ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

駆逐艦「藤波」のこと

2010-11-10 | 海軍

「クリスマスの季節が来るたびに『藤波』の乗組員たちの記憶が甦って私の心に重くのしかかります。
そして私は彼らの魂の安らぎをひたすら祈るのです。

駆逐艦藤波の松崎辰治中佐は天晴な海軍軍人でありました。
もし『藤波』とその素晴らしい乗組員たちの振る舞いが日本の人々、
とりわけ『藤波』乗組員の遺族の眼に留まることがなければ、
私は死ぬに死ねない思いを抱いています。

この文章を読んでいただいた全ての方にお願いします。
どうか私のこの願いを叶えさせてください」



これは、昭和19年10月25日に行われた比島沖海戦中、
第一遊撃部隊、栗田艦隊のサマール沖海戦で沈没した
「ガンビア・ベイ」の乗員であり
生存者の一人、ポトクニアク氏が 旧海軍の第一期飛行専修予備生徒の会である

「関東海軍一生会」

あてに送ってきた手紙の一部です。




この海戦で米軍護衛空母「ガンビア・ベイ」は撃沈され、乗員約706名は海中に投げ出されていました。
そのとき米軍主力艦戴機は栗田中将率いる艦隊を追い、生存者には気付いていませんでした。


駆逐艦「藤波」は栗田艦隊の第二水雷戦隊の第32駆逐隊に属して
この海戦に参加していましたが、航行不能となった「鳥海」の乗組員を救助し、
魚雷で「鳥海」を処分しました。


「鳥海」の護衛にあたっているときから「藤波」は海中を漂う
「ガンビア・ベイ」の生存者の周囲を巡航していたようです。


「鳥海」処分後、「藤波」はガンビア・ベイの乗員の漂う海中を通り抜けます。
そのとき、


「あまたの漂流者の中から、まず同僚のルー・ライスが、
そして兵曹のバーン・カールセンと副長のバリンジャーが声をあげたのです。
我々に気付いた「藤波」の乗組員が舷側に立って手を振り、写真を撮り、
そして我々に一斉に敬礼しているのが見えました。
我々は「藤波」から機銃掃射を受けるものと覚悟していたのですが、
我々は何ら手荒なあつかいをうけなかったのです」



本日画像の「藤波」艦長、松崎辰治中佐は海軍兵学校52期卒。
同期生に源田実、淵田美津雄、猪口力平氏がおり、先日お話しした
「帝国海軍の武士道」の工藤俊作艦長は一期上。
やはり鈴木貫太郎校長の薫陶を受けた世代です。

戦った相手に敬意を表した「藤波」は、奇しくも「ガンビア・ベイ」の乗員たちが
救助されたころに艦載機に魚雷の攻撃を受け、撃沈され、

救出した「鳥海」の乗員とともに全員が戦死しました。


「ガンビア・ベイ」を撃沈したのは重巡洋艦「利根」ですが、
「利根」艦長の黛治夫大佐は、

「ガンビア・ベイ」の乗員が飛行甲板の後端に集まって

冷静に縄梯子を下りる順番を待っていた

のを双眼鏡で認めており、無用の殺傷を避けるために船体の中央を狙ったことを戦後語っています。

そしてこのような言葉を付け加えました。

「このような勇士と戦えたことは私の最も誇りとするところです」


この記述をある日ポトクニアク氏を始め「ガンビア・ベイ」の生存者が眼にしました。


このことから、彼らがあらためて自分たちが戦った日本帝国海軍の武士道精神を、
とりわけ誰ひとり語ることなく海の波間に消えてしまった「藤波」の乗員の崇高な行いを、
世界に知ってほしいとの強い思いを持ったものでしょう。



今現在、駆逐艦「藤波」のことをインターネットで調べても、このような話は全く検索にかかってきません。
この話も「ひっそりと海の底に眠っていた」ものの一つだったのです。

なぜなら、全員が海に沈んでいった「藤波」の乗組員がどのように振る舞ったかを知っていたのは
敵であった「ガンビア・ベイ」の乗員だけだったからです。


もし「鳥海」の仇打ちとして海の上の敵に対して機銃掃射をしたとしても
戦争という異常事態の中では咎められることでも、異常なことでもなかったのですが、
それでも「藤波」の松崎艦長は「海の武士道」を貫きました。


ポト二アク氏は次のように語っているそうです。

「私は世界の人々、とりわけ日本の人たちに駆逐艦「藤波」の乗組員のことを知ってもらいたいのです。
これら乗組員たちの、見事な行為を知ってほしいのです。

我々は無事に帰郷し、昭和19年のクリスマスをそれぞれの家族とともに過ごすことが出来たのです。
しかしながら、「藤波」の全乗組員は亡くなってしまいました」






この記事は、今月号の機関紙「靖國」に、アメリカ合衆国海軍協会会員である西村克也氏の名で掲載されています。

万が一、これを読まれた方の中で駆逐艦「藤波」の乗組員の御遺族、関係者がおられたら、
靖国神社内「靖国偕行文庫」までご一報をいただけないでしょうか。












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17 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (あきこ)
2010-11-23 10:19:26
初めまして。
ちょっとしたきっかけで、駆逐艦 「藤波」 を検索したところ、こちらを見つけました。
私の父の兄が「藤波」の乗組員でした。
早速、父にこのことを話すと、知らなかったと言い、何度も何度も読み返し、とても感動したようでした。
なかなか靖国神社へは行けないのですが、この記事を読ませて頂いたという足跡を残したくて、コメントを書かせて頂きました。
心からありがとうございました。
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ご連絡をぜひお願いします (エリス中尉)
2010-11-23 20:16:22
伯父様が乗組員でいらしたのですか。
本当に、本当にこのことを書かせてもらってよかったです。
いただいたメール返信で靖国神社の電話番号を送ります。
「靖國」に掲載されたこの記事のタイトルも
「駆逐艦藤波の御遺族を探しています」
というものだったのです。
おそらく文中に示した、西村克也氏が、ガンビアベイの生存者協会から依頼を受けておられるものと思われます。

ぜひ、連絡をお取り下さるようお願い申し上げます。
偕行文庫は月木が休みですが、職員の方はおられます。

この稿には書いておりませんが、藤波の最後については公式記録がなく、ガンビアベイの生存者がその前半を、後半は第二水雷戦隊の僚艦「早霜」の乗組員が視認しています。
「早霜」は26日ミンドロ島南部で敵艦載機群の攻撃を受け、被雷大破、セミララ島に擱座し、その救援を命ぜられたのが藤波でした。

しかし、藤波は、早霜乗組員の救援に至ることなく敵艦載機に撃破されてしまい、早霜乗組員たちによる藤波乗組員救助活動は結局全員の戦史を確認しただけでした。

防衛庁研究所戦史部に所蔵している藤波の行動記録には
「コロン、敵○○二〇八機ト交戦被弾魚雷誘爆沈没」と記録されています。
 
因みに藤波は、第四次艦艇軍備充実計画において「夕雲型」駆逐艦の十一番艦として昭和十八年七月末に竣工しました。
松崎艦長が初代艦長です。
九月末から南方の実戦部隊に配属、十九年六月のマリアナ沖海戦を経て、十月の捷一号作戦発動、比島沖海戦参加まで約一年間をほとんど無傷で戦い続けてきました。


ガンビアベイの生存者であるポトクニアク氏も八十五歳、このまま自分たちが見た藤波の最後の姿を消滅させるのを惜しんでの、「最後の」呼びかけであると察します。

ぜひ、よろしくお願いします。


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行ってきました (あきこ)
2010-11-24 18:14:06
お返事ありがとうございました。

今日は仕事がお休みだったので、
まだ行ったことがなかった、靖国神社まで行ってきました。
室長さんにお会いし、資料をいただきました。
ご連絡もして頂いてまして、ありがとうございました。

戦争のこと、伯父のこと、父の家族のこと等、何も知らなかったことに気付き、この度のことをきっかけに、もっと父とコミュニケーションを取らなくてはと思いました。
とても感謝しています。
本当にありがとうございました。
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Unknown (よしくん)
2014-01-27 17:58:33
はじめまして。
祖父の兄が鳥海乗組員と聞いており、何と無く検索していたらこちらにたどりつきました。
恥ずかしながら、私の先祖も藤波と運命を共にしたのだろうということを初めて知りましたが、最後まで武士の情けを貫いた先人たちに感動しました。良い記事をありがとうございました。
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よしくんさんへ (エリス中尉)
2014-01-27 23:50:38
「鳥海」というと、夜戦で戦果をあげましたね。
作家の丹羽文雄が海軍の特派員として乗り込み、「海戦」という小説を書いています。
そう長くないので、ご親族が乗っておられたのでしたら是非一読されることをおすすめします。

この小説についてはいくつかエントリを書いており、

「海戦」作家の見た士官たちhttp://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/d2ad1a9af91e638ecbb49867e619ad53

重巡「鳥海」の見た零戦http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/163346b1a35b3399c6b78b2be6a737cc

二番目は、鳥海とガダルカナルから帰還する坂井三郎機との関係を推理したものです。
いずれも鳥海の艦内についての様子が描写されていますのでよろしかったらご覧下さい。
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祖父が (みょん)
2015-04-03 17:44:36
祖父が藤波艦隊というのは最近知り、検索していたところこちらにたどり着きました
生存者がいないということで残念ですが、どんな最後だったのかが少しわかり、祖父を勇士を称えたいと思います

靖国偕行文庫にも一度行ってみたいと思います
ありがとうございます
返信する
この記事について (エリス中尉)
2015-04-04 23:46:57
みょんさん、初めまして。
もう5年近く前にアップした記事ですが、コメント欄をご覧になればおわかりのように、
「藤波」と「鳥海」のご親族の方がこの間検索の結果ここにやって来られました。
インターネットのおかげで、西村氏の呼びかけに一人でも関係者が答えることになったわけで、
わたしはそのお手伝いができただけで感無量でした。

文中のポトニアク氏もご健在ならばもう90歳ですが、生存されているかどうかもわかりません。
もしかしたら西村氏なら連絡先をご存知なのかもしれませんが・・。
もしお元気なら「藤波」の乗員遺族に手紙など出してあげてほしいなあなどと思ったりします。
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ありがとうございます。 (匿名希望)
2015-06-05 16:49:15
私の母の父(私の実の祖父にあたります)が、「藤波」で任務に当たっており、どうやら機関士をしていたようです。
たまたま「駆逐艦 藤波」を調べてみて欲しいと言われ、調べたところこちらの記事を見つけることが出来ました。
近年になってからの証言なので、大きな驚きと、全く分からなかったことが分かり、母も嬉しさと当時に戸惑いも感じているようです。
祖母も目は弱くなってしまいましたが、まだ元気にしていますし、祖父の兄弟姉妹もまだ元気にしておりますので、伝えられる時を楽しみにしています。
靖国神社にも早々に連絡を取ってみます。

記事としてテキスト化して頂き、本当にありがとうございました。
返信する
よろしくお願いします (エリス中尉)
2015-06-05 21:48:50
たまたま「藤波」のこういった話を取り上げたのですが、あの戦争では
どういった最後を迎えたか、わからないままの英霊の方がたくさん今でも海の底に眠っていることが
あらためてわかった気がします。

「藤波」の乗員が戦った相手に敬意を表したこと、そしてガンビアベイの乗員たちがそれに感動したこと。
それらも、ガンビアベイの生存者が次々に世を去っていき、このまま埋もれてしまうはずだったのですが、
ポトニアク氏の証言によってこうやって現代の世に掘り起こされることになりました。

お祖父さまのごきょうだいにも、ぜひ「藤波」乗員の崇高な最後の姿をお伝えください。
こちらこそありがとうございました。
返信する
報告になります。 (匿名希望)
2015-06-09 17:06:46
この度は大変お世話になりました。

「靖国偕行文庫」に連絡をし、返信待ちとなっていましたが、すでにポトニアク氏は亡くなられたそうです。
先の大戦で多くの方々が犠牲をなり、その事実と実体験を伝える方々も本当に少なくなってきました。

今回「藤波」に関しての証言をポトニアク氏がして下さったことに、遺族として大いなる感謝をすると共に、深い哀悼の意を捧げたいと思います。
また、この記事を残して下さっていたブログ主様にも、深い感謝と共にこれからの益々のご繁栄を願ってやみません。

この度は本当にありがとうございました。
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