ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「人間魚雷回天」〜出撃

2017-10-12 | 映画

映画「人間魚雷回天」、続きです。

出撃を明日に控え、最後の娑婆の夜が過ぎていきます。
レスでは主人の求めに応じ、搭乗員が各々揮毫などを行なっています。

村瀬少尉(宇津井健)が書いている色紙は学帽をかぶった大学生のフクチャンの絵。

最初は皆と一緒にレスに行くことを拒んで隊舎に残った玉井少尉(木村功)、
寂しくなって後から合流したものの、色紙の揮毫を求められて

「やだよ!死ぬ前まで嘘をつきたくない!」

と言い放ち、宴席は静まりかえります。

いるよね。こういう空気読まずに自分の感情を爆発させる人。

 

美人のエス(芸者)を丹波哲郎に押し付けられ、夜を過ごすことになったのですが、
職務遂行しようとして迫ってきた彼女の手を振り払い、

「ばか!お前には女としての誇りはないのか

と罵ります。

うえ〜嫌な奴。

こういう男が今の世に生きていたら風俗で女性に説教するおっさんになりそう。
っていうかこの後のセリフが

「俺は女というものはもっと美しいものだと思ってる」

マジで風俗で説教してるし。
しかしエスが涙ぐむのを見てすまん、と謝り、

「まるで気の狂ったような男たちを相手に・・・
お前たちのような女が、本当は美しいのかもしれない」

と高速手のひら返しを行います。

広間で一人呑んだくれていると、そこに突入してきたのは
玉井少尉の恋人、幸子です。(津島恵子)

特攻隊に行くことは知らないはずなのに、(多分)女の勘で玉井に会いにきたのでした。

幸子は玉井がすんでのところで芸者と一夜を過ごすことになっていたのを知り、

「出撃までの間、あなたのお心が幾らかでも安まるのなら・・

と案の定(須崎作品ですから)我が身を投げ出そうとしますが、

「違うんだ!」「いいの」「違うんだ」「いいえ」「違うんだ」

の言い合いに。

幸子の熱情を拒み続けてすっかり煮詰まった二人は、
仕方なく月夜の海岸にやってきました。

未来のない自分の運命を嘆く玉井少尉を慰めようと、
幸子は砂浜でいきなり
バレエを踊りだします。

それはいいのですが、この時のBGMが

♪ み〜↓らしどれ (白鳥の湖冒頭)

と始まるので、はいはい、と思って聴いていたら

♪ み〜らしどれ み〜ふぁみ〜

と続いたのでガクッときました。
この作曲センスはちょっとどうかと思う。

「僕には後3時間しかないんだ」

「私の3時間と合わせて6時間よ」

「そうか・・・」

空想の中で現実逃避する恋人たち。

「ここは江ノ島の海岸にしようか。
もちろん真夏の太陽がギラギラ輝いてるんだよ」

「僕たち二人以外は誰もいないんだ」

影の長さを見るに、撮影季節は冬だったようですね。

「僕たちは結婚して十日くらいってことにしようか」

津島恵子が美しい・・・・。

「僕たちは生きていることの幸福をしみじみと味わう。
僕には自信と力が湧いてくるんだ

しかし現実は・・・。

このシーンがわたしに言わせるとこの映画のハイライトです。

回天搭乗員たちに出撃の時間が刻々と近づいていました。
僧籍にあるせいか、河村少尉は肝が座ったというか、もはや達観している様子です。

帝大哲学科の朝倉少尉は、帝大の先輩とわかった従兵の田辺一水と語り明かしています。

朝倉「僕たちの死は戦争が無謀なものと気づかせるためなんです。
それがせめてもの抗議になればそれでいいんです。
その本を書いたカントも死ぬときに言いましたね」

田辺「エ・・・エス・・イスト、グート・・・」

朝倉「そうだ、これでいい。何もかも、いい。もはやいうことはない」

夜が明け、回天の出撃時間となりました。

「七生報国」のハチマキを全員がつけているのは史実通りです。

菊の花束を抱き短刀を手にして敬礼しながら行進して行く搭乗員たち。
先頭に立つのは隊長の関谷中尉です。

恋人の幸子と別れてきたばかり、玉井少尉。

前回の出撃で生きて帰ってきて、一刻も早く出撃したがっていた村瀬少尉。

「エス・イスト・グート、負け惜しみではなく俺もその心境だ

と田辺一水に語った朝倉少尉。

やはり生きて帰ってきて出撃待ちの18歳の部下に声をかける村瀬少尉。

「貴様の分もやってくるぞ」

朝倉少尉はシャバで寿司職人だった従兵に声をかけます。

「昨夜の寿司はうまかったぞ!」

田辺一水とはただ無言で見つめ合うのでした。

回天搭乗員の出撃の写真をご覧になったことがあるでしょうか。
実際の彼らも、やはりこのように微笑みを浮かべていました。

そして伊号36潜水艦に移乗する時がやって来ました。

実際の伊36も回天戦を二回行なっており、戦果を挙げています。
艦体は戦後まで生き残り、アメリカ軍によって処分されました。

伊36は最初に「南無八幡大菩薩」の幟を作って出入港時に掲げた潜水艦でした。
回天作戦が始まると潜水艦各艦もこれに倣って幟を掲げるようになったということです。

艦体に乗せた自分の回天の上に立ち、手を振る搭乗員たち。
回天艇内には、潜水艦内部からハッチで乗り込みます。

「慶應義塾大学経済学部出身、海軍中尉関谷武雄他3名、
回天特別攻撃隊、菊水隊として出発します!」

「天晴れな娑婆っ気だぞ!頑張れ!」

娑婆っ気が多すぎると彼らを殴っていた兵学校卒士官も、今はただ彼らに声援を送ります。
自分自身も回天搭乗員として明日にも出撃する身であれば、
今更兵学校出だとか予備士官だからどうだとか言っていられるでしょうか。

「刀振れ〜」

帽振れならぬ、「とう」振れ。

旭日旗の端っこが破れてギザギザなんですがこれは・・。

朝倉少尉に帽を振る従兵二人組。

一人玉井少尉は、遠く離れた海岸に向かって手を振ります。

なぜか。
そこには先ほど別れたばかりの恋人、幸子がいるからでした。

ただお互いだけのために手を振る恋人たち。
そして二度と会えない恋人を乗せた潜水艦が見えなくなったとき、
彼女はためらいもなくスタスタと海に向かって歩いていき・・・、

・・・・おいいいいっ!

いや、的(回天)の不調で発進できず、生還する例も時々あるわけだし、
玉井少尉がまだ死んだわけでもないのに、そんなあっさりと死ななくたって・・。

さて、こちら出撃中の伊36潜内で出撃を待つ予備少尉たちです。
コーヒーを配る従兵の手が震えているので朝倉が見咎めると

「特攻隊の皆さんは軍神であります」

「軍神か・・早いとこ化けの皮が剥がれないうちに神様になるか(笑)」

 

搭乗員たちの命の終焉の時が、刻一刻と近づいていました。

 

続く。

 


映画「人間魚雷 回天」〜出撃前夜

2017-10-11 | 映画

元海軍予備士官であった映画監督、松林宗恵作品で1955年に公開されました。
脚本は

「潜水艦イ-57降伏せず」
「太平洋の翼」
「太平洋奇跡の作戦 キスカ」
「連合艦隊司令長官 山本五十六」
「連合艦隊」

などを手がけ、さらに特殊潜航艇に参加した10名の軍人について書いた

「真珠湾再考 二階級特進の周辺」

という著書もある須崎勝彌、とくれば価値ありと判断し、観ることにしました。
(観る価値がなくても観てここでネタにするのが当ブログでもありますが)

「人間魚雷回天」とはまた直裁な、センセーショナルなタイトルです。
この二人のコンビで回天を描くのであれば、当然ながら
散華した若者たちの苦悩に焦点を当てたドラマになるだろうと予想しましたが、
実際は予想以上でした。

舞台は大津島基地隊の回天基地。

瀬戸内に面した山口県の大津島を、漫画家の佐藤秀峯はその作品で
「特攻の島」と呼びました。
今でも訓練施設が残るその島で、おそらくこの作品も撮影されたのでしょう。
大津島には「回天記念館」が現在も当時の様子をしのぶよすがとして残されています。


さて、このこの基地で、潜航艇の搭乗訓練が今行われております。
早速予備士官である搭乗員が、乗り込みながら仲間に、

「今日の特別食の配給な、また酒を羊羹と交換してくれよ」

ああ・・・・・

戦争映画でその日の夕食の約束をした者が生きて帰ってきたことはない、
という黄金の鉄則があるというのに・・・・。

撮影データが残っていないのでわかりませんが、これらの引き込み線も
もしかしたら本当に元回天基地の遺跡だったりして・・・。

そしてしょっぱなからフラグを立てた回天搭乗員は、
案の定、岩に艇体を激突させて死んでしまうのでした。

(-人-)ナムー

教訓:出撃前に今夜の食べ物について語ってはいけない。

あと、

「子犬や小鳥などの小動物を飼ってはいけない」

「国に帰ったら結婚するんだ、と仲間にいってはいけない」

というのもありますね。

死んだ士官の席に軍帽を置いて、戦友の死を悼む予備士官たち。
艇には速度計もなく、ゲージが狂っていてスピードが出ているのに
操縦者が自分の艇の速さを全く認識できていなかったのが原因でした。

「乗ってるもんが速度わからへんやなんて、そんな兵器ありまっかいな」

「人間をもっと大事に取り扱ってもらわんと、回天も役に立たんなあ」

「こんな兵器に乗るのは嫌だ!」
「恐ろしいのは俺だけなのか?どうしてみな本当のことを言わない?」

極端にパニクる繊細な玉井少尉。(木村功)
彼の後ろには同時に着任したのに次々に事故で殉職した仲間の写真が。
十五人だったのが、今や半分以下の七人になってしまいました。

「みんな自分の気持ちをこらえるのに精一杯なんだ」

こんなときに場を収めにかかるリーダー格は朝倉少尉。(岡田英次)
和製ジャン・マレーです。

「みんなで岡田少尉の母校の歌を歌おう!」

「♪白雲なびく〜す〜る〜が〜だ〜い〜」

全員が明治大学の応援歌を知っていて、空で歌えるのが不思議ー。

そのとき、兵学校出身士官がその歌を聞き咎め、

「貴様らの娑婆っ気はなんだ!
仲間の一人や二人死んだからってメソメソするのは回天を怖がっている証拠だ!」

と言って鉄拳制裁を行います。

殴られ終わった玉井少尉が廊下の隅をふと見ると、

で、出た〜!

そこには出撃して壁の写真となっていたはずの仲間の予備士官村瀬少尉の姿が!
実は村瀬はトラック島で回天戦用意の声がかかるも、艇が故障して発進できず、
こっそり隊に帰って来ていたのでした。

驚きながらも村瀬少尉を暖かく迎える予備学生たち。

同じ回天戦で、やはり生きて帰ってきた予科練の玉井の部下は

「私は予科練の面汚しです」

と自分を詰りますが、玉井は兄のような気持ちで彼を慰めます。
そして村瀬のように自分にも生還の可能性があるのでは、とわずかな希望を抱くのでした。

そんな玉井少尉に生への執着を断ち切れ、と叱責する村瀬。
いや、そう言ってる本人が死なずに生きて帰ってきたんちゃうんかい。

しかし出撃しながら死なず生き残ったことは、村瀬に苦悩しか与えなかったのです。

「生きていれば苦しくなるだけだ」

訓練で玉井少尉は他の艇とニアミスをしてドルフィン運動で浮上してしまいます。

なぜか気を失っている玉井少尉。酸素不足かな?

「玉井!おい、玉井!」

(金属棒で外からコンコン)

これは酸素不足ではなくただ寝てただけに見えます。
当然、捕虜になったらどうするんだ、と兵学校卒士官にむちゃくちゃ怒られます。

「問題を起こすのはいつも予備士官だ!」

とプリプリしながら会議している基地の偉い人たち。
しかしそこで彼らの上官である兵学校士官がなぜか彼らをかばいます。

ところでこの真ん中の人・・・。

丹波哲郎さんじゃないですかー!

確かにクレジットには丹波哲郎の名前があるのだけど、こりゃーほんとにちょい役だわ。


とにかく、上層部は村瀬少尉を次に突入する部隊に編入しました。

「本人のためにも早く死なせなければ」

そんなことを上官が言っているのを立ち聞きし、さらに落ち込む村瀬。

しかも、この、自称18歳の老けた部下に、

「村瀬少尉が先発部隊に編入されたので私は編成から外されました。
私を元に戻してください!」

と文句を言われるはめに・・。
村瀬、上からも下からも踏んだり蹴ったりです。

「お前はせめて俺の歳まで生きてくれ」

さて、次の訓練では朝倉少尉の艇に問題が起こります。
海中で艇が動かなくなり、海底に鎮座してしまいました。

あれこれと試していると、艇は幸いにも浮上しました。

文字通り死の淵から生還した朝倉少尉がハッチから顔を出し、
生きている喜びを味わっていると・・

「・・・ん?なんだ?」

岸辺を歩いている子供達の歌う「赤とんぼ」が聞こえてきたのでした。
(ストリングスの伴奏付きで)

そこに彼を捜索に来た仲間たち。
朝倉は彼らに向かって、たった今感じた通りを口にします。

「おい、生きてるってことは文句なしに素晴らしいぞ

思わず目を伏せる二人。

「どうしたんだ」

「朝倉・・・・出撃だぞ」

 

出撃が決まり、見かけは陽気に歌い、飲み騒ぐ搭乗員たち。
参加しないものも遺書を書いたり、私物をふるさとに送ったりして過ごします。

この司令官、出撃が決まった予備士官の隊長に、

「即成で教育した貴様たち予備士官の唯一のご奉公は特攻隊だ」

どうも須崎&松林コンビは、松林が予備士官だったせいか、
必要以上に上官を貶めて描く傾向にありますが、実際の回天隊司令、
板倉光馬少佐は体を張って部下の命を守ろうとしたのをお忘れなく。

だいたい今から死にに行く若者に、司令官がわざわざこんなこと言いますかね。

予備士官の隊長は関谷中尉。(沼田曜一)
「激闘の地平線」では陸自レンジャー過程の教官をしてました。

皆が最後の入湯上陸に賑やかに行ってしまった後の隊舎で。
どうも皆と一緒に飲みに行く気になれない玉井少尉。

同じく、最後の夜を一人静かに過ごしたい朝倉少尉。

出撃に備えて夜を徹して潜航艇の整備が行われています。

ここに一人やって来て、自分の艇の特眼鏡に数珠をかける僧侶の川村少尉。
京都龍谷大学卒業という設定です。

「これ一発で敵さん何千人も殺すんやさかい、どう考えても地獄行きやな」


川村少尉の艇を整備しているのは黄門様、西村晃ではないですか。

何をするでもなく、祖国での最後の一日をぶらぶらして過ごす朝倉少尉。
梨の木を植えている老人にふと目を留め、話しかけます。

「梨の実が取れるのは、わしの10歳の孫があんたくらいの歳になった頃だろう」

こんな老人にさえ10年後の夢を描くことが許されているのに
若い俺には明日の夢さえなくなった・・・。

あらためて絶望する朝倉少尉。

さて、その頃レスでは宴会の真っ最中。

ちなみに丹波哲郎のこの映画での役。

「司令室で黙って立っている」

「宴会で踊りまくる」

「玉井少尉に芸者と一晩過ごせとけしかける」

「玉井少尉の恋人にこの女はなんだという」

続いて各自持ち歌の披露。

「♪ 私は真っ赤なりんごです〜」

「♪ きっさまっとお〜れ〜と〜は〜同期の桜〜」

盛り上がると芸者を囲んで輪になってぐーるぐる。

皆が程なく死ぬのがわかっているので、芸者の様子も実に微妙です。

(朗報)ただし丹羽さんは死にません。

丹波哲郎は、主計士官の役なので役作りのためメガネをかけていますが、
残念ながらはっきりいって全く似合っていません。

主計士官どころか、どう贔屓目にいってもインテリヤクザって感じです。

芸者視点から見たみなさんの様子。

こちら回天隊基地。

予備士官の従兵二人が些細なことで下士官から修正を受けているところに、
ぶらぶらしていた朝倉少尉が遭遇します。

「私たちは海軍で10年飯を食っていました」

「これが海軍のやり方です」

制裁をやめさせた朝倉少尉に、下士官たちは傲慢に言い放ちます。
思わずカッとして拳を振り上げた朝倉少尉ですが、次の瞬間思い直し、

「人間を人間として扱わないことがもし帝国海軍の伝統なら、それは大変な誤りだと、
学生上がりの予備士官が言い遺して出撃して行ったことを時々は思い出してくれ」

これは予備士官だった松林監督の本音であったに違いありません。
ご自身もかなり殴られたんでしょうねえ。

修正の危機から救った従兵に朝倉が用を言いつけました。

「ベッドの上の本を持って来てくれ」

歩いて数歩のところにあるものくらい自分で取れよ、という気がしますが、
とにかく、その本の表紙は

「Krutif der reinen Dernunft」

このころの大学生ちうのは今と違って?インテリゲンチャですからね。
原語で「純粋性物理批判」なんかも読んでしまうわけだ。

そこでこの従兵、本を渡しながらさりげに自己アピールを行います。

「出撃の日までよくこんな本をお読みになれると思いまして」

「貴様、ドイツ語が読めるのか」

「はい、多少は読めます」

「シャバで何しとった」

「私立大学の教師をしておりました」

絶句する朝倉。驚く同僚の従兵。

「あなたはどこの大学ですか」

いきなり「貴様」呼ばわりから敬語になる朝倉少尉。

「帝大であります」

「じゃ先輩だ」

朝倉少尉は従兵に本を渡し、いつかまた教壇に戻る日が来たら
未来の若者たちに何ページかを講義してやってほしい、と頼むのでした。

「その人たちは僕たちよりもっと優秀で立派で、そして、
もっと勇気のある青年にならなければいけないのですから」

そういう朝倉少尉に、従兵の田辺一水は、慈しむような目を向け、
子供達から送られて来た自らのお守りの人形を渡すのでした。


続く。

 

 


海上自衛隊のチカラ〜「はしだて」洋上懇談会

2017-10-09 | 自衛隊

晴れていれば岸壁から広角レンズで全景を撮り、さらには
航海に出れば景色を撮ろうと、中望遠レンズまで持参していたというのに、
岸壁に降り立つこともためらわれるほどの雨で、航海も中止になったので、
「はしだて」のwikiページから写真を転載しております。

「迎賓艇」は文字通り迎賓を目的に戦後から存在していましたが、
かつての迎賓艇は、

「ゆうちどり」←飛行機救難船←海軍雑役船

「はやぶさ」←駆潜艇

「ひよどり」←駆潜艇

というふうに、ジョブチェンジしてそうなったものばかりでした。

駆潜艇は、潜水艦の高性能化と、対潜艦戦の戦法がソナーの発達によって
様変わりしたことで廃止になり、飛行機救難もその方法が変わったため、
役目を終えた小型艇を迎賓艇として再利用したのです。

しかし、「はしだて」は最初から迎賓艇として設計され就役しました。

冒頭写真を見ていただくと、その艇体が自衛隊の所属にはない
白とグレイのツートーンカラーであることがおわかりいただけるでしょう。

 

この日案内してくださった一佐に伺ったところ、
「はしだて」は武装しておらず、
また艇内に宿泊施設も持っていないそうです。

wikiには「賓客用の宿泊施設は持っていない」、「宿泊艦ではない」とありますが、
来客が泊まれないのはわかるとしても、「宿泊艦でない」ということは、
つまり「兵舎としても使用していない」という意味になります。

つまり「はしだて」には夜間誰もいなくなるということなんでしょうか。
それとも「当直室」があったりする・・・・・?

さて、本来なら乗艇開始から1時間後に出航を行い、
東京湾をクルーズしながら開会時間の1845に
海上幕僚長のご挨拶が行われる予定だったのですが、
本日は岸壁から一ミリたりとも動かない状態での開式となりました。

村川豊海幕長は

「その分大いに飲みかつ語り、交流を深めていただきたい」

とこういう場合にありがちなご挨拶で始め、その後に、
本会の「趣旨」についてこんなお話をされました。

自衛官の定年の年齢は早い。
これは自衛隊の精強さを保つためであり、宿命でもある。

一般社会ではこれから働き盛りという年代に再就職をしなければならない。

しかし、その再就職先が安定して、しかも当人はもちろん、
退職自衛官の扶養家族にとっても十分に満足のいく優良な職場であることは、
自衛官を志す優秀な若者に、後顧の憂いを残さないためにも重要である。

というわけでみなさんよろしくお願いします。(意訳)


過去自衛隊のレセプションに赴いて、周りを観察してきた結果わかったのは、
もしあなたが自衛隊にとって「大切な存在」、「特別な存在」になりたければ、
もっとも確実な方法は、自分の会社、あるいは人事部ならその権限で
退職自衛官を積極的に雇用することに尽きるということです。

それだけ自衛隊は自衛官の再就職に大きな関心を払っており、
組織の最大にして最終的な問題としてこれを常に捉えています。

いかに国防の崇高な使命感の元に自衛官になろうと思いたっても、
退職後にろくな職もないということになれば、現実的な現代の若者は先を見て
自衛隊を就職先の選択から外してしまうからです。

(漫画『ライジング・サン』で、レンジャー隊員だった元自衛官が
退官して工事現場でライトを振っている、というのを否定的に描いていましたが、
今にして思えばあれ陸自からクレーム出なかったのかな)


海幕長の後には、企業代表の出席者が挨拶に立ちました。

「我が社の業績は・・・・」

と細々と数字を出して好調である旨話し出されたので、
一瞬訝しく思ったのですが、それは決して会社自慢ではなく、

そのような我が社で採用した退職自衛官は、現在
これこれこうで大変優秀、かつ仕事ができる。
元自衛官のスキルと能力はこれだけ一般社会に通用するものなので、
自衛官の雇用、オススメです。(意訳)

と続いたのでした。

その方の会社では、三名の自衛官を再就職で雇用したということですが、
そのうちの一人は海外の支店を任されて、そこで腕を奮っているそうです。

どんな配置であっても、練習航海に始まるネイビーとしての素養を身につけていれば、
語学はもちろんのこと、海外で仕事するのに必要なコミュニュケーション力、
危機管理や、何より団体行動と規律を守ることが自然に身についているわけですから、
経営者にとって、身元はもちろん能力的にも信用がおける人材となるはずですね。


今回、自衛官を雇用している企業経営者、担当者という招待者枠とは
全く違う立場でなぜか参加していたわたしたちでありますが、
unknownさんのご提案通り、将来パーカーみたいな執事兼ショーファーを
雇う日が来れば(来ないけど)、躊躇いなく元自衛官限定で求人を出すことでしょう。

さて、会場では次々とご馳走が運び込まれ、海自のレセプションではおなじみの
カレーコーナーもこのように設えられているのですが、

みなさん!

カウンターの中にいる自衛官のいでたちをご覧ください。
上から下まで、全く正式なシェフのそれではないですか。

たとえば帝国ホテルの調理人の帽子は

見習い:18cm
7年目以降:23cm
料理長以上:35cm

となっていますが、彼のシェフハットはどう見ても料理長クラス。
本格的なシェフコートの胸には

ASY 91

Hashidate

Since 1999

と刺繍されており、シェフスカーフまで着用しております。

自衛隊の調理員を「給養員」と呼ぶのですが、
これはどう見ても「シェフ」以外の何者でもありませんわ。

で、ここのカレーなんですがね。

屋台の上に「はしだてカレー」ではなく「海軍カレー」とあったので、
カウンターに近づいてみますと、そこにはまず

海軍主計兵調理術教科書

のカレーライスのレシピが。

「黒鍋にヘットを溶かしカレー粉及び麦粉を加えて
焦げつかぬようによく煎りスープを加えて」

この出だしだけでもう普通とは違う感じです。

こちら、

海軍割烹術参考書

こちらも牛脂を引いたフライパンで小麦粉を炒めるのは同じです。


この屋台のカレーは、そのレシピを元に作ってあることがわかりました。
「割烹術」の方に、「チャツネを加えてだす」とあるのですが、
屋台の上にはちゃんとチャツネが添えられています。

で、肝心のお味なんですが、

「甘い」

「辛くないカレーだ」

わたしは辛くないお子様カレーが好きなので、まったり甘い、しかしながら
コクのあるこの日の海軍カレーはど真ん中ストライクで好みに合いましたが、
TOは辛いもの派なので、

「ちょっと甘すぎるかなー」

というか、昔の海軍さんたちは甘いカレーを食べてたってことなんですよ。

小籠包を紅白のもち米で包んだ点心は大人気。
現場には中国語の読み仮名付きで紹介されていました。

みなさん、現場に待機していた自衛官と楽しく語らっておられます。

わたしたちも何人もの自衛官と名刺交換をさせていただきましたが、
その中に、つい最近までうちの近所に住んでおられ、
さらには奥様の職場がTOの職場の近く、という将官がおられました。

ご縁というのは不思議なものです。

見てください。このお料理の素敵なこと。
ハンバーグ素材をズッキーニで巻いてさらに味をつけ、
付け合わせはこっくりと味のしみたペコロスと人参のグラッセ。

フォーシーズンズホテルでこの3倍大きなお皿の真ん中に乗って出て来ても
全く違和感のない完成度の高さです。

会場にいると聞こえにくいのですが、後方デッキでは東京音楽隊の
選りすぐりのメンバーが、ジャズやポップスの演奏を聴かせてくれました。

海幕長の前には開式直後から人が並んでご挨拶の順番待ちをしていました。

皆順番が来たら一言二言をかわし、名刺交換を行い、
海幕長夫人とともに海自のカメラマンに写真を撮ってもらいます。
最初から最後までひっきりなしにそれをしておられたので、

「海幕長も大変ですね」

と近くの自衛官に話しかけると、

「ディズニーランドのミッキーマウスみたいなもんですね」

どこかで見た構図だと思ったらそれだったか。
まあ、みんなが挨拶したり一緒に写真を撮りたがる存在という共通点はあるかも。


「この後のデザートには期待していてください。
見た目も綺麗で、スイーツはインスタ映えしますよ」

一佐の「スイーツ」「インスタ映え」に思わずウケてしまったのは、
ちょうど「インスタバエ」の記事を見た後だからでした。

それはともかく、このスイーツの完成度の高さ、ご覧ください。
インスタバエもこれなら大喜び間違いなし。
それぞれの小さなケーキには、巷のおしゃれなパティスリーの
ケーキに付いているような小さな金色のカードまでつけられて、
しかも形の美しいこと。

お料理のレベルが高い海自のレセプションと雖も、さすがにデザートに
これほどのケーキ類が出されたのは前代未聞です。

音楽隊の周りには、宴が進むにつれ聴衆がたくさん集まりはじめ、
特に、歌が始まってからはそれが顕著でした。

「ゆず」を熱唱する管楽器のお二人。
トロンボーン奏者の防衛男子は、昔音楽まつりでこの歌を歌っておられた記憶が。

やおら彼らを動画で撮影し始めるTO(右)。

「自衛隊の人とカラオケ行きたい」

な、何を言い出すのだいきなり。

「あの人達とカラオケ行ったら2時間3時間なんてすぐに経ちそう。
そんな機会ないかな。誰に頼めばいい?」

筋金入りのカラオケ好きであるTOの気持ちはよくわかるが、
たとえ海幕長に頼んでも、音楽隊員をカラオケに駆り出すのは無理だと思うぞ。

甲板の階から下のラウンジのある階にいく階段。
写真を撮っているところにはベンチがあり、
わたしたちがここで
デザートのケーキに舌鼓を打っていると、
下からパティシエが
ケーキのトレイを持って上がって来ました。
全ての料理は下で作られ、この階段を登って甲板に供されます。

パティシエに思わず、

「デザート素晴らしいですね!」

と声をかけると、にっこり笑って

「ありがとうございます!」

その様子が自衛官風にキリッと爽やかで大変よろしい。

階下にある女性用化粧室のエントランス。
ここの化粧室は何しろ個室で一人しかはいれません。
会の終わり頃には、ここに長蛇の列ができていました。

そしてあっという間に楽しい時間は過ぎ、お開きの時間に・・。

「はしだて」艇長に続き、「はしだて」シェフの挨拶です。
いでたちといい、この貫禄といい、どこから見ても自衛官というよりシェフです。

「秋の味覚をふんだんに取り入れて、本日の宴席のために一生懸命作りました。
皆様もぜひ今の季節、このような食材を取り入れてお楽しみください」

続いて東京音楽隊選抜メンバーの紹介です。

バンドメンバーを代表して、なんとピアニストの太田紗和子二曹がご挨拶。
本日は「はしだて」での演奏ということで、メンバーもスペシャル?

最後に締めの乾杯と挨拶をされた海将たる補給本部長。
この方の挨拶が・・

「こんな天気になってしまいましたが、本日出席の皆さんはラッキーです。
最初から雨が降っていたため、今日は出航しませんでしたが、かつて、
「はしだて」は、出航してから大雨に降られたことがあります。
当然このような覆いもありませんでしたから、皆濡れ鼠になりました。
それを考えれば皆さんはラッキーです。

しかも、船というのは落雷を受けることもございます。
不運な船は出航して落雷を受け、全ての機能が壊れてしまうこともあります。
今、実際にそうなった船を佐世保で修理中でございます。
皆さんはそんなことにならずに済んだ。やはりラッキーです」

謹厳な雰囲気の漂う海将が飄々とこんなことをおっしゃるので、
満場は
爆笑の渦でした。

この後ご挨拶させていただき、ついでに伺ったところ、

「落雷を受けて現在佐世保で修理している船」

のくだりは実話だそうです。

この海将のご挨拶で、すっかり和やかな雰囲気のままお開きになった懇談会。
今回も桜に錨のマークに「海上自衛隊」と刻印された升をいただいて来ました。

後から改めて配られた栞を見ると、主催は

防衛省海上幕僚監部

人事教育部援護業務課

となっています。
この援護業務課こそが、自衛官の再就職を支援しているところなのです。


今回このような懇談会に出席する機会をいただき、退職自衛官の雇用について
自衛隊がいかに心を砕き力をいれているかということを改めて認識しました。

退職自衛官採用のご案内 海上自衛隊のチカラ


この度の懇談会への参加をお計らいくださいました関係者の皆様、
自衛官の再就職に対し、より一層多くの企業からの理解が得られますよう、
心からお祈りして、今回のお礼の言葉に代えさせていただきます。

 

 

 


海の上の迎賓”艦”〜特務艇「はしだて」洋上懇談会

2017-10-08 | 自衛隊

 

皆様は海上自衛隊に『海の迎賓館』、『迎賓艦』、『迎賓艇』と呼ばれる
艇があるのをご存知でしょうか。

国内外の賓客を招いての式典、海自を訪問した諸外国の将校団との会議・会食、
マスコミやメディア関係者との懇親会などの『迎賓』を目的とした特務艇、
その名も「はしだて」。

「いつか機会があればぜひ乗艦してみられるといいですよ

と自衛隊のイベントでご一緒する方から聞いて以来、
いつかそんな機会が来ればいいなあと思っていましたが、
乗ってみたいと思ったから乗れるというフネではございません。

とりあえずいつもするようにお星様にお願いしておいたところ、
ある日突然お話が来たのでございます。

と冷静に書いているようですが、実は

キタ━━━ヽ(゚∀゚)ノ━( ゚∀)ノ━(  ゚)ノ━ヽ(  )ノ━ヽ(゚  )━ヽ(∀゚ )ノ━ヽ(゚∀゚)ノ ━━━!!!!

と文字通り小躍りしてしまったものですよ。

 

今回の「はしだて」へのお誘いは海幕長主催の「洋上懇談会」です。
というわけでお話をいただいてから指折り数えて待っていた、その当日。

雨です。orz

始まる何時間か前に降り出した雨は、乗艦開始の1730には
すっかり激しくなっていました。

つい最近、メキシコ海軍の帆船を見に訪れたのと同じ晴海岸壁には
夢にまでみたあの「はしだて」の姿が。
しかし今日は外に出るのもためらわれるような篠突く雨が降り注いでいます。

この時間に晴海埠頭に訪れるのは「はしだて」参加者を乗せた車だけなので、
岸壁へ続く道に雨の中誘導のため立っていた自衛官たちは、(ご苦労様です)
誰何することなく車を通してくれました。

わたしは「はしだて」上でTOと合流するつもりで車に乗って来ましたが、
この写真で前にずらりと列を作っているのは、ほとんどがタクシーのようです。

わたしが到着した瞬間、「はしだて」艇上で自衛艦旗降納が始まりました。
来客を迎えるため雨の中を立ち働いている自衛官たちは、
その瞬間手を離せない人以外はその場で姿勢を正しています。

「あーこの時間に乗艇していたかったー」

雨で渋滞していたので、予定より到着が遅くなったことを悔やみつつ、
言われた場所に車を停めると、傘を持った自衛官が近づいて来て、
濡れないようにラッタルのところまで誘導してくれました。

乗艇開始時間になったばかりなのに、もうすでにかなりの人が到着しています。

この日は体験航海が予定されていたため、皆早めにきていたに違いありません。

ラッタルを登ったところで、今日の主催者である海幕長はじめ
お迎えしてくださる自衛官にご挨拶をしてからTOと合流し、
舷門近くにある舵輪付きのパネルと一緒に記念写真を撮ってもらいました。

あとで「乗艦記念」とかいう文字を打ち込んで送られてきたりして。

会場では最初から最後まで、ある一佐がわたしたちのアテンドに付いてくださり、
話し相手から各種質問にお答えいただいたのみならず、グラスや食べ物の心配まで、
申し訳ないくらい気を遣ってくださって、初めての会場を楽しく過ごせました。

会場に着いてすぐ、一佐は上部構造物の一階部分を見学させてくれました。
この豪華客船のような自衛艦らしからぬ内装をご覧ください。

金色の桜に錨だけがネイビーブルーのカウンターに刻まれています。
カウンターの上に飾る花は、ブルーとの調和を考えて、白いバラのアレンジ。

帽子置きにはこの日ここに集まった将官たちの帽子だけが並べられています。

当日出席した海将は、村川海幕長を入れて3名、海将補が7名。
ちなみに海上自衛隊には海将が現在18名、海将補は52名が在籍していますが、
この日出席した将官の職は、人事、装備、総務、補給など、
戦闘種ではなく主に後方支援であることに、渡された名簿からすぐ気づきました。

これがなぜかは海幕長の挨拶で明らかになります。

とても自衛隊と思えないこのクラブラウンジのような会議室。
カーペットにも深い海の色があしらわれております。

後で知ったのですが、自衛官はパーティまでに全員が
ちゃんと食事を済ませていたようで、これは海将、海将補たちが
前もって腹ごしらえをした名残だったのでした。


反対側にある「はしだて」会議室には大型のディスプレイがあり、
こ子では隣接する通訳室とリンクさせて同時通訳を表示する等の連携が可能、
つまり国際会議に使うこともできるそうです。

会議室は通訳室と併せて指揮所として運用することもでき、
災害時には対策本部となるのはもちろん、パーティー用スペースはテントを張って、
カンバスで区切りマットレスを並べることで臨時の医療室となりますし、
休憩室も、折り畳みベッドを並べて病室にすることができます。

この部屋は、現在降ろされているシャッターを上げると、
三方が窓で完璧な視界が開けるということでした。

ここ、「01甲板」は艦橋と煙突の間にあるスペース。
雨の日には
ご覧のようにテントに加えカーテンをかけることができます。

この日のように雨が強いと、カーテンを伝って雨は内側に入りまくるのですが、
腰高の部分の床には水はけをよくするための溝があるので、
どんなに雨が降っても水が内側に流れ込んでくることだけはありません。

ちなみに甲板も手すりも防水加工が施されているそうです。

「はしだて」の煙突は2本ありますが。左舷側の煙突は排煙装置としての機能はない
ダミーファンネル”で、通信アンテナ等を装備するマストとしても用いられており、
内部には艇内への階段が収められているということです。

そして甲板の奥にある艦橋はバーカウンターと化していました。
最初からここまで想定して設計されているとすればすごい。

中には黒いベストに蝶ネクタイをしたバーテンダー(でも自衛官)が
飲み物を作って提供しております。

艦橋からデッキに上がるための階段も超おしゃれな雰囲気。

雨が激しく、誰も外に出ませんでしたが、もし晴れていたら
デッキに上がって航海を楽しむことになっていました。

この日予定されていた「はしだて」の航路。
レインボーブリッジをくぐり、首都高速湾岸線が海中に埋まっている
ちょうどその上でUターンして約9キロの航程を4ノット、
時速7キロメートルでクルーズしてくるというものです。

しょっちゅう走っているレインボーブリッジも、海の上から見たら
どんなにか違って見えるだろうかと楽しみにしていたのですが、
雨が強くなったので結局出航は取りやめとなりました。

「はしだて」の最大の楽しみはそのお料理でもあります。

どこのレセプションに伺ってもご飯がおいしい、
というのは海軍時代からの伝統にも世間の定説にもなっているわけですが、
特にこの「はしだて」のキッチンは迎賓艇の名にふさわしいレベルの高さで、
数々の国内外の舌の肥えた来賓をうならせてきた実績があります。

調理部門の自衛官にとって、「はしだて」で働くことは大変な誇りとされ、
最高の目標の一つになっている、というのはよく言われることです。

「はしだて」乗組の経歴があれば、退官した後もまず調理人として職に困ることはありますまい。

例えば空自の格納庫でのレセプションでは、乾杯前からテーブルの食べ物を
いち早く食べている人がいて(笑)いつも少し驚くのですが、
あれは仕方がないというか、基本食べ物が追加されず、そこにあるものが
なくなればもう終わりなので、人々が我先にとがっついてしまうのはわかります。 

しかし、レセプションにおいてテーブルから料理がなくなった試しはなく、
パーティが終わりかけでもテーブルにはまだご馳走が山盛りというのが海上自衛隊。
いつも次々と食べ物が運ばれてくるのを知っているのか、人々も悠揚としています。

まあ、単にお行儀の問題という説もありますが。

この日も、入場していたたくさんの人は、アミューズ・ブッシュから始めるようにと
自衛官に勧められてから、初めて食事に取り掛かりました。


アミューズ・ブッシュは前菜より前に出される「小手試し」の小さな食べ物で、
客に食事の始まることへの心と口の準備をさせ、また、
シェフの料理術へのアプローチの片鱗を見せるために供されます。

小さなボウルに彩よくイクラをあしらったサラダ風、
そして食べてびっくりサツマイモ味のムース、シンプルに串に刺したポーク、
そして小さな小さな(直径2センチくらいの丸い)フィンガーサンドウィッチ。

今までどんな美味しい料理を供する自衛隊のどのレセプションでも
お目にかかったことのない趣向の、目にも楽しい料理が並べられ、
この後の期待ですっかり盛り上がってきた「はしだて」上の人々でした。

 

ちなみに配られたパンフレットによると、この日のメイン招待客は41名。

各自一人「だけ」同伴者が許されますので、全員に同伴者がいたとして、
80名くらいがこの洋上懇談会に招待されていたことになります。

 

そこで改めて招待された方々の肩書きを見てみますと、ほぼ全員が
企業の社長、取締役、役員、顧問、部長、理事・・・・。

この面々と、彼らを迎え撃つ?自衛官の配置を考え合わせると、
自ずと
本日の「はしだて」懇談会の目的は見えてきますね。


つまり、本日招待されたのは、

「退職自衛官の雇用を積極的に行うことによって
自衛隊に多大なる貢献をしている企業の関係者」

であり、自衛隊側から感謝と今後のご愛顧をお願い、という気持ちを込めて
この皆様方のために一席設けさせていただきました、というのが、
「はしだて」艇上の豪華な懇談会であったというわけなのです。

 

続く。

 


”WE FIX'EM ー YOU FLY'EM”〜空母「ミッドウェイ」

2017-10-07 | 軍艦

 

SDO、スコードロン・デューティ・オフィサーの動きを統括する
指令所、コミニュケーション・コンソールの見学が終わりました。

そこに接しているのは、航空機整備のオフィスです。
このオフィスには、シニアあるいはマスターの航空整備士(下士官)が
詰めており、空母の日常の飛行計画に基づいて行われる航空機の整備や
調達を責任を持って行うための仕事をしているのです。

ホワイトボードの右側には彼らの標語がありますね。

「We Fix'em〜You're Fly'em」

とは「我々が整備し、君たちが飛ばせる」

パイロットだけでは飛行機は飛ばせません。
自分たちがいて初めて飛行機は彼らを乗せて空に飛び立つことができる。

整備部隊の強いプライドを表している言葉です。

奥のホワイトボードには情報を書き込んでいる下士官がいますが、
ボードには飛行隊の搭乗スケジュールがあります。

【VFA-195】  

は通称「ダム・バスターズ」という名門飛行隊。
どこかで聞いたことがあると思ったら、「ロナルド・レーガン」の艦載部隊でした。
TBMアベンジャーから始まって、スカイライダー、スカイホーク、
この時代にはコルセアIIの飛行隊だったかもしれません。

【VFA-151】

ニックネームは「ビジランテス」
マスコットはナイフを咥えたガイコツくんで、名前は「オールドアグリー」。
大東亜戦争中はあのF4Fヘルキャットで日本とやりあった部隊です。

彼らが「ミッドウェイ」勤務になったのは1970年以降のこと。
その時の部隊使用機はF4ファントム IIでした。

【VAW-115】

早期警戒機の部隊なので上記二つの飛行隊よりは歴史が浅く、
1967年の結成です。
ニックネームは「リバティベルズ」。 
E-2「ホークアイ」で「ミッドウェイ」のトンキン湾、
湾岸戦争では「砂漠の嵐」作戦にも参加しました。

【HS-12】

ニックネームは「ゴールデン・ファルコン」
ヘリ部隊です。
1990年代からシーホークを使用しています。
トンキン湾ではSH-3Aシーキングに乗っていましたが、そういえば
あの「ファイナル・カウントダウン」にもこれが乗っていましたっけ。

この時代(ヴェトナム戦争時代)には、まだまだ通信、情報の集約方法は
電話と紙に頼っていました。

デスクには電話とノートの類しかありません。

ダイヤル式の電話の横にあるのは当時最新だった計算機。
デスクにマッチと灰皿があり、喫煙は普通に行われていたことがわかります。

ここで余談ですが、アメリカ軍とタバコの関係について少し。

第一次世界大戦の頃、アメリカ軍は兵隊を集めるための「エサ」として
紙巻きタバコの配給を行ったということもあり、

それ以来軍人とタバコは切っても切れない関係になります。

民間の喫煙率は世界的にも低いアメリカですが、軍隊の喫煙率、
特に戦闘状態にある時期には、
高い数値を維持することがわかっています。

紙巻き煙草は戦場の生活に調和するたため、簡単に快楽と安楽のシンボルになるのです。

第一次世界大戦で売り上げをあげて『味をしめた』タバコ会社は、
第二次世界大戦の勃発とともに無料の紙巻タバコを大量に部隊に送り、また

広告などで兵士の食糧品への紙巻タバコを同梱することを奨励したりしました。

軍の方でも、煙草で兵の精神状態が安定すると統率しやすいと考えたため、
1950年代には
、喫煙による有害な健康影響の証拠が上がっていたにもかかわらず、
軍は食糧品に紙巻タバコを同梱するという状況を変えようとしなかったのです。

その状態は、世間で喫煙の害が大々的に喧伝されるようになった75年まで続きました。


喫煙の問題に注目し、最初にその対策に取り組んだのは海軍です。

1993年にUSS「ルーズベルト」がアメリカ海軍初の禁煙軍艦になりましたが、
この頃でもまだ
軍人の喫煙率は42パーセントと民間より高い数字でした。

第二次世界大戦、朝鮮戦争に続き、ベトナム戦争でも
戦場にタバコを無料で送るという手で利益を上げたタバコ会社は、
4匹目のどじょうを狙って
湾岸戦争時でもそれを試みますが、
国防総省がこれを拒否しました。

現在の軍人全体の喫煙率は32パーセント。

一般の喫煙率が21パーセントですから、相変わらず高い数値ですが、
この理由はストレスや退屈感、周りの影響であるということです。
しかも、現役時代にタバコを吸っていると、退役後にもどうしても
その習慣を止めることができないといった問題が国防総省を悩ませています。

確かに喫煙は体に悪い。
しかし、軍がどうしてここまで躍起になって喫煙率を下げようとするのでしょうか。


その理由は、単純に健康問題だけではなく、軍独自の調査によって、

「軍人の喫煙率と軍隊内での自殺の発生には大きな相関関係がある」

ということがわかったからだと言われています。

軍の死亡理由の13%を占める自殺のリスクは、日々喫煙される紙巻タバコの本数ごとに
著しく増加している傾向があることが調査の結果わかったからなのです。

逆に喫煙率が下げて自殺者が減るかどうかの資料は見つけることはできませんでしたが、
少なくともアメリカでは、少しでも自殺(軍隊を実はもっとも悩ませる問題)に
関連していると思われる要因を排除する、という考えで禁煙プログラムに取り組んでいるのです。

閑話休題。

デスクの上部にあるフライトデッキの航空機配置図です。

こんなにごちゃごちゃとくっつけて機体を置くのかねえと思いますが、
実際は甲板の両舷にあるエレベーターで片っ端から片付けてしまうのでしょう。

緑のシャツを着ているのは「CAG」のサポートを行う下士官です。
サポートスタッフの中でキーパーソンとなるのは、
航空隊と密接な仕事を行う整備長と、航空機の運行を指示する

「ハンドラー」

です。
このキーパーソンは、各種機器の状況、武器のローディング、燃料の現在状況、
そして全ての航空機の所在と行動の状況を完璧に把握していなければなりません。

この情報に基づき彼らは航空機の割り当て、武器、搭乗員の分配などを行なっていきます。

この”グリーンマン”があまりにもいるいるすぎて・・・。
しかもどこがとは言えないけど漂う70年代の空気。

誰かモデルがいるんじゃないかと思わせるリアリティがあります。

机の上に広げてあるのは詳しくはわかりませんが航空機の設計図のようです。

展示にあたっては、実際のヴェテランの私物を持ち寄ったり、意見を聞き
監修をあおいだりしてできるだけ忠実に再現されていると思われます。

ところでわたしはこのデスクの上の「愛妻写真」がなぜか
島田に留袖の女性であるのに気づきました。

アップしてみましたが、女性が目鼻立ちのはっきりした日本人なのか、それとも
アメリカ人女性が着物を着ているのかはわかりませんでした。

1973年の日米合意に伴い最初の空母機動隊が日本に駐留することになったとき、
「ミッドウェイ」は他2隻の空母とともに横須賀港に入港しています。

乗組員の家族も日本に連れて来て一緒に住むことができるようになりました。
この和服姿の女性は、その時日本までついてきて結婚式を挙げた新妻か、
それとも日本で知り合って結ばれた日本女性か・・・・・。

 

整備のボスを「ビッグ・ボス」と言い、航空機搭載武器を扱う下士官のチーフは

「ガナー」(GUNNER、銃撃手)

と呼ばれていました。
航空機に航空部隊のミッションに応じて適切な武器を正しく搭載する任務です。

ガナーは攻撃隊から必要な武器の要請を受けます。
彼は武器を扱う「ハンドリング・オフィサー」とともに、適正な武器の格納場所を確認し、
それらを弾薬庫からフライトデッキまで運搬し、各航空機に搭載します。

彼の決定に従い、何百もの「オードナンス・メン」あるいは「レッドシャツ」
(赤シャツを着ているから)が24時間体制で弾薬庫とフライトデッキを往復します。

艦内でもグラサン姿の「ガナー」。
彼の後ろのホワイトボードには上に挙げた航空隊の他に、

VFA-192 通称「ワールド・フェイマス・ゴールデン・ドラゴン」

VA-185 通称「ナイトホークス」A-6Eイントルーダーの部隊

VA-115 通称「イーグルス」として知られる F/A-18Eの部隊

などの情報が記載されています。

こちらは打って変わった実務的な雰囲気の事務系軍人がお仕事中。

CAGオペレーションは、毎日の飛行計画を上から受け取り、航空隊に配る仕事です。
このドキュメントには、発艦と帰艦の時間、ミッション内容、燃料の搭載、
空中給油予定、そして武器搭載などが事細かに記載されています。

飛行計画は各部隊が毎日のスケジュールを確認する前に配られ、
それによって搭乗員の割当などが行われます。

部隊をオペレーションする者は”Air Intelligence Officer”
航空情報士官の助けを借りて、攻撃目標付近や作戦展開エリアのマップや写真を収集します。

それらを元にナビゲーションチャート、攻撃計画、偵察、そして救出計画などを
フライトクルーのブリーフィングのために作成するのです。

 

空母を見学したのはこれで3隻目ですが、パイロットを影で支え、
航空機を安全に航行させるために
欠かせないスタッフの存在を
ここまでクローズアップした展示は、「ミッドウェイ」が初めてでした。

 

続く。

 

 

 

 


WHAT IS THE CAG ?〜空母「ミッドウェイ」

2017-10-05 | 軍艦

「ミッドウェイ」博物艦の見学、CIC、戦闘指揮所を見終わったところから続きです。
ュニアオフィサー、日本だと初級士官のクォーターにやって来ました。

初級とはいえ、士官ともなると待遇は下士官兵とは全く違って来ます。
まず、ベッドが2段。
目覚めた時にベッドの上で体を起こすことができる空間。
これが軍艦という極限の狭い空間ではどれほど贅沢なことであるか。

quartersというのは軍隊用語で「兵舎」を指しますが、海軍では
船の中の「区画」というような理解でいいのかと思われます。

ベッド下には収納引き出しが三つもついていて、下士官兵の
「棺桶ロッカー」とはえらい違いです。

しかも士官にはハンガーで洋服をかけるクローゼットも用意されていました。
ブルードレス、ホワイトドレス、そしてカーキと一年の制服が全て収納可。
クローゼット内に帽子をかけることもできました。

ところでアメリカ海軍でもアイロンがけは自分で行うのでしょうか。
あまりそういうイメージがないのですが、どなたかご存知ですか?

初級士官のJ・アサートンさんは、まだ新婚ホヤホヤ。
デスクの上扉には愛妻の写真が。
写真立てには結婚式で仲間の作るサーベルのトンネルを潜る新郎新婦。
まさに愛妻に手紙を書いている途中です。

アサートン氏の左手薬指にリングがあればもっとリアリティが出たのに残念。

士官用のデスクは中段が天板式で、私物はベッド下とこのデスクの上下の引き出し、
そしてクローゼットに収納します。

シャワーを浴び終わって体を拭きながら出てくる士官が!
アメリカ人は湯船に浸かるということに全く執着しないので、
船の中で場所を取る浴槽はまず見たことがありません。

が、日本人は肩までお湯に浸からなければお風呂に入った気がしない、
という文化なので、どんな小さな船にも浴槽が設置されていますし、
艦長の部屋に至っては専用のバスタブ付き。

もっとも「あきづき」の艦長はゆっくり湯船に浸かることなどない、
とおっしゃっていましたが、アメリカの海軍軍人が護衛艦のお風呂を見たら、

「軍艦にバスタブがあるのか!」

って結構なカルチャーショックを感じると思うんですよね。

さてまた次の展示まで移動です。

廊下を走っているコードの束がすごすぎ。

これが「ミッドウェイ」のフライトデッキ、甲板階。
艦首部分から「ゾーン1」「ゾーン2」と区画分けされています。

ちなみにこの甲板の形は「ミッドウェイ」の最終形で、

1945年に就役した当時は一番左のような形をしていました。
これだと艦橋が一体どこにあるのかってくらい小さいですね。

そして真ん中が1955年から57年にかけて行われた改装による変化。
この頃から斜めのアングルドデッキが設けられたので左に形が膨らみ、
さらに右舷に艦載機用のエレベーターが増設されました。
カタパルトも蒸気式に変換されています。

このときはピージェットサウンド海軍工廠でオーバーホールがおこなれたあと、
大々的な近代化改装が施されました。

1957年改装後の「ミッドウェイ」。

ここはSDO (Squadron Duty Officer)
コミニュケーション・コンソールという部署です。
つまり部隊勤務士官が待機したり命令を受けたりするところ。

奥にはいかにもパイロットな士官がフル装備で出番を待っているようです。

ここにSDOの義務というものについて箇条書きがあったので翻訳しておきます。

ー整備員がプリフライト・チェックを完了し、航空機をパイロットに割り当てる

ー「準備室」は飛行任務、トレーニング、ミーティングなどの一般任務を統括する

ー他の飛行部隊や船の他の部署とのコンタクトの中心となる

ー艦内の通信に必要な機器の操作を行う 航空機とは直接連絡はしない

ここに関係する隊員たちのネームプレートは、飛行機の形の台紙に刻まれていました。

後ろのホワイトボードには

「CRUSADEE'S 」

とあることから、飛行部隊の使用機はクルセイダーであったことがわかります。
ボード左側は「金曜日のフライトスケジュール」として、
”レッド”アイザックとか”パイレート”ニコルスさんなどのメンバーが、
右側には「フライオフ」として家に帰ってしまったメンバーの名前があります。

あれ、ちょっとちょっとみなさん!

よ、よく見ると帰宅組の一番上に

「マリオン・カール」がいるんですが。


とっとと家に帰ってんじゃねーよマリオン・カール。

って問題はそこじゃない?

F-8クルセイダーの勇姿色々。
左上には、

「F-8を降りるとき、それは戦闘機を降りるときだ」
(When you're out of F-8's you're out of fighters)

=俺はFー8にしか乗らない

というおなじみ?F-8部隊の標語があります。

写真右一番上は、クルセイダーがカタパルトから発進する瞬間。
その下はカタパルトにフックアップされたところで、いずれも1962年の写真です。

当時のパイロットが使っていたヘルメット、手袋、帽子、
「ミッドウェイ」艦上での航空関係マニュアル各種。

飛行機の形をプリントしたトランプがありますが、ミッションまでの待ち時間に活躍したのでしょう。

「スコードロン・レディ・ルーム」という搭乗員の待機室にあった椅子。
テーブルや吸い殻入れもあって、ふた昔前の飛行機の機内みたいです。
(日航機事故以前は機内でタバコが吸えたんですね・・今では信じられませんが)

待機室は通常35から45くらいのシートがあって、
フライトクルーなどが優先的に使用しました。

なぜかお花の素人っぽい刺繍とともに

「戦闘機パイロットはそれを手紙にする」

とありますが、このバナーはクルセイダー乗員控え室に寄付されたものです。

1970年に「ミッドウェイ」と USS「ハンコック」のクルセイディーは
10ヶ月半に及ぶ共同の任務を行いました。
二つの部隊搭乗員の妻たち、アン・ゲインズとベティ・アルバスは、
控え室のパイロット達の慰めにとレッドチェッカーを刺繍して彼らに贈りました。

このバナーは「ハンコック」がトンキン湾に1970年から1972年まで
勤務している間、ずっと艦内に飾られていたものです。

クルセイダーの搭載していた20ミリ機銃の銃口と周辺の機器。

1966年ごろ、ベトナム戦争でMiG17と戦っていた機が搭載していたものです。
この機を使用していたヴァンパテッラ中尉はその後別のF-8でMiGを撃墜しています。

キューバ危機からベトナムへ。Fー8クルセイダーの全盛期はまさにこの頃でした。
上段真ん中のイラストは、ヴォート・エアクラフト社の広告。
クルセイダーのバックに描かれた「十字軍の戦士」(クルセイダー)がかっこいいっす。

そして下二つの写真、左は1959〜1960に「ミッドウェイ」勤務だった
クルセイダーの搭乗員たち。
全員耐圧スーツを身につけています。

左は同時期の第24飛行隊(VF24)全員の記念写真です。

「ミッドウェイの CAGたち」
 

CAGってなんなんでしょうか。

CAGとは、「航空部隊指揮官」、Commander Air Group
の頭文字をとったもので、
1938年に最初の空母航空群ができた時から使われてきた言葉です。

ベテランの部隊指揮官が航空部隊に帰ってきた時には、
彼らは「CAG」としてアサインされ、空母の戦闘機、爆撃機、
トルピード機の攻撃についての統括を任されることになります。


1950年代にはCAGは部隊には配属されなくなりました。
航空部隊は報告をCAGにあげ、CAGはそれを艦長に伝える役目です。

(中間管理職みたいになったと考えればいいのでしょうか)

1983年、CAGは大尉にランクが上がりました。(海兵隊は少佐の配置となる)
つまり、軍艦の艦長と同格のレベル、という位置付けになったのです。

今日、CAGは戦闘指揮官フラッグオフィサーの「アドミラル」として、
攻撃部隊の空母航空隊を率いる士官を指します。

 

上の写真は、「ミッドウェイ」における歴代「アドミラル」であるというわけですね。

 

続く。

 

 

 


CICと「レンズマン」の関係〜 USS「ミッドウェイ」博物艦

2017-10-04 | 軍艦

サンディエゴで展示艦となっているの空母「ミッドウェイ」。
去年と今年、2年にわたって見学してきましたのでご報告しています。

チケットはインターネットでの前売りもありますが、このブースで並んで購入します。
西海岸でおそらく最も人が多く訪れる記念艦だけあって大変な混雑でした。

わたしたちを連れていってくれたサンディエゴ在住の知人ジョアンナは、
前売りをネットで買ったようですが、結局窓口でチケットをもらっていました。
前売りで買うとおそらく少し安くなったのかもしれません。

「MIDWAY MUSEUM」という字があるのがフライトデッキの階、
その上のデッキに並んでいるのは、艦橋デッキを見学する人たちでしょう。

 

さて、「ミッドウェイ」の艦内に入り、右側から見学を開始した我々は、
まず「ミッドウェイ」の名前の元となったミッドウェイ海戦についての展示を見、
それから艦首部分へと進んで、「フォクスル」(Forecastle)と呼ばれる部分で
アンカーチェーンを見学しました。

さらに進んでいくと、CIC、戦闘指揮所が現れました。

 CIC、コンバット・インフォメーション・センター、戦闘指揮所は、
軍艦の「タクティカル・センター」(戦術中心)のことです。

CICはレーダーやソナー、通信によって集められた情報が集約される場所で、
自艦の状態を把握し、それに基づく指揮・発令を行うところです。

いわば艦の頭脳であるCICを失うと軍艦はその瞬間機能しなくなります。
故にどこの国でもこのCICは特に堅牢な作りに守られています。

我が自衛隊でもCICを「クリーンC」として頑丈に作っている、ということですが、
残念ながらこの「クリーンC」が何を意味するのかはわかりませんでした。

それはともかく、マイケル・ベイの「ザ・ラストシップ」と「バトルシップ」では
敵が攻撃してきた時、首脳幹部が全員艦橋にいてやられてしまうのですが、
前にもいったように特に現代の軍艦ではこれはありえないことで、
特に艦長たるものは、戦闘時に戦闘指揮所にいてしかるべきなのです。

艦橋から戦闘の様子を双眼鏡で眺める艦長、というのは肉眼で全て把握できた
第二次世界大戦までしかありえない光景なのですが、どういうわけか、
現代の海軍を描いた映画で、フネが全滅する時には艦長は必ず艦橋にいます。

パネルやコンピュータの並んだ暗いところより、こちらの方が絵になるからでしょうか。

「ミッドウェイ」の就役は終戦直後の1945年9月10日です。
それから大々的な改装工事を施して生まれ変わっているので、彼女のことは
「1960年代の空母」というカテゴリで区切ってもいいかと思われます。

ごく初期のCICというのは、艦橋の隣のチャートルームでレーダーを操作し、
電話で連絡を取って集約した情報を元に艦長が命令を下す、というものでしたが、
「ミッドウェイ」改装の60年代になっても、情報処理には計算尺が使われていました。

今までご紹介してきたCICには、「ホーネット」しかり、「イントレピッド」しかり、
必ずこの左のレーダー画面のようなクリアボードがあったわけですが、
これは
自艦(空母)の位置を円の中心として、情報を書き込んでいくためのものです。

まだこの時代は情報を人が紙とかボードに記録するという方法が取られていたのです。
ここにレーダー手は敵艦や敵編隊の位置・進行方向・数といった情報などを
手で書き込むことで情報を集約していました。

「ミッドウェイ」CICの展示のすごさは、全ての機器に電源を入れ、
周りをぐるりと囲んだクリアボードも当時のままにしてあることです。

しかも、レーダーなどの機器の前の椅子には誰でも座ることができ、
好きなように触って動かしてみることも可能なのです。

わたしも時間があればぜひやってみたかったのですが、諦めました。

白いキャップにブルーのシャツの人たちはボランティアの解説の方々。
CIC内部だけで二人も配置されていました。

手前の椅子は、艦長がここで指揮をとるときに座る場所だと思われます。

なぜか座っているのが女の子ばかり(笑)

このCICからクリアボードがなくなるのは、デジタルコンピュータによる
戦術情報処理装置が搭載されるようになって以降のことです。

CICというのはシステムとしては偉大な発明であり画期的な進歩でしたが、
レーダーと発光信号や手旗信号、原始的な無線機、たとえ熟練のオペレーターでも、
同時に処理できる目標はせいぜい12機程度が限界であることが、
CIC先進国であるイギリスの実験によってわかったのです。

ちなみに実験結果によると20機以上になるともう手も足も出ない状態でした。

わたしたちを連れてきてくれたジョアンナは、この歳になるまで
「ミッドウェイ」に限らずアメリカ海軍の展示を実際に見にきたことはないそうです。

東部名門大学のビジネススクールをでて長年不動産業で成功してきた彼女ですが、
こういう関係のことは多くのアメリカ人と同じく、ほとんど知りません。
しかし、知的好奇心の旺盛な人なので、ツァーガイドの録音を聴きながら
熱心に見学をしていました。

「オルデンドルフ」「キャロン」などの駆逐艦、原子力空母「ルーズベルト」、
戦艦「ミズーリ」、「ウィスコンシン」、フリゲート「ジャレット」・・・・。

「キスカ」は給兵艦、「レイテガルフ」はミサイル巡洋艦(CG)です。

余談ですが、アメリカって明らかに大チョンボだった戦地でも船の名前にしちゃうんだ、
例えばキスカとか、と思って、このことを人(いわゆるライトなミリオタ系)に話すと

「いや、アメリカ的にはあれ勝って島を占領したってことですから」

これを聞いてわたしは目から鱗が落ちるような気がしました。
一人の犠牲者もなく島から日本軍が脱出した後、アメリカ軍は上陸し、
まだ日本軍がいると思い込んであちらこちらで同士討ちになったのですが、
よく考えたら、ライトなミリオタさんのいう通りです。

アメリカにすれば「キスカ」は別に負けた場所ではない、と_φ(・_・

 


さて、写真のボードを見てみると、「4433」「1223」などの数字に
「PIF」とありますが、
「F」はフォーメーションのことだろうなと思いつつも、
なんの略かは今回わかりませんでした。

ちなみに、「ルーズベルト」「レンジャー」の名前が見えるので、これはもしかしたら、

湾岸戦争の時のこの陣形なのかもしれません。

「ミッドウェイ」左上、「セオドア・ルーズベルト」右上、
「レンジャー」左下 「アメリカ」右下

アメリカ海軍の4隻の空母は、「砂漠の嵐作戦」の時にこのような陣形を組み、

「バトル・フォース・ズールー」(Battle Force Zulu)

として、おそらくですが威嚇のための航行を行いました。
ズールーってば、つまりあれですよね?
各員一斉奮闘努力せよ的な、後がない的な意味の『Z』ですよね?

「砂漠の嵐作戦」も大概だけど、つくづくアメリカさんって中二いやなんでもない。

しかし結構驚くのは、「ミッドウェイ」「レンジャー」「アメリカ」、
このようなご老体(退艦秒読み)と原子力空母が一緒に軍事行動を取ったということ。
おそらく三隻の老空母の「花道」としてのZ作戦だったんだろうと思いますが、
CICのシステムが違っても全く不都合はなかったらしいのに少し驚きます。

 

地図は紙。

もちろん今でも護衛艦には紙の地図があり、定規やコンパスで書き込むのですが、
海軍戦術情報システム( NTDS)と武器管制システムを統合した

ターター-D・システム

さらにはそれを発展させたイージスシステムの発明後は、
CICの大きなクリアボードは全てディスプレイに変わっていくことになります。

艦内の通信を全て電話で集約する、というのもこの時代のCICの特徴。

大きなスピーカーには各部署を表すインジケーターがあり、
光ったところのボタンを押すと、音声が聴ける仕組みです。

このレーダーのところにいた人は、かつてCICに勤務していたベテランでした。
ジョアンナが質問したので、説明してくれているところ。

おじさんも「砂漠の嵐」参加組でしょうか。

当時のCICの様子をマネキンで再現したコーナー。
この部分は立ち入り禁止になっていました。

手前の椅子には「トラックスーパーバイザー」とあります。
もしかしたらにこやかに佇んでいる人がスーパーバイザーでしょうか。

椅子の背中には役名が記されています。

こんなところに、というかこんなところだからこそコーヒーは欠かせない。
ってことで、ちゃんとコーヒーディスペンサーがCICの片隅に設置されてます。

自衛艦のCICはもちろん飲食禁止ですよね?

謎の記号の上には「L・L・エバンス」という艦長らしき写真。
ちょうど目のところが隠れていますが、イケメンの予感。

この画面にはパイロットの名前が書かれており、
甲板の様子をモニターする画面があるので、航空管制室だと思われます。

 

アメリカでCICの導入が検討されたのは、真珠湾攻撃がきっかけだったと言われます。
「情報を集約する場所から指揮をとる」というコンセプトを実際に
海戦に応用した最初の軍艦は、水上レーダーを装備してた駆逐艦「フレッチャー」で、
作戦を適用したワイリー少佐は、この功績によってシルバースターを授与されました。

その後CICコンセプトを一般に適用するためのプロジェクトをまとめたC・ラニング中佐は

「CICコンセプトの源流はサイエンスフィクション、たとえば『レンズマン』の
巨大なスペースシップ『ディレクトリ号』などからきている」

と語ったそうです。

原作の「レンズマン」はエドワード・エルガー・"ドク”・スミスが
1937年からシリーズで書いたサイエンスフィクションです。
もしかしたら、

「銀河パトロール隊」

というSF小説を子供の時に読んだという元男子もいますでしょうか。

Lensman Anime Film SF新世紀 レンズマン アニメ 

なんとその「レンズマン」ですが、1984年に当時バブル真っ只中だった日本さんが
アニメにしていたということがわかりました。

その後のSFものでは当たり前に出てくる戦闘指揮所における統制戦ですが、
最初にそれが描かれたのが1937年だったということには驚かされます。

「レンズマン」はレンズを腕にはめるよって特殊能力を使用でき、
例えば戦闘空間を知覚化することなどもできるのですが、その情報を元に
指揮官が戦闘を行う、という概念がすでにこの初期に登場しているのです。

アメリカでは誰でも知っている「レンズマン」で、スタッフは

「日本のアニメ、アメリカ堂々上陸!(あわよくば席巻)

を目論んだのだのでしょう。
しかし残念ながら、アメリカ人は字幕で映画を観るという習慣を持たないため、
興行は結局失敗に終わったということです。

ちなみに、主題歌を歌っているのは現在も現役活動中のアルフィーです。

 

続く

 

 


海底軍艦!〜第五十七回全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト

2017-10-02 | お出かけ

 

模型ショーですら一日で紹介が終わらないというこのブログの
微に入り細に入り体質、自分でもなんとかしたいのですが、
あれもご紹介したいこれもご紹介したいとアップしていると、
あっという間に1日分のログを消化してしまいます。

というわけで模型ホビーショーのお話二日目。

前回、コルセアのパッケージの下に見えているのがラバウルでは?
と書いた件ですが、この機体は硫黄島の時に運用されていたものであり、
したがって下に見えている山は摺鉢山である、
というウンチク裏メールをいただきましたので、こっそり訂正しておきます。


さて、前回も申しましたように、今年のホビーショーも、模型業界大手、
ハセガワさんにご招待をいただきましたので、冒頭写真には
今年のハセガワのイチオシ商品をあげさせていただくことにしました。

11月に発売される新金型で、450分の1スケールの「ひゅうが」です。

「ひゅうが」といえば、まだ就役してまもない頃、彼女に取って初めての、
そしてわたしに取っても初めての観艦式で載せていただいたということで
個人的に大変親しみを覚えているヘリ搭載型護衛艦のネームシップです。

実はこのモデルには、ちょっとだけですがわたし自身に関係があります。

このモデル開発に当たっては同社は実際に同型のヘリ搭載型艦を見学し、
その結果が反映されているのですが、視察をするに当たって紹介の労を取られた、
海自の現場に強いパイプを持っておられるアマチュアモデラーさんは、
わたしが昔ハセガワさんにご紹介したという縁があるのです。

どこがそうなのか具体的には全くわかりませんが、ともかくわたしの行為が
この製品の出来栄えに多少なりとも影響しているってことなんだな。

大変光栄なことだし、何より嬉しいではないですか。
もしわたしがモデラーなら絶対買ってしまう。

というか誰かに作ってもらって飾っておきたいぞ。

「ひゅうが」の向かいには三番艦「かが」がおりましたが、
この甲板の上に・・・・

おい(笑)

ちなみにF35は「かが」キットに含まれていますし、
さらに「ひゅうが」搭載機にはさりげなくオスプレイが付いてきます。

オスプレイはソフトバンク?か何かの解説本に合わせて
モデルが発売されるようです。

今年の観閲式は空自で、百里基地で行われることになりますが、
その上空にこれが飛んできてくれるなどということは・・・・?

「わたしがハセガワさんに紹介した人情報」によると、
2017年の三月までに4機調達ということなので、まだ無理っぽい。

こちらも新金型の駆逐艦「朝潮」「峯雲」700分の1。

ウォーターラインモデルです。

模型業界では昔一度でて何十年も金型を変えていないものを
新しく作り変えて行くという風に商品を入れ替えて行くようです。

海外の会社と提携してモデルを輸入することもするそうです。
このフォードのモデルにはフォード(左)とそのチームのフィギュア付き。

ICMというクロアチアの会社だそうです。

ヨーロッパの会社ならではの製品ラインナップ。
ソ連のポリカルポフI-16だそうですが、これは
中国軍なども使用していたようです。

(かっこわるっ)

いや、前から見るとちょっと可愛いかもしれなし。

しかもこう見えて世界で最初にワイヤ駆動で作動する引き込み脚を搭載し、
速度は配備当時世界最速だったそうですから、根強いファンもいるかも?

ちなみに海外の会社とのおつきあいについては、やはり圧倒的に
アメリカとドイツの会社というのが信頼度が高いそうです。

「特に何かトラブルが起こった時の対処というのが大きく違います」

ハセガワさんが特に力を入れているのが根強いファンを持つ漫画とのコラボ。
これらを「クリエーターモデル」と称しているようです。

 「エリア88」のX-29風間真モデル。
後ろのミッキー・サイモンのトムキャットとは関係ありません。

こちらはサーブJ35Jドラケン(ドラゴンの意)風間真モデル。
これも新しい製品です。

おなじみキャプテンハーロックのアルカディア二番艦も
松本零士先生のイラストパッケージによる発売だそうです。

ハセガワにはこんなラインナップも。
懐かしの学校机と椅子、跳び箱にスチール机・・。

ちなみに前回にも言いましたが、「艦これ」ブームが売り上げに影響を与えたのも
最大風速的な一瞬だったようで(ゲームする人≒モデラーだからでしょう)、
ハセガワさんの今の主力商品は何かと伺ってみたところ、それは車だそうです。

「しかも、昔のタイプの車がよくでます」

「やっぱりノスタルジーみたいなところで?」

「それもありますが、私は昔のデザインの方がよくできてるなと思うんですよね」

というわけで、セリカGT。

しばらく車談義をしていたのですが、ふと見覚えのあるBMW発見。

「318i・・・あれ、これって・・」

「20年くらい前の型ですね」

ということは、わたしが初めて自分で買った記念すべきビーエムではないですかー!

このビーエムに到るまで、家の車に始まって国産車を4台矢継ぎ早に乗り換え、
(そのうち一台は東名高速御殿場付近でスクラップにして)やっとこれで
自分の車を見つけた!という満足を持ってアメリカに行くまで乗っていました。

あー懐かしいなあ。

わたしが模型を作る趣味があれば、やっぱりこれも買っちゃうかも・・。
というか誰か作ってくれるのならばぜひグレーガンメタ塗装でお願いしたい。

ビンテージモデルに女性のフィギュアをつけた新しい戦略、とのことです。
女性の服の色などは自分で好きなように塗装できます。

そのスタイルで衝撃的なデビューをしたマツダコスモ。

こちらトヨタの2000GTだったかな。

車といえば他社製品にこんなものも。
科学特捜隊だからと言って特別に仕掛けがある車に乗っているわけではなさそう。

てかなんで左ハンドルなんだ?

船といえばこれも業界大手のアオシマにはこんなものもありました。
第27漁栄丸は実在ではなく模型の世界だけに存在するイカ釣り船です。

旭日の大漁旗が見えていますね。

 

フィギュアがついているとつい立ち止まって写真を撮ってしまいます。
四一式山砲と山砲兵たち。

将校付きの陸軍のトラック。後ろの戦車は「ノモンハン」だそうです。

フィギュアはフィギュアでもわたしはこういうのには興味なし。

同じ会社の製品でリヴァイ兵長発見。

ところで防大漫画「あおざくら」のサカキ部屋長って、この人を思い出しませんか?

さすがは日本の模型会社、鎧兜のシリーズがあります。
外人さんへのお土産にも良さそう。

トムキャットのコクピットシートとヘルメット実物。

軍艦モデルを飾るためのとんでもない特殊ケースがありました。
なんと、ホログラムで戦闘シーンが一定時間再現されます。

主砲が火を噴く瞬間。

と思ったら今度はやられてるし。

「勝ちモードだけ」

とか選択できるんだったらすごいなあ。

ウォーターラインの軍艦ラインナップが異常にに充実している会社です。
中央に三笠がいますね。

最後に宮崎駿作品をジオラマにしたコーナーを見て終わりです。
「千と千尋」の世界を立体的に作り上げたもので、
電車の止まっている駅には千尋とカオナシがいます。

 

ところで、わたしが今回のホビーショーで個人的にウケたモデルは実はこれでした。

この独特なロゴも懐かしい、海底軍艦、轟天号がなんとモデル化されてました!
当ブログで映画「海底軍艦」を取り上げた時にはそれは盛り上がったものですよ。

しかもですね、この轟天号、先っちょのドリルが実際に回ってるんです。
ちゃんと土層を掘り進むことができるように、ドリルの先にはミツマタの
やりみたいなのが装着されていてなんだか強そう!

あーなんなの。この人ごととは思えない心のときめきは。

LEDランプが点灯!
ドリル回転!
水平翼、尾翼、艦橋が収納可能!

うーむ、これはおそらく空を飛ぶ時の(そう、飛ぶんですよ海底軍艦なのに)
モードだと思うんだけど、まさか艦橋まで収納式だったとは・・・。
収納されている時の艦橋の内部って、一体どうなる設定なのこれ。


ところで、あの映画製作時、このレベルのモデルを作ることができて、
撮影にに使うことができていたら、特撮のレベルはとんでもなく
クォリティの高い作品になっていたんだろうなあ・・。

今やCGの出現で特撮の概念も変わってしまいました。
ノーラン監督のように「信念」を持ってそれを拒否するというクリエイターでない限り、
CGをごく当たり前の映画技法として取り入れているのが現状です。

つくづく、五十余年の歳月は物事を大きく変えたと思わずにはいられません。

 

というわけで、モデラーでないわたしも大いに楽しめたホビーショーでした。
ご招待いただきましたハセガワ様に心から御礼申し上げます。

 

 

 


痛バスと痛トラック〜第五十七回 全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト

2017-10-01 | お出かけ

 

先週末、お台場のビッグサイトで開催された模型ホビーショーに、
またしてもご招待を受けて行ってまいりました。

本当は業者招待の金曜日に行けば駐車場も空いていたのですが、
どうしても外せない用事があって一般招待の土曜日に行くことになりました。

車を近隣のビルの駐車場に入れたので、初めてこのエントランスから入場しました。

年一度秋に行われる模型玩具の見本市であるホビーショー、
今年でなんと57年目を迎えるということになります。

会場は今回二箇所に別れていて、まずイベントステージのある方に進むと、
ガールズパンツァーらしきコーナーがありました・・・・が、
これはどう見ても旧ソ連のそり。

ガルパンコーナーにはなぜか果物とか野菜を売る店が出ていました。

去年も展示されていたプロモデラー奥川泰弘氏のジオラマ作品展から
見学することにしました。

これ自体が壁掛けになっている小さなジオラマ。
カリフォルニア州旗がペイントされている木の壁がいい具合に剥げています。

オート三輪のあるイギリスのパブの光景。
後ろが一輪で前が二輪の車です。

手前をぼかして本物っぽく撮る工夫をしてみました。
建物は公衆トイレではなく「バードソング」というバーです。

手前をぼかす設定のまま撮ってしまってこれは失敗(笑)

いかにもアメリカの農場主、なおじさんとトラクター。

フレームアームズガールというのはコトブキヤが出しているロボットの
プラモデルの「スピンオフ」というか擬人化イラストで、それを
バスに塗装した「痛バス」がそのまま展示されていました。

痛バスをバックに自分のモデル(ガンダムらしい)を
記念撮影していた人。

 

これでふと思い出したのですが、最近、自衛隊のイベントや研修会で、
自分のシンボルというか、トレードマークとしているらしいぬいぐるみ、
(あるいは自分のアバター?)をこういう場所に持参し、
自衛官に持たせて写真を撮っている人(100%女性)をよく見かけます。

わたしも、SNSにアップするために、自分の食べるものをすべて
小さなぬいぐるみと一緒に記録している人を一人知ってますが、
一人で楽しみとしてやっているだけならともかく、自己承認欲求のために
頼まれるとノーと言えない自衛官を顔出しでそんなことに使うのはどうなんだろう。

見て見て!
自衛官とわたしの〇〇(ぬいぐるみの名前)の取り合わせ!
このギャップが微笑ましいでしょ!

なんて嬉しがるのは自衛官に対する敬意が感じられないというか、
むしろ失礼?と思うのは、わたしのアタマがお堅いんでしょうか。



あきらかに戦記物の単行本の表紙で見覚えのあるタッチです。
ミリタリーアートの画家、生頼範義氏の原画ギャラリーがありました。

プラモにそう興味がなくても、こういうコーナーがあるので
十分楽しめるのが模型ホビーショーです。

会場でいただいたパンフレットに男性の顔があり、さらにカウンターに
そっくりな人が座っていたのでその人を生瀬氏だと思い込んでいたのですが、
ご招待くださったハセガワの方に聞くと、生瀬氏はもう2年前に他界されたこと、
生瀬氏の自画像だと思っていたのはジャンボ尾崎の肖像画だったことを知りました。

あっぶねー。
もう少しでその人にサインくださいっていうところだったぜ。

というくらい素晴らしい作品群だったのですが、アクリルのケース越しでは
写真もうまく写らず、ここにアップすることは断念しました。

さて、通路を隔てて反対側の会場は、各社展示となります。
入るとすぐ東京マルイというエアガンの会社の展示があります。

男子(とか元男子)が群がるようにお試しをしていました。
各展示ブースの上空に的があってそれに向かって撃つことができます。

製品のポスターを展示してあるコーナーから。

豆戦車って何!

とワクワクしながらググったら、

「軽戦車よりさらに小型・軽量・軽装備な戦車。
タンケッテ(Tankette)や豆タンクとも呼ばれる」

ということがわかりました。
ソフトスキンなのでガチンコで戦った場合には生存率は大変低かったようですが、
この九四式軽装甲車は、九二式重装甲車、九七式軽装甲車とともに
日中戦争でかなり有効だったとされています。

わたしはこれも一種の豆戦車?と思っていたのですが、
上に乗るんじゃ装甲の意味全くないですよね。

鹵獲したドイツ軍の自走地雷「ゴリアテ」で遊ぶアメリカ軍の人。

ゴリアテは11センチくらいの段差すら越えることができず、
しかも遠隔とはいえケーブル式なのでそれ切られたら終わり。
しかも費用が結構高く、ドイツでもなんのために作ったの?感満載だったとか。

まあ可愛いから許してあげよう。

ピットロードという会社の「真実の大和」というモデル。

模型会社で大和を出していないところはないと思いますが、
当社は呉市が行った海底の大和の調査結果を製品に反映させているそうです。

手前の「はるな」来年の三月に竣工、就役予定の「あさひ」のモデルがもう出ています。

「あきづき」の体験航海が終わって上陸するとき、工事中の「あさひ」の横に
メザシ状態で接舷してくれたので、甲板を通って岸壁に降りました。

おかげでわたしは「あさひ」の甲板を歩いた最初の民間人のうちの一人になれました。
(結構自慢)

このホビーショーに来ると、世の中にはどんなマイナーに見えることでも興味を持ち、
それを趣味にしている人が一定数いるんだなと改めて感心します。

エンジンの模型(もちろん実際に動く)専門店。

会場の片隅には、模型パーツのバラ売りコーナーがあり、多くの人が
熱心に「お宝」を商品に入れていました。

このコーナー、その名も

「お宝発見!ジャンク市2017」

模型業界大手、タミヤのコーナー。

コルセアの大型モデル。

眼下に見えているのはラバウルのタブルブル山ではないでしょうか。
ラバウル攻撃をして意気揚々と帰還するところかもしれません。

F4U はこの夏見学した「ミッドウェイ」の艦載機でもあります。
キットで14,800円って結構いいお値段ですね。

ドイツ国防軍戦車兵セット。

戦車兵と士官のモデルは双眼鏡やホルスターなど細部まで表現され、
士官の帽子も野戦帽とサイドキャップから選べてお得です。

電波安全協会のコーナーには、何をするわけでもなく暇そうな感じで
左下に見えているキャップをかぶったおじさんが座っていました。

電波のルールを守るようにデーモン小暮閣下が熱く訴えているのは
総務省がこの6月に打ち出した

電波利用環境保護周知啓発強化期間

の周知ポスターです。
主に不法無線局を取り締まるのが目的みたいです。

模型といえばジオラマ。
息子と一緒に学校の課題であるジオラマを作るために、
ジオラマ模型専門の会社訪問までしたわたしとしては、未だに
風景ジオラマを発見すると細部までまじまじと見てしまいます。

たいていのジオラマは鉄道模型のためのもので、メインではないのですが。

あのー、学校の校庭に人が転々と倒れているんですが・・・・。

新旧色々並んだ車のコーナー。確かABCホビーだったかと思います。
右上のパトカーはライトが点滅していました。

ハセガワさんに聞いたところ、模型を作るには基本車なら車の会社に
デザイン使用料の支払いが発生しますが、パトカーなども
トヨタならトヨタにその許可を得るんだそうです。

お城の模型を主力商品にしている会社(ウッディ・ジョー)もあります。

今息子が江戸時代のことをペーパーに書いていて、資料の中から
当時の城の設計図を見せてくれましたが、これどうやって書いたの?ってくらい
線が緻密で間違いがないので驚いてしまいました。

同社商品、浅草浅草寺の雷門。

日本化線というワイヤアートの専門会社の商品で、「仮面ライダー」。

針金工場としてスタートした同社は産業用だけでなく、このような
カラーワイヤーでのクラフトを提案しているそうです。

ブースの前では

「今ワイヤーがお安いです〜」

とお店の人が叫んでいましたが、安いと言われてワイヤー買う人がいるかしら。
これとんでもなく敷居が高いものなんじゃないのか。

この会社ではなんと盆栽を模型にして売っております。
ちっちゃな剪定ばさみが付いているということは、
剪定を自分でするってことなんだろうなあ・・・。

動物のフィギュアをメイン商品にしている会社も。

そうりゅう型潜水艦塗装前。

バンダイのコーナーはいつもスクリーン展示が多い。
ガンダムシリーズの新作らしいビデオが流れていて、ファンらしい男性が
ずっと熱心に見ていました。

スターウォーズのコーナーもここです。

模型にデコトラというジャンルがあるとは知らなんだ。

このキンキラキンのデコトラは、「女のなんとか〜」「あなたのために〜」
「耐えて尽くします〜」みたいな内容の演歌をBGMにぐるぐる回っていました。

警察が電飾などの取り締まりを強化したり、またこういうデコレーションが
ヤクザっぽいとか反社会的という目で見る傾向のある企業などが
眉をひそめたことから、デコトラのブームは下火になりましたが、最近では
こういうのがキッチュで面白いと模型業界では受け入れられているようです。

最近は「萌え」を取り入れた「痛トラック」も出現しているそうです。
これば別の意味で眉をひそめられそうだなあ。

模型ショーに来る楽しみは、こういう妙なコンセプトの模型に遭遇できることです。

昔は日本のどこでも見ることができたエレベーターなしアパート。
JRの職員住宅がちょうどこんな感じで、何人か友達が住んでいたりしました。
それを、自転車置き場付きで模型にしてしまうという・・・。

はっきり言って、皆同じ種類の布団ばさみで干した布団がリアリティを損ねてます。
わたしとしては人が退去して廃墟となった建物を再現して欲しいです。

 

 

後半に続く。