◎サマーディとは個人の体験ではない
サマーディとは三昧のことであり、ディヤーナ=定とは全く異なる。定は人が出たり入ったりできるが、
サマーディは人が体験するものではないので、サマーディに出たり入ったりすることはできない。
サビカルパ・サマーディ(有相三昧)は、いわば世界全体のことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。
ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)は、ニルヴァーナのことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。
だから世間でサマーディに入るとか出たとか言っている場合は、眉唾物の可能性があると思う。
大雑把に言えば、水中でサマーディは抱朴子の葛玄、火中でサマーディは慧春尼、標高7千メートルの低酸素低温の高地でのサマーディは崑崙山脈の仙人、
封鎖洞窟でのサマーディはチベット密教の修行者たちがあり、水中火中土中などいろいろな悪条件下のサマーディはあるものだと理解はしている。
だが、苛酷な条件下で冥想することがサマーディではないだろう。つまり、既に神人合一して、宇宙全体が自分と一体となり『宇宙が自分だった』という実感にあっては、『サマーディに出入りする』などという表現はしないものであり、またなにもかもないニルヴァーナにあってもそれを『サマーディに出入りする』という言い回しはしないのではないだろうか。
かつまた葛玄も慧春尼も、水中に何日いたから偉いとか火中に何時間いたから偉いとは思っていないのではないか。そういった苛酷な条件の冥想継続時間をサマーディとはいわないのだろう。
肉体からそのエッセンスの状態に往復する時間は、私の印象では、せいぜい数秒なのであって、数時間とか数日は、エッセンス・タイムではないと思っている。
苛酷な条件の冥想時間の話ではないが、OSHOバグワンは、偽のサマーディについて詳しい説明を残してくれている。多くの人が偽のサマーディに騙されている可能性はあるのではないか。
『理解しておくべき、見せかけのサマーディもひとつある。それは第四身体で起こり、サマーディのように見えるが、そうではない。日本の禅僧の言葉によると、それは「さとり」だ。これは見せかけのサマーディだ。それは、画家や彫刻家や音楽家が、完全に芸術の中に没頭している時に到達する状態だ。彼らは大いなる至福を体験する。これは第四身体―サイキックな 次元―で起こる。朝の太陽を眺めたり、メロディーに耳傾けたり、ダンスを見たり、花が咲 くのを眺めたりしている時、マインドが完全に出来事の中に引き込まれると、見せかけのサマーディが起こる。こうした見せかけのサマーディは、睡眠や偽りのシャクティパットによっても、引き起こされる。アルコールや、マリファナ、LSD、メスカリン、ハッシシなどの麻薬によっても引き起こされる。』
(奇跡の探求Ⅱ/和尚/市民出版社P414-415から引用)