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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

いい日、旅立……てるか、これ!?  ~お芝居はしごも、しばしのみおさめ~

2015年01月16日 23時01分09秒 | 日記
 う~、さみさみ! どうもこんばんは、そうだいでございます。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました!

 いや~、わたくし的には、昨日は今まで2年半ほどお世話になっていたお仕事のお勤め最終日ということで、しみじみ感謝し、しみじみ感動する一日とあいなりました。ほんとに、会う方、会う方みなさまからあたたかいお言葉をかけていただきまして……まことに私は果報者であります。
 まぁ、と言いましても、離れるったって千葉から山形なんですから! 決して「今生の別れ」というほど遠い距離ではないのですが、やっぱり、長くあいても2~3日おきには必ず顔をあわせていたみなさまと会わなくなるというのは、確実に胸に迫るさみしさがあるってもんです。でも、こういうのは日がたつごとに強くなってくるもんでしょうから、来月山形に帰ってからくらいに、やっと本格的に実感がわいてくるのかもしれませんが。私はホント、そういう感覚はアパトサウルスなみに鈍感ですからね~。今はまだ、すぐにでも会えるような気分が残っています。
 みなさま、変わらずにお元気でいてほしいですねぇ。受け取った、ありがたいお手紙やプレゼントの数々は、大事に持っていきたいと思います。おたがい、達者でね~!

 思い起こせば、昨日まで所属していた会社サマに拾っていただいたとき、私は劇団も退団して、何をするでもなく東急東横線か京急線沿いをふらふら歩いて桜木町を目指すという、変なものに憑かれたとしか思えない日々を送っている得体の知れない30すぎのオッサンでありました。まぁ、得体の知れないのは今もそうなんですけれども。
 しかも、まず資格を持っていなければお話にならない業界であるのにもかかわらず、資格なしでもよし、という度量の広さで雇っていただいた御恩は、まぁ死ぬまで忘れない部類のものであると認識しております。おかげさまで、遅ればせながら資格もとれました……
 確かに、千葉市在住のわたくしを川越やら川崎やら館山やらにぶっとばすお電話に恐怖する日々もありましたが、交通費もちゃんといただいてたわけですし、本当にいい勉強になりました。埼玉県って、ほんとに広いのねぇ。
 特に、1年半くらい専属にならせてもらった鎌ヶ谷市の仕事場のみなさまがたには、もうほんとにご迷惑もおかけしましたが、大変ながらもとっても楽しい日々を送らせていただきました。感謝感激、雨、生田斗真でございます! とうまく~ん!!

 さて、そんなこんなでありまして、さしあたって今日から私がやらなくちゃならないのはもう、引越しの準備、準備のオンパレードで! 必要最低限の物しかないアパート暮らしのわたくしでも、県外に引っ越すとなりますと、まぁ~連絡しなきゃならない関係各所サマが多い多い。仕事はないから一日中フリーではあるんですが、必ずなにかの用事があって外に出かける毎日になりそうです、千葉にいる残り2週間くらいは。あっという間なんだろうなぁ~。

 とは言いつつも、本日16日はのっけからの一日オフ……といいますか、おそらく最後の一日お遊び、といった内容となります。
 つっても、「オフ」じゃあないんだよなぁ、気分的には! だって、知り合いの方が出演されているお芝居を2本はしごするという流れになっておりまして、もちろん拝見するのは楽しみなんですが、アホはアホなりに集中してしっかり内容を見届けなくてはならないし、そのうえ、たぶん軽い気分でふらっと東京にやって来てお芝居を観るお出かけは、本日をもってしばらくはおっしま~い、ということになりそうなのです。

 なんてったって、こちとら山形暮らしになりますからね……東京まで片道5~600円で1~2時間なんていう千葉暮らしとはだいぶ事情が変わってきてしまうわけでして。
 思い起こせば、まだ山形にいた高校生時代に、同じ演劇部の友だちと連れだって、東京まで新幹線で行って2~3本のお芝居をはしごする、なんていうこともしてましたが、そりゃもう1泊2日くらいの完全なる旅行でしたからね! 気軽にホイホイやるわけにはいかねぇわなぁ。
 ところが、ありがたいことではあるんですが、東京でお芝居をする私の知り合いの方々はたっくさんおられますんでねぇ。いついつに公演やるヨ!というお誘いを、それこそ月イチのペースでいただいてしまうのでありまして。
 できれば、今までみたいにほぼ全てのお誘いに応じて拝見しに行きたいんですけどね……まぁ、山形での生活を安定させるためには、ちょっと休日も惜しんで、いろいろ勉強やら準備をしなきゃいけないこともありますし。自分の予想としては、まず今年2015年いっぱいは、東京に遊びに行く、ということはあまり考えずに日々の予定を組んでいこうかな、と腹をくくっております。いちおうしばらくは、「趣味は貯金です。」の精神でがんばっていこうかしらね!? 使うところには使うけどね。

 1998年の春に千葉に来てから、まぁ~いろんなお芝居を観てきましたけど。大学生時代の4年間に私、家計簿も兼ねて、この日はどのお芝居を観たとか、どの映画を観たとかって記録をつけてたんですよね。あれ、10年前の引越しのときに捨てちゃったんだよなぁ! なんというもったいないことを……思い出が満載のノートになるはずだったのになぁ。千葉に来て最初に観たのはなんだったんだろ……印象に残っている最古のものは、ナイロン100℃の『Φ(ファイ)』(1998年6~7月 中野ザ・ポケット)ですね。なんだかよくわかんないけど、とにかくおもしろかったんですよ! その、「なんだかよくわかんない」ってところが東京なんだろうな、なんてことを羽前人なりに考えてました。あとあれ、劇場のオープニング公演だったらしいんですが、終演後にお客さん全員にジュースがふるまわれてましたよね? あれ、それとも、劇場の空調が動かなかったから用意されたんだっけな。よくおぼえてないんですが、そこにもいたく感心した記憶があります。東京の一流のお芝居は、観た後にジュースをめぐんでくれるのかと! 千葉に来て最初のころは、すべてが首都圏の「ちょっぴり予想の上をいくシステム」との出会いの連続でした。東京はおそろしかとこばい!


 そして、それから実に16年の歳月が経過いたしまして。
 いちおう、自分の気持ちの中では「いったんの最後。」という心構えで、いつものように電車に乗って東京に向かったわけです。さぁさぁ、今日観るお芝居は、どっちもアタリになるかしらん!?


韓国現代戯曲ドラマリーディング『木蘭姉さん』(2015年1月16・17日 演出・松本祐子、作・キムウンソン 三軒茶屋・シアタートラム)


 まず1本目は、2年に1回のペースで企画されている「韓国現代戯曲ドラマリーディング」の第7回として上演されている3本のうち、私の知り合いの俳優の永栄正顕さんが出演している『木蘭姉さん』だけを観劇しました。
 この企画は、確か2年前の2013年2月に開催された第6回も私は観ていて、その時は女優の中島愛子さんや、「元祖演劇乃素いき座」の土井通肇さんが出演しているリーディング作品『白い桜桃』(演出・明神慈、作・ペサムシク)を拝見したんだそうです。そうです!?
 いや~、よく憶えてないんだよなぁ。でも、確か同じシアタートラムで上演されていて、ぼんやりとだけど私が観た回で、ドラマリーディングであるのにも関わらず、土井さんが自分のセリフをうっかり読み落としてしまって、土井さんのそのセリフをきっかけにして舞台に上がるつもりで客席から登場した俳優さんたちが、所在無く舞台の前をうろうろした末にキレるという爆笑ハプニングを目の当たりにしていた……ような気がします。この『白い桜桃』だったと思うんですけど。土井さんは本当にいい俳優さんですよね。

 そして今回の『木蘭姉さん』なんですが、タイトルの「木蘭」はこの物語の主人公である女性の名前で、劇中では「モンナンさん」と発音されていました。
 この「木蘭」という名前は、韓国では「いかにも古風な名前」といったニュアンスでからかわれる雰囲気を持っているらしいのですが、確かに「木蘭」と聞けば、国は違うのですが同じアジアということで、6世紀中国の江南地方に存在していた「陳帝国」に伝わっていた歌謡『木蘭』の主人公である、男装して軍に参加し、北の異民族国家・突厥帝国と闘ったという女傑「花 木蘭」のことが連想されます。これはつまり、1998年のディズニーアニメ映画『ムーラン』の原作ですよね。ムーランか……観ればきっとおもしろいんだろうけど、『ポカホンタス』とおんなじくらいに食指が動かないのは、なぜなんだろうか!?

 それはともかく、『木蘭姉さん』のモンナンさんは、北朝鮮から韓国にやって来た音楽家で、いわゆる「脱北者」という立場になるわけなのですが、韓国にやって来た経緯がかなり本人にとっては不本意なものだったらしく、なんとか両親のいる北朝鮮に帰りたいと切望し、東南アジアや中国を経由して北朝鮮に帰国するために闇ブローカーに払わなければならない大金をかせごうとします。
 そこに登場するのが、ソウルでピンサロを経営している中年女性チョウ・デジャで、デジャはモンナンを水商売で働かせようとはせずに、人生に絶望して引きこもり状態になっている自分の長男テサンの、家庭教師のていを借りた話し相手として雇うのでした。

 こういった環境の中で、北朝鮮へ帰りたいと願うモンナンの努力が物語の本筋となり、ひたむきで純粋な女性として育ったモンナンの生きる姿勢に感化されたテサンもまた、少しずつ生きる力を取り戻してくるという再生のドラマが展開されるのですが、お話はその他にも、テサンの弟で、不景気のあおりをくらった予算削減のために、自分の教える学科自体が廃止されてしまった大学教授のテガンのエピソードや、テサン・テガンの妹でうだつの上がらない小説家のテヤンが、モンナンの話を聞いて新たな小説を創作しようと必死になるエピソードなどがからんできます。
 つまりは、モンナンという不思議な人物の登場によって、家族の絆が危ういものになっていたデジャ一家の面々が再び集まり、そこからまた新しい局面へと進みだす、といったあたりが『木蘭姉さん』のおおまかな流れになっているのです。
 ところが、自分が北朝鮮へ帰るということを秘密にして生活するモンナンに、ある日、デジャが長男テサンとの結婚を勧めるようになり、物語はいっきに悲劇のかおりをただよわせてきます。さぁ、モンナンは計画通りに故国へ帰る道を選ぶのか、それとも、自分に心を開いてくれたテサンや、異国での苦難の日々を楽しいものにしてくれたデジャ一家への恩を優先する道を選ぶのか……

 こんな感じなわけなのですが、ドラマリーディング『木蘭姉さん』は、台本を俳優全員が手に持って舞台上で朗読する、という体裁はとりつつも、衣装はしっかり役ごとに着替え分けて、身体も可能な限り台本に書かれた動きをしっかりやるという、かぎりなく演劇に近い形で上演されていました。簡素ながらも、シーンごとにテーブル、ベッドなどの大道具も用意されていましたし。まさに、普通のお芝居との違いといえば、俳優が台本を持っているか持っていないか、くらいだったのです。

 そうなると……いや、物語自体はものすごくおもしろかったですし、こういった「ほぼお芝居」の作品を、ドラマリーディングということで普通のお芝居のチケット代設定よりも格段に安い1500円で楽しめるのは非常にお得なことなんですが、観ている間じゅうずっと、私の頭の中では、

「なんで……リーディング?」

 という疑問が駆け巡りまくってしまいまして。内容よりも何よりも、まずそこが気になって仕方がありませんでした。
 いや、そりゃあ、理由を聞いたら「ドラマリーディングの上演が前提の企画だから。」ということになるのでしょうが、俳優さんに身体をめいっぱい使ってもらって、そこまで物語をしっかり立ち上げたいという情熱が演出家さんに湧き上がったとするのならば、もはや企画の「リーディングで」というくくりは足かせ以外の何者でもないようにしか見えなくなっちゃうんですね。

 だって、私も劇団に所属していた時代に何回かドラマリーディングに出演させていただいた経験はあるんですが、あれ、練習してるうちにおぼえちゃいますからね、台本に書いてあるセリフなんか。特に、力を入れて演じたい大事なシーンこそ、なおさら自然に頭に入ってきちゃうでしょ。実際に『木蘭姉さん』でも、俳優さんによっては、演技に熱が入るにしたがって、手にしっかり台本を持っているのに、いつの間にか視線が台本を離れて暗記したセリフをしっかり発声している状態になっている方、ふつうにいました。そりゃしょうがないですよ、台本持ちながら酒盛りとかやってるんですからね。

 俳優さんがそうなるのはわかるような気がするんですが、そうすると、私の目にはどうにも、「芝居をしている人が台本を持っている」という状態がとてつもなく不自然なものに見えてきてしまって……『木蘭姉さん』のストーリーよりも、リーディング公演をお芝居っぽくやっている演出家さんの意図とか、選んだ韓国戯曲をリーディングで上演したい企画の真意とかが気になって、なんともヘンな気分におちいってしまうのでありました。

 いやいや、とにかくお話はおもしろいんだから、上演形式とか台本があるないとか、んなこたどうでもいいじゃねぇか。楽しめ! という声もいっぽうでは頭の中で聞こえてくるのですが、お芝居じゃなくてあえてリーディングをやるのならば、お芝居から離れ続けた方向でそのリーディング公演をおもしろくするスタイルが、私は観たくて。難しいんでしょうけれども!
 せめて、俳優さんが台本を持って舞台に立っていることに説得力はほしい気がします。つまり、本番まで何百回もその台本を読んで稽古を重ねている経緯が実際にあるとしても、本番中は「初めてこの台本を読むんですが……おもしろいねぇ、これ!!」という演技を忘れないでいただきたいのです、あたしゃ! そこでプロフェッショナルな演技をしてもらえたら、各自の役柄になりきるお芝居的な演技なんかいらない。だってお芝居じゃないんだもん。リーディングなんだもん。

 そんなこんなをつらつら考えながら観ていたのですが、『木蘭姉さん』は、2012年に35歳の戯曲家が執筆したとは思えないほどに構成が老練で緻密で、それなのにかなりわかりやすいストーリーライン(モンナンの帰国)が一貫して真ん中にドンと用意されているから、登場人物が多いのにマンガのように楽に話が飲み込める間口の広さがあるな、と感じました。キャラクターたちも、北朝鮮と韓国との現在も続いている不安定な関係や、韓国国内の社会問題をしっかり体現する笑えない状況にありながらも、そこをしっかり喜劇的に笑って生きている明快な強さがあって。
 私も演劇をいっぱい観ているわけではないのでデカい口は叩けないのですが、同じ世代の日本の戯曲家さんたちとはちょっと別次元というか、「誰に観てもらうか」という視線がまったく違うんだろうな、という気はしました。『木蘭姉さん』はそうとう上の世代のお客さんにも楽しめる内容になっていて、私が観た回でも、むしろそっちの方々のほうにウケている雰囲気がありましたもんね。大衆演劇みたいなんだよなぁ、笑いのとり方が。お客さんのセンスに挑戦するような冒険をする場所ではない、みたいな。

 いやぁしかし、モンナン姉さんを演じていた主演の kiyokaさん、歌うまかったねぇ!! うまい生歌っていうのは、ほんとに無条件で感動しちゃうからすばらしい武器ですよ。あぁ、沖縄アクターズスクールのご出身ですか! そりゃうまいわけだわぁ。

 お芝居について、いろいろなことを考えるいい機会になりました。ただ、そうやって突き詰めていくと、結局は、「じゃあお前がやってみろ! ってなるんだけど……やれないから役者やめたのよねぇ。バカなのね~。バカなのよ~。」という境地におちいるわけでして。
 だからといって、それがやっと理解できるようになった今からまた役者やるか? といっても、今の私は、昔の私よりいくばくかはバカでなくなっているかもしれないにしても、確実に若くはなくなっているわけでして。失ったものはちゃんと認識していなくてはなりません。老兵は去るのみのみ!


劇団山の手事情社公演『テンペスト』(2015年1月14~18日 演出・安田雅弘、作・シェイクスピア 池袋・東京芸術劇場シアターイースト)


 そんでまぁ、2本目は山の手事情社さんのシェイクスピアものでありますが。

おもしろかったですね! とっても。

 私は、最近の山の手事情社さんの公演を全て観ているわけではなく、2013年の『ひかりごけ』、14年の『ドン・ジュアン』といった感じで年いちのペースで観ています。そして、昨年の秋ごろに主演の山本芳郎さんからじきじきにお誘いの手紙を頂戴しまして、公演時期が1月の中盤でしたので、

「あぁ、なんだかこれ、私が千葉暮らしのあいだに観る最後のお芝居になるくさい!」

 とビビッときて、一も二もなく拝見させていただくこととしました。ほんとは、最後なんだから誰のつてでもない観たことのない劇団かプロデュースのお芝居にしようかとも考えていたのですが、あんまり興味のわくものがなくて。かと思ったら、今月やたらと寺山修司の舞台が上演されてたりしてるんですが、「えぇ~、最後にテラヤマ?」という気もしたのでやめときました。あんなの、しょっちゅうどっかでやってんだろ。

 それで年が明けてみたら、ほんとにこの『テンペスト』が最後の観劇になったので、心して拝見しようということで! そしたら……


下品ねぇ~! あらやだ、あんなかっこうして……下品ねぇ~!! いや待てよ、あれはこう解釈すれば……やっぱ下品ねぇ~!!


 って感じでした。いやはやまったく、迷いがない! ブレのない下品さでしたね。
 まさか、世界的に「許しの物語」として名高いシェイクスピア最後の戯曲『テンペスト』が……どっちかっていうと、印象としては「ほんわかハッピーエンドファンタジー」という感じだった『テンペスト』が、あれほどまでにダークで俗っぽく、汚辱に満ちた作品になってしまうとは!

 俳優さんがたも、主演の魔術王プロスペロー役の山本さんをただ一人のぞいて、全員が全員、とにかく容貌は怪異、動作は下品、セリフはひたすらやかましい! なにか言うたびに、なにがおもしろいのかさっぱりわかんないけど「グハハハ!」とか「きききき!」とかって笑うような、野生の集団なのであります。これ、別に「魔女の息子」っていう設定になっている怪獣王子キャリバンだけじゃなくて、プロスペローが手塩にかけて育てたはずの愛娘ミランダとか、プロスペローが使役する風の妖精エアリエルとかも全員ひっくるめてバーバリアンなんだから、せんかたありません。

 つまり、この山の手事情社版『テンペスト』におけるプロスペローの魔法島は、下品こそをその存在の本質とする、あの「ペンギン村」にひとしい結界を形成してしまっているのでした。なるほど、だからミランダを演じる倉品淳子さんは、つねにアラレちゃんメガネをかけていたのか。ほよよ~!! ということは、その魔法島に漂着した船乗りのトリンキュローとステファノーのコンビはニコチャン大王主従ということに……大久保美智子さんは大王だったのか! そりゃ下品なわけだわぁ。

 ともあれ、それ以外にもプロスペローをミラノから追放した弟のアントーニオや、政敵のナポリ女王ジョヴァンナも含めて、登場する人物のほぼ全てが不気味な容姿をした怪人に描かれているのに対して、ただひとりプロスペローのみが、魔法の杖を手にした高潔そうな大人物に描かれているというポイントが目立ちます。

 ……ということは、物語のクライマックスでこれみよがしにプロスペローの独り舞台になる構成といい、この物語は始めから終わりまで、プロスペローの頭の中で展開された、一人称の「夢の中のお話」なのではないのか? かつて自分を追放した敵たちを許せない、という彼の妄念が生み出した……


「われわれ人間は、夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。」


 ほら、プロスペロー、最後にそんなこと言ってるし! ふと観れば、舞台の中央には、床から天井まで空間を埋め尽くすかのように無数のベッドが積み上げられています。セリフも内容がわかるギリギリまで切り詰められており、非常に観やすい物語であると感じました。

 「全てを許す物語」は、「全てを許せなかった人間」が夢想した最期の走馬灯であったのか。

 そんなことを考える、プロスペローのラストシーンだったのですが、いや~、まさかそこで「あの名曲」が大音量で流れるとはねぇ! でも、それを唄うあの人が実にいさぎよくある世界を去って行ったのに対して、舞台上にたたずむプロスペローはいかにも無念たらたらといった感じで、現世に対する怨念を持ち続けながら暗転、というふうに見えたのは、それはそれでカッコいいんだぞ! というポジティブな主張と受け取りました。また、それを山本さんが演じているから、じめじめしてなくていいんですよ。老けてない「老醜」というものは、こんなにクリアな輝きを持っているのかと。

 ただ、やっぱり今回、私がいちばんすごいと思ったのは、作品の一貫した下品さで、特に、怪獣王子キャリバンを演じた岩淵吉能(よしのぶ)さんの、SMクラブの奴隷みたいなシースルーシャツ&Tバックを身にまとった絶妙にだらしない体型からかもし出される哀しみは、もう最高だと感じ入りました。
 中盤で、プロスペローの呪縛から逃げ出せない奴隷生活に耐えられなくなって絶叫するシーンがあったのですが、涙が出るくらいにステキでしたね。若輩者の私でも、「なんかわかる! わかるぞ!!」と応援したくなってしまう魅力がありましたよね。

 下品さも、やっぱり下品なだけじゃダメで、バカバカしい下品さじゃなきゃいけないんですよね。プロスペロー以外の出演者全員が総出で狂喜乱舞するシーンがあったのですが、舞台奥にいた人が尋常でない勢いで嘔吐してるのを観て、私は大爆笑してしまいました。


「うわー! あれたぶん、映画『マルサの女2』(1988年)で大衆食堂のおかみさんが吐くときに使われたポンプマシンとおんなじやつだ!! なつかしい!!」


 あれはいいですねぇ。スタッフじゃないから舞台裏を見たわけじゃないんですが、あれは、吐く役者さんが客席から見えない側のほっぺにポンプをつけていて、口を開けたらポンプからドボジャーッと勢いよく液体が出るってやつでしょ?

 これね、私よく知ってるっていうか、小学生だったときに、私の親父がどこからもらってきたのか、『マルサの女2』の制作メイキングビデオだけがずっと家にあって、この中でやけに自慢げに、「これが勢いのある嘔吐マシンである!」とかって紹介されてたんですよね。
 いや~、なつかしい。小学生心に、「バカな大人もいるもんだ……」と慄然としたものです。


 まさか、ごくごく個人的にノスタルジックきわまる「『マルサの女2』のやつ」と、ここで再逢することになろうとは……クライマックスに流れた曲のセレクトとあわせて、山の手事情社さんには、最高にすばらしい餞別の作品を見せていただいたような気分に浸りました。お誘いいただいた山本さん、ほんとうにありがとうございました。


 バカなことに、迷いなく、全力をかたむける。

 山形でも、基本、そのスタイルにあこがれながら生きていきたいと思います。きーーーーん!!
コメント (2)
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