前にも書いたことがありますが、アメリカ滞在の最終地、ニューヨークで
借りているAirbnbの部屋です。
一体いつまでアメリカにいるんだ?と知り合いに言われてしまいましたが、
観艦式にはなんとか間に合うように帰る予定です。
ここで観ていたインターネットTVの見放題映画チャンネルでは、
あまり人気がないと思われる歴史ドキュメンタリーや戦争映画が見放題。
20年ぶりくらいにアウシュビッツの音楽隊を描いた「プレイング・フォータイム」
(バネッサ・ウィリアムズ主演)を観ましたし、今作業の合間に流しているのが
「ヒトラーズ・チルドレン」というテレビシリーズ(全5回)。
第一次世界大戦関係の映像も豊富で、今回のウィーン軍事史博物館の
サラエボ事件を書くのに大いに勉強させてもらいました。
今日は、その番組でキャプチャした映像とナレーションをご紹介します。
一度説明したことも繰り返すことになりますがご了承ください。
サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フェルディナンドの説明です。
繰り返しになりますが、父親である皇太子が病死したので、次の継承権を持つ
フェルディナンドがその地位を継ぐことになっていました。
これは写真に残る皇太子の胸の勲章のアップ。
ところがその頃、ハプスブルグ家の女官だったチェコ生まれの貴族、ゾフィーと
フェルディナンドは熱烈な恋愛をしていました。
フェルディナンドは反対する周りを押し切り、彼女を皇族扱いせず、
子供達にも帝位継承はさせないという条件で結婚を果たします。
フェルディナンドはゾフィーとの結婚を一度として後悔したことはありませんでした。
「私のしたことでもっとも賢明だったと思われるのはゾフィーとの結婚だった。
妻は私のよき助言者であり、私の主治医であり、守護天使だ」
フェルディナンドは最後までこのように妻を絶賛していたのです。
サラエボの市庁舎に向かう彼らの車に暗殺グループの爆弾が投げられました。
画面右側に見えているのがサラエボ市庁舎です。
画面手前の橋袂が、皇太子夫妻の車に最初に爆弾が投擲されたチュムリヤ橋です。
車はスピードを上げて右側の車路を市庁舎に向かいました。
この字幕の意味は、この日セルヴィアが「聖ヴィトゥオスの日」という祝祭日で、
民族的に重要な宗教行事が行われる日を選んだのはフェルディナンドのミスだ、
というような意味です。
日にちの指定を皇太子本人がするはずがねえ、と思うんですが、この日、
二人の記念日だったことを思い起こせば、もしかしたら二人は、
軍事視察という、二人が堂々と公式行事に並んで出席できる機会と
結婚記念日が重なることを密かに企画していたという可能性もあります。
さらに、フェルディナンド自身がいっていたように、ゾフィーが彼の助言者で、
このことも彼女が提案したという可能性だって無きにしも非ずです。
何れにしても、彼らにとっての絶好の日が、運悪く統治先の民族派の
聖祭日であることは「バッドリー」なことだったのです。
この日のサラエボは聖祭日のため旗が通りの軒にはためいていました。
この日が1300年代オスマン帝国がコソボにした日とも重なっていた、
ということを反感の理由の一つとして述べている媒体(wiki)もありますが、
これはグレゴリオ暦に換算したもので、正確な日付はこの日ではありません。
民衆の間にはこのことが不満となっていた、というわけですね。
「そして彼の銃は火を噴いたのである」
二人はまずサラエボ駅に汽車で到着しました。
懸念される要素があるにも関わらず、警備は大変薄いものでした。
前に書いたように総督が言うところの
「併合に融和的な人々を刺激する」
と言うこともあったでしょうが、それよりもわたしはこの日が
聖祭日であったからではなかったかと思います。
皇太子夫妻を乗せて運んだのはグラーフ&シュティフト「ドッペルフェートン」でした。
幌を開けてオープンカー状態で車を走らせたのは、他ならぬ
フランツ・フェルナンドの要求であったそうです。
しかし、ここでまたしても思うのですが、爆弾投擲の後は
安全を考えてせめて幌を畳んで走行すればよかったのに・・・。
これはウィーン軍事史博物館の展示ですが、わたしが観たときには
このような荷物はありませんでした。
出たよポティオレック総督。
わたしに言わせるとこのおっさんが元凶を作りまくっていたわけですが。
ポティオレックは日記をつけていて、その日記によると、皇太子は
最初の爆弾投擲テロが起こり、車が急発進してその場を離れた時、静かに
提督に向かってこういったそうです。
「わたしは常にこういったことが起こりかねないと思っていたよ」
そして彼らを乗せた車がセルビア市庁舎に到着しました。
このときに、歓迎側が普通に祝辞を行なったので、興奮した皇太子が、
「あんなことがあったのに普通に祝辞をするなんてどうなんだ」
と食ってかかりました。
当然ですが、皇太子は皇太子妃に諌められて黙ってしまいました。
犯人のガブリロ・プリンツィプ。
裁判では
「私はユーゴスラビアの民族主義者であり、ユーゴスラビアの統一を目指している。
どのような形態の国家も気にしないが、オーストリアから解放されなければならない」
と述べています。
彼はこの事件の首謀となった急進的な民族団体「ブラックハンド」のメンバーで、
最初は背が低いのを理由に入会を断られたにも関わらず、熱心にテロの練習を行い
この日に及んだと言う人物でした。
ただし、テロのために公園で銃撃の練習をしていたメンバーの中では、彼は
もっとも下手で、仲間に笑われていたということです。
プリンツィプは最初の爆弾投擲の時に、側道に立って、他の暗殺グループと
行動を共にしていましたが、この時の爆弾は外れ目的を達しなかったので、
とりあえず自分は無関係のふりをして現場を離れ、この日の実行を諦めて
帰宅するつもりでたまたまデリカ(カフェと最初に書いたのですがこの説もあり)で
サンドウィッチを買っていたところ(食べていたという説もあり)
目の前に路を間違えた皇太子夫妻の車が止まったのです。
この時車が完全にギアがロックされ、静止した状態になったので、
それを知るや彼は駆け寄って銃を撃ちました。
おそらく彼は考えるより先に行動を起こしていたのでしょう。
ブラックハンドに入団する前から、彼は学生にして熱烈な闘士でしたから、
昨日今日暗殺を思いついたようなものではなく、その思想は筋金入りで、
これまでの人生はこの瞬間のためにあったと感じたに違いありません。
ここがドキュメンタリーでの事件現場の橋のたもとです。
画面右から皇太子の車はやってきて間違えて右折し、静止したところ、
右側の角にあったデリカテッセンから出てきたプリンツィプが
車に向かって銃弾を放ったのでした。
ちなみに現在のグーグルマップで見た付近の様子。
画面奥から来た車は、青い車の位置で停止し、そこで
銃撃を受けたと言うことになりますが、今ここは駐車場になっていて、
ドキュメンタリーが作られた頃とも全く違う様相になってしまっています。
非常に荒廃した感じの街並みで、この国が近年になって
内戦という激しい戦火に見舞われていたと言う事実を思い出させます。
ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦は約4年間続き、サラエボ包囲では、
死亡者12,000人が、負傷者50,000人、うち85%は一般市民でした。
ミリャツカ河の付近には河を挟んでセルビア軍の戦車が並び、対岸の
スナイパー通りでは、女子供も全てが狙われたといいます。
建物が無くなっているのはNATO軍の爆撃によるものかもしれません。
第一次世界大戦のきっかけとなった街角は、それから100年も経たぬ間に
第二次世界大戦後最悪の戦場となったのでした。
しかしわたしの予想通り、ここ暗殺現場には、何度も記念碑が置かれては
その都度すぐさま撤去されるということが繰り返されているのだそうです。
まずは事件直後の1917年、柱が建てられましたが翌年破壊され、
第二次世界大戦が終わってから、
「ガブリロ・プリンツィプがドイツの侵略者を追い払った」
という碑が現れましたが、もちろんこれもすぐに撤去。
事件の際、プリンツィプが歴史的な銃撃を放った場所に、
足跡がエンボスされていた時期もありましたが、こちらは
ボスニア戦争においてたまたま爆弾が命中し、破壊されています。
事件から100年が近づくと、暗殺現場にはこんな碑が設置されました。
「1914年6月28日、この場所からガブリロ・プリンツィプは、
オーストリア=ハンガリーの皇太子フランツ・フェルディナンドと彼の妻
ゾフィーを暗殺しました」
そして、同年4月にはプリンツィプの胸像がベオグラードで除幕され、
セルビア大統領は
「プリンツィプは英雄であり、解放思想の象徴であり、
また暴虐なる殺人者でもあり、ヨーロッパを長らく覆っていた
隷属社会からの解放の思想を持つものであった」
とスピーチを行なったということです。
支配されていた側から見ると、こうなるんですね。
続く。