ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

最後通牒とクルーザー上の皇帝ヨーゼフ1世〜TV番組『第一次世界大戦』

2019-10-05 | 歴史

今回ウィーン軍事史博物館でサラエボ事件で皇太子夫妻が凶弾に倒れたとき
乗っていた車の実物を見たばかりのわたし、どうもこういう銃痕は記憶にないので、
不思議に思って観ていたのですが、ふと気がつきました。

銃弾を受けたばかりの車の塗装がこのように剥落することはありません。
つまり、ここに展示されている間に次第に剥がれてきてしまったもので、
わたしがアメリカで観たこの番組が撮られた頃はこのような状態だったのを、
その後出来るだけ事件当時の姿に戻すための修復が行われたのでしょう。

フロントガラスを取り外したり、塗装を当時のままに塗り直したり、
保存のための努力がなされているということのようです。

わたしに言わせるとこの事件のきっかけを作ったに等しいセルビア総督、
ポティオレックの日記には事件の瞬間のことがこう書かれています。

「その瞬間、わたしはピストルの破裂音を聞いた。続けざまにもう一度。
そのときわたしの右手前方で立っていた男が人々に地面に押さえつけられ、
警備の光るサーベルが彼に突きつけられているのが見えた」

この番組製作時にはこれがプリンツィプだとされていたようですが、その後
彼の学友が連座の疑いをかけられて連行されているところだと判明しました。

インターネットの発達って素晴らしいですね。

「閣下の口から右の頬に血が吹き飛んだ。
公爵夫人はそれを見てこう叫んだ。

『ああ神様、あなたに何が起こったの』
(In heaven's name, what was happend to you?)

「彼女の体はシートから滑り落ちて車のフロアに横たわった」

「おそらく彼女はこのときもう意識を失っていただろう」

彼らはフェルディナンドとゾフィーの子供たちです。

「そしてわたしは閣下がこういうのを聴いた。

『ゾフィー、ゾフィー、死んではダメだ。子供達のために生きてくれ』

わたしは閣下に痛みはあるかと尋ねたところ、彼はとても静かに落ち着いて

『なんでもない』

と答えた」

自分も銃弾を受けながら妃の身だけを心配していた皇太子の言葉は
ポティオレック総督の日記によって後世に残されたということですね。

総督の日記によると、彼らはまず病院に運ばれたということです。

ここからは事件後サラエボを襲ったセルビア人に対する虐殺と
民衆の暴動の写真です。

サラエボは多民族国家だったので、この事件は日頃の
民族間の対立を一夜にして浮き彫りにさせたと言えるかもしれません。

いたるところで車がひっくりがえっていて凄まじい様相です。
繰り返しますが、この暴動を組織、扇動していたのは
他ならぬポティオレック総督であったことが明らかになっています。

考えようによっては、警備を手薄にした時から総督はセルビア系の犯罪を
誘発し、その報復までを意図していたのではないかと取れる行動ですね。

民衆のセルビア系に対する怒りは膨れ上がり、暴動に発展しました。

セルビア人の店、学校、協会に至るまでが破壊され、
彼らの家具が、衣類が、本が、積み重ねられられ、歩くこともできなくなりました。

そして200人以上のセルビア人が、セルビア人というだけで逮捕されました。
地方公務員は絞首刑になり、そうでない人も投獄されました。

「Pogrom」という言葉はロシアにおける「ホロコースト」のことで、
ユダヤ人に対する大量虐殺を意味しますが、ここでは
セルビア人に対する虐殺をさしています。

これを見て思ったのですが、ここまでされた民族の怒りというのは凄まじく、
おそらく100年経った今でも根底には尾を引いているものではないでしょうか。

現在の大統領がプリンツィプを「英雄」というのもまあ仕方がないかなと。

フランツ・フェルディナンドとゾフィーの棺は、まず総督公邸から
壮麗な馬車に乗せられ、オーストリア=ハンガリー海軍の軍港があった
トリエステまで運ばれました。

それは7月4日であったということですが、この時期にポティオレク総督は
各国政府に向けてオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに
報復措置を取ることを宣言していました。

「我々はセルビアを叩くたことができる最初の機会を利用して、
君主制に穏やかな内的発展を与えなければなりません。
セルビアは今一度思い知らねばならんのです」

当然ですが、セルビア総督は完璧に帝国側の人間だったわけです。

棺は海軍軍人の手で戦艦「フィリブス・ウニティス」に乗せられ、
プーラまで、そのあとは汽車でウィーンまで運ばれました。

特にこの戦艦が役目を引き受けたのは、このラテン語である

「フィリブス・ウニティス(SMS Viribus Unitis)」

は「力を合わせて」という意味であり、この言葉が
ヨーゼフ1世のモットーであったことと関係あったかもしれません。

ウィーンにははハプスブルグ家の人々が眠る

「カプツィーナー納骨堂」

がありますが、ゾフィーはここに葬られることが許されていなかったため、
二人が死後一緒に眠ることを希望していたアルトシュテッテン城に運ばれました。

ナレーションは、

「彼は生きている間戴冠を待つ皇太子だったが、その死が戦争の原因となった」

と言っています。

オーストリア=ハンガリーの軍人、フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ
ポティオレク総督に同意しました。

「今回の事件は一人の狂信的な者による犯罪ではない。
セルビアのオーストリア=ハンガリーへの宣戦布告だ。

この機会を逃せば、君主政治は民族主義の暴発による被害を受けることになる。

我が国は政治的理由で開戦するべきである。
平和の象徴であるセルビアと共存していくためにも。」

敵の有利な戦争開始を防ぐためにこちらが先に戦争を仕掛けることを
「予防戦争」と言いますが、ヘッツェンドルフは、サラエボ事件を受けて
セルビアに対しこの予防戦争を仕掛けることを提唱した人間となりました。

「彼は死すことで開戦の理由を作った」

国際的な緊張は7月初頭まではまだ高まっていませんでしたが、ウィーンで
オーストリア=ハンガリー帝国首脳はセルビアに対し、その強力な友好関係を
刺激せずに報復を行う方法が模索されていました。

再びポティオレク日記。

「セルビアとの開戦は避けられない、とわたしは皇帝閣下に奏上した。
すると閣下はこう御下問された。

『しかしどうやって?
もしそうなればヨーロッパ中が、特にロシアが攻撃してくるのではないか』

するとヘッツェンドルフ閣下がそれに答えて、

『私たちにはドイツが付いております』

皇帝閣下はわたしに探るような視線を向け、

『それは確かなのか?』

と再び問うた」

 

オーストリアはすぐさまドイツにこのことを確認しました。

「ドイツ政府は友好国である帝国の側に常に立っており、
帝国との同盟に対し常に忠実であろうとするだろう」

これがドイツ側の返答であり、バルカン半島で起こった戦争が
世界大戦に発展した瞬間だったのです。

バルカン半島というのは大国に挟まれて小国がひしめく地域で、
ここの諸国は大国に支配されるのが宿命となっていたのですが、
サラエボ事件の少し前にロシアがクリミア戦争で負けていたので、
オーストリア=ハンガリーに吸収されるか、トルコに吸収されるか、
というところだったのですが、民族的にはセルビアはスラブ系なので
オーストリアには反感を持っていたという事情がありました。

バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたのは
こういうことだったのです。

当時ヨーロッパは二大勢力に分かれていました。

一方がドイツ、オーストリア、ハンガリー、そしてイタリアであり、
対してフランスとロシア。
このどちらかで戦争が起これば、それに呼応するのが当然の構図だったのです。

しかし、バルカン半島の国に何か起こった時、ロシアがどう反応するか、
つまりセルビアを守るためと言う理由でオーストリアに挙兵するのか、
そうなるとドイツがオーストリアを守るために宣戦布告するのか、
今でこそ明らかなこの対立構図ですが、当時の当事者にはわかっていなかったのです。

サラエボ事件の犯人を裁く裁判の様子です。

裁判では、彼らを幇助したのがセルビア軍の将校だったと言う証拠が出され、
軍人が4人銃殺刑に処せられました。

実行犯となったプリンツィプは20歳未満だったため死刑を逃れましたが、
事件の首謀者のうち5名が銃殺刑の宣告を受け、そのうち3名が刑を執行されています。


 最後通牒が発令されたのは1914年の7月23日でした。
その途端街は騒然とし、街は不安な市民で溢れました。

政府は戦争を回避するつもりがあるのだろうか。

これに対し、世界の外交官たちは呑気にもバカンス中で街におらず、
パリは絶賛街がもぬけの殻状態。
イタリアの外交官はアイルランドに旅行中という状態でした。

そしてもっとも驚くことに、皇帝はこの時予定通りバカンスに出かけています。

ロシア駐在の外交官は、ロシアは革命のことがあったのでそれどころではないし、
また、セルビアがロシアの挙兵に対し拒否感を示すだろうから
おそらくそれを考慮してもロシアが宣戦してくることはないだろう、と報告していたため、
皇帝は戦争は起こらないだろうと楽観していたのではないかと言われています。

(前回の、報復の戦争を起こしたのは『皇帝が』『筋を通した』とした
わたしの考察は微妙に間違いで、暗殺事件を理由に、軍人たちが戦争を煽った、
というのが真実により近いように思われます)

このときオーストリアがセルビアに突きつけた最後通牒は、
セルビアにとっては受け入れ難いほどに極端で屈辱的な要求でした。
あえて受け入れられない要求をし、相手に拒否させて開戦に踏み切ることを
最初から目的としたもの、そう、ハルノートみたいなものだったのです。


最後通牒が届けられた時、ヨーゼフ1世はノルウェイでクルーザーに乗っていました。
映像ではこの時デッキで皇帝が愛犬をかわいがっている様子が映し出されています。

側近の一人が最後通牒について皇帝に報告したときのことをこう証言しています。

「皇帝はいつもの通り朝食を終えるとデッキでわたしにこういった。

『それ(最後通牒)はたまたまそんなに強い表現になったのだね』

『そうかもしれません』

わたしは答えた。

『しかしこれは戦争を意味します』

しかし皇帝は、此の期に及んでも、セルビアが戦争という危険を冒すとは
考えていなかったと思われる」

 

その後の展開は、歴史の示す通りです。

セルビアがロシアに助けを求め、それに呼応して世界中が参戦を決め、
多くの国が同盟国の戦争に参加し拡大して第一次世界大戦へと繋がっていくのです。

 

サラエボ事件シリーズ終わり