソードが目白押しの『刑事コロンボ』シリーズの中ではという話であって、この作品が没になってしまうほど1970年代のシナリオ群はとんでもなかったんだなぁと、1990年代以降の『新・刑事コロンボ』を見て育った私なぞは驚愕してしまうのでした。
映像化しても、評価は低めなエピソードになってたんだろうなぁ。同人誌の解説の中で訳した大倉先生は、もしこの作品が映像化されたら犯人のリー役は1970年代ならピーター=クッシング、1980~90年代ならばジェレミー=ブレットに演じてほしかった、なんて語っておられているですが、いやいや、それは作品の過大評価にも程があるんじゃないかなぁ……こんな、ハンニバル=レクター博士の足元にも及ばない、もしも「シリアルキラー甲子園」があったとしても地方予選一回戦コールド負けレベルのまぬけを、かのレジェンドホームズ名優サマがたに演じてほしくはないですよね。身の程を知りなさいって話ですよ。
ともあれ、このエピソードの全貌をうかがい知る貴重なチャンスを与えてくださった、町田先生の同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』に大感謝!! ありがとうございました。
File.4、『13秒の罠』( The Dean's Death)アルフレッド=ローレンス 訳・三谷茉沙夫 1988年4月25日刊
≪犯人の職業≫ …… 大学の総長(シャーロッキアン)
≪被害者の職業≫ …… 大学の学部長(大学演劇部の顧問)
≪犯行トリックの種類≫…… テープレコーダーを使ったアリバイ工作
・アメリカ本国で1975年(第4・5シーズンの放送時期)に出版されたオリジナル小説の翻訳。
・のちの映像版第56話『殺人講義』(1990年12月放送 第10シーズン)と同様の展開がある。
・映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)と第36話『魔術師の幻想』(1976年2月放送 第5シーズン)に登場したコロンボ警部の部下フレデリック=ウィルソン刑事が三たび登場する。ただし、名前が「ジョン=J=ウィルソン」となっている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ウィルソン刑事の他にコロンボの飼い犬ワン公、獣医のベンソン院長が登場する。特にワン公は、事件解決に重要な役割を担っている。
・コロンボの行きつけのチリ料理の美味しい店も登場するが、店主の名前は映像版のバートではなく「バーニー」となっている(映像版では第2・5話に登場)。
・本作が翻訳出版された時期は、日本で『刑事コロンボ』シリーズと『新・刑事コロンボ』シリーズとの放送の中間期で、新作の放送は途絶えていた。
あらすじ
ロサンゼルス近郊にあるメリディス大学から、犯罪捜査に関する講演を依頼されたコロンボ警部は、大学の演劇部をめぐる奇怪な殺人事件に巻き込まれる。舞台公演に使う棺に隠されていた大学学部長の変死体。その惨殺劇を演出する策謀のシナリオの謎。捜査線上に浮かびあがった、緑色の服を着た男の正体とは?
結論から先に言ってしまうのですが、私、このエピソードはこの企画で読んだ「未映像化八部衆」の中でも、特に面白いと感じた作品でした。
これ以前に紹介したFile.1~3は、それぞれ「交換殺人」、「ビルまるごとの密室殺人」、「ビデオ撮影しながらの殺人」という、なかなか鮮烈な独自色のあるふれこみこそありはしたのですが、その内実はどれも完全にやり切れてはいない残念な出来のものが多く、せっかく魅力的な食材なのにおいしく調理する腕がなかったとしか言えない結果のものばかりでした。まぁ、映像化されないだけの理由は充分に推し測ることのできる作品が続いたわけです。
それに比べて本作はどうなのかと言いますと、まず第一に目立つのは、TVドラマの形で提供されるエンタメ作品としての「オチ」がかなりしっかりしている点です。コロンボ警部が、犯人にぐうの音も出させない決定打をはなって事件を鮮やかに解決させるという終幕の切れ味が、それこそ名人落語のサゲなみにスパッと決まるんですよね。この気持ちよさは、映像化されたエピソードの名作群と比較しても、あの『溶ける糸』(第15話)や『だまされたコロンボ』(第51話)にすら匹敵するものがあると思います。いやほんと、言い過ぎではないと思う!
しかも、その決定的なコロンボの論拠、言い換えれば犯人側の致命的なミスが、「カセットテープを使ったアリバイ工作」というトリックの性質に深く根差したものであるというところが、憎らしいくらいにうまいんですよね。つまり、「音声」という点では完璧に自身の不在を隠しおおせていたはずの犯人の策略が、「音声以外」の死角からの指摘でガラガラと崩壊するというカタルシス! これはいいですよね~。
さらに言うと、コロンボにこの会心の一撃の天啓を与えたのが、TVシリーズ版において「限りなくレギュラーに近い準レギュラー」として腐れ縁みたいに登場していた「あいつ」なんですから、TVシリーズからの『刑事コロンボ』ファンに喜んでもらおうという配慮も行き届いた余裕を感じさせます。しかもなんとラストでは、長い TVシリーズを通しても全く明らかにされることのなかった、ある衝撃の事実が……!? まぁこちらは本作かぎりの特例サービスのようではありますが、ファンにとっては大満足の幕切れなのではないでしょうか。
このように本作は、事件解決のスッキリ感が TVシリーズの傑作エピソード群レベルにしっかりしているところが特徴的なのですが、そこにいくまでの展開の中で、「自信家でいけすかない犯人」と「爪を隠して敵の隙をうかがうコロンボ」という典型的な対立構造もまたしっかり提示されているという点でも完成度が高いです。File.1、2のように訳者の作家性を反映させてキャラが立っているのではなく、あくまで TVシリーズの味わいに寄り添った形で犯人とコロンボそれぞれの造形が掘り下げられているのです。
具体的にそこらへんのディティールを明確にしているのは、本作では「シャーロッキアン」というキーワードでして、犯人はアリバイ工作まで周到に計画して殺人を決行するのですが、そもそもの原因は、犯人が大学学長という社会的地位にありながら大学の学生と不倫関係におちいっていたことであって、それを学長選に際して公表される前に告発者を殺そうというんですから、最早つける薬がありません。最低最悪のクズですね。
その彼が、ことあるごとにコロンボを小馬鹿にするだしに使うのがシャーロック=ホームズ・シリーズに関する話題で、会話のはしばしでドイルの作品に関する知識(ホームズの名言とか使っていたパイプの種類とか)を披歴しては、「あたしゃまともにホームズの小説なんて読んだことがないんで……」と口ごもるコロンボに、「刑事をやってるのに、そんなことも知らんのかね~?」とからんでくるところも、非常にイヤな犯人の人間性をあぶり出しているわけなのです。
ところが、物語の終盤におよぶ段になって、コロンボはいきなり犯人が驚くようなホームズに関するマニアックな知識(『海軍条約事件』と『マザリンの宝石』に関するもの)を持ち出してきて自身の推理を展開し、どうやらそこまでのコロンボの態度は完全なフェイクで、犯人の心理的ゆるみを引き出すためのカマトト作戦だったということが明らかとなるのでした。スカッとジャパンか、これ!? でも、このコロンボの、犯人逮捕のためならなんぼでも無能なふりをするし、いくら馬鹿にされても痛くもかゆくもないという姿勢は、TVシリーズに非常に忠実な解像度の高さがありますよね。
このように、本作はかなり映像化作品に肉薄するクオリティを持った傑作となっていると私は感じたのですが、それじゃどうして映像化されなかったのかと考えるに、まずもともとシナリオでなく小説の形で生まれたものだったということを抜きにしても、テープレコーダーのトリックの他に中盤で提示されていた「緑色の服を着た男」の謎が、ちょっと距離感のある感じになっていたのが問題だったのかな、という気がします。
要するに、この作品は「コロンボの大学講演を利用して殺人を犯す学長」という部分の他に「大学の演劇サークルで発生した殺人」という側面も持っていて、後者にからんでくるのが緑色の服の男という、それはそれで魅力的な謎なわけなのですが、ちょっとこの2つが有機的に組み合わされているとは言い難い乖離を生んでいるんですよね。なんか、2つの物語を無理やりくっつけたような強引さがあるのです。
せめて、犯人の学長が殺人の濡れ衣を演劇サークルの学生に着せようとする、みたいな策謀でもあったらさらに面白くなったような気はするのですが、残念ながら本作では犯人にそこまで見通す時間的余裕はなかったらしく、棚ぼた的にたまたま殺人現場に変なやつが来たから捜査が勝手に混乱してくれて助かった~、みたいな関係にしかなっていないのです。もったいないな~!
あと上にもあげたように、後年に「大学に講演にやって来るコロンボ」という一番おいしい要素だけが『殺人講義』にかっぱらわれてしまった、ということが、本作の映像化を決定的に闇に葬ってしまったような気もします。あわれな……部分的につままないで『華麗なる罠』(第54話)みたいに責任もって全部映像化してくれよ~!! でも、どうせ大学を舞台に映像化するんだったら、犯人は学生そのものの方がインパクトもあって面白いですよね。不謹慎だけど。
いや~、ちゃんと映像化された本作も観たかったなぁ! 非常に惜しい、不遇の一作でありました。
File.5、『サーカス殺人事件』( Roar of the Crowd)ハワード=バーク 訳・小鷹信光 2003年4月25日刊
≪犯人の職業≫ …… サーカスの綱渡り師
≪被害者の職業≫ …… サーカスの団長
≪犯行トリックの種類≫…… 電波通信による遠隔殺人
・1975年12月(第5シーズンの放送時期)に執筆された没シナリオの小説化作品。ただし、作中で「1967年」のサーカス団結成を「30年以上前のこと」と示唆しているセリフがあるため、物語の時代設定は日本語版刊行時の2000年代初頭に改変されていると思われる。
・映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)と第36話『魔術師の幻想』(1976年2月放送 第5シーズン)に登場したコロンボ警部の部下フレデリック=ウィルソン刑事が、『13秒の罠』に続いて登場する。ただし、名前が「ケイシー=ウィルソン」となっている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ウィルソン刑事の他にコロンボの飼い犬「ドッグ」が登場する。
・本作の冒頭で、コロンボは甥のマイク(10歳)とトム(8歳)を連れてガーニイ・サーカスの興行を観に行く。ただし、映像版のルールにのっとってマイクとトムは登場しない。
・本作が翻訳出版された時期は、映像化新作の放送は無かった(翌2004年に最終第69話が WOWWOWにて吹き替え放送された)。
・本作は、二見書房文庫から出版されたノヴェライズ版『刑事コロンボ』シリーズで最後に出版された作品となる。
あらすじ
非番の日に、甥たちと連れ立ってサーカス見物に行ったコロンボ警部。その上演中、サーカスの団長がキャンピングカーの中で変死を遂げた。一座のスターである綱渡り師が密かに仕掛けた空中の殺人トリックとは? 猛獣使いとピエロの証言をもとに、コロンボは密室の謎に挑む。
本作は1970年代に原型となるシナリオが執筆された作品なのですが、同様に小鷹信光さんが翻訳小説化した File.1、2と同様に、日本で出版された時期に時代設定が変更されています。そして何を隠そう本作は、長らく『刑事コロンボ』のノベライズを手がけてきた二見書房文庫からリリースされた最後のタイトルということになります。まぁ、アメリカ本国で最終第69話が放送された時期でもありますので、それに歩調を合わせた花道的な作品ということになりますでしょうか。
そして、そういう事情も込みで読んでみますと、本作は全国巡業するサーカス団という、時代の移り変わりとともに衰微し消えゆこうとしている娯楽業界を舞台にしていることもあいまって、何とも言いようのない哀愁を漂わせた独特な作品となっているのです。またこれが、ピーター=フォークというジャストフィットすぎる肉体を得てしまったがために、彼の人生と共に終焉を迎える運命を選んでしまった TVドラマ『刑事コロンボ』シリーズと、なんとなくオーバーラップするような気がするんですよね。もちろん、フォークから離れた形で2010年代以降に新たなる『刑事コロンボ』を再スタートさせることも不可能ではないのでしょうが(小説という形での新作もしかり)……前にも言いましたが、少なくとも今現在の私は、フォークでない外見を持った刑事コロンボの活躍は想像がつきません。
ただし、かといって本作の中でのコロンボが、ノベライズシリーズの最終作らしく何かしらの衰えを感じさせるような描写を見せているのかというと、決してそんなことはなく、いつも通りのコロンボと言いますか、むしろ TVシリーズ伝統のパターンで「物語にいっさいからんでこないコロンボの親戚」が登場したり、サーカス団のトラ4頭に囲まれてピンチに陥ったり、さらに終盤の謎解き場面では、なんと自ら身体を張ってピエロに変装して綱渡り用の高所に登ったりと、サービス満点の大活躍を見せてくれます。
だいたいにして、「サーカス団興行の最中に発生する不可能犯罪」というテーマが非常に個性豊かなので、これもまた、どうして没になったのかがわからない魅力的な題材のようでもあるのですが、実際に読んでみると、このエピソードの場合はメイントリックに関して「荒唐無稽すぎる」というケチがついたのではないか、という予想が容易に立ちます。
倒叙ものとは言えミステリ作品なので、ここでメイントリックに関して詳細を語ることは控えさせていただくのですが、本作のそれは、なんちゅうかその……機械トリックの種類に入るものなのですが、読んで真っ先に「そんなに、うまくいく!?」と疑問符がついてしまうものなのです。
ギリギリの範囲で言わせていただきますと、ほら、よくカセットコンロで使うガスボンベってあるじゃないですか、あのスプレー缶みたいな形のやつね。ああいうのを、ちょっと想像してみてください。
みなさん、あれの噴射口に取り付けるだけで、人間の手を使わずにガスを噴射させてくれる「マッチ箱大の装置」って、ありうると思います?
私、プライベートでも仕事でも、よくガスボンベを廃棄することがあるのですが、あれって中のガスをちゃんと全部出し切るためにいろいろ作業が必要でしょ。それをやってみるとよくわかるのですが、少なくとも日本で流通しているそういったスプレー缶って、噴射するためにはそうとうな力をかけて噴射口を押す必要があるんですよ。子どもの指の力だとけっこう難しいですよね。
あの力を、マッチ箱大の機械ごときで出せるのか……? それ、1970年代にしたって2000年代にしたって、いっぱしのミステリ作品のメイントリックの中心に据えていいような、現実味のあるものなのかな!?
そうは言いましても、それが無いと話が進まないので「いいから、そういう装置があるの!」といった強引な語り口で押し切られていくわけなのですが、そんな平賀源内の発明品みたいな「ツッコまないでくださいお願いします!!」的な魔法のアイテムを出すのって、私としてはにんともかんとも得心がゆかないものが残ってしまうのです。安易に「バカミス」という言葉は使いたくないのですが、そこを受け流すとなんでもアリになっちゃうと思うんだよなぁ。おそらくは、1970年代の制作スタッフの間でも、そういう常識的な判断が働いたのではないでしょうか。
なんと言っても、見た目が非常に華やかなサーカス団を舞台としたエピソードで、しかも犯人が専門分野とする綱渡りの演目がさまざまな角度から重要なキーワードとなってくる本作ではあるのですが、やはりその中核に位置するメイントリックにおいて、まるで SFの産物のような異物が混入してしまったことが、映像化を考える時に最後まで引っかかり続ける致命傷となっているような気がしました。いろいろ惜しいんだけどなぁ!
あと、本作に関してもう一つ気になってしまうのは、前回の File.1のゴルフ関係の交換殺人のエピソードでも触れましたが、実質的には犯人に殺人という極悪非道な選択肢をえらばせた張本人でありながらも、出すのは口ばっかりで自らの手を汚すことがないために、法の番人であるコロンボ警部ではどうしても裁くことのできない「真の悪人」が存在感たっぷりに描かれて、最後までのうのうと暮らしているという点です。そこはなんにも解決しなくていいの!? というモヤモヤ感が残ってしまうんですよね……でも、それが確かに現実の社会ではあるんですけれどもね。
団員もどんどん高齢化し、世間にサーカス以上に手軽に楽しめる娯楽コンテンツが氾濫している今現在を生き抜いていくために、自分たちのサーカス団をどう変えていけばいいのか。本作の犯人も被害者も、その間にいる犯人の恋人も、同じ問題について日夜真剣に悩みながらも、考え方が違っていたことで殺人という目も当てられない悲劇が発生してしまうわけなのですが、その内輪もめを遠巻きに扇動しておいてなんにもお咎めなしな人物がいるというのは……天下無双の娯楽ドラマ『刑事コロンボ』として一体ど~なのよ!という気はしちゃうんですよね。
ただ、『刑事コロンボ』の中にそういうビターな要素を入れているのは、アメリカ本国にいるシナリオやオリジナル小説の作者というよりも、File.1、2、5を翻訳(超訳?)している小鷹信光さんなんじゃないかという気もするんですけどね……訳のクセがすごい!!
「滅びゆくサーカス団の人々」というところにスポットライトを当て、ディティールを掘り下げる着眼点は素晴らしいとは思うのですが、わざわざ『刑事コロンボ』でやらなくても……という気はします。サーカスというパッケージこそ派手ではあるのですが、ある集団の中で古い力と新しい力とが衝突するという構図は、けっこうあるあるなパターンですよね。
さぁさぁ、こうして今回は『刑事コロンボ』未映像化小説八部衆のうちの File.3~5を扱ってみたわけなのですが、結局、一部分の展開(コロンボの大学講演)が映像化作品に使いまわされてしまった File.4以外の作品は、それぞれちゃんと映像化されなかっただけの「理由」はある、ということがよくわかりました。File.4の鮮やかな推理、映像で観たかった~!
八部衆のうち、残すは3作品となりましたが、果たして今までの作品を上回る面白さをみせてくれるエピソードはあるのでありましょうか!?
遅れに遅れている『刑事コロンボ』感想文企画、おそらく次回、最終回!
遅すぎるわ……待ってる担任の先生も、退職して実家でさといも農家はじめちゃうぞ!!
※TVドラマシリーズ『刑事コロンボ』の概要は、こちら
※未映像化事件簿の「 File.1、2」は、こちら!
File.3、『クエンティン・リーの遺言』( Shooting Script)ジョゼフ=P=ギリスとブライアン=デ・パルマの共作 訳・大倉崇裕 2004年12月~06年12月
≪犯人の職業≫ …… 犯罪心理研究家(映像マニア)
≪被害者の職業≫ …… TV番組司会者、一人芝居俳優
≪犯行トリックの種類≫…… 動機なき無作為殺人
・アメリカ本国で1973年7月(第2シーズンの放送終了後)に、第3シーズン用として執筆された没シナリオの小説化作品。日本における『刑事コロンボ』シリーズ研究の第一人者である町田暁雄が編集した同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』の Vol.1~3にて連載された。
・シナリオ版では、コロンボをサポートするオリジナルキャラクターとして、メカ小僧のスピルバーグ君ら3人の大学生が登場するが、小説化に当たって日本人映画監督キタカワイッペイに差し替えられている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、コロンボの部下のジョージ=クレイマー刑事とシオドア=アルビンスキー刑事(通称マック)、「バーニーの店」のバートが登場する。
あらすじ
犯罪心理の研究家であり、常にビデオカメラを手放さない映像マニアのクエンティン=リーは、自身の完全犯罪の一部始終を録画して、自分の死後にドキュメンタリー作品として発表しようと計画した。そのために、自分の住むマンションに数多く暮らす「無益な有名人」のリストを壁に貼り、ダーツで決めた被害者をビデオカメラで撮影しながら殺害する! 事件解決に協力する映画監督くずれの日本人青年とともに、コロンボはこのあまりにも異常な犯罪を打ち砕くことができるのか!?
私が今回の企画で読んだ、『刑事コロンボ』の未映像化作品8作のうち、唯一、一般書店で流通していた書籍でなく同人誌内での連載という形で小説化されたエピソードとなります。ただし、訳者はプロのミステリ小説家で二見書房文庫の『刑事コロンボ』ノベライズシリーズでも2作担当されている方なので、単行本化していないというだけの違いで内容のクオリティは他のエピソードと遜色ないものであると思います。だって、同人誌の責任編集者が、あの町田暁雄先生なんだもの! わざわざ町田先生に連絡して同人誌を注文購入するだけの価値は十二分にありまっせ。
非常に不勉強なことに、私はミステリ作家としての大倉崇裕先生の作品をまともに読んだことはなくて、今回の本作と、アニゴジ2作のノベライズでしか存じ上げないんですよね……もうね、ここ20年くらいは新しいミステリ作家さんの作品を開拓してない感じなのです、申し訳ない!
ただ、本作に大倉先生オリジナルで追加、というかシナリオの「スピルバーグ君」たちと交代で登場することとなった日本人監督「キタカワイッペイ」というキャラクターに関しては、ゴジラシリーズのノベライズを手がけた大倉先生としては許すことのできない実在の人物がいそうなことを予想せずにはいられません。ま、あの人のことだろうな……最近は『シン・ゴジラ』や『ゴジラ -1.0』の大ヒットでシリーズにも余裕が出てきたので、その人が手がけた作品も「いい思い出」みたいな感じになってきてますが、当時は私も「ゴジラシリーズの乗っ取りだ!」と憤慨したものでした。にしても、作中で彼にここまで落ちぶれた生活を強いているのは、大倉先生のそうとうな恨みを感じますね……フィクションだけど!
さて肝心の内容についてなのですが、本作は何と言っても、かの『スカーフェイス』(1983年)や『アンタッチャブル』(1987年)などで有名な映画監督のブライアン=デ・パルマが脚本を手がけた作品であり、しかもゲスト主人公となる犯罪心理研究家のクエンティン=リーが、「ビデオテープで録画しながら殺人を犯す」という、かなりサイコで倒錯したエピソードとなっております。
確かにそういう目立つポイントだけを見てみると、同人誌の中で町田先生も解説しているように、執筆された1970年代前半の価値観から「恨みも何もない相手を興味本位で殺す」という点が過激だったがために映像化が見送られたという経緯もあるかも知れません。
ただ、この作品、今回大倉先生による訳を読んでみて率直に私が感じたのは、単に「他の候補シナリオに比べてパッとしないから」映像化しなかっただけなのでは……? という印象なんですよね。この点、実は大倉先生も小説化にあたってもっと面白くアレンジしようかということも考えられたらしいのですが、これはあくまでもデ・パルマのシナリオを翻訳する仕事なので、極力手を加えずに小説化したと語っておられています。例のキタカワイッペイ青年の登場も、元のスピルバーグ君達の活躍を小説という文章の世界で表現しても面白くなりそうにないという判断からだったとのことです。つまり、デ・パルマのシナリオはやはり映画監督の作品らしく、ハンディカメラを構えながら人殺しをする犯人とか、クライマックスで犯人の目を盗んで「罠」をしかけるコロンボ達のサスペンスとかいう「映像映え」に特化した作品だったということなのです。
なので、本作は正直、ミステリ作品としてはかなりスカスカな内容になっていると言わざるを得ず、その割にゲスト犯人のリーは冒頭で「自分が死後にバラすまで絶対に解明されない完全犯罪をやってのけるゼ!」と傲岸不遜きわまりないハードル上げをブチあげてしまうので、「お前あんなこと言っといて、結果そのザマかよ~!!」とツッコまざるを得ない醜態をさらしてしまうのです。
このリーは、ミステリ作品なので具体的には言えないのですが、まず肝心カナメの殺人の決行後に、自分の録画したビデオ内に映っていた「あるもの」を見てとんでもない勘違いをやらかし、それを隠蔽しようとして、やる意味の全く無い第2の殺人を犯してしまうのです。当然、その辺の行きあたりばったりな犯行からコロンボもリーを怪しむわけなのですが、コロンボもコロンボで捜査にはイマイチ精彩を欠き、最終的にリーを追い詰める最後の一手は「リー自身が慌てて決定的な証拠を持ち出す瞬間を押さえるために罠をかける」という定番のやつなので、はっきり言って疑わしい人物の家に火を放つのと同じくらい原始的な作戦で強引に犯人検挙をもぎ取るのでした。犯人がリーだったから良かったようなものの……
いやほんと、今作のリーは口ばっかり達者なのに実際にやってみようとしたとたんに足元がガタガタ震え出して、疑心暗鬼からいらぬ失敗を呼び込むような典型的な犯罪チェリーボーイくんで、第一、上で言ったリーが誤認した「あるもの」というのも、そこにいくまでにリーは2回はそれを見ているはずだし(被害者が手渡される時と、部屋で放り投げる時)、それ自体A4 サイズに拡大されているものだそうなので、いくらなんでもそれを「生きている人間」のように勘違いしてしまうというのは、視覚認知機能に異常な欠陥のある人間でなければ犯さないミスなのではないでしょうか。でも、リーはビデオカメラを手放せない映像マニアなんでしょ? その彼がこんなミスをやらかすとは思えないんだよなぁ。
この「あるもの」の要素を読んだ瞬間、私はミステリ映画の世界ではかなり有名なある作品(続編でも何でもないのになぜか日本では『 PART2』呼ばわりされてるやつ!)のメイントリックを連想してしまったのですが、あれもあれで「いや、そうはならんやろ……」と感じてしまうものではあるものの、デ・パルマの本作の方が数段ありえない誤認だし、そもそもそれをサスペンスフルに映像化するのはほぼ不可能だと思います。まともに映像化したら視聴者に笑われたんじゃなかろうか……
もう一つ、リーは「無差別にダーツで選んだ人間を殺す」という、所さんもビックリの無差別殺人という悪魔の所業を犯して……いるようでありながらも、まずダーツの標的がリーの住むマンションの同居人というアホみたいに近い生活範囲内の人選ですし、選んだ実際の被害者もリーにかなり面識のある人物だったので、「無差別」というのは看板に偽りありで、コロンボにとってイージーな問題になってしまったと思います。
そもそも、本作最大の「ビデオ撮影する殺人者」というのも、そのまんま「殺人者がビデオで撮影している」という事実以上なんのミステリ的な面白みにもつながっていないので、ここのビデオが「カセット録音」であっても「犯人しか知り得ない情報を記した日記」であっても全然互換可能なのが残念で仕方ありません。ただ目新しいからビデオになったってだけにしか見えないというか。その実、内容はかなり古臭いんですよね。
せめて、ここのビデオという要素にもうちょっと工夫を足して、「たまたま撮影していたビデオの中に人死にが映り込んじゃった」みたいなていで実は撮影者が計画的に殺人を犯していた、みたいな感じになっていたら、音声や文章では代えられない独自のサスペンスを生んでいたような気もするのですが……これはこれで、松本清張の有名な短編作品を思い起こさせますね。でも、本作よりは面白そうでしょ?
いずれにせよ、この『クエンティン・リーの遺言』は、「あのデ・パルマ監督が演出したかもしれない幻のエピソード」ということで過剰に伝説化しているきらいがあるのですが、映像化されなかっただけの十分な理由はある凡庸きわまりない作品だと思います。ただ、この「凡庸」というのは、あくまでも異常にレベルの高いエピソードが目白押しの『刑事コロンボ』シリーズの中ではという話であって、この作品が没になってしまうほど1970年代のシナリオ群はとんでもなかったんだなぁと、1990年代以降の『新・刑事コロンボ』を見て育った私なぞは驚愕してしまうのでした。
映像化しても、評価は低めなエピソードになってたんだろうなぁ。同人誌の解説の中で訳した大倉先生は、もしこの作品が映像化されたら犯人のリー役は1970年代ならピーター=クッシング、1980~90年代ならばジェレミー=ブレットに演じてほしかった、なんて語っておられているですが、いやいや、それは作品の過大評価にも程があるんじゃないかなぁ……こんな、ハンニバル=レクター博士の足元にも及ばない、もしも「シリアルキラー甲子園」があったとしても地方予選一回戦コールド負けレベルのまぬけを、かのレジェンドホームズ名優サマがたに演じてほしくはないですよね。身の程を知りなさいって話ですよ。
ともあれ、このエピソードの全貌をうかがい知る貴重なチャンスを与えてくださった、町田先生の同人誌『 COLUMBO!COLUMBO!』に大感謝!! ありがとうございました。
File.4、『13秒の罠』( The Dean's Death)アルフレッド=ローレンス 訳・三谷茉沙夫 1988年4月25日刊
≪犯人の職業≫ …… 大学の総長(シャーロッキアン)
≪被害者の職業≫ …… 大学の学部長(大学演劇部の顧問)
≪犯行トリックの種類≫…… テープレコーダーを使ったアリバイ工作
・アメリカ本国で1975年(第4・5シーズンの放送時期)に出版されたオリジナル小説の翻訳。
・のちの映像版第56話『殺人講義』(1990年12月放送 第10シーズン)と同様の展開がある。
・映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)と第36話『魔術師の幻想』(1976年2月放送 第5シーズン)に登場したコロンボ警部の部下フレデリック=ウィルソン刑事が三たび登場する。ただし、名前が「ジョン=J=ウィルソン」となっている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ウィルソン刑事の他にコロンボの飼い犬ワン公、獣医のベンソン院長が登場する。特にワン公は、事件解決に重要な役割を担っている。
・コロンボの行きつけのチリ料理の美味しい店も登場するが、店主の名前は映像版のバートではなく「バーニー」となっている(映像版では第2・5話に登場)。
・本作が翻訳出版された時期は、日本で『刑事コロンボ』シリーズと『新・刑事コロンボ』シリーズとの放送の中間期で、新作の放送は途絶えていた。
あらすじ
ロサンゼルス近郊にあるメリディス大学から、犯罪捜査に関する講演を依頼されたコロンボ警部は、大学の演劇部をめぐる奇怪な殺人事件に巻き込まれる。舞台公演に使う棺に隠されていた大学学部長の変死体。その惨殺劇を演出する策謀のシナリオの謎。捜査線上に浮かびあがった、緑色の服を着た男の正体とは?
結論から先に言ってしまうのですが、私、このエピソードはこの企画で読んだ「未映像化八部衆」の中でも、特に面白いと感じた作品でした。
これ以前に紹介したFile.1~3は、それぞれ「交換殺人」、「ビルまるごとの密室殺人」、「ビデオ撮影しながらの殺人」という、なかなか鮮烈な独自色のあるふれこみこそありはしたのですが、その内実はどれも完全にやり切れてはいない残念な出来のものが多く、せっかく魅力的な食材なのにおいしく調理する腕がなかったとしか言えない結果のものばかりでした。まぁ、映像化されないだけの理由は充分に推し測ることのできる作品が続いたわけです。
それに比べて本作はどうなのかと言いますと、まず第一に目立つのは、TVドラマの形で提供されるエンタメ作品としての「オチ」がかなりしっかりしている点です。コロンボ警部が、犯人にぐうの音も出させない決定打をはなって事件を鮮やかに解決させるという終幕の切れ味が、それこそ名人落語のサゲなみにスパッと決まるんですよね。この気持ちよさは、映像化されたエピソードの名作群と比較しても、あの『溶ける糸』(第15話)や『だまされたコロンボ』(第51話)にすら匹敵するものがあると思います。いやほんと、言い過ぎではないと思う!
しかも、その決定的なコロンボの論拠、言い換えれば犯人側の致命的なミスが、「カセットテープを使ったアリバイ工作」というトリックの性質に深く根差したものであるというところが、憎らしいくらいにうまいんですよね。つまり、「音声」という点では完璧に自身の不在を隠しおおせていたはずの犯人の策略が、「音声以外」の死角からの指摘でガラガラと崩壊するというカタルシス! これはいいですよね~。
さらに言うと、コロンボにこの会心の一撃の天啓を与えたのが、TVシリーズ版において「限りなくレギュラーに近い準レギュラー」として腐れ縁みたいに登場していた「あいつ」なんですから、TVシリーズからの『刑事コロンボ』ファンに喜んでもらおうという配慮も行き届いた余裕を感じさせます。しかもなんとラストでは、長い TVシリーズを通しても全く明らかにされることのなかった、ある衝撃の事実が……!? まぁこちらは本作かぎりの特例サービスのようではありますが、ファンにとっては大満足の幕切れなのではないでしょうか。
このように本作は、事件解決のスッキリ感が TVシリーズの傑作エピソード群レベルにしっかりしているところが特徴的なのですが、そこにいくまでの展開の中で、「自信家でいけすかない犯人」と「爪を隠して敵の隙をうかがうコロンボ」という典型的な対立構造もまたしっかり提示されているという点でも完成度が高いです。File.1、2のように訳者の作家性を反映させてキャラが立っているのではなく、あくまで TVシリーズの味わいに寄り添った形で犯人とコロンボそれぞれの造形が掘り下げられているのです。
具体的にそこらへんのディティールを明確にしているのは、本作では「シャーロッキアン」というキーワードでして、犯人はアリバイ工作まで周到に計画して殺人を決行するのですが、そもそもの原因は、犯人が大学学長という社会的地位にありながら大学の学生と不倫関係におちいっていたことであって、それを学長選に際して公表される前に告発者を殺そうというんですから、最早つける薬がありません。最低最悪のクズですね。
その彼が、ことあるごとにコロンボを小馬鹿にするだしに使うのがシャーロック=ホームズ・シリーズに関する話題で、会話のはしばしでドイルの作品に関する知識(ホームズの名言とか使っていたパイプの種類とか)を披歴しては、「あたしゃまともにホームズの小説なんて読んだことがないんで……」と口ごもるコロンボに、「刑事をやってるのに、そんなことも知らんのかね~?」とからんでくるところも、非常にイヤな犯人の人間性をあぶり出しているわけなのです。
ところが、物語の終盤におよぶ段になって、コロンボはいきなり犯人が驚くようなホームズに関するマニアックな知識(『海軍条約事件』と『マザリンの宝石』に関するもの)を持ち出してきて自身の推理を展開し、どうやらそこまでのコロンボの態度は完全なフェイクで、犯人の心理的ゆるみを引き出すためのカマトト作戦だったということが明らかとなるのでした。スカッとジャパンか、これ!? でも、このコロンボの、犯人逮捕のためならなんぼでも無能なふりをするし、いくら馬鹿にされても痛くもかゆくもないという姿勢は、TVシリーズに非常に忠実な解像度の高さがありますよね。
このように、本作はかなり映像化作品に肉薄するクオリティを持った傑作となっていると私は感じたのですが、それじゃどうして映像化されなかったのかと考えるに、まずもともとシナリオでなく小説の形で生まれたものだったということを抜きにしても、テープレコーダーのトリックの他に中盤で提示されていた「緑色の服を着た男」の謎が、ちょっと距離感のある感じになっていたのが問題だったのかな、という気がします。
要するに、この作品は「コロンボの大学講演を利用して殺人を犯す学長」という部分の他に「大学の演劇サークルで発生した殺人」という側面も持っていて、後者にからんでくるのが緑色の服の男という、それはそれで魅力的な謎なわけなのですが、ちょっとこの2つが有機的に組み合わされているとは言い難い乖離を生んでいるんですよね。なんか、2つの物語を無理やりくっつけたような強引さがあるのです。
せめて、犯人の学長が殺人の濡れ衣を演劇サークルの学生に着せようとする、みたいな策謀でもあったらさらに面白くなったような気はするのですが、残念ながら本作では犯人にそこまで見通す時間的余裕はなかったらしく、棚ぼた的にたまたま殺人現場に変なやつが来たから捜査が勝手に混乱してくれて助かった~、みたいな関係にしかなっていないのです。もったいないな~!
あと上にもあげたように、後年に「大学に講演にやって来るコロンボ」という一番おいしい要素だけが『殺人講義』にかっぱらわれてしまった、ということが、本作の映像化を決定的に闇に葬ってしまったような気もします。あわれな……部分的につままないで『華麗なる罠』(第54話)みたいに責任もって全部映像化してくれよ~!! でも、どうせ大学を舞台に映像化するんだったら、犯人は学生そのものの方がインパクトもあって面白いですよね。不謹慎だけど。
いや~、ちゃんと映像化された本作も観たかったなぁ! 非常に惜しい、不遇の一作でありました。
File.5、『サーカス殺人事件』( Roar of the Crowd)ハワード=バーク 訳・小鷹信光 2003年4月25日刊
≪犯人の職業≫ …… サーカスの綱渡り師
≪被害者の職業≫ …… サーカスの団長
≪犯行トリックの種類≫…… 電波通信による遠隔殺人
・1975年12月(第5シーズンの放送時期)に執筆された没シナリオの小説化作品。ただし、作中で「1967年」のサーカス団結成を「30年以上前のこと」と示唆しているセリフがあるため、物語の時代設定は日本語版刊行時の2000年代初頭に改変されていると思われる。
・映像版第11話『悪の温室』(1972年10月放送 第2シーズン)と第36話『魔術師の幻想』(1976年2月放送 第5シーズン)に登場したコロンボ警部の部下フレデリック=ウィルソン刑事が、『13秒の罠』に続いて登場する。ただし、名前が「ケイシー=ウィルソン」となっている。
・映像版に登場したキャラクターとしては、ウィルソン刑事の他にコロンボの飼い犬「ドッグ」が登場する。
・本作の冒頭で、コロンボは甥のマイク(10歳)とトム(8歳)を連れてガーニイ・サーカスの興行を観に行く。ただし、映像版のルールにのっとってマイクとトムは登場しない。
・本作が翻訳出版された時期は、映像化新作の放送は無かった(翌2004年に最終第69話が WOWWOWにて吹き替え放送された)。
・本作は、二見書房文庫から出版されたノヴェライズ版『刑事コロンボ』シリーズで最後に出版された作品となる。
あらすじ
非番の日に、甥たちと連れ立ってサーカス見物に行ったコロンボ警部。その上演中、サーカスの団長がキャンピングカーの中で変死を遂げた。一座のスターである綱渡り師が密かに仕掛けた空中の殺人トリックとは? 猛獣使いとピエロの証言をもとに、コロンボは密室の謎に挑む。
本作は1970年代に原型となるシナリオが執筆された作品なのですが、同様に小鷹信光さんが翻訳小説化した File.1、2と同様に、日本で出版された時期に時代設定が変更されています。そして何を隠そう本作は、長らく『刑事コロンボ』のノベライズを手がけてきた二見書房文庫からリリースされた最後のタイトルということになります。まぁ、アメリカ本国で最終第69話が放送された時期でもありますので、それに歩調を合わせた花道的な作品ということになりますでしょうか。
そして、そういう事情も込みで読んでみますと、本作は全国巡業するサーカス団という、時代の移り変わりとともに衰微し消えゆこうとしている娯楽業界を舞台にしていることもあいまって、何とも言いようのない哀愁を漂わせた独特な作品となっているのです。またこれが、ピーター=フォークというジャストフィットすぎる肉体を得てしまったがために、彼の人生と共に終焉を迎える運命を選んでしまった TVドラマ『刑事コロンボ』シリーズと、なんとなくオーバーラップするような気がするんですよね。もちろん、フォークから離れた形で2010年代以降に新たなる『刑事コロンボ』を再スタートさせることも不可能ではないのでしょうが(小説という形での新作もしかり)……前にも言いましたが、少なくとも今現在の私は、フォークでない外見を持った刑事コロンボの活躍は想像がつきません。
ただし、かといって本作の中でのコロンボが、ノベライズシリーズの最終作らしく何かしらの衰えを感じさせるような描写を見せているのかというと、決してそんなことはなく、いつも通りのコロンボと言いますか、むしろ TVシリーズ伝統のパターンで「物語にいっさいからんでこないコロンボの親戚」が登場したり、サーカス団のトラ4頭に囲まれてピンチに陥ったり、さらに終盤の謎解き場面では、なんと自ら身体を張ってピエロに変装して綱渡り用の高所に登ったりと、サービス満点の大活躍を見せてくれます。
だいたいにして、「サーカス団興行の最中に発生する不可能犯罪」というテーマが非常に個性豊かなので、これもまた、どうして没になったのかがわからない魅力的な題材のようでもあるのですが、実際に読んでみると、このエピソードの場合はメイントリックに関して「荒唐無稽すぎる」というケチがついたのではないか、という予想が容易に立ちます。
倒叙ものとは言えミステリ作品なので、ここでメイントリックに関して詳細を語ることは控えさせていただくのですが、本作のそれは、なんちゅうかその……機械トリックの種類に入るものなのですが、読んで真っ先に「そんなに、うまくいく!?」と疑問符がついてしまうものなのです。
ギリギリの範囲で言わせていただきますと、ほら、よくカセットコンロで使うガスボンベってあるじゃないですか、あのスプレー缶みたいな形のやつね。ああいうのを、ちょっと想像してみてください。
みなさん、あれの噴射口に取り付けるだけで、人間の手を使わずにガスを噴射させてくれる「マッチ箱大の装置」って、ありうると思います?
私、プライベートでも仕事でも、よくガスボンベを廃棄することがあるのですが、あれって中のガスをちゃんと全部出し切るためにいろいろ作業が必要でしょ。それをやってみるとよくわかるのですが、少なくとも日本で流通しているそういったスプレー缶って、噴射するためにはそうとうな力をかけて噴射口を押す必要があるんですよ。子どもの指の力だとけっこう難しいですよね。
あの力を、マッチ箱大の機械ごときで出せるのか……? それ、1970年代にしたって2000年代にしたって、いっぱしのミステリ作品のメイントリックの中心に据えていいような、現実味のあるものなのかな!?
そうは言いましても、それが無いと話が進まないので「いいから、そういう装置があるの!」といった強引な語り口で押し切られていくわけなのですが、そんな平賀源内の発明品みたいな「ツッコまないでくださいお願いします!!」的な魔法のアイテムを出すのって、私としてはにんともかんとも得心がゆかないものが残ってしまうのです。安易に「バカミス」という言葉は使いたくないのですが、そこを受け流すとなんでもアリになっちゃうと思うんだよなぁ。おそらくは、1970年代の制作スタッフの間でも、そういう常識的な判断が働いたのではないでしょうか。
なんと言っても、見た目が非常に華やかなサーカス団を舞台としたエピソードで、しかも犯人が専門分野とする綱渡りの演目がさまざまな角度から重要なキーワードとなってくる本作ではあるのですが、やはりその中核に位置するメイントリックにおいて、まるで SFの産物のような異物が混入してしまったことが、映像化を考える時に最後まで引っかかり続ける致命傷となっているような気がしました。いろいろ惜しいんだけどなぁ!
あと、本作に関してもう一つ気になってしまうのは、前回の File.1のゴルフ関係の交換殺人のエピソードでも触れましたが、実質的には犯人に殺人という極悪非道な選択肢をえらばせた張本人でありながらも、出すのは口ばっかりで自らの手を汚すことがないために、法の番人であるコロンボ警部ではどうしても裁くことのできない「真の悪人」が存在感たっぷりに描かれて、最後までのうのうと暮らしているという点です。そこはなんにも解決しなくていいの!? というモヤモヤ感が残ってしまうんですよね……でも、それが確かに現実の社会ではあるんですけれどもね。
団員もどんどん高齢化し、世間にサーカス以上に手軽に楽しめる娯楽コンテンツが氾濫している今現在を生き抜いていくために、自分たちのサーカス団をどう変えていけばいいのか。本作の犯人も被害者も、その間にいる犯人の恋人も、同じ問題について日夜真剣に悩みながらも、考え方が違っていたことで殺人という目も当てられない悲劇が発生してしまうわけなのですが、その内輪もめを遠巻きに扇動しておいてなんにもお咎めなしな人物がいるというのは……天下無双の娯楽ドラマ『刑事コロンボ』として一体ど~なのよ!という気はしちゃうんですよね。
ただ、『刑事コロンボ』の中にそういうビターな要素を入れているのは、アメリカ本国にいるシナリオやオリジナル小説の作者というよりも、File.1、2、5を翻訳(超訳?)している小鷹信光さんなんじゃないかという気もするんですけどね……訳のクセがすごい!!
「滅びゆくサーカス団の人々」というところにスポットライトを当て、ディティールを掘り下げる着眼点は素晴らしいとは思うのですが、わざわざ『刑事コロンボ』でやらなくても……という気はします。サーカスというパッケージこそ派手ではあるのですが、ある集団の中で古い力と新しい力とが衝突するという構図は、けっこうあるあるなパターンですよね。
さぁさぁ、こうして今回は『刑事コロンボ』未映像化小説八部衆のうちの File.3~5を扱ってみたわけなのですが、結局、一部分の展開(コロンボの大学講演)が映像化作品に使いまわされてしまった File.4以外の作品は、それぞれちゃんと映像化されなかっただけの「理由」はある、ということがよくわかりました。File.4の鮮やかな推理、映像で観たかった~!
八部衆のうち、残すは3作品となりましたが、果たして今までの作品を上回る面白さをみせてくれるエピソードはあるのでありましょうか!?
遅れに遅れている『刑事コロンボ』感想文企画、おそらく次回、最終回!
遅すぎるわ……待ってる担任の先生も、退職して実家でさといも農家はじめちゃうぞ!!