ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

エレノア号のキッチン〜ボストン ティーパーティ博物館

2017-07-11 | 軍艦

 

いつも博物館や展示には行って帰って来て、ここで書くために調べ、
「はえー」となることが多いのですが、今回は、この博物館が、
2002年に火災を起こし、一旦閉鎖していたということを知りました。

当時アメリカ、特にボストンは同時多発テロショックのさなかにあり、
そんな時にどういう理由にせよアメリカ独立の象徴的な出来事であった
ティーパーティ博物館が焼けてしまったというのは何か不思議な気がしますが、
ともかくもそのため10年くらいは博物館は休館していたのだそうです。

道理で毎年ボストンに行っているのに気がつかなかったはずです。

さて、この博物館は「ロールプレイ」が売り物になっていて、入場者に配役が課され、
サミュエル・アダムスの演説の時などにアドリブで、
イギリスの課税は許せない!お茶など飲まなくていいから送り返せ!
と朗々と演説をする、いわゆる「自由の息子」役の人が出現することもあるそうです。

わたしの参加した組は、キャストのお姉さんが前もって女の子にカードを渡し、
それを読むように仕込んでいました。

船に乗り込むと、そこだけ1773年な雰囲気にしているおじさんが。

ちなみに、この人たちを「キャスト」と呼び、常にHPで募集しています。
某ディズニー関係のランドでの「キャスト」という呼び方には違和感があったのですが、
ここのスタッフをそう呼ぶのは当然です。
キャスティングされてるわけですからね。

募集ページによると、演劇の経験は必要ないということではありますが、
みなさんの熱演ぶりを見ていると、劇団員のアルバイトではないかという気がしました。

「全員乗艦できるように、皆さんもっとこちらに詰めてくださーい」

「さて・・・」

というわけで、どうやら「自由の息子」の一人であるらしい彼の演説が始まります。

「自由貿易で入ってくるイギリスの輸入品が我々の生活を苦しめる!
このお茶を送り返せないのなら、今ここで茶を海に捨ててやろう!」

「ハザー!」

「自由か、さもなくば死を!」

「ハザー!」

えー・・・あの・・・・えーと?

茶箱を放り込む役目は、大抵子供たちなのですが、
大人の人垣の向こうでいつのまにかイベントは終わっていました。

しょぼい。

これではボストン湾はティーポットにはならないと思う。

ちなみに、この後案内された室内の展示には、流れ着いて保護された
本物の茶箱を、ガラスのチューブの中で全方位が見られるように、
くるくると回転させているというものがありました。

実際の茶箱は本当にこの大きさで、ほぼ四角。
表には花をあしらった模様が描かれたものでした。
あの大きさなら、放り込むのになんの苦労もいらなかったと思います。

茶箱を放り込んでしまうとイベントは終わってしまうので、皆は船内を見学します。

ルーシーさんが持っているのは海軍精神注入棒・・ではなく、
「ビレイピン」といってロープを八の字に巻き留めるものです。

穴から抜いて皆に見せてくれています。

この後は、甲板の下に皆が降りて中を見学。
樽と東インド会社のマークが入った茶箱が隅に積んであります。

船首の尖った部分に、ハの字状にベッドが4人分作り付けられています。
下の段では船員がお休み中。

左の階段から降りて、船内を一周すると右の階段から上がる一方通行。
しかし、こんな船でイギリスから苦労して大西洋を渡ってきたのに、
積み荷を捨てられてしまったイギリス人の気持ちも少しは考えてみよう。

「立ち止まらないで、自撮りや集団での写真撮影はご遠慮ください」

と言われて皆が一列になって進んでいくと、船尾部分に船長室がありました。
アメリカ人たちがこの「エレノア」号に忍び込み、茶箱を捨てているというのに、
イギリス人の船長は悠長に手紙を書いています。

「えー、アメリカ人が茶箱を海に捨ててしまいました、と・・・」

船尾部分は明るくスペースにも少し余裕があります。
船の上の階級差が大きく船長の権限が絶対だったのは、大航海時代からのしきたりです。

船長は水も比較的潤沢に使えたのでしょうか。
水差しと洗面用のボウルがあります。

小さい船室なのですぐに上に上がってきてしまいました。
しかし、しばらくの間下船せずに船上で過ごすことになります。

船首側にはアーチに鐘が。
帆船では時を知るために鐘は大事なツールでした。

30分毎に鳴らされる鐘の数によって時間を知るシステムですが、
1回打つ1点鐘から8回打つ8点鐘まであり、4時間で1サイクル。

例えば、正午が8点鐘になっているので、午後零時半は1点鐘に戻り、
以後30分毎に1打ずつ加えて行き、 午後4時はもう一度8点鐘になります。

ただし、午後6時の4点鐘、午後6時半の5点鐘の時には1点鐘を打つのが慣習です。
事故が起こりやすい「魔の刻」だから変化をつける、という説があります。

マストを見上げてみました。

現物通りに再現しているものとみられますが、そもそも博物館がオープンしたのは
1973年ということなので、この船そのものには歴史的価値はありません。

火事で失われたのは100年前からの建物で(東部では珍しいものではありませんが)
その原因というのは、コングレス(議会の意)ストリート沿いの橋の上の
工事現場で鋼梁を切断していた火花が飛んだからだったとか。


ボストンのローカルニュースに載った写真ですが、これによると
火災の起こったのは真昼間。

向かいで釣りをしていた人が

「あっという間に広がった。内部は地獄のようだった」

とか証言しているようですが、人的被害はなかったのでしょうか。

甲板には鶏を飼っておくケージがありました。
昔は冷蔵庫がないので、生きた鶏を乗せて海上で捌くしかありません。

 

冷蔵庫がなかった時代、帝国海軍の軍艦に牛を積んでいる絵が残されていますが、
鶏はともかく、牛をするのは技術も要るので誰もやりたがらなかったとか。

操舵は甲板で行ったんですね。
舵輪が回す軸に巻きつけたロープが舵に繋がっているということのようです。

鶏小屋の横にはなんとキッチンがありました。
時化の日には料理できなくなるんじゃないですかねこれ。

と言いたいところですが、ここは「マンガー」(Manger)といい、
船首部の水除け仕切りだそうでです。

イギリスからアメリカまで、何日でやってくることができたのかはわかりませんが、
野菜や果物などの生鮮食料品は一週間で底をついたはずです。

彼らの主食は「コンスティチューション」の時にもお話ししたように、
基本、塩漬けの肉と硬いビスケット(ネイビービスケット)でした。

ティーパーティ事件のあった1700年代後期は、食料事情が改善されて
砂糖や干しぶどう、チョコレートなどやコーヒー、紅茶など、
嗜好品が登場したものの、軍艦では士官しかありつくことができませんでした。

余談ですが、グルメの国でありイギリスと仲の悪かったフランス海軍では、
16世紀ごろでも、船上にしつらえたレンガの竈で温かい食事とパンが用意され、
腐りかけた肉や堅パンとは無縁であったといわれています。

さらに遠洋航海の場合、サラダ用の野菜をプランターで作っており、
将校の食事に関しては、イングランドよりはるかに条件は良かったとか。

この「エレノア」号は軍の船ではありませんが、商船なので幹部は

1日当たり

ビスケット 1-1/4ポンドまたは柔らかいパン1-1/2ポンド
酒 1/8パイント
砂糖 2オンス
チョコレート 1オンス
紅茶 1/4オンス

1週当たリ

オートミール 3オンス
からし 1/2オンス
こしょう 1/4オンス
酢 1/4パイント

1日当たり(それが入手出来るかぎり)

生肉 1ポンド
野菜 1/2ポンド

こんな感じの食事をしていたはずです。

壁には火を起こすためのフイゴがかかっていました。
木製の船で火を焚くというのはなんだか他人事ながら不安な気がします。

参加者は甲板でそれぞれ記念撮影に興じていました。
ルーシーさんと一緒に写真を撮りたがる人は多く、大人気です。

ちなみに彼女の瞳は淡いブルーだったのですが、そのため
同じ色であるこのドレスが大変よく似合っていました。

サイズもぴったりだし、もしかしたら彼女のために作ったのかもしれません。

同時期、フランスの貴族たちは巨大なパニエや奇抜なヘアスタイルを競い、
不満を持った民衆に革命を起こされてしまうわけですが(笑)
アメリカではそもそも貴族階級というのが存在せず、皆が
フランスの「市民」のような洋服を着ていたと思われます。

男性も、要職にある人間はバッハのようなカツラをつけていた頃で、
これは
アメリカでも同じでした。


この男性は観光客の質問を受け付けていたのか、
ずっと周りに人が集まっていましたが、彼がこの時、
ずっとティーパーティー事件の時の「自由の息子」
として話をしていたのか、素に戻っていたのか、
それはわたしには最後までわかりませんでした。

多分、近くで話を聞いていたとしてもわからなかったと思われます(笑)

 

続く。

 

 


「今宵ボストン港をティーポットに」〜ティーパーティ博物館

2017-07-10 | アメリカ

今回の滞在は極端に短いだけでなく、毎日用事が入っていて、
いつものように、なんとなく行きたくなったところにふらりと行ってみる、
というようなことができないので、いつものところに滞在して
長年慣れ親しんだお店に立ち寄ったり、懐かしい道を通ってみたり、
そんなことをするだけで終わってしまいそうです。

それはいいのですが、毎年必ず一回はチェックしていた店が、
のぞいてみたら軒並み店じまいをしていたのはなかなかショックでした。

つまりこれは、アメリカでもオンラインが流通の形を変えてしまって、
皆わざわざ実店舗に行って買い物
をしなくなってきたからだろうと思います。

買い物のついでにちょっとした世間話をするのを楽しみにしていた、
ウェルズリーのイタリア人のおじさんがやっていた小さなブティックも、
おじさんが引退してしまった(もしかしたら亡くなったかも)のか去年閉店、
東部中心に展開していた別のお気に入りの店も、この6月でやめてしまったとか。
ホームページにはネットを媒介とした流通形態が主流となってやっていけなくなった、
と閉店の理由が書かれていました。

一つの時代(つまりアナログの?)が終わった、という感があります。

 

さて、ある日の午前中、わたし一人で行動する時間ができたので、
思い切って?ボストンティーパーティ博物館に行ってみました。

住んでいた時からもうなんだかんだ13年以上はボストンに縁がありますが、
USS「コンスティチューション」もそうだったように、案外住んでいると
わざわざこんなお上りさんガイドブックに載っているようなところには行きません。

しかしまあ、今回佐久間さんにもお勧めいただいたことですし、
4時間で言って帰ってこれる見学としてはちょうど良かったのです。

ナビの充電が全く無くなっていて(携帯電話式なのに放置していた)
目的地を入れないまま適当に高速を降り、勘だけで車を走らせたら、
どんぴしゃりで博物館前に到着しました。

いわゆるサウスボストンという地域でウォーターフロントです。

二階建てのトロリーバスが走っています。

続いて来たのは真っ黒な「棺桶風」、「ゴースト&墓石ツァー」。

ボストンは全米でも有数の「出る街」なんだそうで、
その「出る」場所をツァーで回ってしまおうという企画。
歴史が長く古いものがたくさん残っている街ならではのイメージですね。

本当のお墓に行ってそこで怖い話を聞き、「出る」と折り紙つきのホテルを訪ね、
夜8時半にホテルで解散というものだそうですが、さすがに朝っぱらにはやらないらしく、
このバスには誰も乗っていませんでした。

気のせいか、運転手の姿もありません((((;゚Д゚))))

HP HOODというのはボストンの乳業会社です。
川沿いにミルク瓶の形のミルクスタンドがあります。

川沿いはデッキを張り出した市民の憩いの場所になっています。

ここはボストン・チルドレンズミュージアム。
子供が楽しく科学で遊べる体験型のミュージアムで、
住んでいた時に息子を連れて何度か遊びに来たものです。

川沿いに繋留してある帆船と国旗をかたどった垂れ幕が見えてきました。
後ろには近代的な高層ビルが林立するフィナンシャルディストリクト。

跳ね橋らしい橋を渡っていくと、な・なんともののけ姫のコダマさんが!
この裏側にももう一体描かれていましたが、これはプロの犯行・・・?

ミュージアムの前にはボストンの歴史的遺跡が紹介されていました。
「バンカーヒル」は軍艦の名前にもなっているのでご存知でしょうか。

これらの遺跡は「フリーダム・トレイル」という道路に描かれている
赤いレンガの線の入った歩道を歩いていくと、ボストンコモンからバンカーヒル記念塔まで
16ヶ所全てを巡ることができるようになっています。

この次ボストンに来る時には歩いてみようかな。

ティーパーティのバックグラウンドを知るために、独立に繋がった出来事が
パネルに展示してあったりします。

1763年宣言とはフレンチ・インディアン戦争/七年戦争の終結に伴い、
領地を獲得したイギリスが1763年10月7日、国王ジョージ3世の名で発したもので、
宣言の目的は、

●イギリスの領土を組織化

●アパラチア山脈の西側での入植や土地の購入を禁止

●イギリス王室が先住民族から購入した土地を独占的に取引する権利

それでアメリカの入植人はイギリスに対し怒りを募らせていったわけです。

博物館には独立戦争時代のコスチュームをつけた女性がウェイトレスをしている
おしゃれなティールームがあるのですが、夜のパーティも行われているようです。

「HUZZAH!」

という感嘆詞は「ハザー!」と発音するのですが、当時の流行りの掛け声で、
「いえー!」とか「ヒッピヒップフレー!」みたいな感じでしょうか。

シェイクスピアの戯曲にも出て来るということなので、古い言い方には違いありません。

この時にはわかりませんでしたが、この後のツァーで、わたしは散々
周りのアメリカ人と一緒に「ハザー!」を言わされることになります。

アメリカでこういう人を見たらそれはジョンかサミュエルか、
何れにしてもアダムスという名前である可能性が高いです。

そういえばボストン(ハーバード)出身の音楽家ジョン・アダムスという人がいますが、
彼らの子孫なのかもしれません。
911のためのレクイエムや、原爆投下後の悩めるオッペンハイマーが主人公、
「ドクター・アトミック」というオペラも書いています。


というわけで、これはサミュエル・アダムス

アメリカではビールの名前にもなっており、「独立の父」であり、
ボストン・ティーパーティの先導者でもあります。

おお、サミュエルの向こうを「昔の人」が歩いていく・・。

うわ〜・・・それらしい・・・。

アメリカ人がこういう格好をしていると、当たり前のようですが、
あまりに皆ナチュラルに似合うので、感心してしまいます。

ああ、本当に昔はこんな人たちがいたんだな、っていうか。

Tシャツに半パン、タンクトップにむき出しの腕や脚の現代の格好より、
この時代の姿のアメリカ人の方がはるかに美しく見える(特に女性)
と思うのはわたしだけでしょうか。

・・・あ、もしかしたら日本人も着物を着た人を見た
外国人に、同じようなことを思われているのかな。

「洋服なんかより着物の方が(特に女性)美しいのに」

って。

アメリカ独立宣言案を提出している有名なシーン。
この絵で脚を組んで座っている人の右側がアダムスだそうです。

アメリカの建築構造物はマジで独立戦争時代のものが
残っていたりするので、この街灯もそうかもしれません。

その時、頭上から女性の叫ぶ声がしました。
あっという間に終わり、見えるところに出ると引き上げるところでしたが、
どうやら我々観客は当時の「ティーパーティ参加者」として扱われるようです。

今から会議を行うので中に入れ、というようなことを言っていたような気がします。

チケットを見せてゲートを通ると、教会の椅子が左右に並べられた部屋に全員が通されました。
見学者は何人か単位のグループに分けられているようです。

入場するときに、鳥の羽を配られました。
独立のシンボルなのかなんなのかわかりませんが、これを
基本的には帽子につけてツァーに参加するように言われます。

ちなみにこの羽、返さずに持って帰ることができました。

先ほどバルコニーで叫んでいた女性が皆に何か配っています。

カードを渡しながら何か説明している模様。

今日は1773年12月16日

この何週間か、恐慌がボストンを吹き荒れた。
今日こそ幾千もの市民が集結し声をあげて暴掠と専制に抵抗する日だ。
目覚めた市民としてあなたはこの会議がもたらす深い結末に気付くだろう。
あなたはあなたの自由を守るために何かをなすつもりがあるか?

で、わたしは「ナサニエル・ブラッドリー」という大工となりました。

偶然ですが、ボストンに住んでいた頃、わたしはよくパスワードに
『NATHANIEL』を使っていました。

どうやら参加者には全員に、ティーパーティに参加し、船から紅茶を放り込んだ、
実際にわかっている「パトリオット」の名前が書かれたカードが渡されるらしいです。

つまり、一つのグループの最大人数は、ティーパーティ参加者の数ってことですね。

まず、ルーシーなんとかと名乗るこの女性が、自分の身の上と
彼女らが置かれた苦しい現状を皆に訴えます。

「子供ば5人いてもうすぐ6人目が生まれるのに、生活が苦しくて・・」

「それもこれもイギリスからの輸入品が関税なしで入ってくるからだ!
イギリスからの輸入品はボイコットするべきだ!」

「ハザー!」

これ以外にも「Hssss」みたいなのとか「ブー」とか、前もって
「仕込み」をされているので、皆張り切って叫び声をあげます。

そこになんとサミュエル・アダムスご本人が登場。
いかにも本物の若いときという感じの人を採用しております。

当時、東インド会社が関税なしででアメリカに茶を輸出することを認める、
「茶法」というのがありましたが、アダムスはそれに反対しており、
イギリスからやって着た紅茶を関税を払わず送り返そうという決議がなされました。

決議は満場一致で「送り返す」に決定。

「ハザー!」

そこに知らせを持って駆け込んでくる先ほどの女性。

「なに?イギリス海軍が紅茶の貨物船の警戒に着いただと?」

集会ではいつしか

「今夜ボストン港をティーポットに!」

という声が昂まってきました。(という設定)

そして、我々は、ボストン港をティーポットにするために、船に乗り込むことになりました。
ただし、このあと船に乗り込んでみたら、肝心のアダムスはいませんでした。

アダムス、煽動するだけして、次のパーティに演説しに行ってしまったようです(笑)

 

 

続く。

 




ナビゲーションブリッジからの眺め〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-08 | 軍艦

フラッグデッキからさらに上に登ると、そこは04レベル。
いわゆるナビゲーションブリッジと言われる艦の「頭脳」に上がってきました。

この部分は、全体が二重の舟形をしていて、艦首に向いた方が船の舳先型です。
ここはその二重の内側部分。
入り口でもらった案内図によると、ここが「パイロットハウス」とあります。 

パイロットハウス、というと艦載機のパイロットの待機室みたいですが、
英語ではこれが操舵室を意味します。

内部は少しずつ少しずつ手を入れていっているらしく、
ペンキが塗りたてのところと、全く放置されているところが混在しています。

この「セーラム」とネームシップの「デモイン」が設計されたのは
第二次世界大戦末期で、設計思想は一にも二にも当初は

「日本の重巡洋艦に打ち勝つこと」

主眼に行われ、特に特攻隊の攻撃を想定していたので、
操舵室の窓が必要最小限にくり抜いてあるあたりにそれが窺えます。
 

メンテナンスはおそらくボランティアのような人たちが行なっているので、
広い艦内のあちらこちらを毎日少しずつ手入れしていったとしても、
一巡してくる頃にはまた手入れが必要になっているような感じ。

海に浮いている鉄の塊である船は、放っておくとこうなってしまうのです。 

ここも何か作業中ではあるらしく、ブルーシートが置かれていましたが、
くしゃくしゃで「ただ置いてあるだけ」という感じ。

舵輪の機械には伝声管が備え付けてあります。

足元にある緑色のものは、ヒーターだと思いますが、例えば護衛艦などでも
同じようなところに同じ感じでヒーターがあります。

DC ステイタスで「ボイラー」「エンジン」とありますが、
この「DC」は・・・・「Direct Cut」とか? 

 

ラジオナビゲーション機器です。

ヘッドセットがコードがもつれたまま放置されています。

速度計。

 

 

パイロットハウスの艦尾よりには、

TACTICAL PLOT(直訳すると戦術室?)

なる部屋があります。
今で言うところのCIC(戦闘指揮所)と考えていいでしょうか。

前にも「マサチューセッツ」の項で描いたことがあるのですが、
CICという概念がが戦闘艦に生まれたのは第二次世界大戦中のことです。

レーダーというものが生まれてきたからこその概念で、戦後は
一層自動化が進んだため、情報を集積する場所が艦橋でなくてもよくなり、
今では CICは通常甲板よりも下階にあるのが普通です。 

「セーラム」は第二次世界大戦の「最後の重巡洋艦」です。

このころは、この下の階にあったフラッグプロットにおいて、
発光信号や手旗信号、原始的な無線機程度で他の艦と通信を行い、
この画面の右端に見えている透明のアクリル板に、 白フェルトペンを使って、
レーダー手が通達する敵艦や敵編隊の位置、進行方向、数といった情報などを
手で書き込むことで情報を集約していました。

戦闘指揮所に詰める乗組員たちが使用したヘルメットが無造作に置かれています。
立てかけられているすのこ状のものは脚台かどこかのふたか・・・。 

航跡自画器だと思います。
ガラスの下に紙があるので何かと思ったら、チェックしたという署名入りのメモでした。 

海図にボードなど、ここで使われてたものがそのまま放置されています。

「サウンディング・インジケーター」は通信システムだと思うのですが、わかりません。 

1958年の3月3日という日付入りで、通信で使う情報が書かれています。
「HELO COMMON」を使う、というのあコールサインでしょうか。 

 

04レベルだけを地図にするとこうなります。
今タクティカルプロットとキャプテンシーキャビンの部分を見たのですが、
その一つ外側の「ナビゲーションブリッジ」の部分を見てみましょう。 

このころは情報の収集と分析などに紙が使われていました。
なので、こういうところにも紙を収納するラックがあったりします。

今では取り払われていてありませんが、昔は艦長用の椅子もあったでしょう。 

ジャイロレピータ、羅針儀があります。
航海長が航海指揮に使用するものですが、艦橋の前壁、
艦の中央になるところに主羅針儀があるのが普通です。

よく見ると機器に黄色い注意書きがあります。

Polychlorlnated Biphenyls、PCBsを含むので廃棄する時には関係各省に連絡の上、

とありますが、これは日本語だとポリ塩化ビフェニルのことです。

熱に対して安定し電気絶縁性が高く、耐薬品性に優れているため、
変圧器やコンデンサといった電気機器の絶縁油、可塑剤、塗料、
ノンカーボン紙の溶剤など、非常に幅広い分野に用いられたのですが、
人体に対して毒性を持ち、付着すると発癌性となることがわかっています。

わが国では「カネミ油症事件」後には製造・輸入が禁じられました。


USS「セーラム」の速度に関するスペックが書かれています。

例えば、13ノットから17ノットまでが「スターボード」で
回転数(RPM、レボリューションズ・パー・ミニット)は
115から122、と行ったようなことが表になっています。

ちなみに「フル」は18−22ノット、RPMは157−203、だそうです。 

 

見学用に作られたらしい、外を見るための台があったので、わたしも登ってみました。

ふおおおおお〜! これは絶景じゃー。

5インチ砲の向こうに主砲が二段重なっているのが見え、艦首までが一望できます。

デッキ外側に出てきました。
ガラス窓の部分は、特に航空攻撃があった時に銃撃を受けないように
深くて分厚い庇に防護されているのがわかります。

前にも言いましたが、「セーラム」が完成したのは戦後であり、
このような対空戦闘も全く過去のものになった時に就役していたのです。

 

 

続く。





12基目の3インチ対空砲〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-07 | 軍艦

マサチューセッツ州クインシーのフォアリバーで公開されている
展示艦、重巡「セーラム」についてお話ししています。

艦尾側にある入り口から甲板に上がり、見学をしながら艦首まできて、
そのまま一階上の主砲塔内部を見学し終わりました。

艦橋を守るため、3連装の主砲が2基、その周りを5インチ砲が3基、
対空砲として設置されています。

 そしてこれも対空砲として

Mk 33 3インチ砲

が、同じレベルにありました。(冒頭写真)
防空システムとして、艦首に1基装備している3インチ砲ですが、
5インチ砲の近くにもあり、設計が始まった当初、アメリカ海軍が
どれだけ防空、つまり日本の特攻機を恐れていたのかって気がします。

もちろんこの後、対空戦闘に対する考えどころか、海戦思想さえ変わり、
これらの考え方はすぐに時代からは取り残されていくわけですが。

「セーラム」の砲塔とその下のバーベットがよくわかる図。
3インチの対空砲は、艦橋の舷側に2基ずつあり、その一つがこれです。
第2砲塔のレベルから艦橋内に入って行きました。

レタリングの凝った字体で書かれた

Chief Of Staff

の看板。
スタッフのチーフ、などと直訳するとあまり偉そうに思えませんが、
例えば日本では海幕長のことは

Chief of Staff, Maritime Self Defense Force

ですから、アメリカでもきっと偉い人専用室なんだと思います。
例えば陸軍では「参謀総長」、空軍でも「参謀総長」をこう称し、
海軍の場合はなぜか参謀総長とは言わず、

海軍作戦部長(Chief of Naval Operations)

というようですが、何れにしてもそのクラスの人の部屋だということです。

艦内案内図にはここのことを「士官室」とだけ記されています。

廊下は黄色い誘導線の入ったグレー、壁は薄い緑色にペイントされています。

レイディオルーム5。無線室、別名シャックですが、戸は閉ざされていました。
コールサインらしきものが書かれているので、もしかしたら
未だにアマチュア無線などで生きているのかもしれません。 

ここまでがメインデッキを”0”とした場合の”01”レベルです。

 

階段があったので昇ってきました。
軍艦を見学する場合、自分でどう動いたか記憶しておかないと、
たちまちあとでどこの写真であったかがわからなくなります。

というわけで、ここからが(02を飛ばして)”03”レベルです。

オペレーションズ・オフィサーの部屋。

オペレーションズ・スペシャリスト、 OSというのは日本語でいうと
電測員で、任務は

航海・作戦行動に必要となる情報の収集、作図、整理、評価をし
各部署に配布することを目的とする(wiki)

ことで、現代の護衛艦では CICが勤務場所となります。

日本では電測長は1等海曹あるいは海曹長が勤めますが、
アメリカ海軍では士官がこれを行うようです。

ところでこれを検索していると検索予測で

operations officer navy salary

というのが出てきました。
いくらお給料がもらえるのか、みんな検索しているということね。
で、ちょっとわたしも調べてみたのですが、ボーナスなど手当を入れると

平均108,685ドル(約1184万円)

$66,872-$136,876(728 万円〜1491万円)

ですって。
自衛隊の相場というものをわたしは全く知らないんですが、
例えば公開されているお給料の目安として、陸海空将で

陸・海・空将俸給月額 706.000円〜1,175,000円

ってことなので、ボーナスを加算したこの数字と比べても随分高給取りだという印象です。
っていうか自衛隊、一国の軍の大将や中将の給料がこれって、安すぎない?

と思ったら、米海軍の提督の月収平均は、$ 15,583、約170 万円
トップの差はあまりないけど米海軍は平均値が高いという印象です。
 

1,175,000

デッキに出られるのでのぞいてみると、3インチ砲のマウントでした。
前にも言いましたが、この2門にはそれぞれ射撃手が一人ずつ、
装填が一人ずつ、弾薬運搬が一人ずつ、マウント全体でリーダーが一人。
合計7人で操作を行いました。

回り込んで同じ砲を前方から撮ってみました。

「デモイン」級のスペックによると、3インチ砲は全部で24門あるとのこと。
ということはマウントは12基あるということになります。 

どこにあるか、グーグルマップの写真に番号を振ってみました。
今見ているのは2番のマウントで、冒頭写真は3番ということになります。

艦橋周りに8基、艦首に1基、艦尾に2基。
あの、どこを探しても12基目が見つからないんですが・・・。

まさかテントの下ってことでもないだろうし・・・。 

マウントの横には、建造当時からあるらしい注意書きがありました。

ここがロッカー兼”clipping room”とあります。
クリップというのは日本語で「挿弾子」といい、
銃火器に複数個の弾薬を装填する際に用いる器具のことで
ボフォース40ミリ機関砲でも使われています。

ここを開けると、おそらく階下からクリップを補充できたのでしょう。

注意書きの中には、

「もし火薬をカートリッジからこぼしたら、”静かに”と命令する。
火薬がばらけて装填できない場合には不燃性のコンテナーに入れるか、
直ちに水に浸すこと」

などとあります。
稼働中は近くに水を汲んだバケツかなんかがおいてあるものなんですかね。

フラッグプロットに出てきました。
信号器のラックは完全に艦体に固定されています。

 

護衛艦の時鐘は大抵信号旗の近くにあるというイメージですが、
「セーラム」の時鐘も信号旗ラックの上部にありました。

この鐘には「U.S.N」(アメリカ海軍のこと)としか書かれていません。 

艦首側を向いた艦橋の一室に出てきました。
機材が一切取り払われ、ただのスペースです。

ここを「フラッグブリッジ」と言います。

そこから右舷側をのぞいてみました。
探照灯はGE製です。 

発光信号をだす、ここを「シグナルブリッジ」といいます。

そのデッキの後方は、扉のついた一室に繋がっていました。
ここを入っていきます。 

タクティカルプロット。

CICが戦後甲板下に設置されるようになる前はここが指揮所でした。

マニューバリングボード、日本語では「運動盤」と言います。
全く同じものが現在も海上自衛隊では使われており、
占位運動訓練の時に三角定規やらディバイダー、コンパスで計算を行います。

艦がある運動をするために必要な針路や速力、
相対風を艦首から受ける角度に必要な艦の針路・速力、
などといったことが算出できるそうで、航海科士官の必須知識です。

左側、透明アクリルの運動盤になにやら計算が書かれていますが、
攻撃の対象?らしきところに

「Tally Ho」

とあります。 
イギリス海軍の潜水艦に「タリホー」というのがいましたが(笑)
たぶんそれではなく、本来の意味、狐狩りの時にハンターが使う掛け声のことでしょう。
この計算なら結果は「タリホー!」状態だよ、と。(多分・・・違うかも) 

右側には艦隊の艦船とその艦番号が記されています。

VAQA ネプチューン DD679 (マクネア)

VAQB ギガ・ロー DD 879(リアリー)

VAQC エンANドラン DD866(コーン)

などとあり、コールサインであろうかと思われます。
かっこの中が実際の艦名ですが、「ネプチューン」とかはニックネームでしょうか。 

「パパさん」というのがある・・・・。

「ベイビーサン」という終戦後の日本の「パンパン」を描いた漫画を思い出しました。


サラトガ、セーラム、リアリー、コーン・・・・。

ただ艦名だけならわたしにもいくつか知っているものが・・。


AN/SPA-8Aという型番のレーダー。

以前戦艦「マサチューセッツ」について書いたとき、

艦隊の指揮を執る艦船を「フラッグシップ」といいます。
「admiral」とそのスタッフが坐乗しているということになり、
この一団を” THE FLAG" とアメリカ海軍では呼びます

と説明したことがあるのですが、「偉い人ルーム」が近くにあること、
そして「セーラム」はなんども旗艦となっていることを考えると、ここは
いわゆる「フラッグス」が勤務する

「フラッグ・シーキャビン」

いう指揮所の一つであると考えられます。 

フラッグプロットは、アドミラルがが指揮をとるのに必要な、レーダー、
無線、甲板の状況などすべての情報が集まるようになっています。

ちなみに、旗艦として司令官が乗ってくるときでも、艦の指揮を執るのは
その艦長であり、これだけは不可侵の権威となっています。


当然ながらその逆はあり得ないわけですが、かつてあのハルゼー提督が
マケイン艦長の艦に座乗し、台風コースに一度ならず二度までも突っ込んでしまったとき、
怒りのハルゼーはマケインに

「責任を取ってこの台風から抜け出せ!」

なんていって事態の回避を要求したということがありました。
艦隊司令が艦長に艦隊指揮を丸投げしたということ事態、
よく考えると結構トンデモないことだったんじゃないかと思うんですが、
結果この時も台風被害で艦隊は多大な損害を受けたのですから、
この時ハルゼーが降格にならなかったのが不思議なくらいです。
 

 

 

部屋の隅には執務用のデスクが。

さて、この上の階に操舵艦橋がありますので、行ってみることにします。

 

 

続く。



デモイン三姉妹の運命〜重巡「セーラム」8インチ砲塔

2017-07-05 | 軍艦

デモイン」級重巡の2番艦である USS「セーラム」についてお話ししています。
「デモイン」級の最初の2隻は戦時中に企画が始まっていましたが、
建造中に終戦を迎え、2隻は海戦の思想の変化の波に色々と設計変更を加えられました。

3番艦の「ニューポートニューズ」 CA-148は起工が1945年11月と
完全に戦後体制の中で生まれた最後の重巡洋艦です。

「セーラム」はアメリカ海軍で初めて主砲の自動装填装置が加えられた艦ですが、
「ニューポートニューズ」は

アメリカ海軍で最初に空調装置が搭載された艦

ということになっています。
これは直接戦闘とは関係ありませんが、大きな一歩だったんではないでしょうか。
逆にいうと、それまでの艦って、空調設備なかったんですね。
まだしも外に出れば風に当たることのできる部署はともかく、
エンジンの音轟々と鳴り響きボイラーがが発する熱のこもった艦底にも
空調設備がなかった、というのはもう考えただけでぞっとしますね。

1949年に就役したあとは、1962年のキューバ危機でキューバ北東に待機し、
ソ連のミサイルがキューバから撤去されたのを確認する仕事をしています。 

なぜ「ニューポート・ニューズ」について書いているかというと、
「セーラム」艦上でこのような銘板を発見したからです。

1972年10月1日、ベトナム戦争中に海岸地域の掃討作戦を行ったのですが、
彼女が非武装地帯で活動中、8インチ砲の2番砲塔で連続爆発が起こりました。

補助フューズに欠陥があり、発射時に砲弾が爆発したのです。

wikiには(日本語のページにはこのことは言及されていない)
この爆発で19名が死亡し、10名が負傷した、とありますが、
ここに書かれている犠牲者の数は20名。
3基砲がある砲塔内には30人いたのではないか、と考えると
wikiの数字は間違いであると考えるのが良さそうです。 

重傷者がその後亡くなり、その一人を勘定に入れず記録が残ったのでしょうか。
 

この爆発では艦底近くのバレル本体が前方に吹き飛ばされるほどの被害を受けたので、
破損したマウントを、すでに予備艦になっていた「デモイン」(CA-134)
またはこの「セーラム」のいずれかのそれと交換することも考慮されたのですが、
それには費用がかかりすぎるということで、結局損傷は修復されないまま、
「ニューポート・ニューズ」はターレットを閉鎖して帰国することになりました。

ということは、最後まで第二砲塔なしで稼働していたってことなんでしょうか。

さて、艦尾側の甲板から前に向かって全部見てきたので、
ここで階段を一段だけ上がってみることにしました。

なんと!
主砲砲塔の中に入ることができるように、木のデッキがあります。
もちろんわたしにとっても中に入るのは初めての経験。

ちなみに、今から入るのはこの上の砲塔の方ですので念のため。
8インチというのは20.3cmのことです。

 

デッキは両側に段があり、見学者がスムーズに流れるようになっています。

それでは中に入ってみます。
これが砲塔の中だなんてこの写真から信じられますか?
テーブルがあり椅子があり、居住スペースとしても十分。

何よりこの明るさは一体・・・・?

外から見るとこんなことになっているとは全く想像できません。
パネルや計器のあるこちら側と、実際に砲弾が装填される装置は
透明のアクリルで仕切られていて、こちらから操作するようになっています。

自動装填装置を取り入れたというのはこういうことなんですね。
もちろん、砲塔の中にもエアコンが効いていて、
夏場に皆が裸で作業をしなければならないということはなくなりました。

 

砲が一度稼働し始めたら、この部屋?全体が目標に向かって回転し、
まるでディズニーランドのアトラクションのようになります。 

アクリル板はもしかしたら一般公開に当たって上から人が落ちないように
設置されたものかもしれません。
一応下に落っこちないようにもともと柵があるみたいですけどね。


さて、これが装填装置と砲の後ろ側です。
発射体を乗せるトレイが雨どいのように発射口に繋がっています。
トレイの右側にあるのが装填のための機械でしょうか。

部分を拡大してみました。
左にあるのが「パウダー(火薬)トレイ」

自動装填装置になって初めて、軍艦で火薬を「袋」ではなくケースに入れ
それを扱うということになりました。

これが右側に倒れ、中身だけが装填されると(どうなるのかわからず)
右側の銅色のトレイに火薬のケースだけがカラで残されるというわけです。

口の上の丸いのが(おそらく) Breech Block。 
日本語では「銃底」あるいは「ボルト」と称している部分で、
発射薬が燃焼する間、チャンバー(薬室)の後部をブロックする
銃器類の機構部品で一般のことです。

ところで、この写真をよく見ると、ブリーチブロックの左に
弾薬を押して突っ込むための棒が見えますね。

主砲は完全自動ってことになってたと思ったけど・・・。

電源パネルも文字通り「パネル」で薄い板状です。

「プロジェクタイル・ホイスト・コントロール」
「パウダー・ホイスト・コントロール」 

「プロジェクタイル・クレイドル・コントロール」
「パウダー・クレイドル・コントロール」

 など、ここで装填の全ての電源を扱っていたことがわかります。

1から25まで番号の打たれたダイヤルが並ぶパネル。

一つ一つのダイヤルは1番砲かあるいは2番砲のトレイなどを細々と操作するもの。
今のように一つのパネルで全てをやってしまえるシステムがなかったってことですね。 

二つ穴の空いたボードは何かの蓋のような気がしますがわかりません。
左の木材は、砲身が詰まった時に使います(たぶん・・・違うかも) 

艦の状況がわかるコンピュータ。

アナログコンピュータはフォード製でした。


弾薬を装填しているところ。
「セーラム」は自動装填方式が取り入れる前で手動で行なっています。

射撃が終わった後の薬莢はネットに溜まっていきます。
全てが終わってから甲板にガラガラガラッと落として後始末していました。

とにかくものすごい音がしたでしょうね。 

こちら使用後、甲板に薬莢が転がりまくる甲板の光景。
偶然直立してしまった薬莢あり(右上) 

安全のための装置がここに集まっている模様。
異常が起きた時のアラームベル、電話、異常を知らせるランプ、
そして天井近くの赤いレバーはスプリンクラー。

ところで今ふと気づいたのですが、「ニューポート・ニューズ」で爆発し
吹っ飛んだ8インチ砲の「第2砲塔」って、まさにここのことだったんじゃあ・・・。

まず、稼働中の「ニューポート・ニューズ」の2番砲。
まさに今見ているのと同じ場所の砲です。

これはベトナム戦争での一コマで、悲劇の起きる直前です。
白黒写真ですが、撮影の時光が写り込んで炎(みたいなもの)が甲板に見えています。 

事故が起こった後の砲塔。
これでは中にいた人ひとたまりもなかったでしょう。
むしろ何人か怪我で済んだという方を奇跡というべきかもしれません。

現在階段とデッキがつけられて中に入ることができるようになっていますが、
乗組員たちはこれにも確認できるハシゴをよじ登って砲塔に上がったようです。 

 

砲塔下部の「バレル」部分。
この記事にも死亡者が19名とあるので、wikiはこれを見たのだと思われます。

「爆発によってバレルそのものは前方に吹き飛んだ」

ということだったのですが、それがこの写真で確認できます。
向こう側に転がっているのは装填する前の発射体であろうと思われます。 

文中には

「爆発によってフットボール二つ分の厚みのある鉄が吹き飛んだ」

とありますね。 

別の装填装置。
これが当然ですが三つ並んでいるわけです。

外に出て見ると、同じ階の艦橋寄りに、対空砲である

Mk.12 38口径127mm砲

がありました。

木材部分の劣化に比べて塗装がやり直してあるせいか、妙に綺麗に見えます。

航空写真で甲板を見ると、主砲二つの後ろに1基、両側に2基。
砲の位置関係はこうなっております。
今の軍艦はこの三つの役目をCIWS1基がやってしまいます。

俯瞰で見ると左舷側に配置されている5インチ砲がこちら。

この中身は確か「マサチューセッツ」で見たことがあります。
1934年から使用が始まり、駆逐艦級の主砲、大型艦の対空砲として
スタンダードになっているので、いわばどこでも見ることができます。 

 

就役してすぐにその名前の由来であるマサチューセッツセーラムに
「表敬訪問」をした「セーラム」は、訓練と調整を済ませた後、
最初の任務として地中海艦隊の旗艦を勤めました。

この時に前任だった「ニューポート・ニューズ」と交代し、
後任を1番艦の「デモイン」に譲っています。

また、その後の地中海クルーズでも前任は「ニューポート・ニューズ」でした。

同型艦であるため、この三姉妹はこうやって同じ配置を交代しあうことが
よくあったということなのですが、末っ子の「ニューポート・ニューズ」が
戦争に参戦し、事故とはいえ「戦死者」まで出しているのに比べ、
「デモイン」と「セーラム」は演習と支援だけで、ほぼ一度も
戦闘を経験しないまま、平和な一生を終えています。

姉二人は日本の重巡洋艦を打倒することを目的に設計されたのに、
日本との戦争が終わってから生まれた末娘は、
姉たちが全く予期しなかった敵と戦って損害を受けたのです。

これを皮肉と見るか、「常に戦争をしてきた国」に生まれた軍艦として
姉たちが単に幸運だったということなのか・・・。

 

続く。

 

 

 

 

 


 


「キルロイはここにいた」〜重巡洋艦「セーラム」

2017-07-04 | 軍艦

重巡洋艦「セーラム」の後甲板には、一つ目を引く構造物があります。

艦載航空機を釣り上げるクレーンです。
これがまた大きくて・・・戦艦「マサチューセッツ」のデリックより大きいかも。

 

第二次世界大戦当時の海戦思想における重巡には、
敵水雷部隊への雷撃や艦隊の防護、長距離哨戒や襲撃、特に
高速空母任務部隊の護衛、敵地上部隊への砲撃、水陸両用作戦の火力支援など、
思いつく限りの様々な任務が割り当てられていました。

日本海軍がワシントン軍縮条約の後に充実させた重巡洋艦群に、
(妙高とかね)アメリカ海軍は結構痛い目に合わされたということもあって、

「打倒!帝国海軍の巡洋艦!」

を目標に、特に重砲を積んだ結果が、この「デモイン」級ということになります。 

米軍の重巡が日本軍に沈められた少なくない原因が、搭載している飛行機のための
航空燃料に引火したことだったというのを受けて、「デモイン」級はそれを避けるため、
航空機の格納庫そのものをわざわざ後部に持ってきたということです。

それだけに日本との戦闘が終戦によって建造中に終わってしまったのは、
特ににっくき日本の重巡に向かって大重量の(152キロ)砲弾を
三連装主砲でぶち込んだる!といきごんでいた設計者は、
特に拍子抜けしたというかある意味がっかりしたのではなかったでしょうか。 

当初航空機を搭載するつもりだったのでカタパルトも2つつく予定でしたが、
「セーラム」完成の頃にはシコルスキーの艦上ヘリが水上機の代わりに登場したため、
カタパルトの代わりにこのようなプレートが設置されることになりました。

おそらく米海軍初のヘリ搭載軍艦ということになるかと思うのですが、
それにしても謎の装備です。
このステージのようなプレートの上にヘリが降着する・・はず。
それにしては目印もないし、外側下がりになってるし、
当時のヘリ(HO3S) は果たして問題なく着艦できたんでしょうか。

プレートには台ごと平行移動させるための装置が確認できますが、
もしかしたらこれ、ここをスライドさせることしかできず、
格納庫に入れる時には

直接クレーンでヘリを下に降ろした 

とかだったんじゃあ・・・・

ちなみに、このプレート下の一帯は塞がれていて見学はできなくなっていました。
どなたかこの仕組みご存知の方おられますか。 

「セーラム」は重巡洋艦としてもかなり艦体が大きく仕上がっていて、
全長218m、満載排水量約21,000トン。

「青葉」型重巡が185.17m、基準排水量は9000トン、
「妙高」型でも203.76m、基準排水量 14,743トン、

ということを考えると、同じ大きさの主砲を積んでいても桁違いです。
それもこれも、新型のこの三連装砲を搭載したことと、防御力を上げるため
重量を増した設計を行ったからだと思われます。

例えば主砲塔の装甲は最大で203.2mm。バーベットは160mmというもので、
これも明らかに日本の重巡からの攻撃に耐えるための仕様でした。
これも比較しておくと、重巡「高雄型」の主砲塔の装甲は25mm
文字通り桁違いの防御を施していたことになり、万が一ガチで海戦を行なったら
日本側が防御しきれず撃ち負けていたのはほぼ確実かと思われます。 


この写真にも見えますが、甲板には昔ハッチだった部分に出入り口が設けられています。

どれどれ、ということで一応覗き込んでみます。
こんなですが、一応階下に行くこともできます。

ただし、わたしはとりあえず甲板の見学が終わるまで下には降りない、
と堅く決意していたので、写真だけ撮って艦首側に移動を始めました。

マストに登って行くためにはここを上がって行きます。

 

まずは左舷から、上部構造物の間を進んでいきます。
雨の後だと思うのですが、水はけが悪く、甲板のあちらこちらに
このような水たまりができてしまっています。

左舷側に吊られた短艇。
手前の機械はロープの巻き取り機、ウィンチかなんかでしょうか。

 

これ大丈夫か?って感じの荒れ放題。
何もしなければ海に浮いている鉄の塊である船はこうなってしまうんですね。

さすがに廃墟好きを自認するわたしもこの惨状には胸が痛みます。
これは4年後スクラップコースかなあ・・・。

 

全てがサビでえらいことに・・・・。

右舷側に立って上を見上げたところ。
ドアの黄色い『Z』は 

戦闘中または保安上必要とする場合、閉鎖する

というマークです。

右舷に立って後方をみたところ。

舷側にそって38口径長5インチ対空砲があります。
これは連装両用砲で型番はMk.13
全部で6基装備していました。

艦首部分には

50口径3インチ連装両用砲Mk.33

を搭載しています。
これはアメリカ軍が恐れた「カミカゼ」攻撃に特化して開発したものです。

発射速度、追随性能に大変優れていたとされ、「セーラム」に搭載された
2連装の他に単装のものも開発されています。

対空砲としてはボフォース40ミリやエリコン20ミリ機関砲が
第二次世界大戦中は有名ですが、三重の対空火砲網をさらに
潜り抜けて突入してくる特攻機に、まず兵士たちの心が受けたダメージは
計り知れないものがあったといわれています。

そこで、アメリカ海軍ではまず発射速度が早く、半自動砲である
当機種が開発されたのです。

この運用には全部で11名の砲員を必要とします。
全体を統括する砲台長が1名、操縦手が各1名で2名。
装填と給弾には砲一つにつき2名ずつが当たりました。

この写真で後方に出ているスロットが回転式弾倉で、
給弾手は弾薬庫や揚弾つつから弾薬をだし、ここに装填しました。

対空砲の射手になったつもりで照準をのぞいてみました(笑)
銃口が艦首のガズデン旗を狙っているようですが、これはたまたまです。

最近特にNHKとか旧民主党界隈では

「日本の旗ならどんな扱いをしても別に構わない」

という独自のプロトコルがあるみたいですけど(嫌味)
当ブログは国際プロトコルに則って、他国自国問わず旗には敬意を払っておりますので、
決してわざとこうなるように写したというわけではありません。(言い訳っぽい?)

艦首部分と艦首木の周りには足を踏み入れられないようになっていました。
やはり錨鎖などが危険だからでしょうか。 

 

さて、前回ドイツの潜航艇「ゼーフント」について調べていて知ったことが一つ。
この重巡「セーラム」とこの周辺一帯は、

アメリカ海軍造船博物館

という「セーラム」艦内の展示を含めた施設であり、
その施設の設備として、昔はこのミニゴルフ場が目玉になっていたらしいことです。

週末しか公開していない今ではゴルフ場も使われておらずこんなことになっていますが、
昔はちゃんと18ホールあり、


「キルロイのミニゴルフ」

という名前までついているのだそうです。
「キルロイ」とは、ジェームス・キルロイというここフォーリバーの造船業者。
彼に敬意を評してこの名前がつけられたのだそうですが、
キルロイといえば
英語圏では皆が想像するのが

「KILROY WAS HERE」(キルロイ参上)

という落書きです。

日本人の我々にはアメリカの、第二次世界大戦中のミームなど知るよしもありませんが、
あちらこちらで当時はこの落書きが見られたものだそうです。

発祥は、アメリカ海軍の軍人たち。(他にも起源説はいくつかありますが一応)

彼らは戦地でも行く先々でこの絵やあるいは字を落書しました。
ドイツでは捕虜の装備の中から頻繁にこれが見つかったため、

「キルロイは連合国のスパイである(しかも超腕利き)」

という報告がヒトラーにまで上がっていたというから笑ってしまいます。


で、そのキルロイ氏なのですが、彼はここフォーリバーの造船所の検査官で、
検査したリベットに「検査済み」の印をチョークでつけるのが仕事でした。
(もちろん仕事はそれだけではないと思いますが、一応) 

当時、造船所の工員には据付けたリベットの数に比例して賃金が支払われたため、
印を消して二度カウントさせるという画策が横行し、キルロイ検査官は対抗上
消しにくい黄色のクレヨンを用いてこの文言を船体のあちこちに記しました。

「KILROY WAS HERE」

この頃、船は細かな箇所までは塗装されず軍に納品されていたため、
通常は封鎖された区域などに整備のため立ち入った海軍軍人たちは、
殴り書きされた謎の署名「KIlroy 」を頻繁に見つけることになりました。

いつしか軍の中で「キルロイ・ワズ・ヒア」は語り継がれて伝説となり、
彼らは進駐地や作戦などで到達した場所にこのフレーズを残していったのでした。
そしてそれを見た軍人もまた別のところに・・・。 

え?なぜそんな落書きを残すのかって?

現在街で落書きしている人にでもその理由を聞いてみればいいんじゃないでしょうか(笑)

 

つまり、ここクインシーのフォーリバーは、当時のアメリカ人なら
誰でも知っていた「KILROY WAS HERE」の発祥の地なのです!

ってまあ、我々にはそれがどうしたとしか言いようがありませんが。


続く。


 

 

三連装主砲とUボートXXVIIB型「ゼーフント」〜重巡「セーラム」博物館

2017-07-03 | 軍艦

さて、マサチューセッツはクインシーに展示されている重巡洋艦「セーラム」。
甲板にいよいよ上がって来ました。
ところで、「セーラム」はアメリカで現存する唯一の重巡洋艦なのだそうです。

アメリカは1930年から1948年にかけて47隻の重巡を建造しましたが、
「セーラム」はその最後の「デ・モイン」級の2番艦。
3番艦である「最後の重巡」、「ニューポートニューズ」 は退役後スクラップとなり、
姉妹艦だった「セーラム」にその一部が保存されているそうです。

シップネームだった一番艦の「デモイン」も、ウィスコンシン州のミルウォーキーで
博物艦として残すようにずいぶん関係者は頑張ったようですが、
結局保存には失敗して2007年にスクラップになったそうです。

 

重巡と軽巡の違いというのはいずれも10,000トン以下巡洋艦 で、

重巡ー6.1インチを超え8インチ以下の艦砲を搭載

軽巡ー砲口径6.1インチ(155mm)以下の艦砲を搭載

という違いであるということは前にも説明しました。
つまり、艦体の大きさで重巡と軽巡を見分けることはできないのです。


巡洋艦というカテゴリはもともとワシントン軍縮条約で定義されたものです。

このカテゴリの軍艦は条約では「補助艦」扱いだったため、保有隻数に制限がなく
帝国海軍はそれならばと特に重巡の建造に力を注ぎました。

その結果やたら充実しまくった日本の戦力に脅威を感じた米英が、
これを抑えるために
今度はロンドン軍縮条約で重巡と軽巡のカテゴリ分けをし、
これらの保有隻数に制限をかけてきたため、日本がブチ切れたのはご存知の通り。

 

しかし第二次世界大戦後、新しい武器艦対艦ミサイルが出現すると、
艦船に大口径砲を搭載することの意義が薄れてしまい、
巡洋艦における軽巡と重巡の区別も自然に消滅します。


というわけで、史上最後の重巡洋艦は、1949年に就役した
「デモイン」型3番艦「ニューポート・ニューズ」(CA-148)であり、
同型の2番艦である「セーラム」は現存する最後の重巡ということになるのです。

重巡洋艦の甲板に登るのはもちろん初めてですが、
こんなに手入れの悪い、
ボロボロの軍艦の甲板に上がるのも初めてです。
最近、「セーラム」はその存在の生き残りを模索する手段として

「幽霊艦として肝試しツァーを企画し人を集める」 

というとほほプランを打ち出していますが、まあこんな感じですので
ゴーストツァーの舞台装置としては申し分ないといえましょう。 

「セーラム」は前回にもお話しした通り、契約によって
2021年まではここで展示されることが決まっていますが、
契約が更新されなければ、その時はついにスクラップにされることになります。

こんな状態で保存する気があるのか、他国の軍艦の事ながら心配です。

左上の「ワールドウォー」と見える「セーラム」のプラーク(銘板)について。
実は「セーラム」という名前は2代目で、1代目は
第一次世界大戦時にあった軽巡洋艦でした。(CL-3)

1代目「セーラム」もここクインシーの生まれで、
こちらの「セーラム」は魔女の町「セーラム」から取られています。

ところで、潜水艦にやたら最近ご縁のあるわたしとしては、
艦内に入るスロープから見えていたミニゴルフコーナーの
潜水艇を
甲板の上に上がって真っ先に見に行ってみました。

説明がありません。

英語のサイトをキーワードで調べたところ(インターネットって便利)、
これはなんとドイツ海軍の特殊潜航艇、

 UボートXXVIIB型 「ゼーフント」 

であったことがわかりました。
日本語でUボートXXV IIB型、と検索すると、wikiのページにこの写真が出て来ます。

wiki

何年くらい昔のことかはわかりませんが、ミニゴルフ場がまだ綺麗で
現在の柵の向こう側で稼働していた頃、「ゼーフント」は元のままこうやって
ナチスドイツ海軍の十字をつけたまま、展示されていたことがわかります。

その後、何を思ったかこの上からマークも075の艦体番号も塗りつぶし、
真っ黒にしてしまったのが、さらに経年劣化でこうなってしまったのです。
そもそも腐食を防ぐために塗装を施したつもりが、適当にやったため、
さらにその塗装も意味をなさず、現在進行形で劣化していっているという・・・。 

何をするやら、アメリカ人。

 

「ゼーフント」は「seehunt」であり、英語だと「シードッグ」すなわちアザラシ。
終戦間際に特殊潜航艇で敵を攻撃するというのは、なぜか結果的に敗戦した日独で行われ、
日本の場合はそれが「回天」による「特攻作戦」となっていったわけですが、
ドイツの場合は
純粋に小型艇による通商破壊作戦を意味していました。

ドイツ海軍は戦争終結間際の数ヶ月間この兵器を運用し、9隻の商船を沈め、
さらに3隻を損傷させたと言いますから、一定の効果はあったことになります。

小型艇の生産は本来のUボートの生産を低下させるのでデーニッツはいい顔をしなかったようですが、
結局1944年から終戦まで(1945年の4月ですね)の間に建造された
このタイプの小型艇は全部で285艇にも上りました。

そのうち喪失したのは35隻ですが、そのほとんどは悪天候が原因だったそうです。 

「ゼーフント」は日本の特殊潜航艇と同じ二人乗り。
この写真でも確認できる潜望鏡は艇長用で、10mの高さに伸ばすことができ、
すっかり曇ってしまっていますが、浮上前に航空機を警戒して上空を偵察するための
透明のドームが取り付けられました。

これらは水深45mまでの水圧に耐える設計となっていました。 

セイルの後方に見えるのは磁気コンパス。
磁気コンパスとドームの間には空気吸入マストがあるはずですが、
穴だけが見えていてマストの存在はありません。 

この「U-5075」の「ゼーフント」は1945年1月13日、キールで建造されました。

 

日本の特殊潜航艇は艦首に魚雷発射管を持っていましたが、こちらは
艦の横に抱え込むように魚雷を設置しました。
ここには蓄電池式の電気魚雷G7e魚雷を搭載していました。

ドイツの敗戦が明らかになった後、ある「ゼーフント」はここに食料を搭載し、
孤立した地域にそれを届けるという役目を果たしていますが、この時物資は

「バター・トルピード」

と呼ばれたそうです。
バタートルピード。
なんか命中したらふにゃーっと溶けそうなイメージですね。 
魚雷型のバターケーキにこの名前をつけて売るってのはどうだろう(提案) 


「ゼーフント」には「U-5501」から「U-6442」の範囲で
ナンバーがつけられたと言いますが、この艇体にあった「075」は
「U- 5075」を意味するそうです。
「5501」から始まったのになぜ「5075」があるのかはわかりませんでした。

もう一つ意味がわからなかったのが、wikiの

”現在もこの船を用いてアマチュア無線のイベントが開かれ、
その時には識別信号「WW2MAN」が用いられる”

という部分です。
「この船」って、この・・・小型潜航艇のことですか?
「用いて」って、中に入るの?
アマチュア無線の装置が中にあるっていうんですか?

どうしてもわからなかったので、どなたか解明できる方、
アマチュア無線に詳しい方、何か教えていただけると幸いです。

さて、それではお待ちかね、甲板を回っていこうと思います。
「セーラム」の主砲は 

55口径203mm3連装砲 Mk.16

でしたが、これは重巡の搭載できる制限による最大の大きさのものです。

日本ではこのギリギリの大きさの砲を(通称三隈砲のことか?)
「仮称50口径三号20cm砲」
と防諜のために微妙にボカして呼んでいたいたようですが、
3ミリ違ったからといってそれがなんやっちゅうねんという気もします。

重巡洋艦「デモイン」級の前の「ウィチタ」級が搭載していたのは
300トンのトリプルターレットでした。
この「デモイン」級からは450トンの
トリプルターレットになりましたが、
これは戦争終結に向けて思いっきり重砲を積みました!ってことなんだと思います。

「デモイン」の1番艦と2番艦は
とりあえずまだ終戦前に起工しています。

つまり、アメリカ最後の巡洋艦3隻だけがこのタイプを搭載することになったわけで、
ということは、この主砲が現存するのも世界で唯一ここだけということになります。

正直な感想を言わせてもらうと、砲身の根元の黒いカバーがかっこ悪いですが、
いかにもパワーがありそうです。
 

もう一つ重要なことは、この「デモイン」級には史上初の
砲弾自動装填装置が搭載されたことです。

それまで人力かあるいは人が機械を操作して行われていた装填が
完全自動になった最初の軍艦で、それまでの袋詰めの装薬に代えて
ケースに入った装薬が初めて使用されることになったのです。

ただし、もうこのころはミサイルが開発され、艦同士の艦砲の撃ち合いなどというのは
前時代的な遺物の戦法となっていたことはご承知の通り。

後甲板の主砲のところに来てみました。

三連装砲は全部で三基搭載されています。
こちらは二段重ねで高低をつけて設置されています。

こういう主砲の装備の仕方は戦艦と同じですね。 

砲口の蓋には星のマークがあしらわれています。
現在の軍艦が甲板に積んでいるものとこれを比べると、
特にこの三連装の艦砲の仰々しさが何か悲しくすら思えてくるのはなぜでしょう。

「大鑑巨砲主義の亡霊」という言葉すら思わず脳裏をよぎります。 




続く。

 

 


ボストン到着

2017-07-01 | アメリカ

 

今年もアメリカの東海岸に来ております。
本来より大幅に時期を遅らせての渡米となりましたが、
この準備のために雑用を片付けて、到着してからようやく一息つくことができました。

これもまた毎年の恒例ですが、今年は例年と違い息子がボランティアで
カンボジアに行っていた時期に削られて、出発が遅くなりました。

6月にしては爽やかな日光を楽しむ日があったため、そう苦ではありませんでしたが、
気温25度の湿度の低いボストンにやってくると、いかに日本が蒸し暑かったか
トランクを開けた途端衣類から立ち上る湿気から思い知るのです。

空港ラウンジに行きますと、食事の置いてある階はほぼ満席状態で、
立ち入りが制限されておりました。

よっぽどラウンジ使用対象客が多いらしく、頻繁に

「少しでも多くの方にご利用いただけるよう、お食事がお済みの方は
下の階にご移動をお願いいたします」

と呼びかけるという騒ぎになっておりました。
受け取る権利のある特典は何が何でも利用しないと気が済まない、
というのは、決して安くないクラスチケット代を払った者が
陥りがちな心理ではありますが、これはいかがなものか。

いえ、もちろん客ではなく、 JALさんの対応姿勢に疑義を呈しているのです。
クラブやマイレージなどで、資格を安売りしすぎではないの?と。

 

わたしたちは空港ターミナルの寿司屋で「日本最後の寿司」をつまむことを
恒例としているのでラウンジで何も食べられなくても問題はありません。

こちら、ターミナルビルの伊東屋でステーショナリーを買いまくり、
その戦果に満足げな我が家の男性チームです。(どちらも文具フェチ)

飛行機が駐機しているのを見ても、以前とは違うところに目がいってしまう。
この、地面から出ているシルバーのホースで給油してるんですよね。

さて、搭乗口に移動する時間がきました。

ボストン行きなので、周辺には帰国らしいアメリカ人の姿がたくさんあります。
息子が洗面所に行くと、二人のアメリカ人男性が個室の前で

「おい、あそこ空いたぞ」

「いや、あれジャパニーズスタイルなんだよー」

「あー、俺もあれダメだわー」

「あんなん絶対無理だわー」

と相談していたそうです。
昨今は洋式になれた日本人ですら使用できなくなっている?という和式、
アメリカ人にはハードル高すぎでもはや無理ゲーの模様。

近くの免税店に時間つぶしに立ち寄って見たら、こんなものがいました。
胸につけたモニターを操作して指令を出すものです。

誰も相手にしてくれないので、店の隅っこで佇んでいたので、
ちょっと相手になることにしました。

「成田」「ロボット」で検索すると。

ホスピ

とか

美人人体型受付ロボット 'KOKORO'

とかがヒットするわけですが、こいつはそういうレベルではなく、
ペッパー君という挙動不審のロボットであることがわかりました。

とにかく見てくる。
体は動かさず、ガン見してくる。

この成田のペッパー君には

ペッパー君に勝たないとはいれない雰囲気のシャネル

という実例が報告されており、どうやらクレームが出たので
従業員用の出入り口の近く(当然店の奥)に放置されているようです。

人の目をガン見するプログラムが搭載されているらしく、このような報告例も。

今日から席の隣にペッパーさんがきたんだけど
電源入れとくとこっちガン見してきたりするからうぜーと思ってたら
同僚が壁に提督貼ってくれたら提督がロックオンされてた

 

 

せっかくなのでご本人のテーマソングを歌っていただきました。
当然ですが振り付け付きです。

「僕はロボット 人間機械」

「僕には僕の良さはある」

「変身はできなけれど メールの返信 超早い」

「・・・・・・・行こうか」

「うん」

気は咎めたのですが、とても最後まで付き合う気力がなく、
熱演している彼を放置して店を出てきてしまいました。

英語での対応があったのかどうか、確かめられなくて残念でした。

最近ANAでの渡航が続きましたが、今回は直行便のJALにしました。
去年もトランジットがうまくいかなくて、乗り継ぎに遅れたことを
ここでご報告したかと思いますが、イライラしながらイミグレに並ぶ気持ちや、
その後カウンターで交渉する手間、ついでに予約をアレンジしたカード会社に
クラス差額の払い戻しのために報告する煩わしさを考えた場合、
こちらの方がはるかに精神衛生上麗しいと判断したからです。

 

出発時刻は定刻通りでしたが、この後離陸が混雑して、
結局大幅に時間が遅れました。

 

久しぶりに乗ったら、少し前とは違うタイプでした。
新型機だったのかもしれません。

機内映画で「ローガン」「ララランド」「美女と野獣」を観ましたが、
モニターのコマンドが使いにくて困り果てました。

TOも

「あれ、使いにくくなかった?」

とあとでぼやいていたので相当だと思います。

さて、前回も食事があんまり・・・と思ったわけですが、
今回はせめて食べると舌がビリビリ麻痺する(あれ何だったの)ことさえ
なければ許してあげようと思いつつ、洋食をチョイスしてみました。

洋食なのにアミューズが胡麻豆腐。
まあ胡麻豆腐好きなのでこれには文句はありません。

キヌアの上にイカをあしらった前菜。
イカは柔らかく、結果としてこのお皿が一番いけました。

JALは機内でメゾンカイザーのパンを出すのを売りにしているのですが、
いかにメゾンカイザーでも電子レンジで温めたらもう終わりだと思う。

そして問題のメインディッシュ。
タチウオに夏野菜をあしらったものですが、わたしには辛すぎでした。

デザートはメレンゲを乗せたひたすら甘い物体。
アメリカ人向けのお味でした。

というわけで、12時間のフライトを終え、ローガン空港に到着。
直行便だと機内で睡眠を取ることができるので楽です。

今回は夕方到着の便にしたので、自宅に車が迎えに来るのが昼過ぎでした。
部屋の片付けや用意を余裕を持ってできる上、着いてから夜になるので
時差ぼけが解消しやすいという、いいことづくめ。


ハーツに車を取りに行くと、予約の段階では「カムリか同等クラス」としていたのに、
いろんな車が置かれた一角に連れて行かれ、

「あなたはこの一帯からどれでも好きな車をチョイスできます」

といわれました。
ヘビーユーザーならではの特典だったのかもしれません。

カムリ、シェビー、ヒュンダイのソナタ、起亜もありましたが、
そのなかでもっともお借り得と判断した日産ローグ(ニューヨークナンバー)
を選び、入り口で GPSを貸してもらって走り出しました。

手前のスマホみたいなのが(ってかスマホか?)新型GPS。

シガーライターソケットに電源を指して使用します。
この時でだいたい午後8時ですが、まだ明るいのがボストン。

フェンウェイ球場は試合中らしくライトがついています。

ずっと工事中だったニューバランス本社のビル。
どう観てもこれはシューズをイメージしたシェイプ。

今調べて驚いたのですが、ニューバランスって、何と起業が1906年なんだそうですよ。
日本だと日露戦争が終わったよく年で、イギリス移民が始めた
インソールの専門メーカーが基本になっているのだとか。

新しい本社ビルの隣には、バスケットボール用らしい体育館までできていました。

というわけで、いつものホテルに到着。
息子は例年キャンプに参加していたので、久しぶりの宿泊です。

20年近く毎年来ているので、この同じ部屋にも何度か泊まりましたが、
大幅にリニューアルされて、しかもコネクトルーム付きに変わっていました。

ベッドルーム二つ、洗面所二つです。

早速近くのホールフーズで買い物をして、明日からの滞在に備えます。
キッチン付きでホールフーズがあると、大変安く、健康的な食事ができます。

リニューアル後初めて泊まったので暖炉が部屋についているのに驚きました。
早速火をつけて嬉ししげに写真を撮るわたし。

夏だからこんなの使わないだろうと思ったら、今朝は曇っていて風が強く、
実は今、暖炉をつけてパソコンに向かっています。


日本では考えられない夏ですが、この気候が何よりの贅沢です。