バトルシップコーブに展示されているPTボートについてお話しした後ですが、
現地の説明についてもう一度だけ触れておきたいと思います。
まず、パネルには大きく「モスキート・フリート」とありました。
哨戒用でありながら攻撃力を持ち、船団に戦隊を組んで襲いかかってくる
PTボートの船隊を、日本軍は「蚊船隊」と読んで恐れたということからです。
それはまた「海の騎士」とも呼ばれました。
小さな船体に積めるだけの重武装を施し、第二次世界大戦中、
世界中で敵に恐れられた木製ボート。
それがPTボート、モータートルピードボートです。
遡ること大昔。
早くから英仏伊などの安価な魚雷システムが登場していましたが、
アメリカは主流艦にも疾風のように近づき、打撃を与えるという使命のもとに
魚雷搭載のこの最強のボートを造り上げたのでした。
この「小さい悪魔」に対する恐怖が、世界の海軍にこれらの戦術から
身を守る新しい種類の船を開発させ、「魚雷搭載型駆逐艦」が生まれました。
それは現在シンプルに「駆逐艦」と呼ばれています。
薄暮のころ、彼女の危険な貌はすでに影を潜めています。
その滑らかなマホガニーの外殻が波のない海を切り裂いていくとき、
彼女が搭載している強力なパッカードエンジンがかき回す
蛍光虫の光は不気味なくらいの美しさです。
しかしながら夜も深まる頃、再び耳もつんざけんばかりの轟音が立ち上り、
彼女がただの高速ボートではないことを証明するのでした。
若い血気盛んな水兵たちにとって、ごく少数しか選ばれない
「精強の海の騎士」
の一員としてこのPTボートのサービスに就くことは、
実のところ大変エキサイティングなことだったといいます。
PTボートが配備されていた太平洋や地中海、アラスカといった任地に
彼らがエキゾチックな冒険心をくすぐられたということもあったでしょう。
また、若い士官にとっては、自分が指揮官となって、少人数の
緊密な関係のクルーを率いる権利を与えられるのは腕の鳴る機会でした。
しかも指揮官と部下との関係は他のフネと違い、永続的な絆となったそうです。
「小さなボートによる大きな任務」
写真の吹き出しには
「お前、爆雷をなくしたって?今夜は便所磨きだな・・・」
彼らの当初のミッションは、海上の艦船を攻撃することでしたが、
次第に煙幕、機雷、そして爆雷、時には海面の搭乗員の救出、
そして諜報員や通信員を運部など、今で言うところの
ネイビーシールズが行うようなことを任されるようになりました。
俳優のダグラス・フェアバンクス・ジュニアは海軍士官だったことで有名で、
現役中に行ったPTボートでの勤務でシルバースターを授与していますが、
その内容はネイビーシルズ的な秘密任務であったため、
勤務についていたことを戦後長らく明らかにしませんでした。
彼らのあだ名となった中世の騎士がそうであったように、
PTボートに対する「海の騎士」というロマンチックな妄想などは
実際の近接戦闘を知ればその恐怖の前に吹き飛んでしまうことでしょう。
ガソリンと銃撃による爆発によって、PTボートはしばしば従兄弟に当たる
ドイツ製「Sボート」や、日本の艦船と「角を突き合わせ」、
猛烈な小銃砲火を駆使して、あたかもかつての帆船時代のような戦闘を行いました。
しかし、スペインのガレオン船や英国の
「マン・オブ・ウォー」(昔の軍艦)
がそうであったような、国家権力の象徴となるような価値は
PTボートには与えられていませんでした。
1945年の12月、ハリウッドは、戦争中はほとんど顧みられることのなかった
PTボート乗りのことを世界に知らしめるために、映画
「THEY WERE EXPENDABLE」(邦題『コレヒドール戦記』)
を制作しています。
「あうち!」
とかいっているのは(あとは読めませんでした)
PTボートの性能改善や運用方法、戦術の考案などに深くかかわった人で、
マッカーサーのフィリピン脱出の時に乗ったPTボート船長をつとめ、
その功績により名誉勲章を授与されました。
ロバート・モンゴメリーが演じたジョン・フォード監督作品
「コレヒドール戦記」の主人公は、バルクリーをモデルにしています。
よくわからない写真ですみません。
第二次世界大戦後、海軍は用済みになったけれども新しい艦艇や、
例えば「マサチューセッツ」のように「価値のある」軍艦などは保存したり
モスボール化して残しましたが、木製の哨戒艇などはすでに冷戦時代に突入していた
海軍の戦後の戦略に則さず、ほとんどが無残にも廃棄されて行きました。
戦争中建造された519隻のボートのうち、99隻は戦没や事故等で失われ、
外地にあるものは輸送と保持にお金がかかるので現地で廃棄することになり、
121隻はフィリピンやサマワで焼却処分にされたことがわかっています。
レンドリースでイギリスに貸与された船も同じ運命でした。
破棄を免れたのは、海軍から民間に払い下げられたものがほとんどで、
博物館の展示となる以外は観光船、ディナークルーズ船(!)フェリー、
そして釣り船などとなって余生を送りました。
「モスキートフリート」とPTボートに関する年表をまたご紹介していきます。
1866年:イギリス人ロバート・ホワイトヘッドが最初に自走式魚雷を発明する
圧縮空気を動力とするもので、米海軍はこの5年後設計を受け継いだ
1898年:米西戦争中、米海軍は蒸気動力による魚雷艇の試験を行った
USS「カッシング』(写真)は有名なヨットメーカー、ヘレショフの制作
1900年:ガソリンエンジンのモーターボートが、パリで行われた国際レースで優勝
武器を搭載するための「プラットフォーム」候補として海軍がその能力に注目
1917年:イタリア製のモーター式魚雷艇がオーストリア=ハンガリー帝国海軍の
21,600トンの戦艦「セント・イシュトバン」を撃沈
註*Wikipediaでは1918年の出来事とされている
1918年:米海軍、魚雷艇のプログラムを開始
1941年までに3つの魚雷艇部隊が英海軍のそれを真似て作られた
1941年:PTボートが真珠湾攻撃の際初戦闘を行う
4,000回を超える銃撃により、2機の日本機を撃墜した
あまり表舞台に出ないPTボートのことなので、知らなかったことも多いですが、
ことに真珠湾攻撃の際に日本機を撃ち落としていたとは初耳です。
「バージ・バスターズ」というのは「船やっつけ隊」とでも言いますか。
様々な用途に活用されたPTボートですが、最も有効だったのは舟艇攻撃でした。
この頃日本は多くの船を失い、次第に昼間を避けて、夜間、
海深の浅いところを航行するという作戦を取りました。
浅いということは、駆逐艦は航行することはできません。
その上で、日本の船は陸からの砲撃に守られていました。
PTボートはその点、浅い海域でも平気で舟艇の後ろに付き、
そして攻撃し、沈没させてきました。
浅いところでは効果のない魚雷ではなく重砲を用いました。
捕虜にした日本兵の日記にはこう書かれていたといいます。
「唸りを上げながら羽ばたく怪物のごとく、あらゆる方向から撃ってきた」
日本語ではどう書かれていたのか気になるところですが、
これを解読したPTボーターたちはさぞ小躍りして喜んだと思われます。
航空用として設計されたMk13魚雷ですが、PTボートに搭載されました。
およそ1万7千発以上が第二次世界大戦中に製造されています。
1942年:ガダルカナルのヘンダーソン基地にて、2隻のPTボートが日本海軍の
爆撃隊を駆逐するのに成功
1943年:夜に稼働する日本軍に対抗し、ソロモンにはPTボートが追加配備された
JFKが船長を務めるPT109を日本海軍の駆逐艦が撃沈する
1944年:Dデイでノルマンジー上陸作戦が行われる
PTボートは救助、掃海などでこの作戦に参加した
PTボートシリーズ 続く。