ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海軍兵学校同期会@江田島~「兵学校の松」と「伊藤長官の桜」

2014-12-18 | 海軍

赤煉瓦の生徒館は、一般ツァーで巡るときには必ず近くに寄って
そのレンガの表面に触れさせ、いかにツルツルしているかを説明し、
レンガの由来(イギリスから運ばれてきたと長年言われてきたが、
実はこの近くに産地があったことが近年分かった)などを説明するのですが、
このツァーはほぼ全員が過去のクラス会で一度くらいは来たことがありますし、
何と言っても在学していた兵学校生徒たちですから、そのような説明は
一切ないまま、建物に近づくこともありませんでした。

普通の説明をしたあとは、エスコート士官はあっさりと次の場所、
大講堂に向かって歩いて行きます。



右手に見えている松は、松とは思えないくらい真っすぐに伸びていますが、
おそらくこれも兵学校時代からの松に違いありません。
チャップリンが映画「ライムライト」で「日本の松のように身体を折り曲げて」
といいながら松のふりをするシーンがありましたが、
(あの映画、チャップリンの映画なのになんだか説教臭かったですね)
その日本の松なのにどうしてまっすぐなのかという理由については


「毎日生徒たちにかけられる号令を聞いて育っているから」

というのが通説になっています。

まあ、あるかもしれませんね。

ハードロックを聴かせると音源を避けて育つ植物が、
モーツァルトを聞かせると寄り添い包み込むように伸びる、
なんていう実験もあることですし。

ただ、海兵団とか飛行隊とか、他の軍施設の松はどうだったのでしょう。
陸軍士官学校にもおそらく松の一本くらいはあったはずですし、
防衛大学の松はやはりまっすぐなのか?とか()ちょっと気になりますね。



大講堂の方へ向かって歩いて行く右手に見える建物は

最初に到着したときにお茶を頂いた庁舎です。
これは第一術科学校の庁舎だということが今分かりました(笑)

この建物は、戦前の江田島の建築物の中では新しく、
昭和16年(1941)に海軍兵学校庁舎として建設されました。




雨のかからないような車寄せ、建物の角には暖炉でもあったのか、
煙突のようなものが見えます。

終戦になってすぐさまここにはアメリカ軍が進駐したわけですが、
彼らが接収したときにはここはまだほぼ新築の状態だったのです。



第一術科学校とは、艦艇に乗り込み、


砲術、水雷、船務、通信、航海、気象・海洋、
掃海・機雷、運用、応急及び潜水艦

などの配置で勤務する自衛官に対して専門教育を施す期間です。



大講堂一部。

アップにして気づいたのですが、この半円のガラス窓は、
太陽の放射線を象ったモチーフで装飾されており、明らかにこれは
旭日軍艦旗のイメージが取り入れられています。
山形の屋根の頂上には金色の飾りがあり、どうもここにも桜に錨が
刻まれているように見えますが、小さくてわかりません。



外壁には国会議事堂と同じく瀬戸内海産の花崗岩が使われています。
鉄骨煉瓦石造の大講堂は大正6年(1917年)に兵学校生徒の入校式、
卒業式また精神教育の場として建築されました。

柱のような壁面のモチーフの上部は、先日見学した呉の

呉鎮守府庁舎(現呉地方総監部庁舎)とよく似た型式です。



扉上部の格子のモチーフは、たとえば通風口等にも使用されています。

約60年前、彼らは真新しい兵学校の軍服に憧れだった短剣を佩し、
希望に溢れてこの大講堂での入校式にいました。
もしかしたら、彼らにとって人生最後に見る江田島の大講堂。
当人達の気持ちは、とても戦後生まれの他人には想像もつかないものですが、
せめてこのときどのような感慨を持ったのか、聞いてみたくもあります。



青銅の門扉。
扉には取っ手がなく、内側に向かって開くので、ここを開けるときは
どこかを押すことになるわけですが、やはりそういうときには
いくつか見えるように指の跡をつけることを恐れ、右扉の大丸か、
小さな丸を選んで押しているような形跡が見えます。



内部はドーム式。
マイクのない時代、壇上の声が隈無く聴こえるように、
壁素材(内部に和紙が使われていると聞いたような気がする)と、
この天井の形状は工夫されているのだそうです。
当初あまりに音が響きすぎて、少し押さえたという話もあります。


画面右上のバルコニーは窓二つ分で仕切りがあり、
ここにはやんごとなきお方が式典に出席するとき、
たとえばご子息の入校式、卒業式に参列する皇族の方々が
座ることになっていました。


戦後、ここに無理矢理?特例で座った唯一の人物は、
卒業する幹部の父兄として参列した、当時自民党の小沢一郎でした。



舵輪を象ったシャンデリア。
苦労して真下から撮っていたら皆出て行ってしまいました。
それでもちょっと歪んでるし・・。



90年間劣化の見られない大講堂の内部正面。
玉座は菊の紋の装飾があり、壇上部の飾りのモチーフは
「知恵の象徴」といわれたフクロウです。
知恵の女神ミネルバのペットであることからそうなったんですね。

ご存知のように卒業式では成績優秀者5人が恩賜の短剣を受け取り、
それ以下の生徒たちもきっちりと前からハンモックナンバーの順に
並んで座るので、参列者には互いに成績が丸わかり状態です。

かつて何度かここに来て元自衛官の解説を聞きましたが、必ず

「わたしは後ろの方に座っておりましたが」

と言うので今日はどうかなと思っていると、やっぱり
本日の自衛官氏も

「わたしはもう、ずーーーっと後ろの方に」

とお約束のように付け加えたのでなんだかおかしかったです。



1917年から100年近くが経ち、多くの海軍軍人が、
この床を踏みしめてここから巣立って行きました。

歴史の重さを目にする度に感じずにはいられない石の床。



わたしたちが見学を終えて外に出たら、前にマイクロバスが
ちゃんと横付けされていました。
入るときには邪魔にならないように姿を消していたのに。

ここからバスに乗って、いよいよ最後の見学場所、
表桟橋に移動するのです。



さて、というところで少し行程を遡るのですが、
赤煉瓦の庁舎を見学する前、第一術科学校学生館と赤煉瓦の間に
前に来たときにはなかった植樹がされているのに気づきました。

細い苗木を見ると、まだこの木が植えられて間もないようです。

「これは『父子桜』(おやこざくら)といいます」

案内の自衛官が説明しました。
父子は父子でも、小沢一郎親子とは断じて全く決して関係ありません。
ええ関係ありませんともさ。






「父子」とは誰のことかと言うと、戦艦大和に乗艦し、
戦死した旧海軍第二艦隊の伊藤整一司令長官と、やはり特攻隊員として
出撃し、戦死した長男叡(あきら)中尉のことなのです。

杉並の大宮八幡宮の近くにある屋敷からは、今でも二本のソメイヨシノが、
通りに向かって枝を太く幾重にも伸ばしています。
一本は伊藤長官が自ら植えた、樹齢八十年を超える親桜。
もう一本は戦後にその根っこから芽が生えた子供の桜です。


伊藤大将の出身地、福岡県みやま市の住民たちは遺族から枝を譲り受け、
苗木になるまでそれらを1年余り育て、伊藤整一の母校である
旧海軍兵学校の庭に咲かせようと、海上自衛隊第1術科学校に贈りました。


この桜の苗木はいずれも高さが2mのものが7本。
写真は、術科学校に訪れた5人の発起人たちが、
徳丸伸一学校長たちとともに構内に苗木を植樹しているところです。


伊藤整一は1945年4月7日、沖縄への海上特攻の途上で
米軍機の攻撃を受け、大和の乗組員たち約3千人とともに散華しました。


ところで、映画「聯合艦隊」では、兵曹長である父(財津一郎)の乗り組む
大和を航空機で護衛する息子(中井貴一)が

「あなたより少しだけ長生きするのがせめてもの親孝行です」

と去り往く大和に敬礼を送り、その直後特攻で戦死する、
というストーリーがあったのを覚えておられますか。


このモデルが伊藤整一中将親子であることをご存知でしょうか。

映画では機関兵曹長の父に兵学校卒士官の息子でしたが、
この二人はどちらもここ江田島出身で、
長男・(あきら)は海軍兵学校(第72期)を卒業しています。

大和特攻当時、叡は戦闘機乗りとして九州の出水基地にいました。
 

天一号作戦に出撃した第2艦隊には15機の援護機が付けられましたが、
宇垣纏中将はその一機に、せめてもの配慮として伊藤中尉機を加え、
叡は第二艦隊長官であった父の最後を零戦から見送っています。


そして大和特攻から3週間後、航空特攻隊の援護を志願して
再び飛び立った伊藤中尉は、伊江島上空で戦死
を遂げました。

昭和20年4月20日、享年21歳。

そのとき伊藤中尉は、まるで父の後を追うため、
死に急いでいるような様子であったといわれます。


東京都杉並区の伊藤家は東京大空襲で焼けてしまいましたが、
伊藤の植えた桜の木は残りました。
戦後、まるで息子の生まれ変わりのようにこの根元から生えてきた芽が育ち、
並んで花を咲かせるようになります。

これを伊藤長官の最後を描いた中田整一氏(伊藤長官と同じ名前?)
がその著書「四月七日の桜」「父子(おやこ)桜」と呼びました。

この父子桜を、彼らの海軍軍人としての魂のふるさとである江田島に
根付かせ、いつかそこで花を咲かせて欲しい、とこの植樹を計画した
発起人の一人、岡部拳(あぐる)さん(81)

「この地に桜が根付けば2人とも喜ぶはずです」

と感激をあらたにし、また徳丸学校長も

「伊藤整一長官ゆかりの桜を大切に育てていきたい」

とこのとき述べたということです。

兵学校の松は「日本の松」なのに天を目指して真っすぐ育ちます。
兵学校に植えられたこの桜は、杉並の「父子桜」が不思議とそうであるように、
やはり伊藤長官の命日である4月7日に、花を咲かせるでしょうか。




続く。