ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

入間航空祭~「航空神社とアメリカ軍」

2012-11-28 | 自衛隊

入間航空祭の話を細部にこだわって書いてきました。

航空祭の行われた入間基地は、当初所沢飛行場に併設されていた
陸軍士官学校が1938年(昭和13年)、移転してきたときに作られました。
1941年には天皇陛下によって「修武台飛行場」と命名され、
終戦と同時にアメリカ軍に接収され、「ジョンソン飛行場」と名を変えました。

天皇陛下の命名であった飛行場の名前を勝手に変えるな。
と日本人は思ったでしょうが、負けたからには仕方ありません。

その名は、米陸軍のエース、ジェラルド・ジョンソンから取られたものです。
ジョンソン大佐は、旭日旗の撃墜マークを付けた愛機の前に立つ写真を残しており、
わたくしなどは、これを観た瞬間「やっぱり、アメリカ人って(以下略)」
とこの日本人を少なくとも23人以上確実に殺した人間の名を接収した空港に付ける
アメリカ人の傲慢さに最初は憮然としたものですが、
どうももう少し調べると、このジョンソン大佐が英雄として称えられたのは、
「エースだったから」というわけではないようなのです。

1945年10月。

占領軍の一員として日本に赴任するため、飛行機でフィリピンを出発した大佐の搭乗機は、
何と日本近海で台風に巻き込まれます。(台風シーズンですね)
ところが、こんな時に限って飛行機の通信機は故障。
完全に機は方位を失って立ち往生してしまいます。
さらに運の悪いことに、この日たまたま途中で立ち寄った沖縄で二人を乗せたため、
乗員6人に対し、定員4人分しかパラシュートが積まれていませんでした。
ジョンソン大佐は4人にパラシュートで脱出することを命じ、
もう一人の若い搭乗員とともに機と運命を共にしたというのです。

ジョンソン大佐はまあ仕方ないとしても、この25歳のテキサス出身の搭乗員の立場は?
そして、沖縄で「急に」乗り込んできた二人っていうのは何者?
本来、この人らが残るべきなのに、パラシュート使ってしれっと生還してるんじゃねー!
と誰も思わなかったのでしょうか。
特にテキサス出身の若い搭乗員の家族は。

まあとにかく、そういったわけで、終戦後の占領軍で自己犠牲の英雄とたたえられたのが、
このジョンソン大佐。
しかし、いくら調べてもテキサス出身の搭乗員は名前すら出てきません。
ジョンソン・テキサス(仮名)空港と命名し、この人の名も残してあげるべきだったのでは・・。


ところで、占領後米軍によって使用されていたこのジョンソン飛行場、
年表によると、どう見ても不思議なくらい事故が起こっているのです。


昭和29年 墜落事故 乗員2名死亡
昭和30年 墜落事故 滑走路わきの畑に墜落 乗員2名死亡
昭和31年 墜落事故 入間郡坂戸の民家に墜落 4歳の幼児死亡
昭和32年 墜落事故 離陸してすぐ墜落 乗員はパラシュートで脱出
昭和32年 墜落事故 横浜市戸塚区に墜落 乗員1名死亡
昭和32年 墜落事故 入間川河原に墜落 乗員2名死亡

昭和33年には入間基地が開設の運びとなりますが、まるで駄目押しのように

昭和33年 墜落事故 爆撃機B57が入間川に墜落 乗員15名全員死亡

この当時米軍は、どこでもこんなに毎年のように墜落死亡事故を起こしていたのでしょうか?
たった今数えたら、パラシュートで降りた一人を抜いて死亡した犠牲者は23名。
ジョンソン大佐の公認撃墜数と同じですねー(棒)



ここで、ふとわたしが気になってしまったことがあります。
この地は陸士の航空学校があり、同時にその殉職者の魂を慰める
「航空神社」というものがあったはず。

陸軍航空の最初の殉職者となったのは1913年に亡くなった、「木村・徳田両中尉」でした。
それからこの地に陸士が移転してくる1937年までの間に殉職した者の慰霊のために、
この「航空神社」は作られたのです。
しかし、それは1945年、敗戦を受けて早々に所沢市の北野天神社内に移されました。
これは、進駐軍の破壊を恐れての避難だったということのようです。
本神社は1965年に廃社となり、4千9百余柱の零名簿と零名碑はその後奈良県の
幹部候補生学校に一時保管されていました。

もともと、航空黎明期から満州事変までの航空殉職者は「戦死」と扱われなかったので、
靖国神社の合祀対象とはされていませんでした。
つまりこの航空神社は「靖国に入れない殉職者の魂を祀る場所」として作られたのです。

そして、昭和20年の敗戦の際、徹底抗戦を訴えクーデターを計画した軍人の一人、
陸軍士官学校、生徒隊の区隊長であった上原重太郎大尉は、
蹶起の要請を拒んだ陸軍師団長を斬り、その後、
この航空神社の玉砂利の上で割腹自殺を遂げています。


お地蔵様や鳥居、死者への祈りの集まる場所や碑を無神経に移したり壊したりすると、
しばしば「祟り」のような科学では証明できないことが起こります。
それを恐れて、日本人はそのようなことを避けるか、やむを得ない場合も鎮魂の儀式を行い、
「怒りを鎮める」ことに努めるという文化を継承してきました。

いくら避難のためとはいえ、敗戦に際して別の神社に動かし、
さらにその跡地のある飛行場を敵国の英雄の名に変える。
これは、何か起こっても当然、と普通の日本人なら考えるのではないでしょうか。

敗戦後、占領軍がしたのかどうかはわかりませんが、「修武台」と書かれた碑は字を消され、
飛行場の隅にずっと倒されたまま放置されていたそうです。
その後日本が独立国となって4年後の昭和30年、とりあえず碑は浄財を募って再建されました。

そして、実に30年後の昭和61年には、昔「空の神兵」と呼ばれ、
ここに学ぶ若者たちが毎日仰ぎ見た「航空兵の銅像」が復元されました。

最終的に航空神社の霊名簿が、入間基地に戻ってきたのは、昭和63年のこと。
修武台記念館が設立されたのと同時に、航空神社資料室の奉安庫に眠ることになったのです。

ところで個人的な要望ですが、この航空神社の霊名簿と、戦後自衛隊で航空殉職した自衛官たち
―もちろん、あのT-33事故の二人も含めて―を、ともに顕彰するような場を、
一般の人々が立ち入れるような場所に作るわけにはいかないのでしょうか。


突然ですが、エリス中尉、一度サイパンに行ったことがあります。
フィリピン人のガイドに連れて行ってもらい、島の北端、
日本軍や日本人が米軍に追いつめられて自殺していった場所を見ました。
ところが、車を山道に入っていったとたん、なぜか激しい頭痛に襲われ、
日本から遺骨収集に行った人々の建てた慰霊碑や数多くの卒塔婆、
仏像などが立ち並ぶ慰霊地でも、崖に立つ時も、ずっとその痛みに耐えていました。

戦時のサイパンを映したフィルムに、追いつめられて逃げる一人の日本女性が、
ひょい、という感じで崖から身を投げる瞬間が残されています。
彼女が飛び降りた崖は、戦後バンザイ・クリフと名付けられました。
もう一つの悲劇の地「スーサイド・クリフ」は、崖の下には平地が広がっています。
この崖の下からは、いまだに遺骨が出るのだと、彼は言っていました。

わたしはその崖から平地を眺めていて、不思議な建物があるのに気づきました。
なにもないその場所にぽつんと一軒、大型の保養所のような建物があります。
建物はずいぶん前から誰にも使用されなくなっているらしく、
遠目にもそこが廃墟となっているのがよくわかりました。

「あの建物はなんなのですか?」という質問に、日航ホテルの従業員でもある彼は
「アメリカ軍が持っていた施設なんだそうです」
「アメリカ軍が・・こんなところに?」
「理由はわかりませんが、しばらくしたら彼らはいなくなった。
建物だけがああやって残っています」
「ここで何があったのか、彼らアメリカ人が知らないはずはないでしょうに」
「わたしもそう思いますが・・・・・・まあ、アメリカ人ですから」
「ああ、アメリカ人ですものね」

アメリカ軍に追いつめられ、死んでいった民間日本人の遺骨が多く眠る崖。
その崖を見上げるところに建てられたアメリカ軍の施設。

そこでなにがあったのかはわかりませんが、
彼らのこうした信じられないまでの無邪気さというか、おめでたさというか、
多民族国家であるのにもかかわらず異質の文化に畏れを持たない傲慢さというか、

そういったもの全てに対して、そこにいた日本人とフィリピン人たちは、
なんとも言えない表情を見合わせて苦笑いしました。



昭和33年、入間ではロングプリー事件といって、
「基地から西武電車に向かって米軍の三等兵が銃を撃ち、
その弾に当たって武蔵野音大の男子学生が亡くなったという事件」
が起こっています。
その前年には米軍兵士が若い主婦を射殺する事件(ジェラート事件)も起こっています。
いずれもせいぜい10か月の収監で釈放という軽い判決が出されました。

最近起こったの沖縄米兵の女性暴行事件は、なにやら調べてみたら被害者が実は
「そういう商売」で、さらに「日本人ではなかった」などという複雑怪奇なものとなっていて、
昔の駐留兵による犯罪とおなじような構図と言えなくなっているようにも思われますが、
当時の米軍兵のそれは、ベースにかなり露骨な人種侮蔑があったのは確かでしょう。


入間の相次ぐ米軍機の墜落と、神社の移設に因果関係がある、などということは、
やはり断言するべきではないし、そもそもそんな非科学的なことなど起こるわけがない、
ということにしておいた方が社会通念上好ましいことなので、推論もここでは差し置きます。

しかし、イラクの件などを見ていても、アメリカ人はもう少しなんというか、
異文化を尊重する敬虔さというものを国民レベルで持つべきではないか?
とは思ってしまいますね。どうしても。


島の北端にいる間中襲われていた激しい頭痛は、
帰りの車に乗り、平地に差し掛かったとたんにぴたりと治まりました。
「たまたまだよね」と知人に言うと
「たまたまじゃないと思う」と真面目な顔で言われました。
皆さまもそう思われますか。


追記:

アップしてからジョンソン大佐の件を英語サイトで改めて検索したのですが、
英語のウィキによると、

「搭乗員の一人がパラシュートをつけていなかったので大佐が自分のを与え、
コーパイが『自分も残って大佐を助ける』と申し出た」
その結果、この二名が殉職したということです。

どちらにしてもこのコーパイの名前は書かれていません。
この話が本当だとすると、ますますこの隊員は顕彰されるべきなのでは・・?

そして、墜落したのは太平洋でなく入間川だと書かれています。
すぐ近くまで到達していたということですね。
お二人と、入間で殉職したアメリカ人パイロットたちのご冥福をお祈りします。