ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「俺たちの星条旗」~American Pastime 「Welcome back, Sir!」

2014-12-13 | 映画

映画「アメリカン・パスタイム」続きです。

冒頭写真はノリ・モリタ。(セス・サカイ)

収容所内の対決で「じゃすたりーるびっと」とやっていたおやじの
若き日のお姿です。



彼の情報は英語でもあまり見つからなかったのですが、
この写真によると軍籍にあったときには伍長で、
1950年代にNYの部隊にいたこと、ハワイ出身で、この写真は
上官に送られたものであることがわかります。

「ユア・パイナップル・ソルジャー」

という署名が、上官との親密さを彷彿とさせます。

この役名「モリタ」はパット”ノリユキ”・モリタの名前をデディケートしています。

(カラテキッズのあの人ですね)
モリタはこの映画製作の直前に亡くなりました。


彼は2007年5月、つまりこの映画の日本公開の2日前に死去しています。
その遺体は「日本式に」火葬されたということです。


さて、ストーリーに戻りましょう。



日系人社会ではいくつもの野球リーグがありました。
収容所の中ですらチームだらけ、というのがマンガになっていたくらいです。

その理由の片鱗がこの映画では父親カズが息子に向かって

このように語られます。

「わたしは小さい頃アメリカにやってきた。
英語が話せなくて近所の子に笑われたよ。
ある日野球を知った。
そして上達した。誰もが認めるほどにね。
するとその子たちはバカにしなくなった」

 

日系442連隊の訓練の様子は、逐一全米に報道されていました。

日系部隊の設立そのものが世界に、特に日本に向けて
「我々は人種を差別していない」
と弁明する為のものだったのですから、当然かもしれません。

 

「祖国アメリカとその理想を守る為に」

「民主主義と平和を守る為に」

そんな言葉が彼らに対して捧げられ、アナウンサーは

「彼らの健闘を祈りましょう」

と締めくくるのが常でした。



出征前の彼らの様子を、父母たちは収容所の映画館で観ました。



ライルとケイティは人目を忍んで逢い続けていました。

ライルは彼女と外で会う為、奨学金制度を利用して
外部の大学に行くことを計画しました。

 

ところがなぜか父のノムラはいい顔をしません。
ライルの本当の目的を知っているからです。
奨学金そのものにも反対し、

「みんなの噂になってる。白人は駄目だ!」

と厳しく言い渡すのでした。

 

いつもの「ジョーの店」に買い物に来たノムラ親子。
収容所の手作りのギフトをジョーに渡すと、
気のいい彼は

「サンキュー、カズ!」

と嬉しそうに受け取っています。

 

外に出ることを反対され、一人で拗ねていたライルですが、
なんと床屋のオヤジ、エドと相棒に襲われ、負傷します。

床屋のオヤジがどうしてここまで日本人を憎むのかは
説明がされないのでわからないのですが、この
「何の意味もなく」というあたりがリアルです。

差別心や敵愾心に根本的な理由などありはしません。
差別するものは最初に差別心ありきだからです。

ましてやこの時代、日本とは戦争していたのですから、
このような人間はそれこそいくらでもいたのでしょう。

 

442部隊がヨーロッパ戦線に投入されました。
山中に取り残されたテキサス大隊211名を、その4倍、
800人の死傷者を出して救出したという知らせは
すぐに全米に報じられました。

 

収容所には、戦死した442部隊の兵士たちの名が掲げられています。
それを苦渋の面持ちで眺める看守ノリス。

ライルとビリーの勝負を見ていたノリスには、
ビリーがライルの球を打てずにボールだとごまかしたのも
分かっていたのだと思われます。

ノリスはビリーに向かって

「彼らは皆トパーズ出身だ」

といいますが、ビリーは何も答えません。

  

そして、そのトパーズから442部隊に志願したレーンが
ある日、床屋のおっさんの床屋に現れます。

「トパーズに帰る前にさっぱりしたいから切ってくれ」 



無視を決め込んでいたおっさんと、以前一緒にレーンを襲った

仲間の男は、軍服姿にたじろぎながらも、

「日本人はお断りだ」

 

そこに図ったように迎えにやってくるノリス。

ノリスはコーポラル、伍長ですから、負傷して中尉になった
レーンは階級にして11階級上官です。
ビリーの軍曹と比べても10階級、軍隊的には雲の上の人。

ノリス伍長は「ルテナン・ノムラ」と呼びかけ、
サー付けで「お迎えにきました」
憮然とした様子の彼らを尻目に答礼。

「At ease.」(休め)
「Welcome back, Sir.」

絶対これ、おっさんに聞かせるため言っただろノリス伍長(笑)

 

収容所の門をくぐるときも門番は車に最敬礼です。

生きて無事に帰ってきた息子と彼を抱擁する母、
二人をもの思わしげに眺めるノリス伍長。(伏線)

ノムラ中尉は左足甲から先を義足にする負傷をしていました。



床屋のおっさんの告げ口でライルと逢っていることが

父親にばれ、収容所行きを禁じられたばかりでなく
軟禁状態のケイティ。

一人で街を出ることを決意したとライルに言います。



ライルを見つけて近づき、レーンの様子を聞くノリス伍長。


「彼はたいした奴だ(He's a hell of a guy.)」

「シルバースター勲章のこととかじゃないぜ。
俺が彼を迎えにいった日のことだけど、
床屋であったことを誰にも言ってないみたいなんだ」

「床屋って何だ?」

「君にも言ってないのか」

ノリスに教えてもらって、自分をあの日殴った男が、

兄のレーンを辱めた男であり、今度収容所チームが
試合をする相手チームの選手であることをライルは知ります。

 

その頃ビリーの家。

ビリーが、デラウェア州立大学に合格し独り立ちしたいという娘に

「うちを出るな、ジャップとも逢うな」

と言い放ったことからケイティはキレて、

「兄さんを殺したのは収容所にいる人の誰でもないわ。
兄さんを殺したのはパパよ。
自分のようにさせようと嫌がる兄さんに野球をさせ、
兄さんはそれが厭で、パパが嫌いで海軍に入ったの!
そして殺された。
パパが兄さんを殺したの!」



お父さんショックで泣いてます(T_T)


そして収容所の野球チームと、彼の属するマイナーリーグ、
ビーズの親善試合が行われることになりました。

どうなるお父さん?



最終回に続く。





映画「俺たちの星条旗」~American Pastime 「Let it go!」

2014-12-12 | 映画

サンノゼの日系アメリカ人博物館の見学記を連載しましたが、
その総仕上げ?として、映画「アメリカン・パスタイム」を観ました。

「俺たちの星条旗」というのが邦題なのですが、これはどう考えても
出演している中村雅俊の往年のヒットTVドラマ「俺たちの旅」から
題を決めたというかんじで、内容との違和感が否めません。

やはりここは原題の「アメリカン・パスタイム」で行ってほしい。

ところでこの「パスタイム」ですが、語源はフランス語。
「passe-temps」(気晴らし、暇つぶし、娯楽)を英語に直訳したものです。 

「アメリカの娯楽」とは何ぞや?

そう、このころは映画、そしてジャズと野球ですね。
アメリカの典型的な娯楽を副題に、ストーリーは展開します。
 

今までこのブログでは、何回かに亘って日系米人の
強制収容に至るまでの事情をお話ししてきましたので
詳細はそちらを見て頂くとして・・。

真珠湾攻撃の2ヶ月半のち、ルーズベルトのサインによって
「日本の血を持つ国民も(alien)非国民(non-alien)も」、
全ての日系人は決められたエリアに住むことが決まります。

日系人の強制排除が始まったのです。 

 

全ての日系人はセンターにまず集められたのち、強制収容所に移されました。
「黄禍論」などで日系人に反感を持っていた白人たちは
ここぞと息も荒くそれに賛同しました。

しかし、たとえばこんな写真の人とか、黒人女性が初めて大学に入った時、
入学者第一号者の後ろを罵声を浴びせながら歩いている女性なんかは、
そういう自分の姿が、差別の時代の証拠記録として未来永劫残ることについて、
後年どのように思ったのでしょうか。



舞台はユタ州にあったトパーズ強制主要所。
ここに収容された日系アメリカ人の家族、ノムラ一家が主人公です。

ノムラ家の家長、カズ(中村雅俊)は
2歳のときに両親にアメリカに連れて来られた一世です。
妻のエミ(ジュディ・オング)も、その名前から一世でしょう。
二人の息子、レーンとライルはロスアンジェルスで生まれ、
どちらも野球とジャズを愛する二世です。



収容所の中は男女が一緒くたの生活です。
連れて来られるなり着替えに戸惑う日系人たち。
取りあえず男女別の方向を向いて着替えていると・・・

 

おかまいなしに収容所の看守がやってきます。
収容所所長ワトソンは、実際にモデルがいたのかもしれませんが、

「お互いに協力していこう。ゆっくり休んでくれ」


などと極めて穏やかな、友好的な態度です。

わずかながらも、ほっとする収監者たち。



看守の一人、軍曹でもあるビリー・バレル。

彼は地元のマイナーリーグの捕手で、中心選手です。
昔からメジャー候補といわれつつも、すっかり盛りを過ぎ、
今ではすっかりあきらめモードですが、
それなりにマイナーでは活躍中。


 

房のリーダーとなったノムラは、

「ここをもっと住み良くしたいので皆で協力し合おう」

バラックに手を加えたり、お金を出し合って
買い物し、生活を改善することを提案します。

 

ビリーともう一人の看守、マックが、街のグロサリーに
ノムラ親子を買い物させに連れてきます。
ここの店主、ジョー(左)は温厚な人物ですが、床屋のおっさんは
日系人にあからさまな敵意を隠しません。

「奴らに金をやっているのか!」

憎々しげに言い放つ床屋のおっさん。
彼は嫌悪のあまり決して面と向かって話そうともしないのです。

「自分たちの貯金を下ろしてきたんだ」

あくまでも穏やかに相手に説明するノムラ。



「ギンガム」という単語が読めなかった、しかし気のいいジョーは、
面と向かって彼らに敵意は見せませんが、店にはさり気なく
日本人排除のポスターがあります。
(もしかしたら床屋のおっさんが貼ったのでは)
そこにはこう書かれています。

「ジャップ狩り許可証 売り切れ 無料サービス!」

観念での差別意識を持ち、日系人は追い出すべきだ、と思っていても、
いざ付き合うと全くそれとは別に、目の前の人間を個人として見るタイプ。
特に日本人はこちらのタイプが殆どで、床屋のおっさんのように
態度にまで表わしある意味「ブレない」人間は少数派かもしれません。

 

「我々は何か法律を犯したのか?憲法は?
ドイツ人やイタリア人はどこだ?回答を求める!」

日の丸の鉢巻きをし、所内をアジ演説してまわる一派。
これもお話ししたことがありますが、収容所内の最右翼
(アメリカから見ると右翼とは呼びませんが)であった「祖国派」、
WRAという組織です。

WRAというのは元々

War Relocation Authority (WRA)

戦時強制収容所委員会とでもいうべき管轄の略称の筈ですが、

それをもじったのか、彼らは自分たちをこのように称していたようです。
残念ながら何の略かはわかりませんでした。

実際の収容所でもそうであったのですが、
収監者たちは彼らにどちらかというと非難と嫌悪の目を向けます。

確かに彼らの主張は間違ってはいまいが、
だからといってここでそんなことを主張してどうなる?
そもそも戦争を起こしてきたのは日本じゃないか?
余計なことをして我々の立場を悪くしないでほしい。

彼らを白い目で見る日系人の心理はこんなところでしょう。
良くも悪くも、日本人のメンタリティを強く感じる話です。

彼らは翌朝、トラックで何処へともなく連れ去られていきます。
実際は監視の厳しいツールレイク収容所に送られたのですが、
残された者は

「何処に連れて行かれるんだ」
「腐ったリンゴを集めてアップルサイダーを作るのさ」

などと会話します。



収容所内では酒の密造、賭けも頻繁に行われました。
所内には「カジノ」がこっそりと開設されたといいます。
日系人部隊のモットーになった「Go for broke!」はピジン原語
即ち接触原語の類いで、日系人たちのなかでのみ通じる言葉です。

ブロークとは「破産」を意味し、主にハワイの日系人たちが
賭けをするときに「全財産突っ込め!」という意味で使っていました。




ノムラ家の長男と次男、レーンとライル。

この二人、本当に兄弟といわれても信じられるくらい似ています。
ただ二人とも、特に兄役のレオナルド・ナムなどはその容貌のせいか、
何を言っているときにも無表情に見える大根演技が困りもの。

総じてこの二人の主人公の容姿が日本人らしくなさすぎる
(二人とも韓国系アメリカ人)のが、日本人的には残念な映画です。 

監督のデズモンド・ナカノはまぎれもない日系人で、
映画で追悼されているレーン・ナカノは(長男の名前は彼へのオマージュ)
前にもお話しした映画「日系部隊」に出演した俳優です。

日系アメリカ人の人口自体が少ないアメリカでは、
ネイティブ並みの英語を話せる日系人俳優がいなかったため
このようなことになったのかと思われます。 



父親に中村雅俊を起用したのは、一世であれば英語が訛っていても

不自然ではないし、むしろ日本語がしゃべれることが必須だったからです。
それは母親役のジュディ・オングも同じで、ただしこの二人は
英語に堪能であったことでキャスティングされたようです。

中村はボーナストラックで、英語のインタビューに答えています。



次男のライルは兄と違って大学に進学し、野球で奨学金を取りました。

サンフランシスコ州立大学に行った、と本人が冒頭説明します。
我が家がサンフランシスコ在住のときには隣の敷地がこの大学で、
住人には学生がルームシェアなどで住んでいました。

そして、趣味以上の熱意を注いでいるのが、サックスです。




ピアノをやっていてボランティアで収容所内の
子供たちを相手に演奏をする、ビリーの娘、ケイティ。



ライルが彼女の演奏中にちょっかいをかけます。
彼女は腹を立てながらも彼に惹かれるものを感じ・・。

(ありがち)



ケイティの両親。
多くの野球選手が招集されていくというニュースを見て
妻は夫にメジャーへの可能性を焚き付けます。

「チャンスよ!戦争で変わったわ」



収容所ではかつて独立リーグの選手で、ゲーリックや

ベーブルースとも試合をしたことのあるノムラが主導し
野球チームが作られます。



ウクレレをバッターのように振りながら登場、

ハワイから来たバンビーノ・ヒロセ。(リロイ・ブッダヘッド・テオ)
アフリカ系ですが、日系の妻がいるためここに送られてきました。



収容所で行われたダンスパーティのステージに

ライルに引っ張り上げられて演奏するケイティ。
クラシックピアノのお嬢さんにこれは普通無理という奴ですぜ。

しかしさすがは映画、ライルがサックスでリードすると、
たちまち彼女はアドリブソロが取れるようになってきます。

ありえねー。

 

ここで事件発生。
自由時間に野球をしていたビリーと看守のマック。
転がった野球のボールを捕虜に投げさせたら、中継越えのどストライク。

驚いた看守Aは「ビリーを三振させたら5ドル」の賭けをもちかけます。

 

収容所内でサックスを吹くライルにいきなり悪態をついたオヤジ。
今ではいつの間にかライルの師匠のようになっています。

「ボールを取ってくれ」

とビリーに言われても

「わたし英語分かりませーん」

と嘯いたくせに、ライルが最初のストライクを取ると

「いいぞライル!こいつは野球で奨学金を取ったんだぞ!ハッハー」

とペラペラしゃべり、ビリーに

「もう英語を覚えたのか、”トージョー”?」

(この”トウジョウ”は翻訳されていない)
と突っ込まれて

「スコシ。じゃすたーりーーとぅびー!」





いきなり2球続けてストライク取った後、
続く見逃しの2球をボールだと言い張るアメリカ人二人。

「じゃすたーりーるびーはーい!」「りーるびーはーい!」

とモリタの発音を真似しながら馬鹿にします。



その様子を上の監視所から見ている、もう一人の看守B。
(伏線)



結局勝負はアメリカ人がストライクを認めなかったため

ライルの負けとなりました。

「やめろ」(日本語で)

ライルに何も言わせず、すたすたと歩いていって、アメリカ人に
2倍になった掛け金の10ドルをわたすモリタ。

「見事な腕とスポーツマンシップの披露、ありがとう」

痛烈な皮肉です。

そしてお辞儀をしながら

「我々の国ではこれをこういう。マルメノアホウサマ」
(丸目の阿呆様?) 

鼻白むアメリカ人たち。
このあとモリタはライルに向かって二回こういいます。

「Let it go. Let it go.」 

・・・・・誰ですか?節をつけてしまったのは。
 
そう、わたしが「レリゴー」のあれを「ありのままの」
と訳すのは変じゃないか、というのは、こういうときに
使うのが正しい用法だからなんですね。

この場合のレリゴーは

「ほっとけ」「あきらめろ」

というニュアンスなんです。 

まあ、迂回していけば

「仕方がない」→「あきらめる」→「このままにしておく」
「ありのーままのー♪」

となるので大間違いではないんですが、意識の方向性という点では
まるで逆なんではないかと、映画のヒット以来わたしは思ってます。 



親と対決したと思ったら今度は娘(笑)。

クラシック畑のケイティにジャズピアノの弾き方を教えるライル。

上手く弾けない彼女の手を取って曲調はアップテンポから
いつのまにかバラードへと。そして・・・・(ありがち)

 

そんなおり、ソロモンに出征しているビリーの息子、

ケイティの兄が戦死したという知らせが届きます。

ビリー、怒りのドラム缶バットで100発。

 

不気味なキモノ3人娘(着付けがヘン)が

クリスマスソングを歌うパーティ席上、ノムラ家の長男レーンが
陸軍に志願したことを両親に告げます。

「もうここにはいたくない。
みんなと同じアメリカ人であることを証明できる」

ほとんどの日系軍人が全く同じ理由で陸軍に志願しました。

ついでに彼は


「みんな何かしら失っているが泣いたり文句を言ったりしない。
お前以外は」

と弟の態度をなじります。

 

収容所の母親たちが赤い糸をつないだ千人針。

それを出征に際し受け取ったレーンは父親と

「一番!」
「おかげさまで」

という謎の日本語でのやりとりの後出発していきます。

息子を送り出した夫婦は、鉄格子の見える広場でお弁当を広げ、
どちらからともなく歌を口ずさみます。

♪ しゃぼんだま とんだ やねまで とんだ ♪

そ、その歌は・・・・・。

野口雨情が流産してしまった子供を思って作った
といわれるこの曲。
「シャボン玉」は早世した子供の象徴でもあるのですが、
そのことをこの夫婦は、というか、
日系人監督ナカノはそのことを知っていたのでしょうか?


後半に続く。 
 


日系アメリカ人~描かれた強制収容所生活

2014-12-11 | 博物館・資料館・テーマパーク


第二次世界大戦が始まったとき、西海岸に住む日系人は
国籍を持たない一世も、アメリカ国民である二世も、
「Alien」「Non-alien」として全て住処をを追われ、
全部で10カ所あった強制収容所に送られました。

全部で10万人以上の日系人が強制収容所での生活を送りましたが、
その中のイラストレーターは、収容所生活をこのように描いています。



食べ物の配給。
手前の子供は両手にジャガイモを抱えてご機嫌です。

建物の右から列を作って中で受け取り、
もう一回並びなおして再び食べ物をもらう人多数。

映画「アメリカン・パスタイム」によると、収容所に入る前に
彼らは銀行で有り金を皆下ろし、身につけてきており、
ときには街に出て、見張り付きではあっても買い物をし、
生活に必要なものを手に入れることはできたようです。

そのあたりは日本やドイツと違い、腐っても金持ちの文明国、

収容所で日系人たちが餓えるようなことはありませんでした。 



彼のいた収容所、ポストン戦争強制収容所は

アリゾナ州のユマにありました。

ここは年中このような嵐に見舞われ、竜巻の発生しやすい場所です。
絵には西部劇でおなじみのタンブルウィードが見えていますが、
これはオカヒジキ属のロシアアザミという植物です。
株はボール状に成長し、秋に果実が成熟すると風によって茎が折れ、
ごらんのように原野の上を転がるというわけです。

つまり、こういう気象条件の、ほとんど人も住まないような土地を

切り開いて、収容所は作られたのでした。 



ここに集合センターから運ばれて来る日系人たちは、

ガラガラヘビのいる、サボテンの砂漠地帯を、クーラーもないバスで
すし詰めになってやってきました。

あまりの暑さにバスまでもがぐったりしています。



日系人たちを運ぶトラックに手を振っているのはネイティブアメリカン、

即ち我々が「インディアン」と呼んでいた人々です。

ある日系人の医師はこのように述べたそうです。

「歴史の皮肉とでも言うのか、ポストンに収監された日系一世と二世は、
アメリカインディアンたち、砂漠に集められてインディアン居住区に
住むことを余儀なくされたインディアンたちが、19世紀から20世紀に遭遇した、
それと全く同じことをいまや経験することになったのだ」



たとえ命を奪われるような過酷なものでなかったとしても、

そこには精神的な迫害と圧迫に押しつぶされそうな生活が待っていました。



たとえばトイレ。
そこには個室どころか仕切りもない空間に便器が並んでいるだけ。
衣食住が保証され、命の危険さえなければ人は生きることはできますが、
人としてのこんな形で尊厳を奪われた状態が、果たして彼らにとって
精神をまともに保てる生活と言えたでしょうか。



絵の題は「化学実験室」。
熟練の教師も、学校教育に必要な教材もそこでは不足していました。

ランドリールームが化学の教室として使われ、作者のジャック・マツオカは、
水道から滴る水を教師が「H2O」だと教えたのを記憶しています。



鉄条網に囲まれた収監者子弟のための学校では、
毎朝、星条旗への忠誠の誓いが行われていました。

「リバティ・アンド・ジャスティス・フォー・オール」

それを指導するアメリカ人教師は「全ての者のための自由と正義」
という言葉を、どう噛み締めていたのでしょうか。



この収容所のバラックにはガラガラヘビが出たそうです。

ところが驚くことに、各バラックではそれを捕えて、
ペットとして飼育していたのだそうです。

好奇心か、それともスリルを求める気持ちか・・。
この異常な状態では、だれもその答えを知ることはありませんでした。



サソリも出たようです。

これって無茶苦茶危険だったのでは・・・。



酷暑の夏、アリゾナの収容所ではアイスクリームを求めて

住民が長い列を作りました。



キャンプでの食事は常に混乱の中で行われた、とジャックは回想します。
そこでは余りにも多くの人が一度に食事をするため、
家族や友人と一緒に食事をすることはおろか、テーブルマナーも
全く顧みられないカオスであったということです。



食事はこのようにして配られていました。
女性は得することもあった・・・・のかな?



収容所の壁はまるで紙のように薄く、従って壁の向こうの話は
手に取るように聴くことが出来ました。

どんな状況にあっても若い男女は異性のことが気になるものですが、
男性が「ホットチック(イカした女の子?)は誰か」と
品定めするのを、やはりそれが気になる女の子たちが耳をそばだてて
聴いています。

これらの曲の題を見てピンと来る人は、オールドジャズファンですか?

まず、左上には「チャタヌガ・チューチュー」の歌詞が書かれています。

「ムーンライト・ビカムズ・ユー」
「センチメンタル・ジャーニー」
「ビギン・ザ・ビギン」
「ユール・ネヴァー・ノウ」
「アト・ラスト」(マイハート・カムズ・アロング) 

どれも1943年から45年にかけてヒットした曲ばかりで、
おそらく日系アメリカ人たちはこの曲を聴くと
収容所の想い出が浮かんで来るのに違いありません。 

 

「アメリカン・パスタイム」でテーマとなっていたのが
「ジャズと野球」です。
日系アメリカ人たちはどういうわけか、野球を非常に好み、
収監されていたときもチームを作り、決してそれをやめることはありませんでした。

このイラストでは

「全ての者が収容所のブロックごとに何らかのチームに入っていた」

少女チーム、Jr.少年チーム、青年チームA、チームB(1軍と2軍?)
「オールドタイマーズ」、「補欠、レフェリー、ハッパをかける人、コーチ」
「ウォーター・ママ」(試合中の水補給専門)「いつも置いてけぼり」・・。 



日系アメリカ人のカップルの写真は、顔は日本人なのに

その佇まいがすでにアメリカ人のそれになっているのを感じます。
この時代の日本人の男女はおそらくこんな写真の取り方をしないでしょう。



タキシードにフルロングドレス。

クリスマスパーティの装いですが、これも
とても日本人の雰囲気ではありません。

日本風の名前のミドルネームを持ち、一世の父母に育てられても、
アメリカしか知らない彼らは、アメリカ人なのです。



家族の肖像。
彼らも全員収容所に入り、そして戦後は解放されました。




アメリカ人として軍隊に志願した日系人は、442部隊などで
歴史上最も勇敢なアメリカ陸軍部隊と讃えられました。

軍隊でアメリカ人の兵士たちと写真を撮る日系2世。

(写真右上)



収容所の三世たち。

日本ではなかったカラーフィルムでの写真です。
一番右の子供は縦笛を吹いていますね。
帽子にスカーフ、ジーンズのサロペットにブーツ。

女の子はデニムのつなぎを着ています。



このカラー写真も驚くことに、女の子たちが全員

振り袖の着物を着ているのです。
たった一つずつしかトランクを携行するのが許されなかったのに、
どの親も娘の晴れ着をその中に入れてきたということでしょうか。
これらの染めの着物は全て日本から持ってきたものでしょう。

しかし不思議なのは、どうみてもこれは晴れ着で、

見ている親たちも冬の装いなのに、
説明には「ボンオドリ」とされていることです。



ボーイスカウトが高校の行事で、スカウト旗とともに

星条旗を掲げて行進しています。



ルーズベルトが1942年2月19日にサインした


大統領令9066号、
通称『防衛のための強制移動の権限」

は、1976年になって、フォード大統領のサインにより廃止されました。

遅すぎないか、って?
意外なことに、かつての収監者たちがアメリカ政府に賠償金を請求する
運動が起こったのも1970年頃からのことでした。

収容所に入っていた日系アメリカ人たちは、そのことを忘れたいのか、
新たな問題を起こしてまた国の敵になりたくないという思いか、
賠償金の請求に賛同する者は、当初大変少なく、発起人がその正当性を
「勉強会」というかたちで説いて回らねば、

誰もそのことには触れられたくない、ほっといてくれといった調子だったそうです。

アメリカで生まれ育っていていても、このメンタルは実に日本人らしい

遠慮というものに思えます。



写真は、戦後アメリカ人の権利を「復権」した彼らが 、

「アメリカ人の誓い」を集団で行っているところです。 



1943年に最高裁判所は強制収容所の合法性を認める判決を出しましたが、
その判決を導くために、連邦検察官は証拠を偽造していたそうです。

そのことを突き止め、司法の場で明らかにしたのは、
他でもないアメリカ人の弁護士たちでした。
日系アメリカ人たちの賠償金請求運動を援助したのも、彼らだったのです。




さて、明日からはその収容所の日系人を描いた映画
「アメリカン・パスタイム_俺たちの星条旗」
についてお話ししていきます。


 


パシフィックコースト航空博物館~”歴史的航空人”の顔ぶれ

2014-12-09 | 航空機

サンフランシスコの北、サンタローザにある
パシフィックコースト航空博物館についてお話しするのも最後になりました。

おそらく、サンフランシスコ在住の飛行家だった

ジョセフ・アーサー・グラッソの寄贈したと思われる装備からです。



昔の飛行家が使用していた装備も展示されていました。
だーれ?「Google」とつい読んでしまったのは。(・_・)/ ハーイ



1930年代にすでに度付きゴーグルがあったんですね。

日本の場合はパイロットが努力の末、「昼間でも星が見えるようになった」とか、
「箸で飛ぶハエを捕まえられるようになった」とかいう神話が
まことしやかに(ほんとだったのかしら)語られたぐらいで、
つまり飛行機搭乗員というものはマサイ人のように目が見えるもの、
ということになっていたので、ゴーグルに度をいれることなど
需要もないし誰も思いつきもしなかったのだと思われます。



Resistolというのはアメリカのカウボーイハット専門の
会社ですが、宣伝用に作られたゴーグルということでしょうか。



説明の写真を撮るのを忘れましたorz
ヘルメットとゴーグルと酸素マスクです。
そんなこと改めて書かれんでも見れば分かる?



朝鮮戦争時代にアメリカ軍で使用されていた医療箱。
ちょっと驚いたのは左上にバンドエイドがあること。
アメリカではもうこの頃にバンドエイドが発売されていたんですね。



売店の壁にかかっていたイラスト。

この博物館で最初に説明した「911ファーストレスポンダー」が
絵になっているわけですが・・・・・。

それにしても、この絵・・・・モクモクと煙を吹き上げ、
まさに次の瞬間倒壊予定のワールドトレードセンタービルですが、
29.99$になったところで、一体こんな絵を誰が買うのか。

何を思ってこんな絵を描き、しかも売っているのか。

かろうじてこれが売れのこって安売りになっているあたりに、
まだしもアメリカ人の良識は死なず、というのを見る気がしますが。

 


昔ここにあったサンタローザ陸軍航空基地の鳥瞰図。
オブジェとしても行けそうな凝ったデザインです。



ふと目を留めたポスター。
「イーグル集合」という題がついています。
伝説の航空機と、有名なパイロットが大集合。



左の方にはサビハ・ギョクチェンや、黒人だけの飛行隊、
レッドテイルズのデイビスJr.空将なんかもいるのですが、
後の飛行家の名前は写真が遠すぎて確認できませんでした。


エーリヒ・ハルトマンレッドバロン、リヒトホーフェン男爵はいませんし、
アメリア・イアハートチャールズ・リンドバーグもいませんので、
今ひとつ選定の基準というのが分かりません。
いわゆる「戦闘機エース」とかではなく、特定の飛行機に乗っていたとか、
歴史的に意味のあることを為したとか、象徴的だったとか、
まあそういった基準ではないかと思われます。

右の方には、


南極到達を果たした
ロバート・”ファルコン”・スコットJr.大佐!(イギリス海軍)、

日本人には「ジパング」でもおなじみ(だったっけ)、
レイモンド・スプルーアンス大佐!(アメリカ海軍)

(表記がウィリアムになっているけどこれは間違いです)




エノラゲイからノルデン照準器覗いて広島に原子爆弾を落とした
(えええええ~)
トーマス・W・フェレビー少佐!(アメリカ陸軍)

エノラゲイを広島上空までナビゲーターとして導いた
(えええええええ~)
セオドア・ヴァン・カーク少将!(アメリカ陸軍)



そして、音速を超えた男チャック・イェーガー!の上に海軍旗と共にいるのが、


昼間に星が見えるくらい視力を鍛え、さらにはSAMURAI!の著者として
世界的に有名になった零戦搭乗員、

坂井三郎中尉(大日本帝国海軍)!


ほかにも、アポロ計画で最初の宇宙飛行士となったジョン・グレン
この下に描かれていました。

それにしてもエノラゲイの搭乗員が二人もいるって、どういうことよこれ・・・。



ふと天井を見れば、そこには零戦とB52が。




21型は小隊長機のマークを巻いています。

よく見ると中にちゃんと搭乗員もいるぞ。



尾翼の「虎」は、261空所属機という意味です。

これにも日本人らしい(そりゃそうか)搭乗員が乗ってます。



P−39エアコブラ。
こういうところのスペルもこまめに間違っていますね。

エアコブラの下に見えるのは、そのP−39の宣伝広告。

戦闘機の宣伝広告があるとは知りませんでした。

機体に隠れて内容が見えなくなってしまったのが残念ですが、
右下には

「航空史を創る!」

みたいな決め文句が書いてありますね。



ブラックバードの裏?



P−38ライトニングのコーナー。
妙なポーズをしている搭乗員のブロンズ像は
説明がないので何を意味しているか分かりませんでした。



日本軍の対人爆弾。
持ち主のスワン中尉は、

テニアンで自分のテントにこれが落ちたけど不発弾だったので良かった

という、一行ですむ説明を長々と文学調に書いています。
書きたいという気持ちは分からんでもないですけど。




日本人に取っては「へーそう」としかいいようのない
「俺たち同盟国」のポスター。

英、中、露(このころはね)豪、カナダ、コスタリカ、
キューバ、チェコ、ドミニカ共和国、エチオピア、フランス、
ギリシャ、インド、ニュージーランド、メキシコ、ユーゴ、
南アフリカ、ユーゴ、ポーランド、マレーシア、そして、


イラク!(爆笑)

 

カウンターにおじさんが見えていますが、この方は
わたしがさようならを言って外に出たとたん、一足遅れて外に出てきて、
ピカピカにレストアされた真っ赤なビンテージのムスタングを
これ見よがしに羽箒で磨き始めました。(磨く必要はなさそうだったけど)

ご自慢の愛車を滅多にこない女性客に見せたかったのかもしれません。



というわけで、パシフィックコースト航空博物館、
丁寧な手作り感あふれるいわゆる「おらが町の博物館」ですが、
細部まで行き届いた展示の内容は、航空ファンとして大変評価できます。

展示物に間違いが多いですが、それはまあ、ご愛嬌ってことで(笑)



シリーズ終わり


海軍兵学校同期会@江田島~高松宮記念館

2014-12-08 | 海軍

さて、元海軍兵学校生徒と巡る江田島ツァー、
天皇御行啓に際してあらたに造営された「賜さん館」の次は、
そこからさらに坂を上って行ったところにある

高松宮記念館

す。
勿論戦前はそういっていたわけではないと思います。
海軍兵学校の歴史年表をひもとくと、大正9年の項に

10月 特別官舎新築

とありますが、これが高松宮記念館のことであろうと思われます。

高松宮邸であるからには高松宮宣仁(のぶひと)親王
の御ために造られたことは明らかですが、問題はその時期です。


宣仁親王が海軍兵学校に入校なさったのは大正9年(1920)4月。
兵学校52期で、同期には源田実、猪口力平、淵田美津雄などがいます。


兵学校学生は、平日を校内の宿舎で寝起きしますが、週末には

江田島内の指定民家に「下宿」することになっていました。
この下宿制度は今でも行われており、幹部自衛官候補が
広く世間への視野を広げるという意味があるそうです。


殿下の前後には、


博忠王、朝融王(49期)、博信王(53期)萩麿王(54期)

などの皇族のかたがたが在籍しておられ、いずれも下々の者とは
別に起居するための
特別官舎に住まわれていたわけですが、おそらく
「社会勉強のため」週末には下宿に足を運ばれたものと思われます。



しかし、宣仁親王といえば次期天皇陛下の弟君。

さすがにそこまで下々と交わり賜うには畏れ多くお迎えする方も大変、
ということを(たぶん)
入校直後になって学校側も気づいたため、
このような一軒家が半年後になって設けられたのではないでしょうか。

これは高松宮殿下の下宿つまり「ウィークエンドハウス」だったのです。




さて、その高松宮記念館を見て行きましょう。

官舎といっても親王の御在所ですから、まるでお屋敷の造りです。
瓦屋根の設えは大変凝ったものですし、軒下の空気抜き?は、
まるで工芸作品のように手のこんだ飾り彫りがしてあります。
外に面したガラス窓は戦後、桟(さん)ごと新しくしたようですね。



「入ってもいいですよ」

案内の幹部に言われてたくさんの人々(女性多し)が
わたしに続いて
ぞろぞろと中に入って行きます。
実は「入っていいか」と聴いたのも、真っ先に入って行ったのも
何を隠そうこのエリス中尉でございました。

わたしは、ほら、何と言っても皆さんとこの貴重な体験を、
こうやって共有したいという、アツい使命感に燃えておりますから。

で、カメラを構えたわたしに続いて、こういうことには滅法興味を示す
年配の女性陣が+(0゜・∀・) + ワクテカ +しながら入って行きます。

でもなんだか・・・・

とても大正時代のかしこきあたりの御在所というよりは、
昭和50年代に建てられた築30年以上の物件、という風情?

壁は合板ベニヤみたいだし窓はアルミサッシだし、
天井も照明器具も・・・。



わざわざ「洗面所」なんてプラスチックのプレートを貼るなんて、
一体誰の為に?何の為に?

どうもこの様子を見る限り、ここは昭和の末期頃、
明らかに使用することを目的に改築されたような感じ。

特別宿舎として使われていた時期があったようなのです。



脱衣所の床、洗面ボウル、蛇口等は新しいですが、
(といっても30年は経っていそうですが)
浴室の壁面や浴槽、窓などはそのままのようです。



女性陣は一様に風呂に興味を示しましたが(笑)、残念ながら
土足で見学する為に敷かれた白いシートが続いていなかったため、
洗面所から奥には入れませんでした。

大正9年当時に於いてタイル張りの浴室、というのは
大変先端を行っていたのではないかと思われます。

浴槽に入る為に段がわざわざ設えてありますが、
風呂は釜式で、外に薪を焼べて沸かしたもののようです。

「あらー、五右衛門風呂なのねえ」

同行の奥様が興味深げにつぶやきました。
竣工当初は美しいブルーの塗装がなされていたものと思われます。




居室も観ることができました。
というか、入ってすぐ洗面所だったってことは、こちらはいわゆる

勝手口(お勝手はないけど)というやつだったのね。

廊下越しに同行の人々が見えていますが、
「別に見なくてもいいや」という感じで
スルーした人たちです。
実際にここで過ごしたことがあるなら興味を持ちそうなものですが。

「わざわざ入ってみなくても、どうせあんなものだろう」

という予想が、身体を動かす億劫さを後押しするのかもしれません。
残念ながら年を取るということは、どんな人間にとっても
好奇心を失うということと同義なのかとふと思いました。



部屋はもっと暗かったのですが、露出を上げてみました。
廊下が長く続いており、見ることの出来たのはごく一部で、
正面玄関や寝室等も別にあるようです。



鴨居の上にあった謎の物体。
コードも見えないし、これ何でしょう。



建築からすでに100年近く経っているのに、
浴室等もそのままであるのは、おそらく高松宮殿下が在籍の4年間、
しかも週末だけしか使われなかったせいかと思われます。



高松宮記念館について検索してみると、「賀陽さんも使用」と
書いてある記述を見つけました。

昭和18(1943)年、賀陽宮治憲(はるのり)王がご入校後、

終戦までの2年間、やはり下宿になっていた、というのですが、
ここで疑問が二つ湧きました。


一、王が入学した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、
 王は岩国分校で教育を受けた(つまりここにはいなかった)とWikiにある

一、今回同行した兵学校の期生が「賀陽宮と同じクラスだった」

 というのを聞いたが、これもwikiによると賀陽宮の期は別である

まさか当のクラスメートが同じ分隊にいた殿下のことを
間違えて覚えてるわけがないし、しかもその生徒は岩国分校ではなく
江田島にいた、と明言しているのです。


??????


これ、どうなっているんでしょうか。
ちゃんと調べる必要があるような気がしてきた・・。



障子紙はすでに黄ばんでところどころ破れがあります。


同行のおばちゃまたちが

「まあー素敵ー」
「いいおうちよねー」
「もったいないわあ」
「住まわないと家って傷むのよねー」

などと口々に言い合っていました。



床の間の掛け軸に焦点を合わせるのを忘れました・・orz
殿下はここで食事等をなさったのだと思われますが、
果たしてクラスの者が遊びに来るなどということは許されたでしょうか。

誰か来るとしても校長(鈴木貫太郎当時中将)とか、偉い人ばかりで、
さぞ窮屈でおられたのではと心配してしまいますが、
やんごとなきお生まれの方は、意に介することもなかったかもしれません。




さて、というわけで中を見学してきた人たちは外に出て、
次の見学場所へと移動して行くわけですが、
そこで大人しく皆と一緒に行かないで、反対側に行く人がいるんです。



はい、それはわたしです。

だって、もしかしたら最初で最後のチャンスなんですよ?
人の流れを一人抜け出し、わたしは小走りに建物の裏手に回りました。

これが建物の裏全景。
やはり「勝手口」の部分は、外壁も新しくなっていますね。



格子の細かい左手の窓が洗面所、奥が湯殿の窓です。
うーむ、明らかにこれは当時のまま。

雨樋は新しく造ったようですが、なぜか古い雨樋を除去せず、

(建物にがっつりくっついているから?)そのままにしています。



建物の基礎部分がレンガ積みであるあたりが兵学校風。



さらに浴場に沿って建物を回り込んで行くと・・。
まだ向こうに棟が連なっていました。
こちらも窓をアルミサッシに変えたりしてあります。

木のついたては何だったのかなあ。
兵学校は全校水洗トイレ完備だったわけですから、当然ここも
そうなっていた筈ですが・・・。

さて、急いでこれだけ写真を撮り、わたしは今度は全力で
皆の後を追いかけました。
一般ツァーでは、ツァーガイドは必ず移動するときに誰も残っていないか
確かめてから次に進みますが、今回はそういう不審な行動を取る人間が
いないという前提ですから、案内の自衛官は自分が先頭に立って
とっとと次に進んで行ってしまいます。
(まあバスの中で人数を数えるんですけどね)



一人で坂をバタバタ走りながら撮った写真がこれ。
皆さんもうとうに賜さん館の前に集合しておられました。(ぜいぜい)

さて、この後我々は再びマイクロバスに乗り込み、
大講堂から陸奥の砲塔、表桟橋を見学しました。


続く。


 


キャッスル航空博物館~WAFと「アメリカの正義」

2014-12-07 | 航空機

今日はアメリカ時間での真珠湾攻撃の日なので、
アメリカ軍とアメリカについてお話しします。(なんでだ) 



キャッスル航空博物館のHPでは「現在のプロジェクト」というページで
今レストアして展示準備をしている航空機の写真が見られたり、
「未来のプロジェクト」として、これから展示する予定の機を紹介していたり、
さらには今後のハンガー(格納庫)設置予定キャンペーンとして、
現在屋外展示されている航空機のほとんどを屋内に、天井から吊るしたりして
劇的に展示するという計画があります。

ページを見ていただいた方は、そのどのページにもドネート、つまり
寄付をするための窓口が設けられているのがお分かりでしょう。
こういった博物館が個人大口のスポンサーによる寄付で成り立っているのは
アメリカでは当たり前の現象なのです。

 先日はニューギニアで取得された零戦のレストア、里帰り、日本での維持、
これ全て篤志による寄附を募るもその進捗状態ははかばかしくない 、
ということを話題としましたが、 そのときにも少し触れた、
鹿屋の航空基地にある、世界でたった一機現存する二式大艇は、
アメリカから引き取るときに金銭面で難航し、
船舶振興会の笹川良一が乗り出して何とか引き取ることができたものです。
(引き取らなければ廃棄処分になるところだった)

その後も「船の博物館」が民主党の仕分けで機体の管理をできなくなり、
現在の鹿屋で安住の地を得たのはいいのだけど、
屋外展示のため劣化する一方。

ここに展示してある全ての航空機は雨ざらしで、
どういうわけかメンテナンスも海上自衛隊がやっているらしいのです。

アメリカのように大々的に寄付を募り、大口の法人寄付に対しては
スポンサーを明記して宣伝するようにすれば企業としても広告となる、
とわたしはかねがねここでも何度か語ってきたのですが、
先日の里帰り零戦に対する世間の動きを見て、
たとえそういうことができるようになったとしても、おそらく
維持に足るほどの喜捨?は集まらないような気がしました。

アメリカの民間団体が保持している零戦などの旧日本軍機も、今までの例から

「日本に帰したらサビだらけに放置して屑にしてしまうから」

という理由で日本には決して戻ってこなかったと言います。




これは、おそらくレイテ湾海戦を描いているのではないかと思うのですが、
うっかり説明を撮り損なったのでわかりません。
地形から見てスリガオ海峡の海戦かな、と。(適当です)

「頭上の敵機」ですっかりおなじみのB-25ミッチェルが、
今弾薬庫をぱかっと開いて投弾した瞬間。



ノーズのこれでもかな搭載銃が実に下品な飛行機ですね。(偏見)

この絵、勿論アメリカ人が描いたわけですが、だからといって
やられている飛行機が皆日本機、というような小さい印象操作はしません。
このあたりがどこかの国とは違うところです。
下で火を吹いているB-25はあきらかに冒頭の零戦にやられています。

まあ、下の方で撃沈されているのは間違いなく日本のフネですが。



これもうっかり説明文を確かめるのを忘れたので、詳細はわかりません。
わざわざマネキンまで置いて再現したいくらい大事なことに違いありません。
ラバウルとか、南洋に侵攻したアメリカ軍かな?
あんなところに行かされる将兵もたまったもんじゃありませんが、
あなたたちアメリカ人はまだ補給が途絶えなかっただけましだったのよ?



「サバイバル・オン・ランド・アンド・シー」

僻地に駐留する予定の米海軍の皆さんには、このようなサバイバルブックが
わざわざスミソニアン協会から手渡されていたことでもあるし。

ちなみにこの「エスノジオグラフィック」というのは
「エスノグラフィー」(民俗学)と「ジオグラフィー」(地理)の造語でしょう。



いわゆる「ヴェテラン」のちょっとした懐古コーナー。
第二次世界大戦と朝鮮戦争のヴェテランであるミラーさんの遺品と、
当時乗っていた航空機(トムキャット、コルセアなど)の写真の展示です。

 

軍人グッズも寄付した人の写真付きで飾ってあります。
映画でおなじみの「軍帽の上からヘッドフォン」ですが、
このヘッドフォンを「クラッシャー・キャップ」(帽潰し)
といったそうで。

ダレスバッグはW.S.L.の頭文字入りです。



ヴェトナムからの手紙・・?

 

サンダーバード、というとアメリカのエアアクロバットチームですが、
このスティーブ・ドゥエル大尉は、ヴェトナム戦争のヴェテランで、かつ
チームのソロポジションを47フライト務めました。

ここに展示してあるのはドゥエル大尉のサンダーバード時代の装備品で、
バッグには

「キャプテン ドゥエル ソロ」

と描いてあります。

サンダーバードは2004年、百里基地と浜松基地の航空祭に来日しましたが、
いずれも雨が降って飛行展示をせず帰ったというので語り種となっているそうです。
サンダーバードのモットーは

「Once a Thunderbird, Always a Thunderbird」

ん?どこかで聞きましたねこの台詞。




第一次世界大戦二三戦したヴェテランの遺品が本人の遺族によって
寄贈されたようです。



この手榴弾はピンを抜いたら使える?
ガスマスクは「塹壕」とともに、第一次世界大戦の象徴です。



この鉄兜は左イギリス軍、右ドイツ軍のものだと思います。



J.R.Pearson Jr.と書かれたトランクには、まだゴーグルや下着が納められたまま。
靴下は官品ではないようですが、黄色がカーキのアクセントとしてはイケてます。



この色をカーキ、と何の疑いもなく読んでいたわたしですが、ある日、
「それは新鮮だ」(つまり全くの間違い)と言われました。
言われて初めて気づいたのですが、我が自衛隊ではこの色をカーキと言わず、
オリーブドラブ色、略してOD色と呼んでいることを知りました。

この「カーキ セット」は、カミソリのジレット社が、戦地の将兵用に
グルーミングセットをカーキ、つまり軍服の色に合わせたケースに内蔵し、
軍に調達したものと思われます。
分解できるカミソリに、ケースはおそらく替え刃入れだと思われます。
ジレット社も戦争に参加してたんですね。

向こうにちらっと見えるのはソーイングセットです。
自衛隊でも入隊して最初にするのがお裁縫、つまり自分の階級だの名前を
縫い付ける仕事なのだそうですが、アメリカでも事情は同じ。



写真はLST703というタンカーで、左はライフベスト。
このフネについて調べていて知ったのですが、アメリカではこういった
艦船に乗っていた生存者がアクセスして、自分で連絡先を書き込む、
「同窓会ページ」のようなサイトが存在します。
このタンカーの場合、生存していてかつこのサイトを見つけることができ、
名前を登録したのはわずか6人だけのようですが(そのうちeメール記載は二人)
こういうページがきっかけで再会するということもきっとあるのに違いありません。



この一角は、W.A.S.P、つまり

Woman's Air Force Servise

のコーナーです。
当ブログでは、最初の女子飛行隊を作ったジャクリーン・コクランと、
ナンシー・ハークネス・ラブについて別々に語った後、

まずコクランがエレノア・ルーズベルトの助力を得て

WAC  陸軍婦人部隊 (Women's Army Corps)

を創設し、その後、それとは別にハークネス・ラブが隊長である

WAFS 女性補助輸送部隊(Women's Auxiliary Ferrying Squadron)

と、コクランの

WFTD 女性飛行練習支隊(Women's Flying Training Detachment)

を統合して、

WASP 空軍女性サービス・パイロット(Women Airforce Service Pilots)

になった、という話を延々と?したのですが、今WASPで検索すると、
案外あっさりと「コクランが作った」ということになってしまっています。
これはコクランの方が政治的権力があり、押しも強かったってことでOK?



現地の説明によるとコクランもラブも全く名前が出ておらず、
ただ、ラブが渡洋輸送をしようとしたときにギリギリにしゃしゃり出て
それを止めさせたということで当ブログ的には有名になった(?)
ハップ・アーノルド少将が司令官だったことしか掲載されていません。

日本のように「何かあったときに女が参加していたと知られるのは恥だから」
という理由で女子の飛行隊参加を絶対に認めなかったというほどではないにせよ、
彼女らが関わったのはあくまでも輸送業務、しかも国内だけで、
まあいわばハワード・ミラーの描いたあの有名な絵、

「ロージー・ザ・リペッター」

のような、国民の士気高揚のための象徴的存在だったのではないでしょうか。



アイコンですから、やはり制服はお洒落でかっこ良くないとね。
なにしろ仕掛人は富豪の後妻で元エステティシャン、
現在は化粧品会社の社長だったりしますから、この辺ぬかりはありません。




WASP隊舎での和気藹々とした生活が、ライフを始めあらゆる媒体で
お洒落に、かっこ良く報じられ、若い女性の憧れを誘います。

女性の航空隊に所属した隊員はおよそ1100人いたということです。

男子選手が皆戦地に行ってしまったのでその代わりにと創設された
女子野球リーグなどを見ても思いますが、アメリカとて
ドイツや日本と戦争するのに片手間でやっていたわけではなく、
それなりに「国民総動員」であたっていたんですね。



編み上げ靴ですが、わずかに踵を高くしてあるあたりが
「ちょっとお洒落」を意識しています。
しかしこのデザインは今日でも普通に通用しますね。
皮の質もいいし、今すぐの使用に差し支えないという感じです。
(というか、これ欲しい)





MAAF Merced Army Airfield

WACとWASPをまとめた総称をMAAFと言います。
あくまで男性パイロットのカウンターとして、補助の仕事をしました。
航空機の輸送、ターゲット・ドローン(無人機)の曳航、そして
新型機のテスト飛行などが彼女らの仕事でした。

ここでもB-24リベレーターが活躍していた模様。
上の写真はB-25ミッチェルかな?



どこの航空博物館にもある模型コーナー。
TBM/TBFアベンジャー



同じくグラマンのF−14 トムキャット



そして必ずこういうところにはある、旧日本軍機。
本当にどこの博物館にもありますが、
使用模型はきっとハセガワのものだと思います。(個人的思い込み)

水上機は「瑞雲」、右側「隼1型」(だそうです)。



一式陸攻だと思っていたのですが、「連山」(だそうです)。
これはハセガワ1/72モデルである可能性大。(だそうです)



キャッスル航空基地所属の空中給油機。
B−29が給油機仕様にされていたんでしょうか。(でかいから)

とおもったらこれはBー36の改造機。(だそうです)
給油ノズルを延ばしていっております。



ガッチャ!

小動物を爪で引っ掴んで飛んでいく鷲みたいな図ですね。 



ノズルは後方にもあるということでしょうか。
べつの写真では上にノズルを伸ばし、下方にタンク口のある飛行機に給油していました。

というか、ご指摘があって気づいたのですが、
1、2枚目と3枚目、飛行機が別ですね。(い、いつの間に!)
プロペラの向きがいつの間にかうしろになってるぜい!

えーとこちらがB-29改であることは間違いなさそうです。



ヴェトナム戦争で使用された銃など。



こういうのを見ると、ヘリからヴェトナム人の女子供、年寄りを狙って撃ちまくり、

「なぜかって?逃げるのが遅いからな」

とうそぶいた兵士が描かれていた映画「フルメタルジャケット」を思い出しますね。
いやいや、あのときのアメリカさんもなかなか皆さん鬼畜でしたなあ。
それ以上に恐れられていたのは韓国軍の兵士だったそうですね。
必ず女性を残虐に強姦して殺してしまう部隊としてヴェトナム人は米兵より恐れたとか。

フォンニィ・フォンニャットの虐殺

タイヴィン虐殺

ゴダイの虐殺


今、この韓国がアメリカの議員を買収してあちこちに旧日本軍を糾弾する
「慰安婦の像」を建てていますが、
日本軍は組織的に売春婦を拉致したわけでもないのに、
どうしてこんな鬼畜野郎どもに、
しかもヴェトナム戦争より前のことを責められんといかんわけ?

だれか論理的に説明できる人がいたら教えてほしいもんだわ。





という話はともかく、この銃を見ていただきたい。
台座のところに斬り込まれたスリット、ここに分解した他のパーツを
収納して一本で持って歩くことができる便利グッズです。

これでヴェトナム人の虐殺も捗りますね。

 

勿論彼らだって軍人として命令されたからヴェトナムに行き、
どこからかは知らないけど「女子供、老人も殺せ」という命令を受けたから
ソンミ虐殺で糾弾されたウィリアム・カリー中尉は裁判でそう言った)
そうしただけで、結局戦争という異常現象の中では仕方なかった、ということで
納められてしまっているんですね。

つまりアメリカという国は歴史上「戦争犯罪で裁かれたことがない」国なんですよ。

だからこそ、国民のほとんどが

「アメリカは正しい、日本は悪かったから原爆を落とされた」

などということを平気で言って憚らない傲慢な国になってしまったわけです。




これらの写真はヴェトナムをB−52で絨毯爆撃したときに不時着したかなんかで
捕虜になっていたアメリカ人たちのもの。

勿論、彼ら一人一人は悪くありません。



だからこそ解放されて帰国したときには愛する父であり夫である彼らを
こうやって涙ながらに迎える家族がいるというのはよーくわかります。




こうやってヴェトナム戦争に参加した軍人に勲章を与えて顕彰するのも
戦争に行かせた国としては当然のことでしょう。

ただ、その一家の父や夫、それどころか女子供、赤ん坊に至るまで
まるで虫けらのように殺したアメリカ兵が何のとがめもなく、
ソンミの指導者であるカリー中尉ですら終身刑で、
しかもすぐに釈放されて市民生活を送ることが許されるというような国に、
果たしてアメリカ以外の国は正義があると思うか、って話ですね。

しかもこの事件を政府は反戦運動に繋がるのを恐れて隠蔽し続けました。


しかしながら、アメリカ人の名誉のために、これが全てではなかったことを
最後に説明してこの項を終わりにしましょう。
あの戦争の中、人間の良心に従って行動する者が確かにいたことを。

ヒュー・トンプソン・ジュニア准尉は、ソンミ村虐殺の真っ最中、
OH-23偵察ヘリコプターで村落上空をたまたま通過したため、
眼下に多数の死者と民間人への「オーバーキル」を目撃しました。

彼はただちに上官への報告・救助ヘリの派遣要請・生存者の救出を行い、
さらには中隊の虐殺行為を止めさせようと妨害を試みたそうです。

トンプソン准尉はソンミ虐殺の裁判で証言しましたが、この行為に対する
アメリカからの顕彰がなされたという話はどこにも残っていません。






海軍兵学校同期会@江田島~賜さん館とダンディ

2014-12-06 | 海軍

前回のこのシリーズでご紹介した「水交館」。
一般公開されておらず、このような海軍兵学校関係の催し以外では
近くで見ることもできない貴重な機会を得て見学してきました。

インターネット検索すると、中には

「水交館で自衛官のお手前によるお茶を頂いた」

という羨ましい報告(!)もあるにはありましたが、
そういう特殊な訪問でもなければ、出て来る写真はHPの公式写真か、
さもなければ

「特別に頼みこんで?撮らせてもらった」
「敷地外(裏山←うらやましくない)から撮った」

という曰く付きのものがほとんど。
しかし、皆さん、こんなもので驚いてはいけない。
水交館でもこれほどレアなのに、今日お話しする

”賜さん館”

は、さらに秘密のベールの奥にあり、なんとこの日エスコートした
幹部学校卒士官ですら

「実はわたしもここに来るのは初めてなんです」

と感慨深げに言ったくらいです。
ちなみに皆さん、「賜さん館 江田島」で画像検索してみてください。
該当する建物は全く引っかかってこず、わりと上位に
当ブログの記事「あゝ江田島羊羹」の挿絵なんかが出るだけですorz

「水交館」は非公開とはいえたまーに見ることの出来る人もいるが、
こちらはほぼ実質的に内部ですら秘匿されているらしいのです。

どうしてこのような非公開の建造物を我々が見られたかについては、
おそらくですが、当同期会が今回を以て解散するということから、
海自が特別に見学を取りはからってくれたのだと考えます。

それにしても、一体どういう理由でこの建物を
一切公開しないことにしているのでしょうか。



自衛隊の幹部候補生は着任第一日目に学校内の関連施設を巡る
「校内旅行」によって江田島を見学して歩くそうです。
その行程には「八方園」があり、日本の各地の方位を示した
「方位盤」もこのとき見ることになっています。



兵学校時代、たとえ親が危篤であっても海軍に奉職した身である生徒は
帰ることができないときにはここで故郷の方角に祈りを捧げたといいます。


幹部候補生、術科学校生、つまり
現代の海軍軍人である彼らですら、
旧海軍軍人の念の残っているに違いない
この場所に来ると、
気分が悪くなったり脚が重くなったりして、

「拒絶されている」と感じる者が必ず現れると言います。

そんな特別な場所を、一般の観光客に公開しないのは当たり前ですが、
「賜さん館」は、八方園とは別の理由で秘匿されているようなのです。


そもそも「賜(し)さん館」という建物の名称です。

まず「賜さん」って何なんでしょう。
「さん」に相当する漢字はおそらく旧字体なので表記できない、
というのはわかりますが、それでは「しさん」って何、
と調べてみても、相当する単語は見つかりません。

第一術科学校のHPにすら建物の説明も写真もないのですから、
その正体については外部には明らかにされていないということです。

わたしの持っている「海軍兵学校沿革」は、詳しい歴史の記述
(何年にどんな先生を海外から招聘していくら払ったとか、
生徒の誰々が不適格な行動により免生徒になったとか)
はなぜか大正8年までで、あとは成績順の卒業名簿、
というものなので、この建物については述べられていません。

その後国会図書館まで調べに行ったところ、賜さん館は

昭和11年、昭和天皇のご行幸を記念して建てられた

ということが判明しました。 



兵学校写真集から、昭和11年の天皇陛下ご行幸の写真を探してきました。
兵学校64期から67期までが在学していた時代です。
写真は教育参考館前の石段で、陛下はこれから観兵式に向かわれるところです。



呉到着の際の陛下。
目的は海軍兵学校のご視察でした。

 

校内の奉迎の様子、と写真のキャプションにはあるのですが、
(毎日新聞社発行・江田島)
海軍軍人だけでなく、紋付袴の一般人(子供)も随所に見えるので、
校内ではなく呉市内ではなかったかと思われます。


正確な日にちは昭和11年10月27日。
陛下はお召し艦愛宕にてご行幸遊ばしたとのことです。

この日付から考えて「賜さん館」は陛下の校内での御座所として、
ご行幸に合わせて前もって建てられたということです。



陛下の御為に建てたものであれば、その後うかつなことに使えませんし、
かといって使わずに傷ませてしまってはよろしくない。

しかも、この建物の建築費用は「陛下の私費」から賜ったという理由もあり、
戦後はこれを維持しつつも「アンタッチャブル」のまま現在に至る、
というのではないかというのがわたしの推理ですが、皆様どう思われますか。 



さて、その賜さん館に向かっては、水交館から坂を上る形で

歩いて行きます。
わたしたちには何でもありませんでしたが、80半ばの方々には
結構こういう行程はきつかったようで、後でお話しした方は

「今日はさんざん坂道を歩かされて疲れた」

とぼやいておられました(笑)

それにしても、賜さん館に続くこの道の風情、いかがですか。
今時こんな道があるだろうかという舗装されていない道。
おそらく陛下はこういうところも車で行かれたことと思います。





この道の途中に、このような小さな建物がありました。

まるで戦前にタイムスリップしたようです。
江田島の中そのものが時が止まったように変わらない中で、
壮麗な講堂や教育参考館などとはまた違う、「当時のままの空気」が
そっくりそのまま凝固しているような空間です。 


皆ちらっと見るだけで無関心に通り過ぎましたが、

わたしは目を爛々と輝かせ、建物に見入りました。

警衛の隊員が敷地に入らないように前に立っていましたが、
それがなければ近づいて行ったかもしれません(笑)

これ、なんだと思います?
まず注目していただきたいのが家の横に停めてある車。
自家用車ですね?(公用車ではなく)

わたしの聴き間違いでなければ、ここは幹部学校か術科学校の
誰か偉い人(ぼかしてます)の居所であるらしいのです。
二棟ありますが、おそらく右の方は昔の方式で言えば「御不浄」?

一軒家とはいえ、どう見ても仕切りのないワンルームのようですし、
窓ガラスの内側にはロッカーなど使われているものが見えていても
カーテンがないところを見ると、寝起きしているわけではなさそうです。


今になってこれが何なのか気になって仕方がないのですが、来年、

あらためて術科学校訪問が実現したら、そのとき聴いてみます。



賜さん館のまえに到着しました。
タイルと花崗岩があしらわれた白とクリーム色が基調の外壁、
屋根の瓦は薄いグレーでアクセントにはエメラルドグリーンが配され、
全体的に大変モダンで瀟洒な雰囲気の漂う建築です。

桁行き11間、梁間5間の木造平屋建てで、外壁は小口タイル張り、
基礎は花崗岩で作られています。



賜さん館の建っている敷地を「踊り場」だとすると、

ここからさらに上に上がって行く坂道が始まるのですが、
その「入り口」である鉄扉の門柱だけが残されていました。

この上にあるのは高松宮邸だけで、宮様が御在所のころには
この鉄扉は閉ざされ警衛が立っていたものと思われます。



中に入ってもいい、と言われて何人かが入りました。

外装のアクセントに使われたペールグリーンと同色の敷物が
真ん中に敷かれていて、ここは踏んでも大丈夫だとのことです。

まず、画面左手の壁面に御注目下さい。
大講堂の台上中心にも同じ仕様が施されていますが、
これは玉座の置かれる御辺り。

なるほどー。

この玉座仕様あらばこそ、賜さん館は一般公開されず、今でも
ゆめゆめヨガ教室などに使用できないというわけですね。
でも、いかにもダンス教室に使われそうな大鏡が二つもあって、
これは一体何の目的なのだろうと考えてしまいます。

それにしても床は見るからに張り替えられたばかり。
部屋の雰囲気を壊さないような大型クーラーも入れられ、
ここで何かフォーマルな行事が行われたのかと思われます。



ちなみにこれが改装前。
なんと、突き当たりは左が鏡で右は小さなドア。
ここを窓にしてしまったんですね。

天井はなんと蛍光灯が吊られています。
当初はもちろんシャンデリアだったはずですから、
この辺りは「復刻」したのでしょう、



窓も腰高で、床は組み木。



玉座部分。
ここにデザインの変更はなされていないようです。




普通の施設ならウェディングパーティなんぞに使われそうです。
その気になればかつて兵学校の生徒が卒業式の後にやったように
ガーデンパーティができますし、現在でも水交館の庭では
行われていると聴いたこともあります。
が、ここに限ってそんなことにはなりますまい。




昭和11年当時、超モダン建築だったに違いありません。

モチーフとして何度も現れて来るがアクセント。

鎖の留め具はよく見れば菊の形をしているので、もしかしたら戦前
中央の大きな丸い部分には菊の御紋が入れられていたのではないでしょうか。

進駐軍の時代、おそらくここではそういうものを排除して、
畏れ多くも(笑)ダンスパーティなどが行われていたのかもしれません。



こうして見ると、雨樋や軒の部分などは 新たに、
しかも最近作られたような感じがしますね。
彫刻を施した優美な軒下飾りは当時のものでしょう。



出入り口の両脇と同じ「隅石」。
これがため、石張りのように見えますが、実は偽石です。
軸組みが木造であるため、左官仕上げによってこのように
「演出」したものだと考えられています。

窓の下部の窓台は石材で、大変丁寧な仕上がりとなっています。

建物の裏に停めてある自転車にも注目。
なんと、色を合わせており、建物の外観に溶け込んでいるような?

このエメラルドグリーンはやはり「海軍」ならでは。

ついでに、床下の通風口にかぶせられた鉄の格子にも注目。
美は細部に宿る。
さすが陛下の御座所として造られただけあって細かいところも
神経が行き届いたデザインとなっています。

東京目黒の庭園美術館(わたしはここが大好きでよく行きます)には、
アールデコの名作、朝香宮邸が現存しますが、この賜さん館は
同じ宮内省内匠寮が設計しています。



ここと反対側、つまり水交館の場所から見上げた賜さん館。



ところで、余談です。

賜さん館の見学を終わり、この後我々は坂を上って
高松宮邸を見学するのですが、終わって帰ってきたら、
賜さん館の前に並べられていたパイプ椅子でさり気なく
座って休憩している元生徒。



この方、生徒さん達の中でも際立って若く見え、

矍鑠と言う言葉さえ失礼なダンディさんでした。

皆さん、この方80歳半ばに見えます?


ダンディなので、たとえ歩いて疲れてしまっても、
へたり込んだりなさらず、脚など組んでダンディに休憩なさっておられます。



というわけで、この方はこちらの紺ブレチノパンの元生徒と共に
この日のダンディ・ツートップ賞に(わたしの中で)輝きました。

お二人に共通するのはどうやらゴルフがお好きだったらしいこと。
(前者は持っているカバンから判断、後者はネット検索で判明)


同じ年代の集まりにおいて、次第に若さに個人差が出て来るのは当然ですが、
それが何によって決まるかというと「如何に歩いているか」ではないか。

クラスの半分が既にあの世へ旅立った中でのダンディ・ツートップを
興味深く観察させていただいて立てた仮説です。




続く。 

 


磁気掃海具〜日向灘・掃海隊訓練

2014-12-06 | 自衛隊

掃海母艦の見学が続いています。
艦橋を見学した後は、一度甲板レベルまで降りてきました。



後部甲板に向かって高速で移動していく案内の副長の図。
っていうか、夜なのですこしでも動いているとぶれてしまうわけですが。

そこで目の前に現れたジャイガンティック (gigantic)なリールに驚愕。
これはウィンチというのでしょうか。それとも普通にケーブルドラム?

夜間のせいか見たところ何もありませんが、写真を検索すると
たまに発見されるこの巻き取り機には、黄色いホース状のケーブルが巻かれています。 

デリックに吊られている救命ボートは普通の護衛艦より大型のような気がしますが、
気のせいでしょうか。

 

副長が次にご案内くださったのは後部甲板。
折しも何やら作業の真っ最中です。

甲板の向こう側に防眩物が見えますが、これは接岸用ではなく、
子供の掃海艇などと接舷するときのためのものだと見た。



何を見せてくれるのだろうと思っていたら、なんと副長、

「甲板のエレベーターで
下の階に降ります」

甲板の中央にあって、ヘリコプターを載せるにはやや小さい、
(というか乗らない)ほぼ正四角形のエレベーター。

先ほど搬入されたジュースとともに甲板からエレベーターに乗って降りたばかりですが、
一般見学者にとってはもうワクワクです(アトラクション的に)。

またもや脳内を「サンダーバードのテーマ」が鳴り響く中、エレベーター稼働。



これは、エレベーターがちょうど甲板部分を通過しているところ。
複雑に絡み合ったパイプ、無数のダクト、何一つとして無駄な部分はありません。



ここが甲板下の格納庫。
艦艇一般公開などでは決して見られない部分です。
手前の黄色いリールは掃海具の曳行用電源だと思われます。

甲板の大きな巻き取り機もそうですが、掃海という作業、何しろ
巻き取るもの=索をふんだんに使うのです。

対機雷戦には大まかに分けて、


機雷掃討・・機雷のそばで別の機雷を爆破させ処理する

係維掃海・・錘の先に付けられて海中に浮遊する機雷の糸(維)を切断し、
(けいい)  海面に浮かび上がらせたのち処分する

感応掃海・・磁気機雷に対し、ダミーの磁場を発生させて自爆させる


という三種類の方法が現在行われています。
機雷の種類とその機能によって処分の仕方を変えるわけですが、
このいずれの方法をとったとしても必要となってくるのは「引っ張るもの」=索。

機雷探知機にも、先日お見せした黄色い掃海具にも電源とデータ通信用を兼ねた
長い索がついていますし、係維掃海で機雷の糸を切断するためのロープは
艇から二股に別れたカット用の索を使います。


掃海隊HPより

そして、感応機雷をやっつけるには、掃海索という「船のふりをするための」
曳行具を引っ張る索、そしてダミーの発音をする発音体を引っ張り電源を供給する索が。




つまり、どの方法であっても「索」を必要とするので、掃海母艦にも掃海艇にも
このような巻き取り機がいたるところにあるわけです。 

まるで小学生のような観察ですが、(小並
掃海については訓練見学の報告の際にもう少し詳しくお話しすることもありましょう。



で、ここにも床のあちこちから鎖で固定されている巨大リールがあるわけですが、
これは何のためのもの?



この前に立った時に、ふと「ジングルベル」が脳裏をよぎったわたし。

なんだろう・・・イメージ的にどうしても「トナカイが引くサンタのソリ」
という言葉が浮かんできて仕方がないんですが、その決定的な理由は、
ソリの上に載っているこの赤い物体が、どうにもトナカイのツノみたいだから。

もちろんそんなことは口に出さずに、説明を聞きながら頷いておりましたが。

というわけで、これはMK-105磁気掃海具といいます。
なんと、ヘリコプターに引っ張ってもらってお仕事する掃海具なんですね。
で、この赤いツノは何かと言うと、ヘリコプターに曳行されている時に
抵抗を減らすための水中翼だそうです。
フロートで海上に浮くはずなのに、その上にあるツノが「水中翼」とはこれいかに。
と思ったのですが、よく見たらツノごと外側に向かって倒れるようになっています。
これ、もしかしたらフロートの真下まで倒れるのかな?

これが実際どのように曳行されるのか、動画がないか探してみましたが、
もしかしたら特定機密にあたるのか全く見つかりませんでした。

ところでこの掃海具のメインは、フロートの上に神輿のように担がれているもので、
これがエンジンであり発電機でもあります。

先ほどの「感応機雷」の理屈と同じになるかと思うのですが、これで発電した電流を
電線ケーブルに流して海中に磁場を発生させる事により、敷設された磁気機雷に
「船が通った」と勘違いさせて爆発させるわけです。


実際はヘリに曳行されたこのソリ(じゃないけど)が、さらに電線で
磁場を作っているだけなので、爆発させて処理をすることができるというわけ。


掃海母艦に搭載して現場まで運び、海に下ろしてからヘリがこれを曳行します。
ヘリと索で繋いでから海に降ろすのか、それとも
海に下ろしてから結索するのかどうかまではわかりませんでした。

曳行するヘリは掃海ヘリであるMH-53Eです。
このように航空機によって曳行する掃海具を「航空掃海具」といいますが、
航空掃海具には他に、

バーモアと呼ばれる係維掃海具Mk-103

ベンチュリーと呼ばれる音響掃海具Mk-104

があります。



掃海具格納庫からみた甲板。
いまわたしはMk-105とリールの間に立っています。



ふと甲板上の乗員を見ると、何もせずにこちらを見ている様子・・・。
もしかしたら、わたしたちが見学をしているためにお仕事ができないのでは?

ただでさえ非常識な時間に見学を強行していただいた上、
作業を中断させてしまったのだとしたら、これは申し訳なさすぎる。

後からミカさんに聞いたところによると、わたしたちが後甲板にいったとき、
やはり乗員の皆さんが何か作業をしていて、副長が

「エレベーター動かして」

とオーダーすると、現場の隊員が

「今電源を何々に使っていて(エレベーターを動かせない)」

といったそうなのですが、にもかかわらず副長は鶴の一声で
電源を切り替えさせて(たぶん)動かしてくれたというのです。

わたしはそれを聞いていなかったので、後からこの写真を見て恐縮しまくりました。
もちろんわたしは海上自衛隊の偉い人から、さらに掃海隊の一番偉い人を通じて
この訓練を見学させてもらっているわけで、決して副長が自分の利益のため、
ぶっちゃけて言えば仲のいい人にいい顔をするために中を見せているのではありません。

ですが、時間がイレギュラーすぎたことと、わたしの風体がどう見ても政治家とか、
地域の有力者とか、そういう「無理を言われても仕方ない相手」には見えないことで、
もしかしたらそのせいで
副長が誤解されたりしなかったか、今でも気にしています。



しかもエレベーター下ろしている間は夜なのにこんなロープまで
当直士官が張ってくれていたと・・・。

あああ、やっぱり作業していた人、エレベーターが上がるまで何もせずに待ってるよお。



うーん、この電源と関係あったのかな。
しかし、この話を後で聞いて思ったのは、やはりフネというものは、いちどきに
電気を同時にあっちこっちで使うことができないようになっているらしいということでした。



このあと甲板レベルの格納庫の中も見せてもらいました。
信じられない長さの細いロープが、絡まない方法で束ねてあります。

そしてここにももう一基の掃海具MK-105が。
こちらには「2」とあるのですが、下の子が「1」なんでしょうか。
横の黄色い物体は下にもあった巨大リールだと思います。

というわけで、このとき後甲板で作業していた乗員の皆様方。
その節は本当に(文字通り)お邪魔致しました。<(_ _)>



続く。


 

 


「雪風」進水!

2014-12-05 | つれづれなるままに


とある当ブログ読者の方に、東京模型ショーの入場券を、
例によって名前を明かさずにアドレスだけで物をやり取りできる 
便利な宅配を使って差し上げたことがあります。

今までのやり取りから模型がお好きなのだろうと思い、
それまで裏米でのお付き合いで知っていたメールアドレス宛に
送らせていただいたのですが、そのお礼に、なんと

組み立て前の模型が

送られてきたのです。
東京模型ショーで「たまごヒコーキ」シリーズに萌えまくり、
これが欲しいとお星さまにお願いしたところ、たまたま近くに
模型を作れるお星さまがいたので作っていただけることになった、

ということを模型ショー体験記に書いたら、ちびつながりで
こちらの方は「雪風」を下さったというわけです。



そしてある日我が家に届いた宅配便。
何も考えずにびりりと包装を破ってから気がつきました。
それが「要冷蔵」であることに。

宅配便は冷蔵扱いで配送されていなかったので、

「これはネタとして扱え、とそういう意味であるな」

と送り手の意図を鋭く察知したエリス中尉、カメラを持ってきて
その破いた包装の状態から記録することにしました。
「中山道宿本舗」が一体なんの会社であるかまでは
面倒なので調べませんでしたが、何しろこれも大事なネタです。



要冷蔵の包み紙の下からは、畏れ多くも軍艦旗が!
思わず台所の隅で冷凍庫の上に置かれたその物体に対し
威儀を正し海軍式敬礼をするエリス中尉。

というのは嘘ですが、心の中で敬意を表しつつ、
ついでに

「ネタのためにここまでやるか」

と心底呆れながら、中身を取り出したのでした。



ちび丸艦隊シリーズはフジミ模型というやはり静岡の会社が発売していて、

「大和」「金剛」「赤城」「榛名」「霧島」「武蔵」


という、超有名どころの種類があります。
(今見たら大和は売り切れてました)

ところで、模型の会社がどうして静岡に集中しているのかというと、

その理由らしきことを、先日模型ファンから伺いました。
模型会社というのは、大抵が学校教材の製作会社から出発していて、
今のような素材がなかった時代は、木を使っていたというのです。

静岡といえば、ヤマハ、カワイなどのピアノメーカーが、
ことごとく浜松にあるわけは、浜松が

「比較的木を扱うのに適した気候」

ということもありますが、なんといってもヤマハの創立者、
山葉寅楠が会社を構えたのがここだったという理由が大です。

カワイの創立者河合小市は11歳でヤマハの技術者だった人(!)
ですから、会社をその近所に作ったわけですしね。
ちなみに、戦時中、ヤマハもカワイも、ご時世柄ピアノを作れず、
その間木製のプロペラなんかを作っていた時期があって、わたしは
「河合」と名前の入った軍用機プロペラの写真を見たことがあります。


もひとつついでに、ヤマハの歴史のコピペを貼っておくと、

ヤマハの歴史 
・最初は輸入ピアノの修理→楽器関係作る 
・楽器やってた流れで電子楽器も作る→DSPも作る 
・DSPを他に利用しようとして→ルータ作る 
という流れで、楽器、電子機器、ネットワーク関係の製品を作るようになった。 

発動機・家具製造の歴史

・ピアノの修理で木工のノウハウが溜まる→家具を作る→住宅設備も作る 
・戦時中に軍から「家具作ってるんだから木製のプロペラ作れるだろ」
といわれて戦闘機のプロペラ作る→ついでにエンジンも作る 

・エンジン作ったから→バイクも作る 
・エンジン作ったから→船も作る→船体作るのにFRPを作る 
・FRPを利用して→ウォータスライダー→ついでにプールも作る

つまりこのような会社がひしめき合う浜松には木材が集まる

→小さな木材を使う教材制作会社は便利→そこで営業しているうち
模型が専門になる→教材をやめても会社はそのまま←イマココ

という理由なのだろうと思われます。
多分間違ってないと思いますが、違ってたら誰か訂正してください。

さて、届いた「ちび丸艦隊_雪風」ですが、蓋を開け中を見て、
瞬時にわたしには自分がこれを作る技術も時間も根気もないということを
悟ってしまったのです。
あまりにも絶望したせいで、部品の写真を撮るのを忘れましたが、
今ネタのためにも撮っておけばよかったと激しく後悔しています。

「もしかしたらこれは何かの嫌がらせだろうか」

お礼にもらっておいて、(しかも今改めて値段を見たら結構高い)
この言い草はなんだ、と思われそうですが、そのとき
脳裏をかすめたのがこんな考えでした。


ところで「たまごヒコーキ」を作ってもらえることになった方から
ちょうどそんな時に連絡が入りました。

「たまごヒコーキと普通のバージョンのブラックバードできました」



というわけでうちに嫁入りしてきたブラックバーズ。
たまごヒコーキの方はピトー管ありません(笑)

ピアノの黒の上に置くと、あんまりブラックバードの黒が映えませんね。どうも。



部隊マークや機体ナンバーは実在したものでしょうか。



ついでにこのとき遊びに来ていた、こちらはブラックキャット。

ところで、このブラックバードのやり取りをしている時に、
「ピコーン」と閃いた考えがありました。

「ついでに『雪風』も作って貰えばいいのではないか」

たかだかこんな小さな模型くらい、比較的器用なわたしにできないはずはない。
作ってみれば案外簡単かも?しかも失敗
したらしたでブログネタにもなるし。

という考えもあったのですが、面倒臭さがチャレンジ精神を凌駕しました。
その依頼を快く引き受けてくださった件の「お星様」は、
制作の途中経過として、

 

「あなどれません」

というメールを送ってきました。
それによると

「このフジミというメーカーはタミヤやハセガワに比べると、

パーツの合いが甘いのですが、ちび丸艦隊はなかなかしっかりしています。
デフォルメで武装や電探(レーダー)が強調されていて、
これらのパーツはもっと大きなスケールのキットよりメリハリがあり、
面白いキットです。侮れません。」

それはともかく、わたしはこの説明書に書いてあることを読んで

「自分でやろうなんて早まった考えを起こさなくてよかった」

と胸をなでおろしたのです。

「説明書の番号の部品をニッパーで丁寧に切り取ります」

こんな小さなニッパーなんてわたし持ってませんし。
さらには

「海面に苦労しています」

ということでした。
一応海面模型にもなるので、海面を作って下さろうとしたようです。



ちなみにこんな感じですね。
力作だ~!
思わずボートの中で中腰になっている要救助者もいいですが、
それよりこの湖面のような海面に立つ白い航跡がいいですわー。
こんな海面を作ってくれるのかな?
わくわく。



そして、製造元からは完成した「雪風」と製造元所有の「大和」を並べて
「最後の出撃!」と遊んでいる様子が送られてきました。
ちょっとアスペクト比がおかしいですが、実際の対比も
1キロくらい離れればこれくらいになったのではないかと思われます。
 


というわけで、「雪風」が届きました。
思わず白黒にしてしまったのですが、どうやら製造元では
海面の出来上がりに満足がいかず、妥協を許さない職人気質は
そういうものを人に渡すわけにいかん!ということで、
プラスチックの海面板を送ることにしたようでした。



画像をソフトで加工してみました。



他に海面らしいものはなにかないかと探したところ、「MIKIMOTO」の
ブルーの紙箱が
色といい波といい、ちょっといい感じだったので使ってみました。
ブラーで海面をぼかしたのが冒頭画像です。



ここでふと「水に浮かべられる!」というのを思い出し
ガラスボウルに水を張って浮かべてみました。
よく考えたらこれがこの「雪風」にとっての進水式です。
進水方法は海面に直接進水する「投げ込み式」です。

まっすぐ進まないのでよく見たらなんだか右舷側に傾いております。


 

よくよく見たら、ちゃんとパーツがはまっていませんでした。
それでも全く問題なく浮いているのでバランスとか大したものだと思いました。

武蔵だって進水式の時は最終的には左に触れましたよねー。(←覚えたての知識)

 

しばらく見ていたらだんだん沈んできたのでやめました。
「雪風」は決して沈まず。



他に何かないかと思って部屋を見回したら、昔息子が宿題で
ジオラマを作ることになったとき、その「予行演習」として
買ってきたジオラマキットがあったので、無理やり
川を航行させてみました。

川の真ん中に大きな岩があって、座礁しているところです。



ここまでやって来れたのが奇跡。
「雪風」が船頭多くて山に登るを体現しているの図。

ところで、この「雪風」のとき、わたしは厚かましくも、
別口でもらっていたけどどうしたらいいのかわからない
飛行機の模型がもう一点あったのを思い出し、これも
また託して作っていただいたのでした。



それがこれ。
滑走路がなく、道路に不時着したところです。

複葉機で「報国号」と機体にあることから、
戦時中の寄付で作られた飛行機であることだけわかりましたが、
これがなんであるかは作った方もわからないとのことでした。
ちなみに二枚羽は前後に少しずれている仕様です。

海軍機か陸軍機かもわかりません。

これ、なんだかご存知の方おられますか?



今から不時着するというこの飛行機が、山の頂上に
機体をこすりながら突っ込んでいく様子。

これ、「あゝ陸軍隼戦闘隊」の特撮よりはいい線いってないか?




なぜ墜落させたし。

というわけで、散々楽しませていただきました。
関係者の皆様、本当に有難うございました。
模型の世界って楽しいですね!

自分自身は何一つ作らずにこんなことを言うのもなんですが。

 


海軍兵学校同期会@江田島~水交館

2014-12-03 | 海軍

海軍兵学校の同期会が江田島で行われたのは、
今回を以てこのクラスは「解散」、つまり最後の会合だったからです。

集まった元学生の様子を見ていても皆さんまだまだお元気 そうで、
あと5回くらいは余裕で開けそうに見えましたが、それはわたしが
今回だけ参加したからそう思っただけで、毎年のように回を重ねて来ると
1年のうちに逝去する同級生が次第に加速度を付けて増えてきて
今元気な自分も来年は、というようなことを考えてしまったり、
幹事の負担が心理的にも身体的にも増してきたのかもしれません。

というところでちょうど今年入学から切りのいい数字となったので、
これを以て打ち止めとなったのでありましょう。

そして、最後のクラス会ともなると、海上自衛隊はその遂行のために
惜しみない協力をするものなのですね。

前日の懇親会から第一術科学校と幹部学校の校長が参加し、
当日は到着のときから控え室にはお茶を用意し、気のせいか
別嬪のWAVEさんを会場には配して万全の態勢です。

6つのグループに分かれて午前と午後で違うコースを見学する
参加者のために、敷地内をマイクロバスが走り回り、
それを運転する隊員、団体に付き添って解説をする隊員、
至る所に警衛係と支援役員という役職の隊員がトランシーバー完備で
配され、警戒、誘導各種心配りも完璧。

「広報が任務の自衛隊」にとって本職と言えないこともありませんが、 
一般の見学ツァーとの対応のあまりの違いに、正直驚いてしまいました。

高齢の方々に対する自衛隊側の気遣いは大変なもので、
わたしのグループには車いすで参加した方がいたのですが、
この夫婦のためだけに自衛隊は車いすごと乗れる小さなバンを用意し、
この人だけを運ぶ係が割り当てられていたくらいです。


この車椅子の方は、そういう状態であっても、いやそうなったからこそ、
最後の同期会と江田島を見ておきたかったのかもしれません。


参加したことのある方はご存知のように、一般の見学ツァーは
一人の自衛官と入り口近くのスタート地点から歩いて、
大講堂、赤煉瓦、教育参考館見学までがワンセットのコースです。

しかし、この同期会の江田島訪問では、自衛隊側は「特別コース」
を用意してくれていたのです。

つまり、こんな機会でもないと行けない場所、入れない建物、
目にすることのない施設を目にすることができたのです。

術科学校長と幹部学校校長のお二方と話をさせていただいたとき、

「また別の機会に見学に来られるのでしたら、そのときには
普段はお見せしない部分にもご案内しますよ」

と嬉しいお約束をしていただいたのですが、おそらくそれは
今回の「特別コース」のことかと思われます。
(来年にもご招待に預かることになりそうです)

さて、その「特別コース」、それがまずご紹介する

水交館

です。



午前中の見学でわたしたちは教育参考館を見ましたが、約半数は
先にこちらのコースを見学したようです。
昼食をした「第一食堂」の真ん前にはマイクロバスが待っており、
我々はそれに乗り込みました。

教育参考館からも見える武道場の横を通って行きます。
要所にはちゃんと警衛係(警備を自衛隊的にはこういうらしい)が
肩からレシーバーを下げて立っています。



途中の道は必要最小限の舗装しかされておらず、ほとんどが

昔のままの土の道です。

おそらくこれも兵学校時代からある防火用水プールでしょう。
どうやって水をためているのか分かりませんが、罰ゲームで
幹部学校生徒が放り込まれたりしないように(たぶん)、
周りには鉄線の柵が巡らせてあります。


バスに乗るからには遠いのかと思ったら、わずか2~3分で
赤煉瓦の瀟洒な建物の前に到着しました。



これが水交館です。

水交館は、明治憲法公布の前年、明治21年(1888年)に「集会所」として
建築されたもので、江田島地区で現存する最も古い建築物です。

通称「赤レンガ」と呼ばれる有名な海軍兵学校生徒館は、
日清戦争の前年、明治26年(1893)、その5年も前の竣工で、
兵学校の築地からの移転と同時にまずここが立てられたことがわかりますね。


エントランスは昔のこういった様式のものに違わず、
車寄せのためのアーチが設えてありますが、ここに車が停まったのは
おそらくごく最初の頃だけだったのでしょう。
今では両脇にツツジや紅葉などの植栽が大きく育ってその跡も見えません。



アーチのカーブに白いレンガを挟んで装飾にしています。
築地の兵学寮の設計と、ここ江田島の赤煉瓦は同じイギリスの
建築家の手によってデザインされていますから、おそらくここもでしょう。



ただ、たとえばレンガ一つとっても、生徒館のそれと比べると、

ご予算の点で質には若干差があったらしく、経年劣化が見られます。
見学ツァーでは必ず赤煉瓦の建物の近くまで行って、その表面が
ツルツルしていてまったく劣化していないことを確かめるのですが、
要するにこちら側が普通で赤煉瓦は特別だということです。

外側のメンテナンスも丈夫なのをいいことになにもしていないようですが、
そのせいでこんなところ(エントランス上部側壁)に草が生えてますね。



エスコートの自衛官と語らう元生徒。

本来なら兵学校生徒は卒業前のマナー実習をここで行いました。
全員が盛装して遠洋航海を始め士官として必要な洋食のテーブルマナーを
実際に料理を供されながら実習するというイベントがあったのです。

このマナー実習は生徒たちにとって大変な楽しみでした。
しかし、今回江田島訪問をした生徒たちはそれを経験していません。
彼らが最上級生になる前に戦争が終わってしまいましたし、
そもそも戦争末期には物資不足でマナー教室に供するような
コース料理を作る余裕もなかったのです。

それではどうやったかというと、ここ水交館にテーブルセットをし、

「料理が出ているつもりで」

スープの飲み方、肉の切り方などをレクチャーされたのだそうです。

こんなマナー教室は楽しみどころかやらない方がまし、
という生徒の怨嗟の声もあがったものだそうですが、
おそらく彼らの在学中にはそんな「まねごと」すら
廃止になっていた可能性もあります。



装飾の一切ない真っ白な漆喰の壁がいかにも兵学校の建物らしいとはいえ、
飾り彫りの階段の手すり、赤絨毯などに優美な雰囲気を残します。

二階には上がれませんでしたが、これまで見たこの時代の建築の
例で言うと、二階もやはり廊下の両側に小部屋が並んでいるのでしょう。



一般には公開していないこの建物とはいえ、現在でも
国内外の来賓の接遇等に使用されているため、内部は
大変手入れが行き届いています。


壁も絨毯も何度も替えを行っているようでした。



部屋の内部。
このテーブルにカットグラスや洋皿が並べられ、
しゃちほこばって生徒がシルバーを使うこともあれば、
図書館として使われていた時期もありました。



「海軍兵学校沿革」という蔵書の明治21年の項を見ると、

四月 江田島ニ新築中ノ建物、物理講堂、水雷講堂、運用講堂、重砲台、
官舎、文庫、倉庫、活版所、製図講堂、雛形陳列場、柔道場等落成ス

と書かれています。
この年に兵学校は

八月一日 本校ヲ安芸国江田島に移サル汽船旧東京丸を以テ学習船と称し
船内ニ於テ同月十三日ヨリ開聴シ校務を処弁ス 江田島丸ヲ受領ス

と書かれているように夏に江田島移転をしています。
それに先駆けて作られた建物の中には、この「水交館」もありました。

記述の中にある「文庫」がここを指します。
ここが「水交館」という名称になったのは海上自衛隊に返還されてからです。




「返還された」というのは、そう、終戦後には進駐軍が接収していたからですね。
進駐時代にはここは牧師などが宿泊していたということです。

テラス越しに臨む庭園はいまでも樹木の手入れが行き届いています。




我々グループを案内してくれたのは長身剃髪(というかスキンヘッド)、
明るく大きな声で姿勢の良い士官でした。

彼の後ろには今までに贈呈された記念品が飾ってあります。



この額はピントがボケていて細部が読めなかったのですが、
右側は東京消防庁から贈られた「纏」の意匠です。
何か交流行事が行われた記念でしょう。

この部分にはかつて本物の薪をくべる暖炉があったものと思われます。



ランプ等の照明器具は取り替えられたものと思われます。
雰囲気を壊さないようなデザインのものが選ばれていますね。



廊下にはずらりと並んだ帽子掛け。
生徒や海軍軍人たちは、ここに軍帽と短剣を掛けたのでしょう。
冬には海軍マントも・・・。




こういう古い建築物に異様な執着を持つわたしとしては、
皆が行かない隅までのぞいてみないと気がすみません。

一番奥に行ってみると、まるで理科実験室のような部屋がありました。
冷蔵庫や食器、調理台もあることから、ここはキッチンですね。



スプレーにセロファンテープ???????
何となく道具がその辺に雑然と置いてあるのがリアル。



天窓も空気切りとして開閉できたようです。

白い格子の窓ガラスを填めた美しいドア。



レンガの部分には修復の形跡は全く見られません。
江田島で最古の建物といっても、たかだか126年。

わたしはイギリスの田舎で中世に建てられた古城で行われた
知人のイギリス人同士の結婚式に出席したことがありますが、
かの地では数百年前の建築物を使い続けるのはごく普通のこと。
何百年も前の幽霊が出るのをステイタスにしているくらいです(笑)


この当時のイギリス風建築で建てられた水交館がいまだに

びくともせず使用に耐えていても当然のことと思われます。
 




一段上の裏側から見た「水交館」。
古い雨樋などをなぜかそのままにしてありますが、
いたるところ排水等の修繕がされたらしい外観です。

窓のアーチ部分の白いレンガがアクセントとなっていますね。

「文庫館」として建てられた水交館は、その後、同時に落成した
ほとんどの建物が建て替えられてもレンガ造りのため残され、
(やはりレンガ造りの理化学講堂はまだ残っている)

その間

「図書館」→「会議所」→「将校集会所」

と使用目的を変えつつ終戦を迎え、進駐軍からの返還を経て

現在も江田島の第一術科学校校内にその優美な姿を留めています。



建物の見学を終えて外に出た一同を、案内の自衛官は先頭に立って
次の見学場所に誘導して行きました。
なんとこの自衛官が

「わたしはここに在学していましたが、その間はもちろんのこと、
そして勤務している現在も、ここに来たことがありませんでした。
つまり、これを見るのは今初めてなんです」

と感慨深げに述懐したところの

賜さん館

です。
今調べてみましたが、ここだけは見学ツァーは勿論のこと、

どういうわけか第一術科学校のHPにすら記述が見当たりません。

さぞ貴重な見学になると思われますが、さて。


続く。




パシフィックコースト航空博物館~オペレーション・ハブ「イチバン」

2014-12-02 | 航空機

パシフィックコースト博物館シリーズ、
今日でようやく展示機の全紹介となります。

このフィールドの写真の空の色をご覧になっても分かるように、
この日のサンタローザは焼けるような陽射しが容赦なく照りつけ、 
帽子とサングラスなしには数分と立っていられないくらいでした。





T-33A SHOOTING STAR  T-BIRD (LOCKHEED)

この辺りになって来ると写真の撮り方も適当になってきて、
サングラスを外さずにファインダーを見ていたりしたので、
ノーズの先が欠けてしまっています。

ロッキードのT−33については、入間基地の自衛隊機墜落事故を

「入間T−33A墜落事故~流星になった男たち」

というエントリに書いたこともあり、
どうしてもそれを思い出さずにいられないのですが、
あの事故を想起しつつ機体を眺めると、まずその小ささが目につきます。
搭乗者はほとんどゴーカートに乗っているような感覚でしょう。

大きければ恐ろしくないなどとは思いませんが、それにしても
生身の人間が全く保護されていない感覚のまま、その機体が
暴走し出したとき、一刻も早く機を捨ててベイルアウトしたい、
そう思うのが人間の本能だろうと思います。

しかし彼らはそれをしませんでした。
住民の巻き添えを防ぐために、機を完全に立て直しきるまで・・。

話で聴くだけでは実感できない搭乗者のそのときの視点、
そして何より恐怖というものが、実際の機体を見ると
あらためて感覚として真に迫って来るのを感じ、
わたしは入間から遠く離れたサンタローザで厳粛な気持ちに見舞われ、
彼らを思うと、いつのまにか頭を垂れずに入られませんでした。




表示の「Tバード」ですが、これも米軍でのあだなだったようです。
日本ではむしろ「サンサン」と呼ばれることが多かったとか。
これも防衛省は「若鷹」という愛称を公式に制定したのですが、
現場には使ってもらえなかったようです。

「わかたか」・・・・・いいにくいよね(´・ω・`)



翼端に黒い増槽(燃料タンク)がついているのが
デザイン上の大きな特色になっています。

今気づいたのですが、この写真もノーズが欠けていますね。
どうしてこの機体の写真はことごとく同じ部分が写っていないのか、
不思議で仕方ありません。



Tー38 TALON  (NORTHROP)

ノースロップ社は、航空軍事支援プログラムを通じて
西側同盟国に機体を供給するため、操作性に優れた高性能の
軽量戦闘機を製造することにし、1950年半ばに、
民間のベンチャー開発プログラムを開始しました。

米空軍はノースロップNー156Tとして開発された練習機に
興味を示し、YT−38へと発展させて採用することになります。

ちなみにこのときに同時に開発された戦闘機型のNー156Fは、
その後ノースロップF−5の原型となります。




この機体にはステップが掛けられていたので、
上に登ってコクピットの写真を撮ってみました。

 

シート右手に黄色と黒のストライプのレバーがありますが、
これがイジェクトシートの作動レバーだと思われます。

座席になぜか木切れが置いてありますが、これは意味不明。



この機体もトップガンではアグレッサーを務めています。
後ろから突き出したものはマイクでしょうか。

名称の「タロン」というのは猛禽類のカギツメのことです。
双発ジェット練習機としては大変優秀だったため、1000機以上が
生産され、数カ国の軍隊で使用されている他、アメリカでは
NASAが宇宙飛行士の訓練用や連絡用の飛行機として採用しています。

なお、空軍の模擬格闘戦では。最新鋭のF−22に勝ったこともある模様。



UH-1H IROQUOIS  (HEUY)

ヒューイヒューイと呼んでいますが、実はこれも
正式名称は「イロコイ」といいます。

ヒューイというのは最初のタイプ「HU-1」の「1」を「I」と呼んで
「ヒューイ」と呼び出したのが始まりだそうです。
日本軍がP−38を「ぺろはち」(3を”ろ”と読んだ)と呼んだみたいですね。 

この機体は1967年に米軍がベルヘリコプター社から購入したもので、
ベトナムでも配備されたことがあります。
が、ピックアップのときにメインローターが大破するという事故を
2回起こしています。
のみならず、敵の攻撃により、ホバリング中メインローターを2度破損。

もうメインローターのお払いをしてもらった方がいいんじゃないか?
というくらい同じような事故を繰り返しているヘリコプターなんです。

というか、メインローターってそんなに破損し易いんですかね。 



ベトナム戦争終結後は、カンボジアでの作戦に参加。
71年に帰還し、テキサス・ナショナルガード(州兵)の所属に。

その後陸軍に行ったりウェストバージニアのナショナルガードに行ったり、
ローターが何度もやられた割には丈夫であちらこちらたらい回し。

最後にはなんと落雷による損傷まで受けたというのですが、
その後も修理してしれっとカリフォルニア州兵の所属となり、
現在ここで余生を送っています。

まさに百戦錬磨の古兵として引退をしたヴェテランと言っていいでしょう。




背中にスペードをつけた蜘蛛をノーズにペイントしたのは
このうちどの部隊だったのでしょうか。



さらにこれ。
ビートルズの曲、

「Lucy In The Sky With The Diamond」

と、当時の「サイケデリック」なロゴで書かれています。
このロゴを見てもおわかりかとおもいますが、
この曲は「LSD」(幻覚剤)によるイリュージョンを描いた、
といわれており、このヒューイの当時の乗員たちも
悪ノリしてこれをわざわざ機体に描いたのかと思われます。

アメリカの若者のヒッピー文化はベトナム戦争への反対運動として生まれ、
高揚や悟りや覚醒を求めるという手段に薬を用いましたが、
現にベトナムにいる兵士たちがこの曲をシンボルにしていたというのは
戦争に参加している当の兵士たちの間にも「反戦」「抵抗(レジスタンス)」
の空気があったということでしょうか。

現在、アメリカはベトナム戦争でベトナムに負けたのではなく
国内の反戦に負けたとする説もあります。



FIGHTING FALCON  F−16N VIPER

かっこいい飛行機!と思ったら名前もかっこよかったでござる。

ファイティングファルコン!
ヴァイパー!

なんとなく中二病的な匂いさえしてくるわけですが、この名称、
空軍士官学校のマスコットが鷹(ファルコン)であることから
ファルコンにしたかったのだけど、すでにビジネスジェットに
同じ名称が使われていたことから、「ファイティング」をつけ加えました。

ヴァイパーというのはこちらは非公式な愛称、あだ名で、
ヘビの総称のように使われる言葉です。

フライバイワイヤを採用し、軽量の戦闘機として開発されましたが、
対地攻撃にも優れており、「マルチロール機」の走りとも言えるでしょう。

NATO諸国の空軍の「ホットロッド」の海軍版、とあだ名されます。



キャノピーの形状を見て頂ければおわかりかもしれませんが、
全周が視界良好であるため、初めて他の機から乗ったパイロットは、
加速時にまるで振り落とされそうな気がするのだそうです。



ヴァイパーはMig-29にその性能が酷似していたそうです。
もともとこのN型は、アグレッサー部隊の異機種戦闘機訓練用に作られ、
訓練用ということで空対空ミサイルなどは搭載しません。

ぱっと見たときに妙にすっきりしたシェイプだと感じたのは
どうやらこのせいではないかと思われます。

当博物館はF−16Nを所有するたった3つの民間博物館のひとつで、
それというのも米軍、特に海軍からは

非常に高い評価を受けているからである

とHPには誇らしげに記されています。 



F−5E TIGERII

前にも一度ご紹介していますが、真正面から見た
このフェイスがウーパールーパーみたいなのでもう一度。



Tー37B TWEET  (CESNA)

セスナエアクラフトは、ターボジェット駆動の練習機として
軍用規格に対応したこのTー37を開発しました。
「ツィート」とはご存知のように鳥のさえずりですが、
このあだ名は実際にこれを練習機に使用した搭乗員から賜りました。



パイロットとインストラクターが並んで乗る並列複座式。
これは全体から見ると少数派になります。



ノーズ先の尖った部分にはテニスボールが差してありました。



空軍で運用されていた機体ですが、練習機であるせいか、
クッションカバーの選択にのんびりしたものが感じられます。




さて、というわけでフィールドの航空機を全て紹介し終わりました。

滞在時間をできるだけ短縮するため、説明はほとんど読まず、
機械的に写真だけを撮りまくったのですが、それだけでも
たっぷり1時間は要しました。
この建物は、ボランティアのメカニックたちの詰め所のようです。



おじさんたちが4人くらいで昼食中。

 

帰りも売店と資料コーナーのある建物を通ります。
ガレージのようなところには、展示なんだか整備中だかわからないものが。

これはただの箱に見えますが、なんとSR−71ブラックバードの搭載していた

ASTORO-INERTIAL  NAVIGATION SYSTEM (ANS)

つまりナビゲーションシステムです。
下の方に「レーダー」と書いてありますね。
「NO STEP」がなんだかシュールです。



ブラックバードの「おむつ着用問題」について前お話ししたのですが、
どんなスタイルで乗員が乗っていたかwikiで見つけました。
これではまるで、宇宙の旅・・・。



さらに、嘉手納基地に配備されていた頃の

「ハブ作戦」(Oparation Habu)

のポスター。
右下には「ICHIBAN」と書かれています(笑)

いやー、何かと話題の多い機体ですね。ブラックバード。
航空機とその周辺のネーミングについて語ることの多かった本稿ですが、
これをして話題性における優勝としたいと思います。




最後に、当博物館渾身の手作り飛行機。
隣に犬小屋がありますが、これとあわせて

「スヌーピーセット」 

であると思われます。
(ここはソノマカウンティ・チャールズ・シュルツ空港ともいう)


この博物館については、またいずれ館内の資料室について
あと一回お話しして、おしまいにしたいと思います。


続く。




 


パシフィックコースト航空博物館~スカイホークとハリアーの「難度」

2014-12-01 | 航空機

サンフランシスコの北に面するソノマ地方にある、
パシフィックコースト航空博物館。
残りの航空展示を一気にご紹介して行きます。



A−4E SKYHAWK   McDonnel Douglas

マクドネル・ダグラス社のこのA−4Eタイプの機体が見られるのは
どうやらここだけのようで、wikiのページにはこの写真が載っています。

それはいいのですが、写真につけられた説明が
「太平洋岸航空博物館」て・・・・。
確かに直訳すればこうなるんですが、そもそもなんで訳すのか。



大きな特性として、「アビオニクスパック」を胴体上部に備えたことがあります。
それまでのスカイホークにはなかった仕様です。
このスカイホークは海兵隊所有のものだったのですが、
アビオニクスパックの部分には

「ダイヤモンドバックス」

とわざわざ大書してありますね。

Diamondbackというのは背中にダイヤ模様のある蛇とか、
あるいはダイヤ柄の甲羅を持つ亀のことなのですが、
航空機に搭載する電子機器、つまりアビオニクスを亀の甲羅のように
背中に背負ったことから名乗った飛行隊のニックネームなのだと思われます。


なお、2001年宇宙の旅の原作者であるSF作家、アーサー・C・クラーク
このアビオニクスパックのことを、まるで男性の股間だと言ったとか言わないとか、
怪しげな情報もありますが、調べても分かりませんでした。(調べるなw)



またこのスカイホークE型は、ハードポイントを5カ所に増やしました。
(それまでいくつだったのかはわかりません。いずれにしても
スカイホーク自体は最初から完成度の高い機体だったといわれます)

ハードポイントは読んで字の通り重量強化点ですが、同時に

「機外兵装ステーション」

のことでもあります。
その一つがこれ。
wikiには搭載できるとは書いていなかったのですが、
これはAH−1コブラが積んでいるハイドラ70ロケット弾ですよね?



緑色のは汎用爆弾Mk82ではないかと思われますが、

黒いのはちょっとよくわかりません。
Mk81の方かな。



機体の影にあったなにやら面白そうな記号解説。

ホイスティング・ポイントとか、給油口とか、
酸素取り込み口とか?そういったあたりです。

機体性能が安定していて使い易いのでこの機体は
「ブルーエンジェルス」 の使用機種となっていますし、トップガン
(戦闘機兵器学校)ではアグレッサー(他国の航空戦術を模倣する教官)

によって仮想的役を務めることもありました。

スカイホークは映画の「トップガン」にも教官機として出演し、
映画「ライト・スタッフ」では、



スコット・グレン扮する海軍のテストパイロット、アラン・シェパードが、
空母に着陸するシーンにこのスカイホークが使われていました。

 
「ホセ・ヒメネス」は シェパードお気に入りの「ネタ」です(笑)



AV-8B( Harrier )


フロリダはペンサコーラにある海軍航空博物館から貸与された機体です。
アリゾナ州のツーソンで現役を引退しました。

ハリアーという名前はトヨタの車にも使われていますが、
オスプレイと同じくこれもタカ科の猛禽類です。(チュウヒ) 
ネーミングとしては航空機の方が合っていますね。

なぜなら、鳥のオスプレイとハリアーには 、

「向かい風でホバリングすることが出来る」

というイメージだけではない「名前を採用された理由」があるからで、
空中でホバリングできるVTOL機にはこれ以上ないネーミングといえます。
 

1962年頃からNATOは垂直離発着戦闘機の研究を始めましたが、
実際にはその2年後にイギリスのホーカー・シドレー社が、
実験機である「ケストレル」を製造しました。

この「ケストレル」というのもハヤブサ科の『チョウゲンボウ』
の英名で、この鳥もホバリングすることが出来ます。


このケストレルの実用型は英空軍に「ハリアー」の名で配備されました。 
アメリカでは海兵隊がAV-8A」の名前
で採用したためか、
この博物館の表示には「ハリアー」という文字は見えません。

米軍も「ハリアー」と呼んでいたと思うのですが。


ついでに、スペイン空軍ではこれを
「マタドール」(闘牛士)という名称で配備していました。
なんで闘牛士なのか。




1982年に起こったフォークランド戦争に、AV-8Aは英空軍機として
出撃し、自己無損失に対しアルゼンチン空軍の戦闘機を20機撃墜し、
その優秀さを世界に知らしめることになりました。 

現在は後継機のハリアーIIに移行され、殆どが姿を消しましたが、
「マタドール」だったスペインのハリアーはタイ空軍に譲渡され、
またインド海軍でも練習機としての使用が行われているのだそうです。 



エアインテークのカバーには・・・・・

ロールスロイス?!

どうやらロゴは本物のロールスロイス社のものらしい・・。
当機はなんとエンジンはロールスロイス社製
ペガサス Mk.103 推力偏向ターボファン・エンジンを搭載しています。





ハリアーは機体側面に合計4つのエンジンノズルを装備しています。

これがそうなのですが、ノズルの周囲には、「0」「10」「55」
等と書かれたメモリがつけられていますね。

この目盛りはエンジンノズルの角度を測定するためのもので、
角度を変えることによって、VTOLを可能とします。

角度は0度(普通の推進)から98,5度までの可動域があり、
(写真の目盛りも90度の次は98度となっている)
98,5度のときにはノズルは真下よりも若干前を向くため、
わずかながらバックすることも出来る仕組みとなっています。 


ハリアーはVTOL機のため、固定翼機とは操縦の方法が全く異なり、
修練者は、必ず回転翼機の操縦を並行して学ぶことを義務づけられています。

操作はしかも大変複雑なもので、垂直離着陸のためにボタンを30個、
常に操作していなければならないのだそうです。

この煩雑さが仇となって、何と45人もが操縦ミスで死亡しています。

もしかしたら、「オスプレイは危険だ!」と騒いでいる連中は、
実はたいしたことがないオスプレイの事故比率ではなく、
こちらの事故をオスプレイだと思って騒いでいるのではないかと思うくらいです。

あるいは「同じ垂直離着陸機なのでオスプレイも危険なんだろう!」
と決めつけているような気がしますね。

じゃオスプレイの操縦は簡単なのか?といいますと・・・

難しいんです(きっぱり)

どれくらい難しいかというと、人間には操縦不可能なくらいです。
しかし、だからソフトウェアで飛ばすんですね。ええ。
フライバイワイヤといいまして、飛行制御コンピュータが計算して
複雑な操作を皆やってくれるんです。

だから30個のボタンをいつも脂汗垂らして操作しなくてもいいのです。

この方式が採用されるようになってから、飛行性能が良くても、
操作性や安定性が悪くて乗れなかった航空機が、簡単に乗れるようになりました。

勿論、停電の危険や、操作に対する応力(手応え?)がないため、

戦闘機などではとくに限界Gを越してしまう、などの欠点はありますが、
いずれにしても反対派が騒ぐほど「難しい航空機」ではないのです。

元海幕長の赤☆氏もおっしゃってました。


「オスプレイは絶対に安全です」 



バックギャモンを思い出す尾翼の模様。




ハリアーの機体に駐機中の「ハニービー」。

武器は尾翼に搭載されていますが、一度だけしか使用できません。
しかし垂直離着陸、ホバリングが可能で、事故知らずの制御装置付きです。



続く。