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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

すてきな月曜日! 映画『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』 とかいろいろ~

2013年04月15日 23時52分00秒 | ふつうじゃない映画
 はいはいほほ~い! どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでした。

 本日はわたくし、平日のしょっぱな月曜日であるのにもかかわらず、久しぶりの丸一日休みをとりまして、東京で親友と会ってまいりました。いや~、今日の東京はホントに夏みたいな陽気でよう! こういう日に休みがもらえた私は運がいい。


 東京で今日会った親友は、大学時代に同じサークルに所属していたときからずっと懇意にさせていただいている方なのですが、あれからおよそ15年という歳月がすぎた今では立派な1児の母となり、同時に業界の第一線でバリバリ働いておられるという充実した日々を送っておられるようでした。今後も無理しない範囲でがんばっていただきたい! それにひきかえ俺といったらよう……まぁ気楽にがんばりましょう。

 そんな感じだったので、メールでのやりとりはしょっちゅうしているものの、だいたい半年ぶりくらいに会うことになった今回のスケジュールは、年度末~4月に超多忙だった彼女の予定を最優先して今日というはこびになったのですが、変わらずお元気で、魅力的で。大学時代とほとんど違いのない容姿なんだよな~。ほんとに会うたんびに不思議に思ってしまいます。おれはハゲたぜ~!!

 今日はだいたい予定として、お昼過ぎに集まって映画を観て、どこかでお茶とお買い物をしてから彼女のお子さんの通う保育園に行ってお子さんをむかえ、彼女の自宅にお邪魔して夕飯をごいっしょするという流れになりました。そのお子さんと会うのも半年ぶりくらいなんですが、まだ1歳台なので私のことを記憶していない感じなのがはなはだ不安でした……嫌われるのはいやだ!!


 さて、今回親友といっしょに観ることにした映画は彼女の要望でドキュメンタリーの『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』(監督・佐々木芽生)となり、映画館は恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館ということになったのですが、実際にお昼1時前に現地集合する段になって大変な事態が……って、察しのいい方ならば、もうオチわかっちゃいましたかね?

 そ~なんですよ、東京都写真美術館は確かに映画は上映してるけど、あくまでも「美術館」なの! 美術館っていうことは必ず「休館日」があるの! そして、美術館の休館日はその特質上、「休日の翌日」であることが非常に多いの!
 したがって、東京都写真美術館は「毎週月曜日休館」なの~!! なんなんだ、この高等数学の方程式にも似た美しすぎる論法は!? 2人そろって、はいドボ~ン☆

 やられましたね……恵比寿ガーデンプレイスに映画を観に行くのはそうとう久しぶりだったので非常に楽しみにしていたのですが、まさかこんな結末が待っていようとは! でも、これで天気が悪かったら正真正銘の骨折り損だったのですが、絵に描いたような晴天にぽかぽか陽気の中、集まる時間までしばらくモダンな園内を散策できたのは良かったです。お昼休憩中のサラリーマン、OL のみなさま、ご苦労様でございます!

 ただ、集まってから気を取り直して調べてみたところ、現在東京では、写真美術館のほかに新宿ピカデリーでも『ハーブ&ドロシー』が上映されていることが判明! これ幸いと、近くの喫茶店でお茶したりして時間をつぶしながら新宿に向かうこととなりました。あ~よかった。

 そういうわけで急遽、恵比寿のおしゃれな喫茶店に行ってコーヒーをいただきつつ近況を語り合ったのですが、まぁ~いいひとときを楽しむことができました。お互いの仕事の話とか、趣味の話とか。ひとつひとつあげれば他愛もない内容の連続なのかもしれないのですが、トータルでそんな話題を持ちよってワイワイやることができているというつながりの温かみと、大学時代になんの気なしに「あ、こんにちは……」みたいな軽さで出会っていたこの人と、15年の時が経過した今現在もこうやって語り合うことができているという不思議な縁ね! しみじみ幸せな時間でしたね~。

 そんな中で、おおむねは楽しいトピックばかりだったのですが、私よりもはるかに情報通な彼女からもたらされたあるニュースに、あたしゃ心底ビックラこいちゃったね~。
 ニュース自体は先月末に報じられたものだったからご存知の方も多いかと思うんですが、私はなぜか知らなかったのよねぇ~、それ。


作家・殊能将之さんが死去 49歳 映画『ハサミ男』原作者
  (シネマトゥディ 2013年3月30日付け記事より)

 ミステリー作家の殊能将之(しゅのう まさゆき)さんが今年2月11日に死去していたことが明らかになった。49歳。
 学生時代から親交があったという書評家・翻訳家の大森望が30日、ツイッターで「ミステリ作家の殊能将之氏が今年2月11日に亡くなりました。享年49。ご遺族の意向で伏せられていたそうですが、殊能氏と縁の深い雑誌『メフィスト』の最新号に訃報と追悼記事が掲載されています」と明かした。同誌は4月3日に発売される。

 殊能さんは福井県出身。断片的な情報以外、一切の個人情報を明かさない覆面作家として、1999年に『ハサミ男』で第13回メフィスト賞を受賞してデビュー。その後は『美濃牛』(2000年)『鏡の中は日曜日』(2001年)といった作品を発表したが、長編小説は2004年の『キマイラの新しい城』を最後に発表が途絶えていた。2005年にはアメリカの SF小説家エイヴラム=デイヴィッドスン(1923~93年)の日本語訳短編集『どんがらがん』(河出書房新社刊)の編者を務めた。デビュー作『ハサミ男』は2004年に映画化されている。
 短編『キラキラコウモリ』の月刊文芸誌『ウフ.』2008年5月号への掲載(マガジンハウス刊『リレー短編集 9の扉』収録)以降は執筆活動をおこなっていなかったが、作品を発表しなくなってからもオフィシャルサイト(閉鎖)やツイッターで近況を報告。自身の死の3日前、2月8日には兄が脳出血で死去したことを明かしており、「バタバタに加え、パソコンの調子が悪いのでしばらくツイートできません」「んじゃまた」とツイートしていた。



 流れとしては、まず私がミステリー作家の今邑彩さんの哀しい訃報と、それをきっかけに今邑作品を読み直していると始めて、そうしたら彼女が「ミステリー作家といえば、殊能さんも……」と教えてくれたんですが。あら~そうだったの、という感じで。

 はっきり言ってしまえば、私は今現在とくに殊能さんのファンであるわけでもないし、殊能さんが奇しくも今邑さんと同じように2010年代に入ってから執筆活動をおこなっていなかったという事実も知らないくらいに近況にうとかったのですが、それでも悲しいとまではいかないものの、なんともいえない感慨深さは残りましたね。
 そういえば、私も彼女も同じようにミステリー小説を楽しんでいた大学時代、『ハサミ男』をひっさげてデビューした謎の覆面作家・殊能将之の存在は、私個人は結局そうならなかったと感じてはいるものの、今後の日本ミステリー界を変革し、牽引してくれる才能が登場したような期待感に包まれていたと思います。
 特に、第2作となった『美濃牛(みのぎゅう)』は「横溝正史の最新版アップグレード!」という印象で大いに期待しつつ読んだものでしたが、期待のハードルが高すぎたのか、そもそも私ののぞむ作家性と違う方だったのか、その結末に私は強い違和感をおぼえ、それ以降の殊能作品はいっさいチェックしていないまま現在にいたっていました。

 にしても、2人が少なからず体感した「時代のうねり」の旗手であった人なのは間違いがないわけなので、やはりその早すぎる死には驚きました。『美濃牛』も読み返してみるか……ほんとに結末まではよかったんだよなぁ~、結末までは。


 こんな話題のほかにも、趣味系としては『ファイブスター物語』のここ最近のドンガラガッシャン事件とか、去年彼女に勧められて観たアルモドバル映画『私が、生きる肌』がどうしてあんなに良かったのかとか、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・Q』のカヲルくんの土壇場での神がかった頼りなさときたらどうだ!? といったあたりの話に大いに花を咲かせたのでしたが、月曜日の昼過ぎの喫茶店には私たちのほかに、出版関係の編集者さんらしい集まりと、ゲーム業界のクリエイターさんらしい集まりがそれぞれ打ち合わせをしているという、メガロポリス東京ならではの異常に濃すぎる客層だったために、こういった話題もなんの気兼ねもなく語り合うことができたのでした。千葉ではまったく考えられない環境だ……気分はもう、カルチャーおのぼりさん!

 さて、そうやって1~2時間たのしんだあと、私たちは新宿の映画館に向かいました。新宿ピカデリーはいつ行ってもおしゃれねぇ~。
 っていうか、平日の第1日目なのに、新宿は映画館でもデパートでも、どうしてあんなにお客さんでにぎわっているんだろうか!? しかも、み~んなおしゃれ!! まぁお店によるかとも思うんですが、うらやましかったねぇ~、あのにぎわいっぷり。わたしがついこないだ映画館で観た『ヒッチコック』のお客さんなんて、週末金曜日の夜なのに3人よ、3人! ここが東京・新宿のものすごさよねぇ。

 もちろん、私たちが観た映画『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』の客席もけっこうなにぎわいで、満員とまではいかないものの、若い大学生から老夫婦までの幅広い年代層で、だいたい100人くらいは来ていたと思います。平日の昼間にドキュメンタリー映画でこれって、やっぱりすごいですよね。

 それで観た『ふたりからの贈りもの』だったわけなんですが……まぁ~良かった良かった。

 なんともおもはゆい思いなんですが、この映画のよさを文字で説明するのは、ちょっとむずかしい。
 この映画は言うまでもなくドキュメンタリー映画なんでありまして、しかも、そのジャンルの中でもこの作品は、お客さんにとってとびっきり敷居の低いものになっていると感じました。つまり、事前に知っておくべき情報がほとんどないし、観終わった後に「あれはどういうことだったんだろう?」と考える必要もありません。極端な話、2010年の暮れに公開されていた前作『ハーブ&ドロシー』を見ておく必要もなかったのです。そりゃもちろん、前作も観ておいたほうがいいわけなんですが、前作と今回の『ふたりからの贈りもの』は、同じ老夫妻を画面の中心にすえていながらも、そこから広がる世界がまったく違うものとなっています。

 私は幸運にも、人に勧められて映画館で前作を観ていたのですが、そのときはヴォーゲル夫妻(ハーブ&ドロシー)のコレクターとしての恐るべき審美眼に驚き、つつましやかながらも半世紀の長きにわたってミニマルアート、コンセプチュアルアートの収集を続けてきた「異形すぎる偉業」に感服したわけだったのです。もちろん、この道のりに夫婦の固い絆が必要だったことは間違いないでしょう。そういった意味でも、私は前作を観て、一見どこにいてもおかしくない頑固そうなおじいちゃんと優しそうなおばあさんのカップルの中にたぎり続けている「鋼鉄の信念」に感動したわけだったのです。

 さて、そこから一転して今回の『ふたりからの贈りもの』は、ヴォーゲル夫妻の少なくとも2000点はある自宅アパートのコレクションがワシントンの美術館にまとめて無償で寄贈されることとなった、という前作の結末のその後をつづったものとなっているのですが、事態はまったく予想だにしない展開となっていました。なんと、あらためて数えてみたらコレクションの総数が4000点を超えちゃってんの! これはひとつの美術館じゃあ完全に容量オーバーですよ。ヴォーゲルコレクション、どんだけ~!?

 そういったわけで、この『ふたりからの贈りもの』はまさしくタイトルの通り、ヴォーゲルコレクションを50点ずつに分けて、アメリカの全50州にある美術館1館ずつに寄贈するという一大プロジェクト「ヴォーゲル 50×50」のもようと、寄贈した際の夫妻の多忙な日々を描くものとなっているのです。
 つまり、前作の「集める夫妻」というトピックから一転して、今回は「贈る夫妻」を中心にして、贈られた全米の美術館や、そこでの展示に触れた人々の反応、コレクションにおさめられた作品のアーティストとの再会などがフレームにおさめられていき、夫妻の続けてきた行為がどれだけ大きな規模の反響を呼ぶものだったのかをにぎやかにわかりやすく記録していくものとなっていたのです。

 もちろん、コレクションの対象はいわゆる「前衛芸術」というものなので、どこででも売っていそうなノートの切れっぱしに水彩絵の具のしみのようなものをつけただけが10枚くらい、という人類にはまだまだ早すぎる作品もあるわけで、インタビューに答える人々の中には少なからず「なにこれ?」「気分が悪いわね。」という批判的な声もあがるわけなのですが、それもこれもひっくるめて、現代アートに触れて作品に疑問を抱いたり、よきにしろあしきにしろ何かしら感情を揺さぶられる機会を与えてくれたヴォーゲルコレクションへの無数のリアクションは全米に広がってゆくのでした。

 今回の作品の中では、それなりに年もとっているのに、コレクションを寄贈してハイ終わりというわけでもなく、恐ろしいほどのバイタリティで全国の美術館を訪れ、自分たちのコレクションの展示状況をチェックするヴォーゲル夫妻の元気な姿も観られます。やっぱりこの2人は、コレクターではなく「コレクションという活動をするアーティスト」なんだなぁ、と再認識させてくれる勇姿でしたね。
 要するに、これほどの信念と審美眼をもって、50年もの長きにわたってアーティストの作品をなけなしの給料から捻出した金額で購入するかしないかという「闘争」を乗り越え続けてきた以上、もはや夫妻はアーティストと同じかそれ以上の情熱に身を燃やす存在になっていたのです。それが人々の感動の対象にならないはずが、ない!!

 そう考えると、前作で明らかになったヴォーゲル夫妻の常軌を逸した偉業が、それ相応の爆発力をもって全米に波及していく、その「感動のソニック・ブーム」のさまを描いた今回の『ふたりからの贈りもの』は、まったくもって夫妻の人生を賭けた「芸術」の完成の記録でもあったのではないのでしょうか。こういう一国サイズのコンセプチュアルアートだったわけなのね、ヴォーゲルさん!! こりゃあもう、クリストもびっくりのスケール……前作以上に感服つかまつりました。

 この映画は、そういったヴォーゲル夫妻のエネルギッシュな生命力も充分に魅力的なのですが、それに輪をかけて感動してしまうサイドエピソードも満載です。
 やっぱり、どこの州でも現代アートの展示を興味津々のまなざしで見つめる子どもたちの輝く視線には無条件で顔がほころんでしまいますし、今回の全州寄贈プロジェクトによって久しぶりにヴォーゲル夫妻に再会して長年のいさかいを氷解させることになったアーティストの笑顔にも、素直に心に響くものがありました。具体的ないさかいの内容ははっきりとは描写されていないのですが、とにかく時を経て和解する人たちを見るのはいいものですね、ホント……

 そして、終盤で訪れる夫妻の「わかれ」。自身のコレクションの行く末を見届けた上での旅立ちだったので悔いはなかったのかも知れませんが、やっぱり哀しいですね。
 でも、総計5000点におよぼうとしていたアパートのコレクションがほぼ全て寄贈に出されたあと、部屋の壁に残された1枚の絵には完全ノックアウトでしたね。なんという心憎い終幕! やっぱりヴォーゲル夫妻はアーティストだったんだ!!

 とてもいい映画です……最近、老夫婦にかんする別の映画を観て少なからずがっかりした直後の『ふたりからの贈りもの』だったので、なおさら心に響きましたねぇ。やっぱり「本物」には勝てねぇのか。

 もちのろんで、私と一緒に観た親友も大感動だったのですが、「わたしもああいうふうに好きなものにお金を使えるようになりたい。」とつぶやいた彼女の言葉が実に印象深かったですね。
 あることを半世紀もの間やり続けるというのは、いったいどういうことなんだろうか……しかも自分ひとりで自由にではなく、夫婦二人三脚で!
 おそらくそれは、「好き!」というエネルギーだけでは続けていけない道のりだったはずです。「なにやってんだろうか……」と思い悩む時期も二度や三度ではなかったのではないのでしょうか。別に全点展示できるはずもないごくふつうのアパートにダンボール箱だけがひたすら増えていくわけなんですから。
 逆に考えると、これは夫婦でやったから続けられたことだったのかも知れませんね。相手や家族がいるからこそ続けられることといったらやっぱり「仕事」だと思うんですが、もしかしたら夫妻にとってこの収集という行為は、なにかしら生きるために絶対に必要な「作業」だったのであって、「好きな趣味」という範疇のものではなかったのかもしれません。
 それがなにかしらの成果や報酬を生むわけでもないのに……それでもそれは、好きか嫌いかではなく「やり続けなければならない使命」だったのです。そしてそれは、全米の人々の笑顔という形で50年後にみごと昇華したわけで。

 人間、いったいなにが他人の心を揺さぶる個性とたたえられるのか、わかったもんじゃありませんなぁ! 自分だって自分のことがよくわからないっていうのがほとんどなんですからね。そういう世の中に、鋼鉄の信念を持った夫婦の愛と信念の物語、『ハーブ&ドロシー』2部作! 私たちは行けなかったけど、東京都写真美術館では前作の同時上映もやってるらしいから、み~ん~な~で~み~て~ね~。ふ~ふ~ふ~ふ~ふ~! それは別の映画ですか。しかも声がふるい。


 その後、私たちは新宿伊勢丹でお買い物をして、彼女のお子さんを保育園でむかえてご自宅に帰りました。

 ひそかに心配していたお子さんは……どうやらやっぱり私のことは忘れているようでしたが、比較的早めに慣れてくれてケラケラ笑っていました。よかった~!
 でもまぁ、1歳半にもなるともうやんちゃね! この前に会ったときよりも格段にお顔が旦那さまに似てきて、目のあたりに周囲の女の子を夢中にさせそうなデンジャラスさをたたえた色男になってきました。泣かせるようなことだけは、するなよ! 母ちゃんも泣かせるな!!


 そんなこんなで、ありがたくもお食事もいただいて帰った、本日月曜日のお休みだったのでありました~。親友サマ、忙しい中どうもありがとうございました!

 あ~暑かったのに夜はさみぃ……なんなんだ、この昼夜の寒暖の差は!? カゼはひきたくねぇ~!!
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もう感想は「ダニエルかっけぇ~、バルデムこえぇ~」だけでいいっすか!?  映画『007 スカイフォール』

2012年12月20日 15時49分47秒 | ふつうじゃない映画
 ♪じゃ~じゃっ、ど~ん じゃ~じゃっ、ど~ん  じゃっじゃらっ!
 どうもこんにちは! そうだいでございます~。今日もいいお天気ですね~。でもやっぱ、朝から外は寒かった!

 いろいろ忙しい忙しいとばっかり言っているこの『長岡京エイリアン』なんですが、そんな私もいよいよ年末のスケジュールみたいなものの全容がつかめるようになってきました。
 結論、今年は大晦日まで忙しいであろう!!
 いいね~、いいね~。せいぜい死力を尽くしてがんばらせていただこうじゃあ~りませんか! 去年の年末はかなりマイペースにのんびり過ごした気がするんですが、バタバタのうちに年を送るのもいいでしょう。それだけ健康にしめくくれるってことなんですからね。残り少ないですが、最後まで気を抜かずにいきまっしょ~。

 ……あ、年賀状のことぜんぜん考えてなかった。どういう絵柄にしよっかな……そもそも、作る時間と体力あるかな……ま、がんばりましょう。


 こんなバタバタドキドキが続く中、昨日は久しぶりに一日休みをとりまして、ちょっとある用事のために早朝から東京に行っていました。
 いんや~、この用事は非常に良かったですね!! 実に素晴らしい体験をさせていただきました。
 気分としては、そのすばらしさをとうとうとこの場で語らせていただきたい思いでまんまんなのですが、今回のことは特別のご厚意を受けてお呼ばれしたことでしたので、詳しい内容は私の判断で、控えることにさせていただきます。
 でも、なんにしてもこういう場に誘ってもらえるというのは、本当にありがたいことであります……別にそういうものを期待して築きあげるものでもないし、私もそういう能力にたけているとはとうてい信じられないのですが、いろんなステキな方々とのつながりっていうのは大事ですよねぇ~。しみじみ感動させていただきました。


 さて、ほんでま今回のお題は、その帰りにせっかく東京に来たんだからと思って、渋谷に寄って観た映画について。


映画『007 スカイフォール』(監督・サム=メンデス、主演・ダニエル=クレイグ 143分)


 ギャ~!! ボンドぉ~、ジェイムズ=ボンドぉお~!
 その日は、『スカイフォール』と『アルゴ』のどっちかを渋谷で観ようと思ってたんですけど、上映時間のタイミングが良かった109近くの渋谷 TOHOシネマズでの『スカイフォール』となりました。前回の『仮面ライダー』もそうだったし、TOHOシネマズにはお世話になりっぱなしですな。

 時間的には、ビルの中で手間どったり、おなかがすいたのでキャラメルポップコーンを買ったりしたので、私は予告編の上映中に入場することとなったのですが、入ったときには AKB48の新作ドキュメンタリー映画の予告をやっていた最中で、指原さんがなにごとかを小声でつぶやきながら泣いているシーンでした。
 ……なぜだか知らないんですが、自然に背筋をのばして、堂々とスクリーンの前を横ぎっちゃいましたね。なぜなんだろうなぁ~!? ふつうだったらマナー的に、他のお客さんのことを気にして身をかがめて通るはずなのに。
 しかし、観客200人規模の TOHOシネマズの大スクリーンは、私が前を通ったごときで彼女たちが見えなくなるようなせせこましさではありませんでした。おのれの身の小ささを痛感してこその、この『長岡京エイリアン』なんですよねぇ~。なに言ってんでしょうか。

 でも、実際にその回の『スカイフォール』を観に来た客層は AKB48が見えないとストレスがたまるような方はほとんどおられなかったようで、ほんとにそうかは別としても、平日の昼過ぎということもあってか、10代のいる雰囲気はまったくないアダルトでビターな感じになっていました。9割男性、7割スーツといった陣容でしたね。でも、女性の方もかなり強い意志で007を観に来たというオーラをまとっている印象がありました。007っていうよりは、ダニエル?


 今回の『スカイフォール』は、なんと今年で50周年を迎えるという「007シリーズ」の第23作に当たる作品で、「ご本家筋」ということになる映画制作会社イオン・プロダクションによるシリーズの中では「6人目のジェイムズ=ボンド」となるダニエル=クレイグの主演としては3作目のものとなります。
 イオン・プロダクションというのは、ほぼ007シリーズを製作することだけを事業内容としているイギリスの制作会社なのですが、このプロダクションが1950~60年代に売れっ子作家だったイアン=フレミングのスパイアクション小説「007シリーズ」を1962年10月に初めて映画化したのが、かのショーン=コネリー主演による『007 ドクター・ノオ』だったというわけなのです。これがすべてのはじまり!

 小説家のイアン=フレミングは第2次世界大戦中にイギリスの実在する諜報機関「 MI6」に本当に所属していたのですが、ご本人はデスクワーク中心で諜報活動を自ら行うことはなかったものの、その時の経験や同僚である第一線で活躍……じゃなくて暗躍していたスパイたちの業績をもとに、それ相応のフィクション的味つけをほどこして世に出したのが、いかにもカッチョいいヒーロー然とした、「殺人許可証」を持つという MI6所属の伝説の諜報員、コードネーム「007」ことジェイムズ=ボンドの活躍譚だったんですな。

 フレミングの原作「007シリーズ」は1953年の長編『カジノロワイヤル』を皮切りとして、大評判のうちに12作の長編と9作の短編が発表されているのですが、フレミング自身は1964年8月に56歳という若さで心臓麻痺で死没してしまいました。なんか、ものすごい美食家だったことが災いしたらしいですね……なんだ、暗殺じゃないのか。
 ともあれ、生みの親フレミングが去った後も、007シリーズはどんどん映画化されていき、生前のフレミングとも親交の深かったイオン・プロダクションのシリーズと、イオン・プロのタッチしていない「番外編007」の映画『カジノロワイヤル』(1967年版)と『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983年)もあわせて、この50年間に25本の作品が制作されることとなったのです。もうエンターテインメントの世界では伝統芸能みたいな扱いになってますよね! だからこそ、今年夏のロンドン・オリンピック開会式でも「007がモノホンの女王陛下と共演!!」というトピックが大きな出し物となりうることができたのでしょう。
 ちょっと話は脱線しますが、今の日本でこの007ほどの存在感を持つ架空のキャラクターがいるのかどうか……仮面ライダーとかウルトラマンとかアンパンマンとか「あっちの世界」はもちろん相変わらず豊富なんですが、生身の役者さんが顔出しで演じている方面はあんまりいないような気がしますねぇ。かろうじて「寅さん」と「黒板五郎さん」、あと「バカ殿様」ぐらいかなぁ。それでも世界規模じゃあないしねぇ。

 でも逆に言うのならば、いくらショーン=コネリーだロジャー=ムーアだダニエル=クレイグだといった世界を代表する名優たちが演じていたのだとしても、007というキャラクターはリアルというよりもよっぽどアニメや空想の世界に近い「全世界共通で楽しめるムチャクチャ感」を身にまとっているということになるんじゃないのでしょうか。この「うそっぽさ」が007の魅力のひとつなんだよなぁ!

 50年という長い歴史の中で、フレミング原作による21の作品はあらかた映画化されてしまい、6人の俳優が演じたシリーズの中で、5代目ボンドのピアース=ブロスナンによる1995~2002年公開の4作と、ここ最近のダニエル=クレイグによる2作『慰めの報酬』(2008年)と今回の『スカイフォール』は、フレミングの世界を離れた完全オリジナル作品となっています(『慰めの報酬』というタイトルのフレミング原作短編は存在するが、内容はまったく関連がない)。でも確かに、フレミングの世界には荒唐無稽といえども「アメリカ VS ソヴィエト連邦の東西冷戦体制」という大前提があったため、それをあえて21世紀の今に持ってくる必要もないということなんでしょうねぇ。

 ただし! ここがダニエル・ボンドシリーズに限って重要なことなのですが、ジェイムズ=ボンドや「M」や「Q」といった枠だけを引き継いで、それ以外のすべてを原作小説や過去の映画シリーズから脱却させて一新させたピアース・ボンドシリーズとも違って、いま現在進行形で進んでいるダニエルシリーズは、「過去の作品をふまえた新しい007世界をいちから作り直していく」という温故知新な魅力に満ちているのです。
 これは非常におもしろい作風だと思うんですが、振り返れば、あのクリストファー=ノーランによる「ノーラン・バットマン3部作」もまた、過去のバットマン世界をいっさい「なかったことにしている」ようでありながらも、実は終盤で、一連の作品が「21世紀のバットマン世界が始まっていくまでの序章」だったということが明らかになるわけで、こういった「壮大なループ感」は『スカイフォール』とも大いに共通しているものがあると思うんだなぁ。そして、私はそういう新作の作り方は大好きです!!

 でも、その構想がうまくできていることと、「その作品自体がおもしろいのかどうか」はまぁぁったくの別問題でありまして、その点、あの『バットマン ライゼズ』は「ジョーカーの不在」という前代未聞のハプニングが出来してしまったために、非常に不完全な完成度に終わってしまいました。それはそれでノーラン3部作は終焉したのですが、エンタテインメントとしてはとてもじゃないですが「円満」とは言いがたい感じになってしまったのです。
 こういっちゃあナンなんですが、「ノーラン3部作」は板チョコレートでいう「カカオ70~100%のにがいやつ」なんだと思います。作品は非常にストイックでダークでいいんですが、それで最終的にはひたっすら苦いだけの黒い塊になっちゃったって感じでしょうか。


 だが、しかし。007シリーズはあくまでも007シリーズ。見るからに顔色ひとつ変えずに人を殺しそうなダニエル=クレイグが主人公になったのだとしても、この名門タイトルはあくまでも「おいしい王道ミルクチョコレート」が身上なのです。そこをちゃんと守り通した上で、『スカイフォール』がどのような「新釈」をほどこしているのか、そこが大問題なんですなぁ~。壊せばいいってもんじゃあないんです。

 ダニエル・ボンドの第1作が、原作小説の第1作でもある『カジノロワイヤル』(2006年公開)だったことからもわかるとおり、ダニエルシリーズは明らかに「ダニエルが演じる007が新しい歴史を最初から再構築していく物語」です。だからこそ、『カジノロワイヤル』のダニエルは007というコードネームをもてあましている血の気の多い危険なスパイだったし、『スカイフォール』の序盤でも、安楽な世界と酒におぼれてドロップアウト寸前にまで堕ちてしまう彼の姿が描かれているのです。このときのダニエルの充血しまくった目がなぜか色っぽい! でも、そこからふたたび復活して007らしい八面六臂の活躍を見せていくという流れがまた、ものすごくいいんだよなぁ~!!
 つまり、ダニエルシリーズは過去の5人の歴代ボンドに比べて「もっとも007らしさが板についていないボンド」である、なのに! いや、だからこそ、そんな彼が007になった瞬間がものすごく頼もしくカッコいいカタルシスをもたらしてくれるんですよね。

 確かに、ダニエル=クレイグはまさしく愚直な兵士といった風体で、ジョークもなかなか口にしないような寡黙な印象があるのですが、そんな彼が「世界一ウソくさいスパイ」を演じるというところに新しい歴史がつむぎだされていく可能性があるんじゃなかろうかと。今までの歴代ボンドはすべからく、顔の表情にわかりやすく色気とウィットが浮かんでいたと思うのですが、そこを思い切って切り捨てたダニエルのキャスティングは、第1作から6年の歳月がすぎた『スカイフォール』の公開をもって大輪の花を咲かせることになったと思います。
 ダニエルはまぁ~、静止した写真の中ではいかにもお堅い顔つきでいまひとつピンとこないかも知れないのですが、ビシッときまったオーダーメイドのスーツを着込んで疾走するアクションの身のこなしがとにかく色っぽい!! やっぱ、スーツはオーダーメイドよねぇ~。
 それこそ、甘い言葉を主な武器にしていた歴代ボンドとはまったく対極にある「無言の色気」を持ったダニエル・ボンドのアクションがド頭からしっぽの先まで思うさまに味わえる『スカイフォール』の大盤振る舞い感はハンパないですね! 今回の上映時間「2時間半」を長く感じるかどうかは個人個人の感じ方によると思うのですが、私は「幸せな方向で長かった」! おなかいっぱいになれたいい時間でした。

 「無言のダニエル・ボンド」といえば、終盤の舞台となったスコットランドの荒涼とした大地を訪れて、自分の生家を前に無言で立ち尽くすボンドの後ろ姿ね! これはかっこよかったなぁ~。ここのボンドは、過去の誰でも演じることができないダニエルならではの「いろんな感情がないまぜになった」余人の立ち入ることのできない気迫があったような気がします。
 また、ここは監督の構成力の話になるのでしょうが、有象無象の人々がわんさか行き交っていかにも国際都市らしい猥雑さのあったイスタンブール、上海、マカオ、ロンドンときて、いちばん盛り上がるはずのクライマックスに持ってきたのが必要最低限の関係者しかいないスコットランドの寒々しい荒野という無常観が、いかにもダニエル・ボンドらしい順番でしっくりきていました。最後は自分のルーツに戻るのかぁ~、みたいな。

 そのスコットランドのシーンも、まさにその大地の寒さがスクリーンから伝わってくるような、映像の美しさがきわだっていましたねぇ。電気のない世界での日没の不安感と「なにかが起こる」緊張感とが絶妙にマッチした素晴らしいロケーションだったと感じ入りました。


 さて、そんな感じにひたすら「リアルとウソっぽさのあいだ」を行き来するダニエルにたいして、「エンタテインメントの王道」としての007シリーズを考えると、この作品の肝ともいえる活躍をしているのはやっぱり、全身から「悪さ」と「うそ臭さ」を発散していた、本作のメイン敵である「元MI6 の凄腕諜報員」シルヴァを演じたハビエル=バルデムだったでしょう。

 うをを~、バルデム! ハビエル=バルデム~!!
 言うまでもなく、あの観た後に「あぁ~、とにかく恐かった……」感しか残らない黙示録映画『ノーカントリー』(2007年 監督・コーエン兄弟)で、血も涙もない問答無用の殺し屋シガーを演じたバルデムさんが007シリーズの敵に!? コレがおもしろくならねぇわけがねぇ!!

 ところが実際に観てみると、バルデム演じるシルヴァは『ノーカントリー』のシガーとはまったく違うタイプの悪役だった……というか、意外なくらいに007シリーズにしっくりくる「ありえなさ」を持った、怖いのになぜか可愛らしさもあるキャラクターになっていたのです。これには、俳優ハビエル=バルデムの対応力の高さと、伝統のシリーズに挑みながらも「現場を楽しむ遊び心」を忘れないでいる豪胆さを感じないわけにはいきません。

 今回『スカイフォール』のメイン敵という栄誉を勝ち取ったシルヴァは、インターネットを通じて世界中の情報を操作することができる神のようなハッカー能力を持ったテロリスト集団のリーダーでありながらも、「世界征服」などという野望にはいっさい興味を示さず、ただただイギリスの諜報機関「 MI6」を壊滅させ、そのトップである「M」(演・ジュディ=デンチ)を失意のうちに死に追いやることだけを目的に世界規模の大規模テロ作戦を発動させるという、非常にひねくれた行動をとる人物です。
 そして、彼がそこまで MI6にこだわる理由はといいますと、なんと彼自身がかつて MI6に所属していた凄腕のスパイ工作員でありながらも(007のような「00課」所属ではなかったらしい)、行き過ぎた独断専行のために MI6に見捨てられ、地獄のような拷問の末に公式には死んだものとみなされていたという、いわば「007の同類にして大先輩」にあたる存在だったということと、それゆえのMに対する愛憎相半ばする怨念があったからだったのです。

 「愛憎相半ば」! まさにこここそがシルヴァのキャラクターのミソで、彼は用意周到にMを殺害する計画を組み立てて実行するのですが、M本人に対峙した時には常に笑顔と優しい声で彼女に接し、MI6時代以来のクセなのか、007と同じように彼女のことを「マム」と呼ぶのです。そしてあの、スコットランドの廃教会の中で繰り広げられたシルヴァとMとのやりとり! まさしくバルデムだからこそ、複雑な人間性を的確に演じきってみせた名シーンと言えるのではないでしょうか。

 とまぁ、このように実に屈折した犯行動機を持った狂気と復讐の鬼シルヴァだったのですが、それ以上に見逃せないのは、そんなシルヴァが常にオシャレなファッションに身を包み、笑顔とジョークをしょっちゅう振りまきながら、「僕は MI6時代に君(007)など足元にも及ばない業績を残した。」だの「バカバカしいスパイ兵器とか、蹴ったり殴ったりの格闘とか、そんなのはもう飽き飽きなんだよ、ぼかぁ~。」だのという大口をたたく魅力的なカリスマになっていることなのです。ここの、クールで一匹狼なダニエル・ボンドにはないおもしろみを持ったキャラクターが対峙するという、わかりやすいにも程がある対立構図こそが、「世界のエンタメ」007シリーズのゆずれない単純明快さなんですね!

 ただし、ここが俳優バルデムのすごみなんですが、ふざけた言動をやめて真顔になったとたんに、その迫力ありまくりの顔面が、ダニエルも文字通り「顔負け」するような、復讐と狂気をはらんだ冷たさをむき出しにしてくる、そのギャップが怖すぎるんですよ!! 使い古された言い回しですが、「次の瞬間に何をしだすかわからない」恐ろしさ。ここが、バルデム起用の最大のポイントなんではないのでしょうか。
 どんなに軽いノリでも、悪役のバルデムはやっぱり怖い!! でも、警官の制服は死ぬほど似あわない。

 ところで、よくよく考えてみると、組織に見捨てられた元スパイという過去と、現在の「世界的ネットワークを持ったテロリスト集団の首魁」という立場とは、ちょっと簡単にはつながりそうにない距離と違和感があって、キャラクターとして現実味のない部分が多すぎるシルヴァなのですが、とにかく登場した時のバルデムの演技がおもしろすぎる! その一点で「まぁ、こまかいことは抜きということで……」とサクサクお話を進めていくストーリーラインに、いかにも007シリーズらしい大雑把感がただよっていますねぇ。

 そんなわけで、私がこの『スカイフォール』でいちばん夢中になってしまったのは、やっぱりあのインパクトありすぎな、豪快な造作の顔から繰り出される笑顔と低音の美声が最高なバルデムさんでした。ただもちろん、これはダニエル・ボンドの冷静沈着なヒーロー像がしっかりできあがっているからこそ成立する計算されつくした構図のほんの一部であり、バルデム1人の才能があればいいという安易なレベルの話ではないことは明らかです。
 でも、007と話をするときの新しいおもちゃをいじくるような喜々とした笑顔とか、007に「アッチ系?」をにおわせて迫ったのにすげなくされたときに見せたスネ顔とか、自分の死の直前に007の捨てゼリフを聞いたときに浮かべた、「おまえはいっつもそうやってカッコイイのな!」みたいな恨みがましい上目づかいとか、とにかくこの『スカイフォール』は、「悪役の楽しい演技があってこその007シリーズ」ということを再認識させてくれる作品でした。


 ところで、やっぱり007シリーズといえば「今回のボンドガール」ということになるのですが、いちおう公式上はマカオでカジノの元締めをつとめているシルヴァの愛人を演じたフランス人女優のベレニス=マーロウと、007の同僚である MI6諜報員を演じたイギリス人女優のナオミ=ハリスの2名ということになっているらしいものの……

 いやいや! 今回のボンドガールは別の人ですよねぇ~!! 観た方ならばみなさんそう思うでしょうよ。

 ともかく、全体的にダニエルのアクションとバルデムの顔のつるべ打ちで女性の入り込むスキの少ない『スカイフォール』だったのですが、思わぬ人物にスポットライトが当てられ、あの印象的なラストシーンへと続いていく流れは、007シリーズ、特に1990年代以降にファンとなった人にはたまらない感動をもたらすものになってのではないでしょうか。ま、なにはともあれ「お疲れさまでした……」ということで。
 でも、ここが007シリーズの老舗旅館なみに心づくしが行き届いているところで、ちゃんとそれ以前のオールドファンも喜ぶ「ボンドカー・アストンマーティンDB5 の復活」があったりもすんのね! ボンドカーってちゃんと役に立つんだねぇ。


 さぁさぁ、ここにきてダニエル=クレイグの007シリーズは『カジノロワイヤル』から始めていた「007成長の物語」という部分をさらにおし進めていき、シリーズのレギュラーキャラである「M」「Q」「Ms.マネーペニー」「007の同僚タナー」といったあたりがそろい踏みすることとなりました。役者はみんな集まったぞ~!

 次にいったい、ダニエル・ボンドはどんな活躍を見せてくれるのでしょうか。
 悪役好きな私といたしましては、ここはぜひとも「うそ臭さの最高峰」ともいえる「世界征服をたくらむ悪の秘密結社スペクター」と、その怪しすぎる首領「エルンスト=スタヴロ=ブロフェルド」に復活してほし~い!! そういえば、007パロディの『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』(2002年)のふざけすぎなオープニングであのケヴィン=スペイシーが Dr.イーヴルを演じてたけど、ほんとにケヴィンが本家のブロフェルドを演じることになったりして~!? きゃ~。


 ま、ないか……とにかく次回作を首を長くして待つことにいたしましょう。あ~おもしろかった。
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世界は転倒した! じゃあ、ビールでも飲もっか  ~城山羊の会 『あの山の稜線が崩れてゆく』~

2012年12月05日 23時06分50秒 | ふつうじゃない映画
 は~い、みなさまこんばんは! いつものそうだいでございます。みなさま、今日もがんばって疲れましたか? ご苦労様でしたねぇ。

 私も今日は、朝から電車に乗りどおしの一日だったんですけれども、やっぱり電車移動っていうのは、もちろん便利でいいんですけど、長時間はツラいものがありますなぁ! 何を当たり前のことをほざいてるんでしょうか。
 まずはやっぱり、空調がなかなか思い通りのいい感じにならなくてねぇ! こう冬本番になってくると、乗り始めはあったかくてとてもありがたいんですが、1時間も乗っていれば暑くなって汗はかくしノドは渇くし……それを3~4回も乗り継いじゃったら、家につくころにはもうヘロヘロなんですよね~! お仕事そのもので疲れるんだったら当然納得もいくんですけど、移動の疲れっていうものは、なかなかタチの悪いもんでありますなぁ。
 特に、今日はなんだかわかんないですが JR線も東京メトロもダイヤの乱れがちょいちょい連続したりしてね。別に電車自体が運休してお仕事に影響が出る、とまでいくことはなかったので良かったのですが、比較的あさい夜に帰途についたのに家に帰ったら真夜中、っていうのはなんともはや……明日も早いからさっさと寝なきゃ!


 あぁ! そういえば、十八世・中村勘三郎さん、ねぇ……
 勘三郎さんになって7年ちょっと。還暦も迎えずにですよ。これにはなんとも、言葉を失ってしまいます。
 これからどんどん、お父上の十七世・勘三郎にそっくりになっていって、しかもその父を超える業績を打ち立てていくのかと思っていたのですが……

 こういうことを連想するのは非常に不謹慎かとは思うのですが、 NHK大河ドラマが大好きである私はやはりどうしても、彼が五世・中村勘九郎だった時代に演じて大評判となった、『武田信玄』(1988年)での今川義元役のあまりにも残酷で、かつ壮絶に美しかった最期を思い起こしてしまいます。
 今となっては、この『武田信玄』で描写された今川義元像や桶狭間合戦のもようは、いかにも旧態依然とした古臭い俗説にまみれたものとなってしまってはいるのですが、それでも、京の都を目指して万全の態勢をととのえて出陣したはずの義元が、織田信長の豪雨にまぎれた奇襲によって一瞬にして斬殺されてしまうというフィクションの世界は、彼の入魂の演技によって確かに「史実を軽く凌駕した」リアリティを持ったものに昇華していたのです。
 それにしても、まさしくこれからという時期にあっという間に舞台からその姿を消すことになってしまった2人の天才、十八世と今川義元……人の世というものは、昔も今も思わぬところで残酷すぎる刃をひらめかせるものなんですね。
 つくづく私は、そんな運命の神様にとってもアウト・オブ・眼中な最底辺にいる凡人でよかったと思っとりますよ、ハイ。

 そういえば、最近は芸人さんが胃がん手術を受けることになった、とかいうニュースもありましたが、この前に三条会のお芝居を私と一緒に観た親友も、会社の規定で35歳になってからは必ず人間ドックを受けなきゃならないようになる、とか言ってましたわ。
 健康診断じゃあ、わかる内容もたかが知れてますからね。私だって35なんてあっという間なんだから、ちょっとはそういうもののために貯金しておかなきゃなりませんわな。バカにならないんでしょ? 人間ドックのお代なんて。や~ね~!

 ……今ちょっと調べてみたんですけど、高っ! 人間ドック高っ! よし、がんばって明日からも働こう……


 まぁ、んなこたぁどうでもいいんだ!
 今回は、つい昨日に東京で観てきたお芝居の感想なぞをつれづれ、いってみたいと思いま~す。
 昨日は夕方までお仕事をしたあと、東京は渋谷と下北沢の中間ぐらいに位置する、駒場というところにある小劇場「こまばアゴラ劇場」に行ってお芝居を観てきまし~た。


城山羊(しろやぎ)の会プロデュース第13回公演 『あの山の稜線が崩れてゆく』(作・演出 山内ケンジ)


 はい~、城山羊の会さんでございます! あの、丸1年前の2011年暮れに、私が「こ、こ、こりはまさしく3.11以降の日本を描いた作品でし!!」と勝手に興奮してしまった映画『ミツコ感覚』(主演・初音映莉子のようでいてあきらかに石橋けい)の監督である山内ケンジさんの作・演出であります。

 この『長岡京エイリアン』でも、ちょいちょい城山羊の会さんの作品が好きだ~なんてことをつぶやいているわたくしなのですが、実は公演を観るのは去年春の『メガネ夫婦のイスタンブール旅行記』以来でして、『ミツコ感覚』公開に前後していた去年末と今年夏の2公演をまるまる見逃しているという情けない状況になっておりました。ダメだな~!

 ということで、およそ1年半ぶりに観ることになった城山羊の会公演に、私の期待はいやがおうにも高まっていたわけだったのですが、実際に昨日、このまなこでしかと拝見した感想は……


とても恐ろしく、あたたかく、おもしろく、せつない作品だった!!


 やっぱり今回もギャフンとうならせられてしまいました……お芝居自体は「1時間半」というボリュームだったのですが、そのわずかな間にこうも自分の「脳内の温度」が乱高下してしまうものなのかと、なんだか激しいスポーツかおもしろいスーパー銭湯にでも興じたかのような感覚におちいってしまいましたよ。

 いろいろ言いつつ、結局は私も2008年ごろからたかだか5作ほどの城山羊の会さんの公演しか観ていない浅漬け人間なので大きな口はたたけないのですが、私は城山羊の会というか、山内ケンジさんの作り出す「登場人物たちの言葉や行動のボタンのかけ違いから物語が始まっていく」世界が大好きです。誰が悪いというでもなく、よかれと思ってついた軽いウソがいちばん恐ろしい悲劇を生み出す母胎になってしまうという、いわば「凶夢のピタゴラスイッチ」とも言える伏線の精緻さと、物語の進行にしたがってある程度の不幸が累積してきた段階で、登場人物全員が一気に「スッポ~ン☆」と常識の重力から開放された狂気と本能の宇宙へと飛翔していく、人間本来の「逃避」の力強さとが同時に体験できる城山羊の会さんの作品が大好きだったわけなのです。

 ところが……今回は、そのあたりの「思わぬ不幸とそれに抗う人間」との衝突が生み出す爆発の火薬量がちょっと今までと違っていたような気がするんですよ。ケタがちがってた!


 まず、今回の『あの山の稜線が崩れてゆく』は、物語ののっけから上にあげたような山内ケンジさんの作品にみられるダイナミズムが「前倒し」になっています。始まってわずか5分という早さで、舞台となっている古めかしい家に住んでいる3人暮らし一家のひとり娘である受験生のしおり(演・岸井ゆきの)が家庭教師の高崎馬(たかさきうま 演・本村壮平)にたいして何らかの想いをいだいていることが暗示され、それにたたみかけるかのように、しおりの母親・冴子がちょっと度を越した欲求不満におちいっているらしいことが明示されるのです。今回も、冴子役を演じている石橋けいさんの疲労オーラ180% 大全開で床を見つめるうつろな視線と、絶妙な角度で傾斜したねこ背から首筋へのラインは快調でした。やっぱり石橋さんは素晴らしい!!

 娘のしおりを押しのけて高崎馬に常軌を逸したモーションを仕掛けてくる冴子ではあるのですが、その日、予定よりも仕事が早く終わったと帰宅してきたスーツ姿の旦那さん(しおりの父 演・古屋隆太)はきわめて常識的な物腰の中年男性で、冴子にもしおりにも優しい声をかけるその様子からは、冴子があれほどおかしな精神状態になる理由がつかみとれません。
 ところが、そんな旦那さんが帰宅したことから冴子さんの奇矯な言動にはさらにギアがかかってしまい、「早く帰ってくるなんて知らなかったから夕食を作ってなかった」と言って泣き出したり、それなら外食に行こうと旦那さんが言ったら言ったで「外食が大嫌いなあなたが外食に行こうだなんて、おっかし~い☆」と大爆笑したりと、完全な部外者である高崎馬がいることもどこ吹く風で崩壊しまくってしまいます。

 この時点で、紳士にしか見えない旦那さんが、冴子にとっては非常に強い「何かしらの」不満をつのらせる忌まわしい存在になっているらしいことがわかってくるのですが、じゃあ具体的に旦那さんのどこが冴子をそんなに狂わせるのか、という焦点は一向にはっきりしてきません。それは、当惑するばかりの家族と高崎馬の知らないその答えをただひとり知っている冴子が舞台の上では沈黙するばかりだからです。
 ここが今回の作品のポイントのひとつだと私はふんでいるのですが、今までの山内作品では、主人公に位置することの多い女性(たいてい石橋さん?)が整理されていない言動で日常の不満を吐露していくところから物語がころがっていくという流れがあったような気がするのですが、今回の場合では、物語の語り手であるはずの冴子が沈黙を押し通しているという大きな違いがあるような気がします。

 語り手がいない、ということは、物語を客観的に見つめる人物がいない……のではなく、「意図的に隠されている」ということなのではないのでしょうか。
 つまり、今回の『あの山の稜線が崩れてゆく』は、これから起きる山内作品ならではの「大崩壊」を引き起こしてしまった主人公が誰なのか、ということがラストシーンになるまでわからない緊張感にいろどられているということになるのです。
 今までの山内さんの作品では、確かにちょっとした発言のズレから始まって次々とトラブルが発生していってしまい、最終的には殺人くらいの事態にまで発展していってしまうというスリルがありましたが、これらの信じがたい崩壊の連続が、「いったい誰のつくり出したものなのか?」という部分に謎を残す手法は、こと今回の作品に関して非常にすばらしい効果を与えていたと思います。

 私の観た山内作品のかぎりでは、確か2010年2月に上演された城山羊の会プロデュース第8回公演『イーピン光線』のクライマックスにこのあたりに近い「あぁ~、そうだったのか。」な展開があったと記憶しているのですが、そのときはよく効いた「ひとつのコントのオチ」のようなワンポイントな印象にとどまっていたものの、今回はこの「主人公は誰?」の謎が全編にわたって行き届いていてとてもミステリアスなひとときを味わいました。ミステリー大好き!

 こんな感じの思いをもって私はこの『あの山の稜線が崩れてゆく』を拝見しましたので、私のつたない筆(じゃなくて……パソコンの場合は「指」っていうんでしょうか)でどのくらい守り通せるのかはわからないのですが、今回の作品の主人公が誰だったのかはなるべく明かさないようにしてお話を進めていきたいと思います。できんのか!?

 さて、とにもかくにもこういった「しおりと高崎馬のびみょうな関係」と「冴子と旦那さんのピリッとした関係」の2つがやけに早めにクローズアップされた序盤だったのですが、それらをブッタ切るかのように突如として来訪するのが、これみよがしに弁護士バッジをジャケットにつけた吉岡夫妻(演・永井若葉&岡部たかし)です。このお2人がまた、ご丁寧にどちらもバッジをつけている立派な弁護士センセイであるはずなのに、外見と言動があやしいあやしい。やがて吉岡夫妻はすったもんだの末に、しおりとその両親に対して、一晩で決定するにはあまりにも巨大すぎる人生の選択を迫ってくる添島という男性(演・猪野学)を連れてきます。

 今回の作品は、ここで出そろった3人家族と高崎馬と吉岡夫妻、そして添島の計7名で登場人物が全員になるのですが、やっぱり石橋さんの猫背、永井さんのしれっと繰り出される異常な発言、岡部さんの空間いっぱいに響きわたる割りには中身のない低音ヴォイス、そして本村さんのまったく予想のつかないタイミングで炸裂する無意味きわまりない慟哭といったあたりが次々に展開されていくと、「あぁ、私は今、山内ワールドを体験しているんだなぁ!」という幸せにひたってしまうわけなのです。石橋さんと永井さんがおんなじ部屋にいるってだけで、龍虎あいまみえるというか、ものすごく陰湿な川中島合戦を目撃しているような臨場感にとらわれるんですよねぇ! 燃えるなぁ!!

 ともかく、この7人が繰り広げる悲喜こもごも(便利な日本語……)の末に、物語のクライマックスには、たった1時間半前の序盤にあった舞台上の風景はもう二度とかえってこないという残酷な結果と、置き去りにされた主人公のもとにひとり残るパートナーという「救い」が残されてゆくのです。ここで提示された救いが、観る人に「あぁ、よかったね。」という感動をもたらすのか、「うわぁ、完全にいっちゃった、この人たち……」というドン引きをもたらすのかは受け取り方次第であるわけなのですが、私個人は、あんな悲劇が展開されたのによく冷えたビールを用意してくれる誰かがいてくれるということに満ち足りた表情を浮かべてしまう主人公に、人間の愛すべき単純さのようなものを感じて非常にせつなくも温かい気持ちになりました。この、人間についてのカラーが常に2色以上入り混じっている描写力こそが、山内作品のものすごいところなんですよね。

 今回の物語で展開される「大災厄」は、少なくとも主人公にとっては、まさしく「世界が転倒してしまった!」レベルのひどすぎる悲劇でした。ここで私が言いたい「転倒」の意味合いは、ただ単に転んじゃった、という程度のものではありません。世界のルールが、善悪が180°ひっくり返り、今まで生活している中で普通にあったはずの大事な何かが一瞬のうちに手元から消え去ってしまった「顛倒(てんとう)」の意味なのです。「顛倒」だと、ちょっと読みづらいから使ってないだけ。これはつまり、今まであったごくごく常識的な風景が確実に「終わってしまった」ことを意味する大崩壊であるわけなんですね。
 映像のイメージでたとえるのならば、デイヴィッド=フィンチャー監督の映画『ファイト・クラブ』(1999年)のラストシーンみたいな感じですよね。まさに、『あの山の稜線が崩れてゆく』!

 この大崩壊は……そのレベルの出来事だけでも「自分の身に起こったら」と考えただけでゾッとしてしまう恐ろしさなのですが、出来事そのものよりももっと恐ろしいのは、その大崩壊の始まった起点がどうやら、ずーっとずーっと昔からその主人公が「なんとなく思い描いていたとりとめのない妄想」であるらしいということなのです。

 イソップ童話の『おおかみ少年』の主人公は、積極的に村の人たちを大騒ぎさせるウソをつき続けたために、そのウソが「実現化してしまう」という顛倒の末に若い命を散らせてしまいます。余談ですが、童話の原典となったアイソーポス(紀元前619~紀元前564年?)の寓話では、クライマックスでオオカミが食い尽くしたのは村の飼育していた羊であって、主人公は食べられなかったそうです。確かによく考えてみたら、そりゃそうですよね……

 ところが、『あの山の稜線が崩れてゆく』の主人公は『おおかみ少年』ほどの悪意さえもない他愛のない思いつきをするか、せいぜい冗談交じりに口走って遊ぶくらいのことしかしていなかったわけなのです。たったそれだけの妄想が、ある日突然に現実のものとなって容赦なく襲いかかってくるという、この無残な恐怖。こんなことがあっていいものかという理不尽さなのですが、考えてみれば、現実の世界で人間に襲いかかる、事故とか病気とか災厄といった「不幸」の成分はだいたいこんな理不尽が8~90% を占めているわけで、「ちょっとその道を歩いてみたくなった」や「なんとなく脂っこい食べ物が好きだった」という起点は、あくまでもほんの小さなとっかかりにすぎないのではないのでしょうか。同じことをやっていても健康な人は健康であるわけなんですから。

 その辺りの、「始まったらもうどうしようもない」という、人間の抗いようのない不幸が活き活きと描写されているのもとてつもないのですが、今回の作品のさらなるポイントは、そんな「ありえない不幸」の原因が自分にあることを本人がちょっとでも「自覚してしまった」時点で、その不幸が現実のものとなってしまうという用意周到さにあります。つまり、この主人公はフィクションの世界によくある「100% 落ち度のない被害者」にもなることさえもが許されないのです。主人公を取り巻く面々は、そこを執拗について責めたててきます。「だって、あなただってこうなるとは予想していたんでしょ? ずいぶん昔から!」と。

 物語の流れに即していきますと、突然あらわれた添島の要求にもまして「ありえない」のは、その添島の意向を土壇場になるまでしおり一家に伝えることを忘れていた吉岡夫妻の職務怠慢なのですが、作品の世界は「そもそも吉岡夫妻が悪い」というごくごく常識的な論理を軽くプチッと踏み潰してしまった上で、「こんな事態になることを少しでも脳裏に浮かべていた主人公が悪い」という恐るべき空気に支配されていくのです。そして、その空気に抗いきれずに自分の非を認めてしまった主人公の姿に失望した「これまでの世界」は、主人公のもとを去っていってしまうんですね。

 こんなに恐ろしい話があるでしょうか……主人公はそれなりに自分の築きあげた世界に満足して、それを全力で守っているつもりではいたのでしょうが、その力が自分自身の「飽き」にさえも打ち克てない弱さだったことを思い知らされ、ラストシーンで絶叫してしまうのです。

 恐ろしく、それでいてとってもいいお話です! まさにタイトルどおり、観た方はすべからく『あの山の稜線が崩れてゆく』ほどのショックをおぼえるのではないのでしょうか。ただし、その驚くべきラストシーンから「人間の奥深さと弱さとたくましさ」を感じるのか、「とにかくシュールだった」程度のビックリにとどまってしまうのかは、かなりシビアに観る側の感性に迫ってくる問題になるかと思います。

 この作品は、もっとも安易で楽チンな解釈でとらえてしまえば、ラストシーンにやけに充実した表情で瓶ビールを飲んでいた主人公の、「もしもあの妄想が現実のものとなってしまったら……」という、うたかたの思考実験と見ることができなくもないのですが、それではあまりにも、この作品の根底にある「恐ろしさ」から逃避しすぎた読み取り方になってしまうと思います。やっぱりこの1時間半の出来事は、今日か明日にでも、他ならぬ観客それぞれの我が身に降りかかってくるかもしれない現実の災厄ととらえるべきなのではないのでしょうか。このくらいの「荒唐無稽さ」は軽く現実化してしまうのがこの世界なのであるということを、山内ケンジさんの鋭利な視線は明瞭に見通しているのです。


 う~ん、やっぱり城山羊の会、城山羊の会!! やっぱり大好きなんだな、という自分を再確認できた夜なのでありました~。

 ちなみに、『あの山の稜線が崩れてゆく』は今月11日火曜日まで上演しております。さらに会場のこまばアゴラ劇場では、あの映画『ミツコ感覚』の特別上映会も10日までやってるそうですよ~!


 完全な蛇足ですが、私はこの城山羊の会さんの上演する作品を観終えたあとの感覚に非常に近いものを味わってしまう映画作品として、いっつも頭の中に、かなり古典的なドイツのサスペンス映画である『M』(1931年 監督・フリッツ=ラング)を浮かべてしまいます。
 この映画は、主人公に連続幼女殺害犯(演・ピーター=ローレ)をもってきて、彼が殺人を犯した末に街の自警団の活躍によって捕らえられ、クライマックスでは自身の殺人欲求の業の深さを魂をふりしぼるかのような悲壮さで告白するという衝撃的な内容から、現在ではサイコスリラーものの原典のような観点で評価されることが多いかと思います。

 でも! 私が中学生だったころにこの『M』の VHSビデオを観て本当にビックラこいたのは、そんな逮捕劇のサスペンスでも連続殺人犯の償っても償いきれない告白でもなく、映画の最後の最後にとってつけたように流れたテロップだったんですよね!

 殺人犯の涙ながらの抗いきれない欲望の告白を聞いて、彼をリンチしようと集まっていた市民の集団は、彼を殺したところで彼に殺された少女達の命は帰ってこないし、そもそもこの男は罰を受けるべき資格を持っていない「病人」として処遇されるべき人間なのではないか、と困惑してしまいます。彼を罰することに意味がないのならば、我々のこの怒りはどこにぶつけたらいいのだろうか? こんな男に育てあげてしまった男の家族なのか、それとも、こんな男を野放しにしてしまった社会なのか?
 結論の出ようのないドン詰まり状態になったところで、映画はパッと映像が切れて、画面にはでかでかとこんな内容の文字と、女性による機械的なナレーションが。


「そもそも、親が子どもから目を離さないでいればよかったのです。」


 えぇ~!! そこ!? そこに責任をもってくかね、しかし!!
 この、サイコだのサスペンスだのと、丹精こめて作り上げた世界をたった一瞬で自分の手でブチ壊してしまう豪胆さと爽快感ね!!

 似ていると思うんです。この、繊細さと豪快さのステキすぎるマッチング。

 山内さん、次回作も首をながぁ~くして、お待ちしておりま~っす♡
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観たんだけどさぁ……

2012年10月24日 22時28分20秒 | ふつうじゃない映画
 いや~、どうもこんにちは、そうだいでございます。

 あの、うわさの『アウトレイジ ビヨンド』、ついさっき観て帰ってきたところなんですけれどもね。


……ふつうに、おもしろかったねぇ……

 でも、ふつうすぎて感想が出ないっすね。
 予想通りのおもしろさっつうかなんつうか。思ったとおりの大崩壊劇でしたけども……思ったとおりでしたね、見事に。

 個人的には前作の方が好きだったんですけど。


 なかなか難しいもんで、今回はほめる部分もほめない部分も、高いテンションでお送りできそうにねぇな。

 っつうことで、今日はここまで! いちおう『アウトレイジ ビヨンド』、観るには観たよ~っつう報告だけにとどめてトンズラぶっこくぜ。
 実は最近、体調もあんましかんばしくないもんですし明日も仕事で早いんで、全面的な「後方前進」で逃げ切りだ~い。


 宣伝でよくやってる、たけしさんがタンカを切ってるところは良かったね~。

 そんだけ! そんじゃまた、バッハハ~イ☆
 たまにゃあこんな字数もいいでしょう。フレッシュふれっしゅ。
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緊急事態発生!! 安心して楽しめる感動作のはずが  映画『ツナグ』

2012年10月19日 23時37分48秒 | ふつうじゃない映画
 ぺりどっと~ぺりどっと~。どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今週も一週間お疲れさまでした! 年の瀬もいよいよ近づいてまいりましたなぁ~。

 『ワクテカ Take a chance』、ウィークリーチャート3位ですか。ああそうですか。私としましては文句なしの3ヶ月連続トップ確定なんですけどね。
 でもあれですよ。どうしても「1位じゃなくて残念だ!」っていう気分にはなれないんですよね。だって、1位と2位がアレとアレでしょ? なんか世界が違いすぎるというか、負けた勝ったとかいう話にならないんですよ。
 どこからどう見ても『ワクテカ Take a chance』がいちばんだと思うんだけどなぁ……まぁ、1位はいずれとれるでしょ。ってかもう、あんな有名無実もいいとこなヒットチャート、無視しちゃおっか。

 ところで、これは恨み節じゃなくて本気でふしぎに感じていることなんですが、「歌手の福山雅治さん」って、女性の中のどんな方々が指示してるんですかね。少なくとも断言できるのは、男性で好きな人はゼロに近いってことなんですけど。いや、ラジオパーソナリティとか俳優としての福山さんの人気はまったく別ですよ?
 その男性像は幻想だと思うんだけどなぁ……余計なお世話なんですけど、現状のままでいくと将来、福山さんご本人が唄わなくなった後、福山さんの歌を唄う人は誰もいなくなると思いますよ。福山さんにかぎったことじゃないですけどね! それって、歌にとっては非常にかわいそうなことじゃないでしょうか。「歌」というものが戦う相手は、初リリース時の経済市場じゃなくて「時間」「時代」だと思うんですけどね。その気概がなければ名曲にはならないと思います。なにをいっぱしのつらしてしゃべってんでしょうかねぇ、私!

 え? 『ワクテカ Take a chance』? これは間違いなく名曲ですよ! 1人で唄うのムチャクチャ難しいけど。
 まずとにかく、「年間4シングル」というハードスケジュール、お疲れさまでございました~。来年2013年もよろしくお願いいたしまっす。


 さてさて、お話かわりまして、今回は最近観た映画についての雑感しょうしょうでございます。


映画『ツナグ』(2012年10月公開 監督・平川雄一朗 主演・松坂桃李 129分 東宝)


 きたきたきた~! 観てきましたよ、ついに!

 私の愛する辻村深月先生の原作による初映画化作品。「映像化作品」ということでは、今年2012年の1~3月に NHK総合で放送された『本日は大安なり』(連続ドラマ 全10回)以来2作目になりますね。『本日は大安なり』のドラマは、結局まだ1秒も観られておりません……

 2004年のデビューから現在にいたるまで、けっこうなハイペースで長編小説を中心にパワフルな執筆活動を続けておられる辻村先生なのですが、私としましては、ことここにいたって「やっと」映画化作品が世に出ることになった、という思いがありますね。
 ところで、この映画『ツナグ』はパンフレットによりますと2012年の3~5月に撮影されたとのことでした。つまり、辻村先生に関して世間的には今のところ最もホットなニュースになっている、7月の直木賞受賞よりもだいぶ前に映画化の話はズンズン進んでいたということになるんですね。
 ここですよ……こういう、本人や周囲のみなさんが策を張りめぐらすわけでもなく、ごくごく自然の流れとして直木賞受賞の報がすべり込んできて、映画『ツナグ』にたいする期待のボルテージが上がっていくと! この流れがいいのよねぇ~。まさしく「天運」。きてるきてる、先生きまくってますぞよ~。

 ということで、映画の脚本が仕上がる段階では、「あぁ、あの辻村深月の!」という効果がここまで上昇するとは製作スタッフ陣も予想していなかったのではなかろうかと思うのですが(無論のこと、前からすでに超有名ですけど)、「原作の内容を重視した」この映画のスタイルも、最近の辻村先生の活況に華をそえるものになったのではないでしょうか。

 そうなんです。映画『ツナグ』は、2009年9月~10年6月に連載されて2010年10月に刊行された原作小説『ツナグ』の内容をほぼ忠実に映像化したものとなっています。そういう意味では、原作の味わいをかなり親切にくみとった映画になっているんですね。

 んでまぁ、その「原作の味わい」というのが一体なんなのかといいますと、それはもちろん本を読んだ方それぞれの解釈でとらえていいことだとは思うのですが、私がいちばん感じたのは、「人と人とのつながりの温かみをもう一度たしかめてみよう。」と、こういうメッセージなんじゃなかろうかと、原作を読み終えたときに感じていたんですね。

 『ツナグ』にかぎらず、辻村先生のすべての作品を読んで感じるのは、登場するキャラクターに必ず「読者の記憶の中からなにかを引っぱりだす」キーワードがあるというか、「あれっ、この人、どこかで見たことがある……」と思わせる体温があるということなんですね。それは会社の同僚なのかもしれないし、一緒に住んでいる家族なのかもしれないし、いっしょにバカ笑いをした親友なのかもしれないし、部活であこがれた先輩だったのかもしれないし。
 そんなふうに思い出す「なにか」の中でも、特にドキッとするのが「あ、この人……私だ。」と思わせる描写が差し込まれていたりした時の辻村先生の筆のするどさですね。ことここにいたって、辻村ワールドは並みのホラー映画よりも恐ろしく、並みのエンタテインメント映像よりも心を揺さぶる強烈な語りのパワーを発揮します。そして、それらの効果を映像をいっさい使用しない形で読む人の心に引き起こすというところが、小説家・辻村深月のオンリーワンなところなんじゃないかと思うわけなんです。

 最近の小説家の中では、わかりやすい情景描写やスピーディな登場キャラクターのアクションでスラスラ~ッと読ませ、アッという驚きのどんでん返しで読者の意表をつく、それこそ海外の軽快な娯楽映画をそのまま小説にしたかのような作品がうけているようで、それらは確かに読みやすく、単純にスカッとした気持ちになるので人気が出るのももっともなことだと思います。
 でも、そういうのって、読んだあとに「おもしろかった~」ってことしか頭に残らなくて、私としましてはな~んか、もともと私が好きな三島由紀夫とか太宰治とか中井英夫とかが並んでるマイ本棚におさめるのは躊躇しちゃうんですよね! 「いや、いっしょじゃねぇよな。」みたいな。

 その点、辻村先生は、そりゃあまだ若いし、出版ペースもむちゃくちゃ早いのですが、1作1作、力をぬかないでちゃんと自分の中の血肉を小説の登場人物たちに分け与えて作品を「産みおとしている」エネルギーが感じられるんです。
 そして、当然ですが辻村深月は小説家であるとともに1人の人間であるわけなのですから、そこから誕生する物語もただおもしろいだけではなくて、読む人に人間だからこそ起きるさまざまな感情の揺さぶりをしかけてくるものになるのです。そのために、ある展開では読み進めるのがしんどくなるくらいに気が重くなるイヤ~な空気が充満するし、ある展開では「こいつ……サイテー!」とムカムカッときてしまう人物に遭遇してしまうわけなのです。でも、それが実際に私たちが生きている世界なんですよね。
 脱線しますが、最近第一線で活躍している辻村先生と同年代くらいの作家さんの多くは、なんか「自分の手を汚さずにきれいに完成された小説を提示したい」みたいな気持ち悪いプロ意識って、ありませんかね。いやいやそんなあなた、村上春樹じゃないんですから。もっと身を削れ、削れ~。

 やがて、そういった物語も最後には必ず小説家の手によって、つまりは、そういう苦しみを知っている生身の人間・辻村深月の手によって終焉を迎えることとなります。そこがまぁ、ホントに神様がいるのかどうかが確かめられない現実世界との違いなのですが、辻村ワールドは必ず辻村先生の手によって読者も登場キャラクターも双方が納得する結末をむかえるのです。衝撃と感動とがないまぜになったクライマックスが訪れて物語は去ってゆきます。毎作毎作、辻村先生はここらへんの安心感もものすごいんだよなぁ。だからこそ、また再び厳しい試練の物語が始まるのだとしても、次の作品との出会いが楽しみになるってもんなんです。


 さてさて、そんなもろもろを勝手に考えていた私にとって、今回の「『ツナグ』映画化!」の報は、「うむ、まぁ、そんなとこですか。」といったものでした。映画化というのは確かに素晴らしいニュースですが、意外とフーンってな感じだったんですね。

 なぜならば、原作の『ツナグ』は辻村ワールドの中でも比較的ソフトというか、わかりやすい作中のルールにのっとった「救い」がほどこされる、ファンタジーでエンタテインメントな作品だと感じていたからなのです。

 原作『ツナグ』は、「死者を一晩だけ復活させて、生きている人に会わせることができる」というふしぎな能力を持った仲介人「ツナグ」を名乗る青年を中心に、彼に死者との再会を依頼する4人の男女、そして最後に青年自身を主人公とした物語を用意して構成されている「全5章の連作小説集」という形式をとっています。最終章を別にすると、それまでの各4章の登場人物は、基本的に別の章の登場人物とはまったくかかわりのない独立した短編のようになっています。要するに、「ほぼオムニバス形式」という形態をとっているんですね。

 そして、今回の映画『ツナグ』で映像化されたのは「第2~最終5章」の内容ということになっています。原作の第1章「アイドルの心得」が今回カットされた理由はいろいろあるのでしょうが、私の勝手な解釈では、第1章の登場人物のひとりが実在されていた有名人のイメージを強く呼び起こすものになっていたため、彼女ご本人の記憶が観る側にいまだに色濃く残されている現状で、それを別の俳優が演じるのは得策ではないという判断があったからなのではないでしょうか。なんか、ものまねショーみたいになったら作品全体のスケールも小さくなってしまいますからね。
 今のこの文章で、まだ原作の『ツナグ』を読まれていない方、第1章が読みたくなったんじゃないの~!? ほれほれ、読んでみ読んでみ~♡

 ともあれ、この製作スタッフの判断によって、映画『ツナグ』はそれぞれ文庫本にして100ページ前後の「4つの物語」を映像化するということになったのです。

 こういった作品を忠実に映像化する場合、ふつうはそのまま原作小説の記述の順番に4章をつづっていく「オムニバス映画」の形をとるのではなかろうかと私はふんでいたのですが、平川雄一朗監督はあえて、それぞれのエピソードを同時進行でスタートさせながら映画全体の物語をつむいでいくという手法をとっていました。これによって、最終章の主人公となる青年(演・松坂桃李)とその祖母(演・樹木希林)のキャラクターがより丁寧に観る側に伝わってくるという効果があったかと思います。ただし、ちょっと映画の序盤に一斉スタートする視点の数が多くなって情報がゴチャゴチャしてしまい、特にツナグに出会わない時点から始まっている第4章の主人公(演・佐藤隆太)が、なぜこの映画に出ているのかがちょっとわかりづらい印象になってしまっていたような気もしました。

 余談ですが、原作小説では名前が明確にされていなかった「使者との再会ができる東京・品川の高級ホテル」は、映画の中では「品川ロンドホテル」という名前がついていました。
 「品川なのにロンドン!? 島国根性丸出しでや~ね~!」と感じるのは早計でして、これはおそらく、世界のオムニバス映画の中でも指折りの傑作と言われる1950年のフランス映画『輪舞(りんぶ)』(監督・マックス=オフュルス 出演・ジェラール=フィリップら)を意識した映画製作スタッフのお遊びかと思われます。『輪舞』っていうのは、19世紀末のウィーンの小説家アルトゥール=シュニッツラーの戯曲『ロンド』を映画化したものですね~。
 あと、『有頂天ホテル』もそうでしたけど、「役者がいっぱい出てきていろんなエピソードが同時進行する映画」のことを意味する「グランド・ホテル形式」という用語の語源となった『グランド・ホテル』(1932年)の例をあげるまでもなく、群像映画の舞台に高級ホテルが使用されるのはもう、伝統なんですよねぇ! こちらはおそらく、設定を考えたときの辻村先生の「つながり発想」でしょう。


 さぁ、ここからやっと映画の内容に入っていくのですが、物語は原作の通り、時を経ても変わらない「母と息子」のつながりを描く原作第2章のエピソード「長男の心得」、愛憎半ばする「親友」のつながりを描く第3章「親友の心得」、秘密を抱えて去っていった恋人との再会に苦悩する男を描く第4章「待ち人の心得」、そして、死者と生きる者とのあいだに立つ役割をになう青年と祖母の「家族」のつながりを描き、新しい物語のはじまりを予兆する最終章「使者の心得」。それぞれをしっかりと映像化したものとなっていました。

 最初の、亡くなった母親とすっかり一家の大黒柱となった長男との再会を描いたエピソードは、とにかくまぁ母親を演じた八千草薫さんの「たたずまい」が素晴らしかったですね! もちろん、「死んだはずの母ちゃんが……」という、長男を演じた遠藤憲一さんの、疑いから一転してうれしさで胸がいっぱいになる演技も見事なものではあったのですが、それ以上に、たった一晩とはいえ、「母ちゃんに会いたい」という息子の言葉を受けてこの世に戻ってきた八千草さんの、全身に満ち満ちた「喜び」のエネルギーが素晴らしかったんですね。もちろん、ハイテンションになってきゃっきゃするという単純な演技ではなく、物静かに息子との再会に接しています。しかし静かではあるのですが、間違いなく物語のルールにのっとって「もう二度とできない息子との再会」という貴重な時間をしみじみ楽しんでいるリアリティがそこにはあったんですよね。
 これが大女優というものなのか……「死んだ人」という役柄を、ちまたにあふれる凡庸なイメージではなく、あたかも菩薩様のようなあたたかなオーラで演じきってしまわれた!! 驚くべきナチュラルさ、驚くべき包容力の豊かさ。言うまでもなく私の肉親は八千草さんのような容姿でも世代でもありませんが、そんなことはとっぱらって、観客全員の母親を思い起こさせる「なにか」を八千草さんは実にかろやかに身にまとっていました。エンケンさんは……ちょ~っとああいうキャラクターのおじさんにしてはカッコよすぎるかなぁ!?

 「死んだ人を活き活きと演じる」という逆転にこそ輝く真理。まさしくこれですよ。『バイオハザード』シリーズのゾンビ連中も、ちったぁ八千草薫さんを見ならえ、コノヤロー!!


 さて、こういう感じで1人1人の演技をつづっていってもいいほど、映画『ツナグ』の出演俳優陣は充実しまくっていました。主演格の松坂桃李、樹木希林はもちろんのこと、各エピソードの主人公、脇を固める桐谷美玲、大野いと、仲代達矢、浅田美代子。みなさんかなり気合いの入ったお仕事をしてくださっていたと思います。


 ところが、その緊急事態は映画中盤で発生してしまった。


 今回の映画『ツナグ』の場合、やはり、最終的にいちばん大きな感動はラスト、「ツナグ」という立場を祖母から確かに受け取って歩き出していく青年の成長した姿でなければならなかった。もちろん、そこにいたるまでの「親子」「親友」「恋人」「家族」というそれぞれのキーワードにまつわる感動も用意されているわけなのだが、作品全体としては、それらを見届けた上での青年の決断に最大のクライマックスをもってこなければならなかったのである。

 しかし……中盤、「親友の心得」パートの主人公たる、ある女優の演技がとんでもない異常事態を誘発してしまった!
 その異常事態とはすなはち、「中盤の彼女の演技がもんのスゴすぎてそれ以降のエピソードを喰ってしまい、作品全体のバランスがぶっこわれちゃった」!! とんでもハップン歩いて2分。

 映画の進行としては、その「親友の心得」のあとに佐藤隆太エピソードと松坂&樹木ペアのエピソードが続くという流れだったのだが……そこに行く前に観客の度肝を抜き去っていってしまった恐るべき女優とは、なにやつ!?


その名は、橋本愛。


 いんや~。おらァもう、ビックラこいたずら。熊本県出身の16歳ですか。これが「肥後もっこす」のポテンシャルというものなのか。肥後もっこすって、字ヅラにすると予想以上におもしろいね。

 これ、私だけの偏見じゃありませんよね? 映画を観たみなさんが全員そう感じましたよね!
 そうなんです、他の皆さんの演技も素晴らしかったんですが、この橋本愛さんの演技はそれらをブッコ抜いて冴え渡りまくっていたんです。その冴え、あたかも冬の快晴時における北海道・摩周湖の湖水透明度の如し。わかりづら~!

 問題の橋本さん演じる女子高生の美砂は、同じ演劇部に所属している親友の奈津にオーディションで次回公演の主役の座を奪われてしまったことから彼女に憎しみの感情をいだくようになり、まさに「魔がさした」と言うべきなのか、下手をしたら奈津が怪我をして公演に出演できなってしまうようないたずらを通学路にしかけてしまいます。これまでは唯一無二の親友だと思い込んでいた奈津だっただけに、他ならぬその彼女が、演劇部エースである自分から主役の座をかすめとっていってしまったと受け取った美砂にとっては、「裏切られた」というショックが大きすぎたのです。
 ところが、翌日に登校した美砂は、奈津が通学途中に大事故に巻き込まれて搬送先の病院で死亡してしまったという恐ろしすぎる事実に直面してしまいます。
 「自分が奈津を殺してしまったのか?」受け入れがたい疑惑に美砂は身を焦がし、その上、病院で死を目前にした奈津が美砂の名を口にしていたという話を奈津の母親から聞いてしまいました。
 「自分が殺そうとしていたことを奈津は知っていたのか? それとも、奈津は死ぬ直前まで自分のことを親友だと信じ続けていたのか……」
 なかば錯乱状態におちいってしまっていた美砂は、学校で広まっていた「死者に会わせてくれる使者」の都市伝説を思い出し、死んだ奈津に会ってその真意を聞き出すためにインターネット上に散在する「ツナグ」の情報を調べだし、そしてついに……

 だいたいこんな感じが橋本さんの登場する「親友の心得」パートのおおまかなお話なのですが、わたくしのつたない説明でもおわかりいただけるとおり、橋本さん演じる主人公格の美砂という少女は非常に「むつかしい役柄」です。ヘタな女優が担当してしまえば好感のひとつも喚起しない、自己中心的で単純で猜疑心の強いおろかなキャラクターになりかねないわけなんですから。ただし、逆に言ってしまえば「そういう小人物」が主人公であるという、『ツナグ』全体の流れの中でのワンクッションになってもいいわけなのです。事実、原作『ツナグ』でも美砂はひたすらに思い込みのはげしい高慢チキな印象が強く、その結果としてあまりにも残酷な「あの夜明け」を迎えてしまうわけなのです。

 ところが! 演じた橋本さんは「そのくらいの高校によくいそうな女の子でいいよ~。」という低いハードルを軽く蹴飛ばして、いつもどおりの楽しい学校生活の日々が一転、「親友の奈津が自分と同じ主役のオーディションに立候補した」というほんのささいな出来事から何もかもが信じられなくなるという、「異常すぎるほどに繊細な神経の持ち主・美砂」という部分に精巧なガラス細工を作り上げるような手つきでいどんでいく茨の道をえらんだのです。いや、女優・橋本愛の稀代の感性があえてそういった困難の道を歩ませることになったと言うべきか。

 奈津がオーディションに立候補したという事実を知ったその瞬間から、美砂の目つきは常に引きつってつり上がるようになり、肌は血の気のうせた蒼白に、声は自分で自分を抑え込むような低さになってしまいます。冷たい、キツい、こわい!!
 そのネガティブな態度は、奈津が美砂をおさえて主役になってしまったことでさらに硬化してしまい、そのあまりの恐ろしさに「どうして……?」と思わず涙してしまった奈津にもやわらぐことはありませんでした。
 そして、そんなある日に奈津が突然の死を迎えてしまったという思わぬ悲報から美砂の心境は急転直下、奈津との思い出や他人の非難の視線の幻覚にしじゅうまとわりつかれる狂乱のていにもろくも崩壊していってしまいます。

 ここからの橋本さん演じる美砂の修羅の表情はまさに「鬼気迫る」ものがあり、特に奈津の通夜の席で、彼女の母親から「娘があなたの名前をベッドでつぶやいてたわ。なんでか、知ってる?」という話を耳にした時の美砂は、あたかも壊れた西洋人形でもあるかのように表情が凍りついて視線が泳ぎに泳ぎ、全身をこきざみに震わせながら、

「あば、あばばばばばば。」

 とまでは言わないものの、心中の混乱度は間違いなくそのくらいのレベルで「しし、知りません!」とあえぎあえぎつぶやくのです。失神もしくは失禁の一歩手前という極限状況をここまでの気迫をもって演じられる女優、そうそういませんよ!? 『シャイニング』(1980年)のシェリー=デュヴァル以来じゃないですか? ほめ言葉になってねぇ~!

 これはたぐいまれなる橋本愛さんという逸材の、映画『ツナグ』における奇跡的な演技のほんの一部しか紹介していないわけなのですが、これらのような異常なまでの緊張感をみずからに強いているからこそ、ホテルでの奈津との再会や、その結果として選んでしまった「逃れることのできない罪を背負って明日から生きていく」という残酷すぎる道に慟哭してしまう美砂の姿に、映画を観る人の心ははげしく動かされてしまうわけなのです。
 おろかな小人物というキャラクターは、逆に言えば映画に出てきそうな理想化された登場人物たちよりもよっぽど「生身の人間っぽい」ということになるのではないでしょうか。つまり、『ツナグ』の中で重すぎる十字架を背負ってしまった美砂の姿に、観客は「今となっては謝ることができなくなってしまった、あのときのあのひと」の姿を忘れ去ることができないでいる自分自身の姿を投影してしまうのです。
 人間、長く生きていれば「思い通りにならなかった別れ」というものもあるわけなんですよね……でも、それこそが人を大きく成長させるきっかけになるとも思うんです。

 ところで、原作『ツナグ』でも、美砂は「あの夜明け」を迎えたあとで何度か「ツナグ」の青年と出会っています。そのあたりは映画『ツナグ』でもほぼ同じように映像化されているのですが、実は映画のほうでの美砂と青年とのやりとりでは、最後にたった一ヶ所だけ、原作にはなかった青年の質問と、それに対する美砂の返答が差し込まれています。
 これ自体はまったく作品の出来を損ねるような蛇足ではないのですが、小説という形式が好きな私にとっては、いかにも「言わずもがな」な確認作業以外の何者でもありません。最後のこのやりとりはまったくもって、辻村ワールドの中では「行間で感じ取ればいい」空気の部分であって、美砂という人間をあそこまでに立体化した橋本さんのまなざしがあったら、セリフになる必要はなかったはずなのです。
 でもたぶんね、ここをちゃんとセリフにしてわかりやすい演技のやりとりにしないといけないのが「映画」という形式なんですよね、きっと。思わぬところで、

「肝心なときにこそセリフを使わない辻村ワールド」と「肝心なときをセリフで説明する映画」

 という両者の明白なちがいを見いだした気がしました。
 余談ですが、「両者のちがい」といえば、原作小説で美砂と奈津のいる演劇部が上演することになっていたお芝居は三島由紀夫の『鹿鳴館』(1956年)だったのですが、映画のほうではチェホフの『桜の園』(1903年)に変更されていました。ここらへんも、それぞれの個性をうまく体現していておもしろいですね~! どっちにしても、いい高校だ。


 またしても字数がかさんできましたのでそろそろまとめに入りますが、残念ながらこの橋本愛さんのエピソード以降に用意されている佐藤隆太さんと松坂・樹木ペアのエピソードは、もちろん各自ちゃんと独立した感動が味わえることは確かなのですが、橋本さんの入魂の2~30分間をくぐり抜けた直後では、いささか落ち着いてしまった感があります。特に佐藤隆太さんのやっていた役は、佐藤さんよりももっと「モテない感じ」のあるくたびれたおじさんが演じたほうがもっと味わいがあってよかったんじゃなかろうかと思うんですけどね。

 なにはともあれ、映画『ツナグ』は間違いなく必見の感動作です! 上にあげたような(私としては超うれしい)番狂わせのために、私個人の印象としては、ちょっと全体のバランスが崩れて上映時間を長く感じてしまう作品になりましたが、それだけさまざまなかたちの感動が詰まった充実の1作であったとも言えます。
 ただ、感動させるだけはでなく、世界の大部分が思ったよりも「生きている人間の思い込みや願望」で成り立っていること。そして、ツナグの使命が死者をよみがえらせることではなく「生きる者を救うこと」であるという原作の意図をしっかりとくみ取っている構成にも大きく感じ入りました。勝手に原作ファンを自称している私にとっても、今回の映画化は大いに当たりでしたよ!


 ここまできてしまうとついつい欲ばって想像してしまうのが「次回作」なのよねェ~。
 でもさぁ、辻村ワールドの映像化は、そりゃあもォ~大変ですよ。
 個人的には、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』とか『スロウハイツの神様』とか『太陽の坐る場所』とか~?

 別に、映像化された辻村作品がもっと観たいのではありません。
 そうじゃなくて、「辻村作品の映像化に挑戦するような気骨を持った製作スタッフや俳優たちの仕事が観てみたい」ということなんです。もんのスンゲ~難しいんだぜ~。

 それこそ、今回の橋本愛さんみたいな天賦の才を持った人物でなければいかんわなぁ。
 橋本さんが再び、別の名前をたずさえて辻村ワールドに登場する日を、今から首を長くして待っておりますぞ~。

 まぁまずは、まだ東京でやってる『桐島、部活やめるってよ』、観に行くかぁ~!
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